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バーボンと腰を据えて話をしようと思ったけど、間が悪いことにバーボンは私を置いて一人で情報収集に行ってしまった。歓楽街が中心だから私を連れていけないのは仕方がない。
バーボンがその仕事を終えたら、今度こそちゃんとスコッチの話をしようと考えながら数日が経った。
散歩は日々距離が遠くなり、いつしか並盛町の近くまで足を運んでいた。研究所と並盛は近くにあるとはいえ、それは電車などを使った場合の話。徒歩だとそれなりに時間がかかる。そしてそのあたりはショッピングセンターや遊興施設なんてないこぢんまりとした町だから、ほとんど足を踏み入れたことがなかった。
車の通らない細い道を歩いていると、だんだんと住宅地と違う雰囲気の場所に出た。
雑貨屋さんや細々としたお店が建ち並ぶアーケードを通り抜け、緩やかな坂道を上る。人通りは多いけど、繁華街と違って穏やかで静かな場所に、隠れるように小さな神社があった。
社は新緑の木々に覆われている。澄んだ空気を吸い、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
神社のそばには土産物屋がいくつかあり、そのうち一つの軒先のベンチに見覚えのある顔を見つけた。
「お兄さーん」
声をかけると、ぼんやり宙を見ていたサングラスの男がハッと私を見た。
風が吹き抜けて木々が乾いた音を立てる。
まだ白昼夢の中といった様子のお兄さんは、無言で私の顔を見てやっと思い出したように口を開いた。
「お前はあのときの……」
「こんにちは、ニートのお兄さん、今日はここでお昼寝?」
「ニートじゃなくてお休みだ。お前、親はどこにいるんだ」
「あ、私携帯電話もらったから番号交換しようよ」
お兄さんの言うことを無視してポケットからスマートフォンを取り出した。もちろんこれは組織からの支給品ではなく自分で用意したスペアだ。お兄さんがいい情報を持っていそうなら組織の人間として接するけど、裏社会の匂いがしないし、今日もジャージで虚ろな表情をしているところを見ると権力者というわけでもなさそうだから私を介して組織と接触させるのは危険だ。
なかなか携帯を出そうとしないお兄さんに「はやく、はやく」と急かす。お兄さんは不承不承といった顔でお尻のポケットから携帯電話を取り出した。今時珍しいガラパゴス携帯だ。
アドレス交換の準備をしながら、そういえば自己紹介をしていなかったと思い出して「今更だけど」と自分の名前を伝えた。
「お兄さんのお名前は?」
「……田中太郎」
手元でスマートフォンをいじりながら言った。あからさまに今考えましたとわかる見事な棒読み。
「絶対に嘘じゃん」
「子供に教える名前はない」
ムッとしたが、お兄さんのアドレス帳を見ればすぐにわかることだと耐えた。だけど、お兄さんが見せてきた携帯電話の画面に映る名前は「田中太郎」。
お兄さんは、この一瞬で名前を変更していたのだ。
まさか交換時だけ偽名に変更するなんて思わなかった。何かわけありの人かと観察したけれどそんな様子はない。ただの意地悪のようだった。
そっちがそれなら。
「じゃあ、ロッシって呼ぶね」
「ロッシ?」
「イタリアの田中みたいな名字」
「なんでイタリアなんだよ。そのまま田中って呼べばいいだろ」
「だってお兄さんの言うとおりにするのは、なんか嫌だもん。田中よりロッシの方が短いし、あだ名みたいで可愛いよ?」
もじゃもじゃした黒髪も、見ていたらイタリアーノに見えなくもないんじゃない? と思ったけれど、どこからどう見てもまるっきり日本人だ。
サングラスで見えない瞳の色が気になって、ロッシに抱きつくように近寄りサングラスを外した。
「なにするんだ」という言葉が遙か遠くに聞こえた。
素顔のロッシがすごくイケメンだったから。
さては意地悪なことを言ってもこの顔のせいで女の子たちがキャーキャー囃し立てるから、こんな傍若無人のまま大人になったのか。そんな失礼なことを考えていないと、変なことを言いそうだった。
イケメンはバーボンで慣れたし、組織には見た目のいい人が多い。だけど組織の人たちは美人、ロッシは男前。ジャンルが違う。眉をひそめた不機嫌そうな表情もどこかワイルドに見える。
黙ってしまった私にロッシは怪訝な顔をする。
私は無言でロッシにサングラスをかけなおした。そして冷静を装って全然関係ない話を振る。
「ロッシって普段何してるの?」
「起きて食べて散歩行って寝る」
「ニートじゃん」
睨まれた。
在宅ワークやフリーターというわけでもなさそうだし、そんな生活しているのはニートじゃない。それも健康的なニートだ。
「お仕事は?」
「だから休みだっつってんだろ」
ロッシはめんどくさそうに息を吐いた。
「色々あって、上からお前は疲れてるから休めって言われたんだよ」
「ふーん」
休職中か。まだ退職したという可能性も捨てきれないけど、あまり茶化してかまってくれなくなったら困るから休みだというロッシの言葉を素直に受け入れた。
ブラック企業で体を壊したのかな。
「元気そうなのに」
「ああ。本当に」
そう言ったロッシは苦しそうだった。
今すぐ働きたそうだ。なるほど会社の問題じゃなくて、ロッシがワーカホリックなのか。それなら神聖な雰囲気の神社でのんびり心を休めるのはちょうどいいだろう。
「早くよくなるといいね。でもよくなっても無茶はしちゃダメだよ」
ロッシからの返事はない。ただぼんやりと空を見つめていた。
前、会ったときも彼は空を見上げていた。ただ、私と違って空が好きなわけではないと思う。どこか遠くを見ているような気がする。そうしているときの彼も、心がここではないところにある。
彼もまた、バーボンと同じようにどこかに囚われたまま、進み出せないでいるのかもしれない。
少しだけ、バーボンと似た空気を感じた。
「ねえ、相談してもいい?」
ゆるりとロッシがこちらを見た。
「お兄ちゃんの仲良かった人が、お兄ちゃんの前で死んじゃったの。それから様子がおかしくて、この前そのことを他の人に相談したら『その人の話を一緒にしてあげればいい』って言われたんだけど、でも素直に言ってくれるような人じゃないんだよね」
どう思う? と問いかけたが、そのまま静寂に包まれた。
鳥が飛び立ち、遠くで参拝客が楽しそうに笑っている。清爽な世界で私とロッシだけが重く澱んでいる。まるで異質な存在のように思えた。
たっぷり数分経ってから、ロッシが重い口を開いた。
「その死んだやつは、お前も知り合いなのか」
「うん。三人で遊んだこともあるよ」
「なら、思い出を話してやればいい」
ロッシはまた空を見上げて、「なんでか、笑った顔とか楽しかったことって思い出せないんだよな」と呟いた。それはきっと私に向けた言葉ではない。確認するような、納得するような声音だった。
ロッシも、大切な人を亡くしたのだろう。ロッシの古傷を抉ってしまったのではないかと少し不安になったけど、ロッシは別段表情を変えることなく、やっぱりただ遠くを見つめていた。