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 沖縄が例年より少し遅く梅雨入りしたらしい。
 そのうちにバーボンがまた来てくれるだろう。そう思ってそのときを待っていたけど、それは一向に訪れなかった。避けられているのかと疑ったけど、バーボンが私を避ける理由はないし、ただタイミングが悪いだけ。
 毎日悶々と待っていたけど、別に待つ必要なんてなかいことに気づいた。
 来ないなら、来させればいい。私は組織から支給されたスマートフォンを手に取ってアドレス帳からバーボンを探した。

「もしもしバーボン、今何してるの? 一人? ひま? 研究所の近くにいる?」

 電話が繋がった瞬間に畳みかけた。
 電話口から、バーボンがちょっと笑ったのを感じた。

「近くと言えば近くにいますし、暇ではありませんが時間を作ることはできますが、どうかしましたか?」
「ちょっとこっちに来てほしいの」
「何か問題でもありました?」
「問題はないけどパン屋に行きたいの!」

 今までなら、バーボンや他の人に買ってきてもらっていた。でも好きに出歩いていいなら一緒に行きたい。
 そう言えばバーボンは少しだけ間を開けて「わかりました」と了承した。そして到着予定時間を告げてあっさりと通話が終わった。
 さて、私も準備をしないと。
 ソファーから飛び降りて、私は壁際のデスクに向かった。デスクの引き出しは私の大切なものが仕舞ってある。その中の一番大きな紙袋から、赤い花柄の布を引っ張り出してきて袋に入れた。
 他にも必要そうなものをリュックに詰めてから部屋を出た。向かう先は一階のロビー。
 そこでバーボンが来るのを待った。
 人通りは多いけど、ここにいても外部の人は私を見て不審がらないから堂々と待てる。この研究所が組織と関わりがあるなんて知らない人からすると、私はただの研究員の子供にしか見えないのだろう。私にとって都合のいい勘違いだ。
 受付のお姉さんと話していたスーツのおじさんが私に笑顔で手を振ってきた。それに私も笑顔で手を振って応える。
 平和だな。
 表と裏が入り交じる研究所。ここにいると私が組織の人間でも、ボンゴレの人間でもないような気がしてくる。あまりにもみんなが私を普通の子供として扱うから、たまに本当の私を忘れそうになるのだ。
 地面につかない足をぶらぶらさせる。
 若い女性職員さんたちが私に話しかけたそうにしているのを察知しながらも、スマートフォンを取り出して一人遊びを始めた。ああいう人は二種類いる。子供が好きなタイプとバーボンのことが好きなタイプ。
 ここの人たちは私のことを、突然、海外出張を余儀なくされた男性研究員の娘として認識している。その海外は治安が悪く娘を連れていけないが父子家庭で預け先がない、だからここで生活しているのだと。バーボンは男性職員と仲が良く、家にも来たことがあったから様子を見に来ている、らしい。そういうことを、バーボンがここの職員さんに説明しているのを聞いたことがある。うまいこと考えるんだなあと感心したものだ。いろいろと穴はあるけど、バーボンのあの顔で説明された女性職員は目がハートになっていて耳なんてバーボンの声に酔うために機能しているくらいだったし、そういう女性がいい感じに勝手に話を補って他の人に説明してくれたおかげで私に懐疑の目が向いたことはない。バーボンは抜かりなく、この研究所で発言権のある人を選んでいた。
 その弊害が、心優しい子供好きにやたらと構われることと、バーボンに子供に優しい女性アピールの道具に使われることだ。どちらも親切にされるのだから問題はないけど、一般人に子供の演技をするのはとても疲れる。
 もし私がバーボンの娘役だったらもう少し違っていたのだろうけど、残念ながらそれだと私がこの研究所に一人で生活する理由がなくなる。なんともままならない。
 もう少し部屋で待っていたらよかったかな、と後悔し始めてからもう少し経ってからバーボンは来た。

「こんなところで待っていたんですか」
「早く行きたかったの」

 バーボンは苦笑して「じゃあ、行きましょうか」と言って、大きな掌で私の小さな手を包み込んだ。
 周りの人たちが微笑ましいと言いたげな顔で見てくるのでむず痒くなった。
 外に出ると暖かい風が吹いていた。ビルの窓ガラスに日の光が反射して、町がきらきらとしている。

「どこのパン屋に行きたいんですか?」
「そこの角を曲がって、道路を渡ったところ」
「随分と近くなんですね」
「うん。だってバーボンが車を通る道はダメだって言ったじゃない」

 渡らないといけない道路は片側二車線。小学一年生が渡るには危ない。だからバーボンと一緒にいるときに行こうと思っていたのと言えば、バーボンは呆気にとられた顔をしてから、ゆるく笑った。

「ちゃんと覚えていたんですね」
「だって怒るじゃん」
「怒らないですよ」

 私の手を握る力が強くなった。
 バーボンと私の身長差だと手を繋ぐのなんて大変だろうに、そんな素振りまったく見せずに歩くバーボンはさすがだ。
 それから、私の短い足でも十分もかからずパン屋に着き、ファンシーな装飾がされた扉をくぐった。

「何を買うんです?」
「うーんっと、バケット」

 バーボンがトレーとトングを持った。
 あまりパン屋に来ることがないのか、バーボンは細かいデコレーションが施された菓子パンを興味深げに見ていた。特にここは、動物やキャラクターのモチーフのパンが多い。見ていて楽しいだろう。
 大人の掌ほどの大きさのバケットを二つトレーに乗せ、バーボンは会計を済ませた。


 パン屋から帰ると、そのまま食堂に向かった。食事時ではないから人はいない。働いているおばちゃんたちも休憩に行っている。
 実はバーボンが来る前に、食堂のおばちゃんたちに相談して場所と食材の使用許可を貰っていた。八階の簡易キッチンでも十分だけど、今日はどうしても雰囲気作りをしたかったのだ。
 厨房に入り、すでにおばちゃんが出してくれていた食材をバーボンに洗ってもらい、私はずっと持っていた袋から例の花柄のものを取り出した。
 それを見てバーボンは瞠目した。
 ゆるゆると布を指差して「そのエプロン……」と消え入りそうな声で言った。

「うん。スコッチにもらった誕生日プレゼント。ずっと使うタイミングなかったけど、使わないとスコッチに悪いでしょ?」
「……ええ、そうですね」
「スコッチはノックだったけど、エプロンに罪はないし」

 バーボンの様子に気づいていないふりをして、私はエプロンを着けてから厨房に入った。
 骨折が治ったあとに使おうとしたけど、このエプロンはバーボンと料理を作るときに使いたかったから仕舞い込んでいたのだ。ようやく使うことができた。

「似合ってます」
「ありがとう」と笑いかければ、少しだけバーボンの表情が和らいだ。

 私は腕まくりをしてまな板の前に立った。

「それで今日は何を作るんですか?」
「イタリアのサンドイッチだよ。本当はバケットじゃなくてチャバッタっていうパンを使うんだけど、あんまり売ってないからね」

 ここのパン屋のバケットは軽くてもちもちしていてチャバッタに触感が似ているから代用だ。
 どうしてイタリアンサンドなんて知っているのか、バーボンは詮索してこなかった。誤魔化す言い訳はいくつか考えていたけれど、気にしないのなら助かる。
 バーボンにバケットの側面に切り込みを入れてもらっている間に、私はドライトマトペーストとバターを混ぜてソースを作る。それができれば、もうあとは生ハムとルッコラとチーズを挟めば出来上がりだ。
 簡単なのに美味しい。サンドイッチは最高の料理だ。
 お皿に乗せて、テーブルまでバーボンが運んでくれた。椅子に座って、さっそく一切れ手に取った。かぶりつくと生ハムの塩味とルッコラのほどよい苦み、トマトとチーズの風味が口に広がる。まさにイタリアという味。見た目も、生ハムの赤とルッコラの緑、チーズの白でトリコロールだ。
 バーボンも「美味しいですね」と顔をほころばせた。

「前、サンドイッチを食べたのが、ついこの前みたいね」
「そうですね」
「私ね、長いことスコッチと一緒だったような気がしたのに、スコッチと一緒だった期間よりいなくなってからの方が長くなっちゃったことに気づいたの」

 バーボンは何も言わない。それでもいい。ただ私は私の中にいるスコッチをバーボンに伝えるだけだ。

「スコッチに黙っててくれって言われたからずっと言ってなかったんだけどね、前にバーボンに出したコーヒーがすっごくまずかったときがあったでしょ? あれ、私が淹れたって言ったけど、本当はスコッチが牛乳と飲むヨーグルトを間違えたんだよ。さすがにこの失敗は恥ずかしいって頭を下げられたんだけど、もう時効だよね」

 バーボンはサンドイッチを食べるのをやめて、ゆっくりと息を吸ってから数秒止めた。私はそんなバーボンを気にすることなく、ロッシの言葉どおりスコッチとの思い出を話し続けた。できるだけ楽しい、笑える話を。
 最初はじっと黙っていたバーボンも、そのうち相槌を打ち、そして笑い、サンドイッチを食べながら言葉を返してくれるようになった。

「ねえ、たまにはこうやってスコッチのこと思い出すのに付き合ってよ。あ、私がスコッチと会う前の話も聞いてみたい」

 私はバーボンに前を向いてほしい。死を受け入れて、そして懐かしむ。そうしたら、きっとバーボンも笑顔でスコッチのことを思い出せるようになるだろう。どれだけの年月が必要かはわからないけど。
 バーボンは微かに目を細めた。

「そのときもサンドイッチを食べながら?」
「……サンドイッチは別になくてもいいよ」
「でもサンドイッチが好きなんでしょう?」
「スコッチの話をする度にサンドイッチを作るのは面倒じゃない!」

 頬を膨らますと「冗談ですよ」と笑って、それから「ありがとう」と私の頭を撫でた。
 ――ああ、慰めようとしたのがバレちゃったか。
 大人としてのプライドなのか、私に気負わせないために茶化したのだろう。そんなプライド捨ててしまえばもっと楽に生きられるのに。だけど、そのプライドがバーボンをバーボンたらしめているのだろう。すべて投げ捨ててしまったら、それはもうバーボンじゃなくなってしまう。
 ゆっくりと、何度も私の存在を確認するようなバーボンの手を甘受しながら、バーボンの顔を見上げた。
 ぱっちりと目が合った。

「晴れたね」

 バーボンは首をかしげた。そしてちらりと窓の外に目を向けた。

「最近、ずっと晴れているでしょう?」
「曇っていたよ」

 そう言うと、バーボンはますますわけがわからないという顔をした。それが面白くて笑っていると、バーボンは「愛子」と低い声で私の名前を呼んだ。
 別にバーボンの怒るようなことじゃない。

「青空はすべてを包むのよ。私は曇りも好きだけど、一つのことにとらわれて曇ったままだと、せっかくの青空がもったいないよ」

 私の好きな空の色が戸惑うように揺れた。
 励ますのも、慰めるのも、ましてや応援するのも違う。バーボンはきっとそんなもの求めてはいない。バーボンは、心が折れたわけではないから。ただ分厚い雲が太陽の光を遮っていただけ。私が風になってその雲を動かせるのなら、いつもお世話になっている分くらいはお礼として動かしてあげたい。

ヒトリヨガリ