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女性がはらはらと涙を溢していた。
桜に攫われてしまいそうな、薄幸な顔をしたほっそしとした人だった。
朝、駅前の公園の前を通ったとき、その女性は公園の青いベンチに座り無表情のまま何かを腹の前に抱えて地面を見つめていた。明らかに様子はおかしかったけど、周りの人は気にする様子もなく慌ただしく始まった新年度の中を生きていた。
私だって、ジンからの呼び出しに向かっているところだったから、そのあとジンから言われることばかり気にしていて、女性のことなんて視界にとどめた程度だった。
意識したのは、帰りに公園の前を通ったときもそこにいたからだ。
ジンの話を聞いて戻ってくるまで一時間と少し。ずっと公園にいることがおかしいような時間ではないけど、待ち合わせという風でも、時間つぶしというようでもなさそうだったので公園の入口で足を止めた。
公園の中に入り少し近づくと、彼女の肩が小刻みに震えているのがわかった。そして小さな声で「ごめんね、ごめんね」と謝っている。彼女の前に立ち、ようやく彼女が抱えている何かが赤ちゃんだと気づいた。彼女の目元は真っ赤に腫れていて、きっと今しがた泣き始めたわけではないのだろう。
「あの、大丈夫ですか?」
驚かせないように声をかけたつもりだったけど、女性はびくりと震えた。
持ち上げた顔には、恐怖や絶望の色。
「何かあったんですか?」
女性の口が小さく動き何かを伝えようとしたけど、音が出ることなく結局閉ざしてしまった。
助けを必要としているのに手を伸ばしてくれない。春とはいえ、時折風は冷たい。そんな中で泣いているのだからただ事ではないだろうに。
赤ちゃんは母親の様子に何も気づかず、腕の中でぐずっている。女性はそんな赤ちゃんの顔を覗き込んだあと私を見上げると、みるみるうちに目は涙の膜で覆われ、ついにわあっと顔を覆って泣き出してしまった。
いったい何が彼女の心を揺らしたのかわからない。だけど、私が話しかけたことで限界が訪れたのだろうことは容易に想像できた。そして、きっと事情も知らない私が慰めや励ましの言葉を投げかけるよりも、涙を流し切った方がいいだろうことも。
数分して泣き止んだ彼女は、鈴蘭のように微笑んだ。
「ごめんね、驚いたよね。……ちょっと今、優しい言葉が嬉しくて」
細い人差し指で目尻に溜まった水滴を払う彼女に、うっと心が痛んだ。
私が彼女に声をかけたのは純粋な善意ではないからだ。もし何かに困っているなら、バーボンのお客さんになるとか思ったのだ。
バーボンが探偵業を初めて早二ヶ月。当初から途切れることなく仕事が舞い込んできているようだけど、初めにバーボンが言ったとおり、娘の結婚相手の素行調査だとか、同窓会をするのに恩師を呼びたいから探してほしいだとか、事件性のない平和なものが多い。無名の探偵にする依頼なんてそんなものだとバーボンは言っていた。でもバーボンには情報収集という役目がある。ありふれた依頼ばかりしていても仕方がない。そこで私は依頼がこないなら、こちらから依頼人を探せばいいのだと考えたのだ。
私の邪な思考を知らない彼女は、赤ちゃんをあやしながら「ふふふ」と笑った。
「私、河堀多恵っていうの。急で申し訳ないんだけど、もし時間があれば娘をしばらくの間、預かってもらえないかしら」
雨上がりの空のように晴れやかな顔で河堀さんは言うけど、差し出してきた赤ちゃんはまだ乳児。少し離れるくらいならいいけど、どれくらいの間か聞いてみても曖昧な返事しかしてこない。その様子から推測するに、何か用があるわけでもなさそう。
期間も、用もわからないのに、初対面の赤ちゃんを預かるわけにはいかない。
逆に言うと、河堀さんが私のような子供に赤ちゃんを預けるのは変だ。
もしかして育児ノイローゼなのかもしれない。それで私みたいな見知らぬ子供に預けるくらい追いつめられているのかも。
残念だけど、これはバーボンのもとに連れていくことじゃなさそうだ。
だけど乗り掛かった船だし、話くらい聞いてあげよう。そう思って私は河堀さんの横に座った。
「河堀さんには、頼れる人いない?」
「え?」
「頑張るのもいいことだけどさ、無理なことは周りに全部任せちゃえばいいんだよ? 限界がきてダメになる前にガス抜きしてみようよ」
まずは落ち着いてもらおうと、軽いジャブのつもりで放った言葉は私の意図しなかったところにヒットしてしまったらしく、河堀さんは再び堰を切ったように涙を流した。そして「こんなこと、誰にも頼れない!」と心を絞ったような悲鳴を叫んだ。その声に驚いた赤ちゃんも火がついたように泣き出す。
これには、さすがに公園の前の通行人たちもこちらを見てきた。
私は普通の赤ちゃんを泣き止ませる術なんて知らないから、まずはお母さんである河堀さんをどうにかするために「私の知り合いに話を聞くのがうまい人がいるの! ね、話を
聞いてもらうだけでも楽になったりするでしょ? あ、あとたぶん子供の面倒をみるのも上手だよ、きっと!」とバーボンを引き合いに出した。
バーボンなら言葉巧みに河堀さんの不安を解消してあげたり、赤ちゃんを預かったりできるだろう。器用だから。
ぐずぐずと鼻を鳴らし、河堀さんは私を見た。そして、ぐっと下唇を噛んだあと「ありがとう。でも話してどうこうなる問題じゃないの」と無理矢理笑顔を作る。
「じゃあ、どういう問題なの?」
育児のことなんて子供の私にはわからないと思っているのかと思って、河堀さんに「話すだけでも楽になるかもしれないじゃん」と催促した。
口ごもっていた河堀さんだったけど、私の押しに負けて、ぐにゃりと表情を歪めて自嘲した。
「友達に騙されたの。お金をね、取られちゃって。生活費もないし夫にも言ってないし、もうどうすることもできないの」
思わぬ内容に、さっきまでの勢いは消えた。
全然、これっぽっち育児ノイローゼじゃなかった。
そして河堀さんの問題は、予想以上にバーボンの専売特許だった。