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 柔らかなラグの上に、仰向けに身体を沈めた。
 顔は大きな窓ガラスの向こう側。穏やかな青に爽やかな白が滲む、うららかな春の空が広がっている。
 同じ空間に透くんがいるものの、どちらも無言のまま。ただパソコンを触る透くんが生む音だけがパチパチとたまに聞こえた。
 十四畳の広いリビングダイニングには、透くんが座っているダイニングテーブルと、壁際に細いテレビ台があるだけだ。他の家具といえば、私のいる窓際に敷かれている黒のラグくらい。棚などの大型家具は存在しない、がらんどうな部屋だ。
 バーボンが物に溢れた家に住んでいるイメージはなかったけれど、リビングダイニングはくつろぐことを目的としていない共有スペースのため、特に生活感がない。それにくらべてそれぞれの自室は二ヶ月で色鮮やかになった。キッチンも透くんが調理器具や食器類を揃えたので充実している。
 透くんは仕事がなければ三食きちんと料理を作ってくれる。今はまだ探偵の仕事を始めたばかりだから組織の仕事はセーブしているらしく、日中は家を空けていても夕方には帰ってきて食事を共にすることが多い。
 無理はしなくていいと言ったけど、「僕が作らないと食事を疎かにするでしょう」と言われてしまい、それ以上何も言えなくなってしまった。引っ越し初日から体調を崩したから、今までよりも神経質になっているような気がする。たとえば調理器具のレギュラーメンバーにミキサーがある。透くんはそれでほぼ毎日スムージーを作ってくれるのだ。朝食のときは野菜で、おやつのときはフルーツが多い。



「随分と長い休憩ですね」

 咎めるような声を投げかけられて寝返りを打つと、パソコンから顔を上げた透くんが私を見ていた。それでも手はタッチパッドの上で動いている。器用なものだ。

「もう二十分も経っていますよ?」
「え、計ってたの⁉」
「たまたま愛子が寝転んだときに時計を見ただけです。さすがに計っていませんよ。そんな監視してるみたいな言い方……」

 透くんは心外だと口をへの字に歪めた。けど、透くんならやりかねないのだから許してほしい。
 ぐるりと身体を半回転させてうつ伏せになり、頭もとに置いていた紙とペンを引き寄せた。
 紙には十×十の線が引かれ、その上と左端にはそれぞれ〇から九までの数字がランダムで振られている。――いわゆる百マス計算である。在りし日に小さな教室に詰め込まれてやらされたそれを、二十年弱経った今もやることになるなんて思わなかった。
 すでに足し算、引き算、掛け算を二枚ずつやり終え、残すは割り算二枚。たったそれだけ、それだけなんだけど――。

「もうよくない?」
「よくありません」
「計算くらい十分できるよ〜」
「でも、さっき引き算間違えていたでしょう?」
「一ヶ所じゃない! それくらいのミス、バーボンだって絶対にするでしょ⁉」
「僕の名前は『透』です」
「家の中くらい呼び間違えてもいいでしょ! もう、ああ言えばこう言うんだから」
「それは愛子の方でしょう?」

 喚く私と違って、透くんは涼しい顔をしてパソコンの横に置いていたマグカップを手に取った。
 白地にピンクとゴールドのラインの入ったその薄いカップは、本来なら紅茶やコーヒーの方が似合うデザインだけど、透くんはいつも日本茶を入れている。透くんがそうすると、自然とお茶の方が合うように思えてくるから不思議だ。
 私が掛け算の紙を埋めていたときはまだ湯気が立っていたお茶も、今ではちょうどいい温度になっていたようで透くんは冷ますことなく飲んだ。視線もパソコンのモニターに戻っている。
 私はまだ百マス計算をすることに納得していないけど、私にかまうことをやめた透くんに何を言っても無駄だろう。諦めて残りの二枚に手をつけた。
 同居するようになってから新しく増えた習慣がある。それが勉強だ。週五日、透くんが課題を出してくる。百マス計算以外にも、文章題や漢字の書き取り、日記や作文なんてものもさせられることがある。量は多くないし、そもそも簡単なものだから苦ではないけど単純作業は飽きる。
 この程度の読み書き計算くらい私が完璧にできることを透くんは知っている。なにせ透くんは掛け算や割り算のやり方を教えることなく百マス計算を始めたのだから。それでも何かと理由をつけて課題を出し続けているのだ。
 透くんからルームシェアを誘われた当初に懸念して過干渉はほとんどない。私の組織での役割をよくわかっている私が一人で何かをしていても何も言ってこない。だけど、こんな伏兵がいたなんて。
 たっぷり時間をかけても五分もかからずに二枚ともマスが埋まった。それを透くんに渡すと、透くんは軽く目をとおしてから赤ペンで大きく花丸を書いてくれた。ちょっとだけ、この瞬間が嬉しいのは透くんには内緒にしている。

「はい、お疲れさま」
「ほーんと、おつかれだよ。もう何もしたくない」

 計八枚のプリントをファイルに片付ける。

「透くんの今日の予定は? 一日中パソコン?」
「いえ、調べ物は午前中で終わらせます。午後は他の詐欺被害者の方に直接話を聞きに行きます」
「会ってくれるって? 昨日まで渋っていなかったっけ?」
「ええ。でも今やり取りしている様子を見るに、……ああ、ちょうど会ってくれると返ってきましたよ」

 透くんの浮かべる綺麗な笑顔が、少し邪悪なものに見えた。どんな台詞を吐いて相手の態度を軟化させたのか。
 その手腕が気になって透くんのそばまで近寄ってパソコンのモニターを覗き見た。
 メッセージ相手のアイコンは、大きなイルカのオブジェと一緒に写っている二十代前半の女性の写真だった。

「……何か失礼なこと考えていませんか?」
「ええ〜そんなあ。ちょっと、どんな女の子を誑かしたのか気になっただけだよ」
「それが失礼なんですよ。まったく……」

 そう言いながらも透くんは私が見やすいようにパソコンの角度を調整してくれた。

「米花大学の三年生の人です。彼女も、ご両親に内緒でお金を渡したそうですけれど、地方出身なので何かあれば実家に逃げられるらしいです」
 一番新しい彼女からのコメントは、透くんが言うとおり午後に会うことを了承する内容だった。
 透くんは「まあ彼女たちに被害に及ばないようにするので、実家に帰ることはないでしょうけど」と事もなげに言った。
 透くんの、こういう極力一般人を巻き込まないようにするのが当たり前というスタンスが好きだ。最小の犠牲で物事を推し進めていく。
 私は今の立場では、一般人を守りたくても大立ち回りができない。だから、無駄に巻き込もうとしない透くんのそばは居心地がいい。
 きっとその女子大生も雅威亞から報復を受けたりすることなく無事に済むだろう。

「ああ、昼食はどうしますか? 河堀さんが一緒にどうですかと誘ってきていたんですけど、行きます?」
「あー……、ちょっと出かけるから私は遠慮しておくね」

 透くんはぴくりと眉根を寄せた。そして一瞬、視線を落とした後、すぐに「例の財団の彼ですか」と思い及んだ。
 私が透くんの誘いを断ってまで行く先なんてそれくらいだ。
 ジンから頼まれた人捜しの件を雲雀くんにも知らせておきたい。
 雲雀くんから何か有益な情報をもらったことも、私が組織の人間を並盛に送り込んだこともまだない。そういうことはもう少し時間をおいてからするつもりだから。
 ただ、何かあったときのために情報共有はしておきたいし、今後雲雀くんを使うときのために接触実績を上げておきたい。

「ちゃんとGPSはオンになっていますよね?」
「うん。切ってないから大丈夫だよ」
「確認しても?」
「もちろん」

 ラグの上に転がしたままだった組織支給のスマートフォンを手に取って透くんに渡すと、透くんは慣れた手つきでロックを解除してGPSがオンになっていることを確認して、ひとつ頷いた。
 一人で出かける前の恒例のこのやり取りは、ちょっとだけ面倒だとは思うものの、こればかりは仕方がない。平日の課題よりも納得している。私だって七歳の子供の保護者だったら、子供を一人でふらふらふらふら出歩かせるのは不安になる。特に、こんな組織に所属しているのだ。普通の子供より何かに巻き込まれる可能性が高いし、所在は確認しておきたいと思うものだろう。
 外出禁止ではなく、何かあったときのためにGPSをオンにしておくだけでいいのだから楽なものだ。
 とはいえ、この新しい家は前の研究所より並盛から離れてしまった。直線距離なら二倍くらい研究所より遠い。電車だと乗り換えがあるため一時間弱もかかってしまう。ふらりと会いに行くことが難しくなってしまったので、思ったより雲雀くんに会えていない。
 久々に会う雲雀くんを楽しみに出かける準備をして、まだパソコンを操作している透くんを一人残して私は部屋を出た。

ヒトリヨガリ