スカートの中に咲く花

 お願いします。と、神崎さんがわずかに頭を下げて話はまとまった。
 神崎さんは、今日はテニスの準備しか持ってきていないから勉強は明日から。それなら僕たちはもう教室に戻ろうとヒロに声をかけたが、ヒロは「先に親睦を深めておこう」とテニスコートを指差した。

「なあ、部外者は入っちゃ駄目だったりする?」
「ううん、顧問の先生がいたら無理だけど今日は副顧問だけだし、副顧問は初めと終わりしか見に来ないから大丈夫だよ」
「ならよかった。……あ、でも靴がないか」
「二人が嫌じゃなければ、男子に借りればいいよ。うちは人数少ないから、女子と男子一緒に練習しているの」
「へえ、じゃあ借りようかな」

 戸惑う僕を置き去りに、ぽんぽんと話が決まっていく。
 でも練習してる子たちに迷惑だろ、と言った言葉は神崎さんに否定された。

「降谷くんだから大丈夫だよ」

 それがどういう意味かは、テニスコートに入ればすぐわかった。
 練習していた数人の下級生たちは、僕とヒロを見るなり歓迎の声を上げた。そして「私たち、ちょうど休憩するところだったんです!」と言ってコートを空けてくれた。そのときの女子の頬が赤かったのは、きっと暑さのせいだけではない。
 向こうから譲ってくれたとはいえ若干の申し訳なさを感じながら、運動靴とテニスラケットを借りて軽くストレッチをした。
 まずは僕とヒロで肩慣らしをしてから、そのあと僕と神崎さん、神崎さんとヒロという順番で組むことになった。
 テニスは体育の授業でしかやったことがないからできるか不安だったけれど、ヒロとの打ち合いはそれなりに楽しくできた。ラリーが続きつつお互いに隙をついてスマッシュを打つ。そのボールがきちんとコート内に入るときもあれば場外ホームランになるときもあって、そのときは僕たち三人声を揃えて笑った。
 勝負はしていないから点数も数えることなく、コツを掴んだらヒロはコートから出て行った。
 そしてヒロの代わりに神崎さんがコートに入り、ヒロのときとは違うリズムのラリーが始まった。神崎さんはさすが経験者だけあって、僕が打ちやすいところにボールを送ってくれる。パコン、パコンとリズミカルなインパクト音がテニスコートに響く。
 ボールを目で追いかける合間に僕はちらちらと神崎さんを見た。常に体を跳ね続け、それにつられて髪が激しく上下している。頬は上気し、前髪が汗でへばりついている。表情はさっきと比べ物にならないくらい明るいし、息こそ荒いが口角は上がっている。
 動いていると気分も高揚していき、気づけば彼女に話しかけていた。

「やっぱり上手いな」
「やっぱりって?」
「何度か表彰されたことあるだろ」
「知ってたんだ!」

 ゆるくボレーを打ってきたのをなんとか返す。

「でも、本戦で優勝したことはないんだけどね」
「それでも十分すごいよ。この学校の代表として頑張ったんだから」

 神崎さんは照れくさそうにはにかんで、「ありがと!」と力いっぱいにスマッシュを打ち、スパンと僕の真横を抜けていった。
 今まで見たことがないような笑顔が見ることができて満足して、僕はヒロとバトンタッチした。
 フェンスまで下がって二人のやり取りを見ていると、当たり前だけど僕とやり合ったときより動きが自然だった。それに表情も数倍生き生きとしている。全身でヒロとテニスをすることを楽しんでいる。
 輝くような笑顔が、夏空の下で眩しく見えた。
 ずっと見ていたい。そう思っていたけれど、すぐにヒロがダウンした。僕もそうだったけど、ワイシャツで運動はやりづらい。汗でへばりつくし、通気性も最悪だ。



 ラケットと運動靴を部員に返し、ワイシャツの胸元をパタパタと扇いだ。入ってくるのも熱風。でもないよりはいい。

「あー暑いなー」
「やる前からわかってたことだろ」
「まあそうだけど予想以上だった。どうする? 教室戻る前に飲み物でも買いに行く?」
「それもいいけど、早く涼しい教室に戻りたい」
「わかるー」

 クーラーに気持ちが傾いて教室に戻ることで話がまとまった。
 それを聞いていた神崎さんが、おずおずと小さく手を上げて「スポーツドリンク飲んで行く?」とヒロに尋ねた。

「マネージャーが作ってくれたやつがドリンクサーバーにあるんだけど……。共有だし嫌ならいいんだけど、氷入ってるから冷たいよ」

 神崎さんは屋根のところに置かれたプラスチック製のドリンクサーバーを指差した。

「じゃあもらっていこうかな」
「うん! マネージャーも二人に飲んでもらったら嬉しいと思う!」

 離れたところで隠れつつ僕たちを見ていた女子二人が、彼女に同意するように首が外れそうなくらいぶんぶんと首を縦に振った。
 ドリンクサーバーの横に山積みにされているプラスチック製のコップを、無造作に二つ取った神崎さんは、「好きなだけ飲んでね!」とそれを僕たちに渡した。
 コップは、きっと、部員で使い回している。だから共有でいいのかと聞いたのだろう。
 僕はラメの入ったピンク色の安っぽいコップにコポコポとスポーツドリンクを注ぎながら、これを彼女も使ったことがあるのだろうかと考えた。考えながら、あまりに邪な感情に膝をつきたくなった。
 煩悩まみれの僕の隣で、ヒロはブルーのコップを呷った。そんなに量はなかったから一気に飲み干し「ぷはっ」と口元を拭った。

「生き返る!」
「いい飲みっぷりだね〜」

 二杯目をもらうヒロは、回し飲みなんてまったく意識していない。そもそもコップは洗っているから回し飲みでもないのだ。
 ゴクゴクと喉を鳴らして飲んでいるヒロを見ていると、僕の考えは本当に馬鹿げているように思えた。
 もういいや。温くなる前に飲もう。
 ヒロに倣って一気に飲みきると、水分が五臓六腑に染み渡った。ヒロが生き返ると叫んだのも納得する。が、僕は口内に残ったスポーツドリンクの味を確かめてぐっと顔をしかめた。

「味、おかしくないか?」

 空気がピリッとしたのを肌で感じた。
 ヒロが困ったように眉を下げて笑い、「美味しいと思うけど。飲みやすくてさ」と言った。それは近くにドリンクを作ったマネージャーがいて、彼女たちの名誉を傷つけないために穏便に済まそうと言ったのだということは理解していた。でも、僕にとってはその言葉が引き金だった。

「そう。飲みやすいんだ。スポーツドリンクってもっと甘いはず。おそらく水が多めに入っているんじゃないか?」
「あの、だって、運動したときに甘いのは疲れるって、みんなが言うから」

 マネージャーが体操服の裾を握って言い訳するように呟いた。それに同調したのは神崎さんだった。

「別にマネージャーが適当に作ってるわけじゃないのよ。降谷くんの口には合わなかったかもしれないけど……」
「合う合わないじゃない。……確かに甘いのは運動中に飲みにくいかもしれないけれど、スポーツドリンクは分量を守って作らないと塩分が薄まるし、水分と電解質の吸収率が下がってしまうからメーカーが想定している水分補給ができなくなるんだ。特に熱中症のリスクが高い屋外のスポーツだから、甘さは我慢してちゃんとした濃度で飲んでほしい」

 命に関わることだから。僕は沸き上がる感情を抑えはしなかった。
 でも熱くなる僕とは正反対に周囲は凍りついていた。遠くで、何も知らない部員の明るい声が聞こえるのが場違いに感じるほど。
 それでも僕は引かない。膠着状態の中、グスリとマネージャーが鼻を啜った音がいやに大きく響いた。
 サッと血の気が引いた。
 間違ったことは言っていない。だからといって、下級生を泣かせていいわけじゃない。
 僕は必死に言葉を探した。

「……部外者の僕が口を挟むようなことじゃなかったかもしれないけれど、何かあってからじゃ遅いと思って、でも、キツい言い方してごめん」

 このまま神崎さんから面倒なやつだと思われて、勉強を教える約束もなくなってしまうかもしれない。それを覚悟で言ったけれど、後輩を泣かせるようなやつだとは思われたくない。
 どきどきと嫌な汗が背中を伝った。
 神崎さんはマネージャーのそばに寄り、「部室でゆっくりしておいで」と肩を優しく叩いた。
 顔を下げたままマネージャー二人はパタパタと走り去っていき、なんとも言えない空気だけが残った。

「ごめん」もう一度謝った。

 神崎さんの顔に泥を塗ったし、親睦を深めようとしたヒロの気持ちも台無しにした。
 神崎さんもヒロも、苦笑を浮かべた。仕方ないとばかりに。

「全然いいの。降谷くんが間違ったことを言ったわけじゃないし」
「でも泣かせただろ」
「あれは……」

 神崎さんは、視線を部室の方へ向けて言うか言わないか迷う素振りを見せたあと、「これ、内緒にしてね」と眉を下げた。

「あの子、降谷くんのことが好きだから、自分の作ったもの不味いって言われてショックだっただけだと思う。ちゃんと降谷くんの言ったことの意味わかってると思うし、すぐに落ち着くよ」
「……そう、なんだ」

 予想していなかった理由に僕はびっくりしてしまって言葉に詰まった。
 それならよかったと言うのも変だし、だからといって何も言わないのは愛想がないと思われそうで、なんと返すべきか考えていると僕の困惑を察知した神崎さんがさっと話題を変えた。

「降谷くんってクールだから、あんなに怒ると思わなかった」
「怒ってたわけじゃ、ないんだ」
「ゼロは心配したんだよな」
「特に今日は顧問の先生が外にいるし、副顧問は職員室にずっといるんだろ? もし倒れたら救助されるまで時間がかかるし……」
「そこまで考えてくれていたんだ。ありがとう」

 こそばゆそうに、神崎さんはぱっと花が咲いたように笑った。
 一時はどうなることかと思ったけれど丸くおさまって、ひと安心した。
 ヒロの思惑どおり神崎さんとの心の距離も縮まり、明日からの昼下がりが俄然待ち遠しくなった。

ヒトリヨガリ