脆弱なブレス
勉強会初日はぎこちなかった神崎さんも、数日すると僕の存在に慣れたようだった。
僕たちは受験生だけれど、それと同時に僕たちにはお互いに恋心を抱いている多感な年頃なので、勉強の合間にはそれぞれの想いを胸に交流を深めていた。
景光のおかげで、ようやく僕の夏が始まった。
カラッと晴れて真夏にしては風が気持ちのいい日があった。こういうときはクーラーに頼らずに窓を開け放とうとヒロと盛り上がり、校庭側も廊下側も窓を全開にした。
風を抱きしめて膨らんだクリーム色のカーテンが、バサリと大きく波打つ。
バタバタとカーテンが無邪気に暴れる様に、三人で「おおー!」と歓声を上げた。
風と共に外の音が教室に届く。野球部の野太い掛け声と、固いボールの芯をバットが捕らえた音。トランペットが奏でる少し前のドラマの主題歌。
「懐かしいな」
流れるメロディに合わせて鼻唄をうたえば、その直後にトランペットの音が外れた。何度か同じところを繰り返すけれど毎回サビの高音が途切れてしまい、結局吹くのを止めてしまった。
トランペットに耳を傾けていた僕たちは、顔を見合わせて苦笑した。
「まあ、俺たちからしたらBGMだけど向こうは練習だしな」
「じゃあ私たちは私たちのBGMをかけよっか」
そう言いながら、神崎さんはスカートのポケットから携帯電話を取り出してカチカチと操作した。
「あの曲なら、着うたフルで持ってるの」
ボタンを押して始まったのは夏に合う爽やかでポップな曲。さっきと同じメロディなのに、楽器が違えば別のように感じる。ボーカルのハイトーンボイスで歌われるのは大切な人へ愛を伝える言葉だ。
僕とヒロは所々その歌詞を口ずさみながら、「夏だな」と当たり前のことを言い合って窓辺に歩み寄った。
向日葵が似合うような突き抜ける青空と、眩しく吹き抜ける夏疾風。何かを追い求める青春の音と、明るく前向きなノリのいい曲。気の置けない幼馴染みと、心が晴れる好きな人。
平和で幸福な時間が流れる。
ずっとこの時が続けばいいのに。柄にもなく、僕はそう思った。
目指した未来があって僕とヒロはがむしゃらに頑張ってきた。幸いなことに僕もヒロもやればやるほど力がついて未来がはっきりした形になっていった。でもそうやって遠くばかり目を向けていたから、どんどん気持ちが急いていたのかもしれない。どこまでも広い空を見上げていると、そこに浮かぶちぎれ雲のように、ゆったりと流れる時間に身を任せて、今は今を楽しむのもいい気がした。
そう思ったのは僕だけではなかったようで、僕たちは勉強を中断して窓を全開にしたまま閑談に興じた。
「え、降谷くんって模試一位なの⁉ なんでこの学校に来たの⁉」
心底驚いたとばかりに目を真ん丸に見開く神崎さんに、僕とヒロは声を殺して笑った。
志望校の話から前の模試の結果に話が変わったとき、ヒロが僕の順位をそれはそれは自慢気に彼女に話したのだ。
「頭がいいからこそだよ。ゼロは進学校に行かなくても東都大学に受かるだろうし、それなら受験のためのカリキュラムの学校に行くより受験以外のことに取り組んでいるここの方が将来的なことを考えたらいいんじゃないかって思って」
神崎さんは理解できないと言いたげな顔で僕を見た。
なんだか居心地が悪くて、じとっと諸悪の根元であるヒロを睨んだ。
「ヒロだっていい成績だろ」
「でもゼロには負けるよ。一回くらい勝ちたいんだけどな」
「まあ勉強に関してはヒロに負ける気がしないけど」
「おー? 言ったなあ?」
「言ったさ。なんなら大学の入試で競ってみるか?」
「いや、それは絶対無理だ……。だいたい、ゼロ以外が新入生代表をしてるのなんて想像できない」
「諦めるの早すぎだ」
「せめて定期考査とかで競おうぜー」
「それだと同点って落ちになるだろう」
ふはっと同時に笑ってこの茶番劇を終わらせた。
「二人ともすごすぎ……」
「まあ先生たちは大変みたいだけどね」
「どうして?」
神崎さんはヒロの方を見て聞いたけれど、ヒロが答える前に僕が口を挟んだ。
「進学校じゃないから、受験対策の講習なんて元々やってなかったんだよ。でも僕とヒロを絶対に東都大学に合格させてやろうって先生たちが盛り上がって……」
「数学なんて、俺とゼロのために開講したやつあるからなあ」
「VIP対応だ……。そりゃ大船だよね、豪華客船じゃん」
神崎さんは僕たちとの差を感じて不貞腐れたように机の片隅に置いていたパックのアイスティーのストローを噛んだ。
「神崎さんだって、部活しながら成績良好の優等生だろ?」
僕がフォローしようとしたら、神崎さんは項垂れるように机にべたりと倒れ伏した。
「めちゃくちゃ大変だったけどね。何回部活やめようとしたことか!」
「え、遥って部活やめたかったのか?」
「やめたかったよ。だってしんどかったし。言っとくけど、私が部活続けたのは諸伏くんのせいでもあるんだからね」
「おれ?」
「諸伏くんが応援するから続けたの」
「それって俺のせいって言うのか?」
からかうようなヒロの物言いに、神崎さんはがばりと体を起こして「言うの!」と食ってかかった。怒っているけれど、顔は笑っている。
弾むように僅かに上擦った高い声は僕と話しているときには出ない。
神崎さんのすべてがヒロのことを好きだと証明している。でも、それを見ていても前よりは痛みが少ない。きっと僕と神崎さんの関係に名前がついたからだろう。
それでも二人の世界を壊したい気持ちはしっかりと胸の奥に息づいていたので、「神崎さんもこっちにおいで」と椅子に座ったままの彼女に声をかけた。
神崎さんは携帯電話を片手に立ち上がり、でも何かを思い出したように動きを止めて携帯電話を机に置いた。そしておもむろに鞄から小さなチューブを取り出して白いクリームを腕に塗り始めた。
「室内でも焼けるらしいから」と、言い訳のように説明してから、「まあ、もう焼けてるんだけどね!」とあたかも笑いを誘うかのように明るく言うので、僕はぐっと顔をしかめてしまった。
「遥は大学ではテニスやらないんだろ? そしたらそのうち白くなるって。大人になって同窓会で再会したやつらが驚くのが目に浮かぶよ」とヒロが励ました。
神崎さんは「そうかな」と嬉しそうに微笑して、駆け足で僕たちのそばに来た。そして「いい天気ー!」と腕を伸ばした。
きっと、ヒロが言ったのは彼女のほしい言葉だ。それはわかるけれど、僕は自分の気持ちに正直に「そんなに焼けてるのって悪いかな」と疑問を口にした。別に僕も色黒だからそう言ったのではない。一言で色黒といっても僕と彼女では種類が違う。そうではなく、僕は健康的に焼けた肌の彼女しか知らないから、いまいち、ヒロの言う「白い彼女」がイメージできなかったのだ。
それに何より過度に卑下するのを好ましく思わなかった。だから口をついて「神崎さんが部活を頑張った証拠だろ」と続けた。言ってから、僕はしまったと思った。ぶっきらぼうで責めるような口調。散々ヒロに、ゼロは誤解されやすいんだからと窘められていたのに。
慌てて弁明する言葉を探した。
「あー、運動部って感じで好きだけど」
その瞬間、ヒロがにんまりと笑った。
「へえ、好きなんだ」
「いや、そういうやつじゃなくって」
「好きなところだから本人にも否定されたくなかったんだよなー?」
「ヒロ!」
「わかってるわかってる。冗談だって」
ケラケラ笑いながら軽く謝るヒロが悪魔に見えた。
たしかに図星だった。でもこんなやりとり目の前でされたら困るに決まってるだろ。
彼女を見たら、やっぱりどうしていいのかわからないような表情をしていた。
僕は彼女の逃げ場を作るために、わざと「ほら、休憩は終わりだ」とヒロを叱って窓を閉めた。