脆弱なブレス
その数日後、学校の都合で早く帰らないといけない日があった。その日は猛暑日で、「うだるような暑さ」を漢字で「茹だる」と書くのも納得だとか話しながら帰っていた。ゆらゆらと蜃気楼が見えて、それが一層暑く感じさせる。
耐えきれなくなって、途中コンビニに寄ると、強すぎる冷房が僕たちの体力をぐんぐん回復させてくれた。
店内をぐるりと一周回っているうちに汗はひいたけれど、身体の中央はまだぐらぐらマグマが滾っていて、僕とヒロは冷たいものを求めて二手に分かれた。ヒロはドリンクコーナーへ、僕はアイスコーナーへ。神崎さんはヒロについて行こうとして足を踏み出したけれど、ぐるりと方向を変えて僕と同じアイスコーナーに来た。
アイスが食べたかっただけ。きっとそれ以上にそこに含まれる意味なんてなにもない。
でもヒロより僕を選んでくれたように思えて、所詮単純な男子高校生である僕はぶわりと心が浮き立った。
二人並んで冷凍庫を見下ろすと、僕と神崎さんの袖口が触れ合った。少し近づけば、肩が当たる。
さっきまでとは違う熱が身体中を駆け巡った。
「そういえば」と意識を他に向けるために話しかけた。
「ヒロは神崎さんのこと遥って呼んでるけど、神崎さんは諸伏くんなんだな」
「それ、よく聞かれるんだけど、私も不思議なんだよね。最初は神崎さんって呼ばれてたのに、気づけば遥になってて、別に嫌じゃないからそのままにしてるの。諸伏くんも勢いで呼んじゃって戻すのも気まずいからずっと遥って呼んでるんじゃない? ……で、私はタイミングを逃して諸伏くんのまま」
じゃあ、僕も遥って呼んでいい?
ヒロと同じところに立ちたい、そう思うのに十五字くらいの言葉が言えなくて、僕の口の中は砂漠のようにからからに乾いた。
そうしている間に、彼女の興味は完全にアイスに切り替わっていた。
「あー、どれにしよう。コンビニのアイスって種類が多いから悩むんだよねえ」
「……僕は、アイスクリームより氷菓がおすすめだよ。三十度を越えるとアイスクリームが売れなくなって氷菓が売れるようになるらしい」
「たしかに、こう暑いと甘いものよりさっぱりしたものが食べたくなるもんね」
へえ、と相槌を打ちながら冷凍庫のラインナップを確認して、神崎さんは「さっぱり系もいっぱいあるね!」と、けらけら笑った。
「降谷くんは何食べるの?」
「どうしよう。だいぶ涼しくなったからアイスじゃなくて僕も飲み物にしようかな」
「ええー、私だけアイスかあ。……じゃあ私もそっちにしようかな」
言葉と裏腹に、神崎さんの目は名残惜しそうにアイスを見ている。
僕はふと浮かんだ考えを、一度却下した。それは僕にとっては試験で一位を取るより何倍も難しいことだったからだ。でも、諦めたら何も変わらない夏として終わってしまう。
夏なんだから、勢いに身を任せてみるのもいいんじゃないか?
依然として干上がった口内。でも身体は思ったよりスムーズに動いた。
僕は目の前にあった水色のパッケージを掴み、彼女に見せた。
「これなら半分こできるね」
二人で分けて食べる定番のアイス、パピコ。
神崎さんは大きく目を開いて、それからきゅっと細めた。
「いいね、食べよう!」
そのまま僕がレジに持っていこうとしたら、神崎さんがパッと奪い取って「勉強教えてくれてるお礼しなくちゃいけないからね」とレジに向かった。
レジカウンターにアイスを置くと、気だるげな店員がこちらを見ることなく挨拶をしてバーコードをスキャンした。その瞬間、僕はポケットの小銭入れから硬貨を二枚取り出して店員に渡した。
「え、降谷くん!」
「勉強は僕から提案したんだし、それを言うならいつも頑張っているご褒美だよ」
「それはおかしい!」
「おかしくない。……袋はいらないです」
シールを貼ってもらって、お釣りを受け取ったらすぐにアイスを神崎さんに渡した。
不服そうに頬を膨らます神崎さんが、普段より幼く見えて噴き出すと、彼女は恥ずかしそうにぷうっと息を吐き出した。でも膨れっ面はそのままだ。
僕たちのすぐあとにヒロがサイダーを買い、三人でコンビニを出た。
復活した夏に一斉に呻き声を上げた。
鮮やかな夏の空はどこまでも遠いのに、真っ白な入道雲は手を伸ばせば届きそう。降り注ぐ蝉時雨と、近くを通ったトラックのエンジン音に包まれて、思い出したかのように汗が吹き出す。
「夏の雲っていいよね。美味しそうで」
「……美味しそう? まあ入道雲はアイスみたいか?」
「でも見た目はよくても結局積乱雲だから、このあと天気が崩れるかもしれないよ。大気の状態が不安定なときにできるものだから。それに雷も発生しやすい」
「えっ、なんか夢が壊れた……」
「こっちに向かってきたら大雨に遭遇するから、早めに帰ろうか」
僕たちはコンビニの短い軒先で買ったものを開けた。ヒロがプシュとキャップを捻り、神崎さんは袋をバリバリ破って、中のアイスをプチッと二つに引きちぎった。ゴミを捨てて身軽になってから、日陰の中から灼熱の外に飛び出した。
アイスはすでにほんのり溶けていてゆるい。タブに指をかけて引っ張ると、ぴゅっと液体になったアイスが飛んだ。でも、さすがに買ったばかりだから食べるとしゃくしゃくした氷の食感もしっかり残っている。
「パピコかー。いいな、俺にも一口ちょうだい」
俺の横で、神崎さんの腕が動いたのが見えた。そう脳が認識したときには、僕は反射的に自分のパピコをヒロの口に突っ込んでいた。
「……まさかゼロにあーんされると思わなかったよ」
「文句言うな」
「いや、文句じゃなくて……、まあいいや。ありがとう、パピコも美味しいね」
そんな僕たちのやり取りを見ていた神崎さんが口を大きく開いて笑った。白い歯がきらりと光る。
「二人って、本当に仲がいいね」
「まあ、ゼロとは小学校のときからの付き合いだからな」
「いいなあ」
暑さで顔を赤くした神崎さんがパピコを齧った。
神崎さんは幼馴染みとかいないのか。そう思っていたら、神崎さんはひとりごとのように「小学生の諸伏くん、可愛かったんだろうなあ」と呟いた。
清々しいほど神崎さんはヒロのことが好きで、僕のことは眼中にない。
それでも今の僕にはこの三人でいる空間を好ましく思うようになっていた。邪魔なのは僕の恋心。
お返しにと渡されたサイダーを呷ると、パチパチ炭酸が口の中で弾けて消える。爽やかな甘さが鼻に抜けていった。
いっそサイダーみたいに僕の想いも夏空に弾けて消えてしまえばいいのに。