脆弱なブレス

「聞いて、降谷くん! 昨日やっと英単語帳一周したよ!」

 昼になってすぐ神崎さんが教室に飛び込んできた。片手に単語帳を掲げて。

「おめでとう。じゃあ二周目だな」
「……もうちょっとくらい祝ってくれてもいいんじゃないの?」
「でもまだ一周なのは事実だろ」
「じゃあ降谷くんは何周したの?」
「三周して、完全に覚えたことを確認したから別の単語帳に移った」
「うわ、ばけものだ」
「勉強教えてる僕をばけもの呼ばわりするなんて失礼だな」
「凡人からしたら三周で完璧なんて信じられないよ。前から思ってたんだけど、降谷くんの頭ってどうなってるの? あ、頭だけじゃなくて運動神経もいいんだよね、テニスもうまかったし……。天は二物を与えず、なんて嘘だよねえ。頭もいい、運動もできる、顔もいい、スタイルもいい、性格もたぶんいい」
「なんで性格だけたぶんなんだよ」
「あ、あと、最高の幼馴染みもいるし!」

 ぽかんとヒロが僕らの顔を見た。

「……なんかゼロと遥、急に仲良くなってない?」

 夏休みももう二週間が経った。元々神崎さんは社交的なので、今ではすっかり身構えずに会話ができるようになった。それはじわじわと、そしてメールという水面下での進行だったからヒロからすると急に見えたらしい。

「見て、諸伏くん。お祝いのために来るときにコンビニでプリン買ってきちゃった」
「しかも生クリーム乗ってるやつじゃん。豪華だな」
「でしょ! 焼きプリンと悩んだんだけど、やっぱりご褒美だからね」
「じゃあ、俺はじゃがりこを進呈しよう」
「わあ! 諸伏くん天才!」

 今度は僕を置き去りに盛り上がる二人。
 でも前とは違って、ヒロにじゃがりこを渡された神崎さんは、その緑のパッケージを僕に見せつけて「もらった!」とにっかりと笑ってきた。
 教室に三人しかいないんだから聞こえてないはずないのに。そう思いながらも、僕の存在がきちんと彼女の中に存在している証のようで嬉しかった。
 二時間後の休憩を楽しみに、神崎さんはピンクのイヤホンを装着して先週よりも汚れた英単語帳を開いた。
 それを見て、僕とヒロも赤本に目を落とした。
 神崎さんの志望校のレベルなら、夏休みを明けてから過去問に取り組んでも十分間に合。だから、夏は基礎を固めて秋の模試で結果を残し、親を説得して同時に過去問に移る
という作戦を立てた。
 それに対して僕とヒロはもう随分と前から志望校は一つしか考えていない。すでに入試問題に取り掛かる基礎は固めているから過去問に移っている。東都大学の過去問は通常、数十年分を複数回こなす方法が主流で、ヒロはそれでやっている。僕も似たようなものだけれど、入試に含まれるマニアックな難問に興味を持ち、手に入れられる範囲の古い過去問から手をつけ始めた。
 やっている内容はバラバラで、みんな勉強に没頭しているのに、志は共通している。そういう不思議な繋がりが心地よかった。



「夏が勉強で終わるねー」
「三年生なんてそんなものだろ」
「降谷くんはそんな青春でいいの?」

 神崎さんが飲んでいたレモンティのパックをバンッと机に置いた。休憩に入って、僕が単語帳一周目祝いに買って渡したものだ。渡したときはものすごく感謝されたのに、今は無惨にも机に叩きつけられた。
 ヒロは「酔っ払いみたいだぞ」と笑って神崎さんの机の上にあるじゃがりこを摘んだ。そんなヒロも僕と同じく受験生は基本的に勉強漬けだろうという考えだ。

「もう二週間もしたら夏が終わるんだよ? よく平気でいられるね」
「夏は終わらないだろ」
「諸伏くんも現実的すぎ。休みが終わったら夏が終わったようなものだよ。クラゲも出るし」
「海に行きたいの?」
「……まあ、そこまで一日ガッツリ遊びたいわけじゃないけど。海に行ったら次の日疲れて勉強できなさそうだし。ってなったら遊ぶのなんて無理かあ」

 冬が本番の僕らとは違って、彼女の第一関門は秋だから焦っているのだろう。

「じゃあ半日とかなら何がしたい?」
「んー、……夜の学校に忍び込んで、制服のまま金魚と一緒にプールで泳いでみたい」
「建造物侵入罪」
「遥、漫画の読みすぎ」
「さすがに冗談だよ!」

 頬を膨らませて、僕たちを睨んだ。それから蛍光灯を見上げながらやりたいことを考えていると、ヒロが「祭りとか? 学校の近くの」と呟いた。

「あー夏祭り! それだ!」

 神崎さんはパチンと手を叩いてから、僕に説明するためにこっちを見た。

「学校のそばに小さな神社があって、そこで夏祭りをやるの。一応屋台もあるし去年部活の友達と行ったけど結構楽しかったんだよ。それにしても、よく諸伏くん覚えてたね」

 言いながら、神崎さんは携帯電話で開催日を調べた。

「今年は八月十七日と十八日だって。どう? 三人で――」
「俺パス」
「え?」

 僕と神崎さんは声を揃えてヒロを見た。
 ヒロは申し訳なさそうに眉を下げた。

「ごめん。俺、長野に帰るから無理だ」

 首を傾げる神崎さんに僕が補足した。

「ヒロの実家は長野にあるんだよ」
「そう。だから、悪いけど俺は行けない。けど俺のことは気にせず二人で楽しんで」

 僕は思わず神崎さんの反応を確認した。きっとヒロと行きたかったろうから、少しでも僕と二人が嫌そうなら僕から別の予定を提案しようと思っていた。僕は彼女と二人きりでも嬉しいけれど、彼女が違うなら無理強いはしたくない。
 でもその心配は杞憂に終わった。神崎さんはさっきの勢いこそ失っていたけれど、それでもたしかに頷いた。

ヒトリヨガリ