ありふれた絶望感

 教卓で世界史の教科書を読む先生の声が子守唄のように聞こえる昼下がり。夏の訪れを感じる湿ったぬるい風を感じながら、同じ説明を繰り返す先生の声をシャットアウトして僕は窓の外に目をやった。
 乾燥して砂埃の舞うグラウンドを見下ろし、僕はその瞬間に一人の女子を見つけた。
 神崎遥。隣のクラスの子だ。女子はハードル走の授業のようで、今は友達と楽しそうに喋りながら順番を待っている。
 太陽に負けないくらいの弾ける笑顔は、素直に可愛いなと思った。
 焼けた肌に汗が滴り、あたかも彼女がきらきらと輝いているようだ。
 人を好きになると、こんなに世界が一転するとは思わなかった。
 見えるものが色鮮やかになり、世界には幸せが満ちているような気がする。さっきまで雑音でしかなかった先生の声も、今は彼女の人生を表現するもののように聞こえてくる。古代の人たちも、こんな風に人を好きになったのか。古代の生活の話を聞きながらそんなことまで考えた。
 グラウンドでは、彼女の番がきていた。
 立ち上がってズボンについた土を払い、スタートラインに立つ。ゴール付近にいる先生がホイッスルを鳴らすと同時に、彼女の髪が舞った。鍛えられたすらりと伸びた足で地面を蹴って走り、リズミカルに跳ぶ。
 サン、シ、ゴ、ロ――。
 ガシャンッとハードルが倒れる音が聞こえた気がした。実際にはグラウンドで鳴った些細な音なんて教室にいる僕に聞こえるわけがないけれど。
 足を引っ掛けて地面に体を打ちつけた彼女は、それでも前を見ている。
 彼女のクラスの女子たちが駆け寄ってくるのをそのままに、起き上がって残りを走りきった。ゴールなんて地面にラインが引かれているだけなのに、僕には、たなびく白いゴールテープが見えた。
 彼女は袖で汗を拭い、荒く肩を上下させている。先生が何か声をかけているのに片手を上げて答え、友達のいる方へ歩いていった。
 体操服は土にまみれて茶色くなっているのに、どうしてか、さっきよりも白く輝いて見えた。
 ふと、彼女は顔をグラウンドの端の方に向けた。
 そこでは男子が走り幅跳びをしている。女子より不真面目に、ふざけ合ったり変なフォームで飛んだりして先生に怒られている。それを見て女子がクスクス笑った。
 彼女は、友達の輪の中で同じように笑いながらも、一人だけ色の違う表情を浮かべている。馬鹿なことをしている男子を話の種にしているようで、その目には恋慕の色が見てとれる。
 その視線の先で、ヒロが、地面を蹴った。
 長い手足を大きく動かし、空を舞う。
 砂場に両足を揃えて着地したヒロは、軽く砂を払って列に戻っていった。
 彼女は一連の流れを一瞬たりとも目を離すことなく見ていた。ただなんとなくヒロを見ていたわけじゃない。明確に、意志を持っている。
 僕の好きな神崎さんは、僕の幼馴染のヒロのことが好きだ。たぶん、僕が彼女を好きになる前から。
 僕が神崎さんを目で追いかけるようになったときには、もうすでに彼女の視線の先にはヒロがいて、そして僕はその目に恋心を見つけてしまった。
 目がいいことをこんなに恨んだことはない。
 それでも僕は、神崎さんの姿を探してしまうのだ。何度現実にうちひしがれても。
 ままならない僕を笑っているような雲一つない青空を、一筋の飛行機雲が真っ二つに断ち切った。

ヒトリヨガリ