色褪せるシャングリア
席でプリントを読んでいたヒロは、僕に気づくと人のいい表情を浮かべて「よう」と片手を上げた。思わず僕の頬もゆるむ。こういうところを神崎さんは好きになったのだろうな。
教室に入って神崎さんと目が合ったとき、僕もこんな風に自然に明るく挨拶すればよかった。そうしたら少しは良い印象を残せたのに。でも、下心のある自分ではヒロと同じようには笑えないだろう。
帰り支度をする生徒や、放課後の解放感から音楽を鳴らす生徒で混沌とした教室の中、教室の端でふざけ合っているやつらがいた。視線の先は教室に残っている女子。どうせ髪の毛から滴る水で濡れて透けた制服を見て、下世話な話でもしているんだろう。
いくら僕が神崎さんに下心を持っているとはいえ、僕の気持ちがああいうやつらと同類のものだと思われたくない。僕が彼女に近づけない理由には、そういうものもあった。何か自然なきっかけがあれば僕が彼らとは違うとわかってもらえるだろうけれど、何の用事もないのに不用意に近づいたり笑いかけたりしたら不純な男と思われかねない。ただでさえ僕の見た目はそういう風に受け取られがちだから、できるだけ誤解されるようなことはしたくなくて、必要以上に慎重になってしまう。
だから、さっきのはあれでよかったんだ。それでも、やっぱり、挨拶くらいすればよかったと後悔が胸の奥で燻る。
「はあ」
「なんだよ」
「なんでも、なくはない。けどなんでもないよ」
「うーん、まあゼロが言いたくないなら聞かないけど」
ヒロは首を傾げながらも何も触れないでいてくれた。
ヒロが神崎さんと同じクラスになった今年度になってから、意味もなくヒロに会いにくるようになったし、色々気になっているだろうにヒロは深く聞いてきたことはない。言いたくないことを無理に吐かせることはしない。ヒロはそういう優しいやつだ。
「あ、そうだ。今日は弁当ないから食堂なんだ。悪いな」
財布を見せながら言ってきたヒロにどきりとした。
その悪いというのは食堂まで行くことであって、神崎さんのいる教室から離れることに対する謝罪じゃない。でも、疚しさのある僕には、ヒロに僕の気持ちがバレているのではないかとどぎまぎしてしまって、大きく息を吸って落ち着かせた。
「別に僕も食堂で飲み物買いたかったから、ちょうどよかったよ」
「そっか。ありがとう」
席を立ったヒロは後ろの扉へ向かう。それに少しだけ残念に思いながらついていくと、扉付近にいた男子が「神崎、また黒くなってないか?」と言ったのが耳に入った。それがもし好意的な声であっても僕は気に入らなかったけれど、侮辱するような声音だったので無視することができず足が止まった。
「たしかにな。焦げすぎて夏休み明けには消し炭になるんじゃね?」
「それなら僕も近いうちに燃え尽きるかもな」
思わずそう言ってしまった。
僕のことに気づいていなかった男子たちは「いや、そういうつもりじゃ」と慌てて言い訳をするけれど、それに付き合うつもりはない。僕に対しての謝罪も筋違いだ。
無視して、先に廊下に出ていたヒロを追った。
嫌な気分になったこともあって、廊下が数分前より暑く感じる。
「ゼロは相変わらず真っ直ぐだな」
関心したように言うので、恥ずかしくなった。
「別に……。僕には何も言えないくせに、女子には上から言うのが気に入らなかっただけだよ」
「そういうところが真っ直ぐなんだよ」
ヒロは僕の背中を叩いて「よく言った!」と盛大に褒めた。
僕は、さっきの行動が他の女子への暴言であっても介入できたかどうか、正直に言うとわからなかった。でもヒロがその行為を誇らしげにするから、なんだか認められた気がしたし、神崎さんじゃなくても割って入れた気がして嬉しくなった。
不快感はヒロのおかげで一気に解消した。
ヒロは僕にとって神崎さんに関してライバルだけれど、でも、その前に大事な幼馴染みだ。申し分ないくらい良いやつだってことは僕が一番知っている。
だから神崎さんが片想いしている相手がヒロでよかったと、このときは心の底から思った。