楽しいことだけ考えたい
好きなときに寝て、好きなだけボーッとすることができる。なんていい生活だ。
大学だって遊んで飲んで騒いで寝て、好き勝手やっていたけど、ここの生活はそれ以上に快適だ。
最初は名前を呼ばれない違和感もあったけど、今では彼らに「キティ」と呼ばれるのも慣れた。どこの世界的人気猫キャラクターだと思ってしまうのは変わらないけど。
ただ、「キティ」と呼ばれるよりも「ストップ」と「ノー」と呼ばれることの方が多い。室内の景色にも飽きたから外に行きたいし、せめて歩き回りたいのに動けば「ストップ」。何か触れば「ノー」。嫌になる。
手持ち無沙汰で、何日目かにベポからもらった木の玩具を投げて遊んでいると、食堂にペングインが入ってきた。防寒帽を目深に被っていて表情があまり見えないけど、ベポとよく一緒に俺にかまいに来る優しい人だ。
ペングインは俺のそばに来て腰を下ろすと、一冊の絵本を床に置いた。
俺はまだ紙を捲ることは難しいから、ペングインがあーだこーだ言いながら次々ページを捲ってくれる。
絵本には、鮮やかな青い海が一面に描かれている。頭をシャボン玉で覆った黒猫が、海の中を散歩するというストーリーらしい。
ペングインの説明はまったくわからない。書かれてる英文も読む気が起きない。だけど、さすがは絵本。絵を見ているだけで話を追える。
ふんふんと頷きながら見ていると、ドタドタ重い足音が遠くで聞こえ、そのすぐあとに食堂にベポが飛び込んできた。
ベポは何やらペングインに話しかけると、絵本に描かれた笑う黒猫を指差した。
「キティ!」
いやいや、そりゃ俺は黒猫のベビー服を着ているけど、絵本の主人公に俺の名前をつけられるのは恥ずかしいって。
と、思っている間に、ベポは「アーンドゥ」と絵本の上で指をさ迷わせたあと、ペンギンの絵を指して「ペングイン!」と言い放った。
その後も、背びれのあるイルカみたいな絵を「オーカ」、よくわからない魚を「ナーウェル」など次々海洋生物を見せてきては彼らの名前を呼んでいる。
ふと、ここで初めて俺が勘違いしているのではないかと気がついた。
防寒帽を被った男の名前は、もしかしてペン・グインではない?
ぐるぐる考えながらペングインを見上げた。帽子に書かれた「PENGUIN」という文字が目に入る。
その文字を、どこかで見た。
俺は今度は視線を下げた。
絵本に書かれた短い文の中に、俺は‘penguin’という単語を見つけた。
ペングインと、ペンギンの絵と、‘penguin’。もしかしなくても、すべて同じものを指すのか。
――いや、ペンギンって名前だと思わないだろ! それならペン・グインの方がまだ名前っぽいじゃん。
そう主張したいのに伝える術がなくて、結局「にゃ゛ー!!」と叫びながら絵本を叩くだけに終わった。
俺が他によく見るのは、女性のナーウェルと、キャスケット帽を被ったオーカ、それから人相の悪いキャートゥン。ナーウェルとオーカがペンギンみたいに海洋生物の名前と同じっぽいことはわかった。じゃあキャートゥンは? ベポが教えてくれた中にはなかった。これは普通に名前?
「キティ? ワッツロング?」
うんうん唸っているとベポが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
――そっか、俺、キティだ。
キャートゥンの名前の意味を考えてる場合じゃない。俺自身の名前の方が大問題だ。
キティちゃん、俺、絵本。共通点は猫だ。だけど俺でも猫はキャットだと知っている。きっとただ、猫を指す言葉じゃないはず。
思いつくのは「猫ちゃん」という呼び方か、「子猫」という意味。
どちらにしても、俺の男子大学生としての心が羞恥心で死んでいく。
「ワッツァップ? アーユースリーピー? ワイドンジューテイカナップ?」
キャートゥンの名前、大学生がキティと呼ばれること、何を聞いてるかわからない問いかけ。
頭の中がパンクしそうになったので、すべて考えることを放棄した。
どうせ俺には何もできない。キティと可愛らしい名前で呼ばれるのを拒否して自分の名前を告げることもできない。
諦めて、ベポの問いかけの中で唯一聞き取れたスリーピーの意味が合っていることを信じて目を閉じた。
ふかふかの毛と、ふわふわの肉に全身を包まれると、いつだって気づけば眠りに落ちている。