ひきこもごも
「――あ、は」
まっさらな白磁の肌が、赤く染まっていた。
敵に背を向けてでも弟を身を挺して守ろうとした青年を、マグマで作られた必中の一撃から庇うような形で防波堤となった少女は、自身の胸を穿った男を見据え、そっと口元に笑みを象った。
「そん、な――」
おそらく、背に庇った彼も胸を穿たれてしまっているだろう。状況とは裏腹に、名前の思考は冷静だった。名前の肉体は強靭な海賊や鍛え上げた海軍兵たちとは比べ物にならないほど薄っぺらく、未成熟だ。しかし、これでいい。
――この薄皮一枚程度で、救える命がひとつ、世界に生まれたのだから。
「〈天女〉、貴様ァ!」
「お嬢ちゃん、なんで――」
ずるり。名前を穿った手が抜き出される。途端、一気に血の巡る感覚が身体を貫いた。たたらを踏むも片膝をついて崩れ落ちた少女を受け止めたのは、大事な船長の兄君だ。自身も胸を貫かれもう瀕死の状態だというのに名前を力強く抱え、そして。
「エ゛ース!! 名前ェ!!」
名前を抱えたまま崩れ落ちかけた身体を、ルフィが抱き留める形で受け止めた。
口から溢れるのはゼエゼエという呼吸音と止めどなくあふれる血液混じりの咳ばかり。
(ごめんね、ルフィ)
できることならどうしようもなく抱きしめてあげたかった。けれど、いまの名前にはそれは叶わぬ願いというものだ。
残り時間は少ない。いまやるべきことはひとつだけ。
名前はこの戦場に足を踏み入れたときから、すでに覚悟を決めている。
「――あーあ……わたしのこと、生け捕りにしなきゃいけなかったのにね」
その声は震えていて、威厳もへったくれもない、ただの負け犬の遠吠えとも呼べるような情けない声だった。音量だってとても小さい。けれど、不思議と彼女の声はいま、マリンフォード頂上戦争に集まったすべての人々に――海賊も海兵も関係なく、まるで頭に直接届けるかのように明瞭に届いていた。
「ざんねんでした。わたし……わたしは」
穿たれた胸はポッカリと穴が空いて、向こうの景色が透けて見える。どうやったとしても生存は絶望的だ。
するりとエースの腕から抜け出した少女は、地面から数センチほど浮かび上がり、眼前に立ちこちらを睨む男を見据える。
死の間際だというのに、ひどく落ち着いた目をしていた。何もかもを見透かしたようなまっすぐな瞳。ただひとつ、いつもの少女と異なるところがあるとするのならば、それは。
「わたし、は、しらないだれかのための癒し手になんて、ならない」
焦げ茶の瞳に、鮮烈な花が浮き出ている。
そして彼女の額には、瞳と同じ花――五枚の花弁を象った薄紅色の紋様が浮かんでいた。
#名前#が力を使うたび薄く浮かんでいたそれはいま、遠目から見てもわかるほどにはっきりと色づいている。
その形は、かつてドラム王国で見た雪に咲くあの花とよく似ていて――
「“わたしのすべてを、母なるところへ還します”」
少女の身体が淡い光に包まれる。
「あ……」
その場に居る全員が、それを本能的に感じていた。
大いなる力が蠢くところを、今、この場にいる人間は目撃していた。それは本来ありえないことだ。
知っているとすれば、それはきっとありもしない寝物語。
悪魔の実と同程度の、否、それ以上に荒唐無稽なおとぎ話の存在。
――そう思っていたものが、唐突に目の前に現れたとしたら。
「――#名前#?」
エースを呆然と呟くルフィに、彼女は微笑む。
ルフィの言葉に返事を返すことはなく、額に花の文様を浮かべる彼女は彼に抱きかかえられている青年にそっと触れる。
「……お嬢、ちゃん」
声を発することすら苦痛に違いないのに、それでも彼は顔を上げ少女を見つめる。少女と同じく胸を穿たれたエースも、本来ならもう命の火が潰えていてもおかしくない。しかし少女の肉体が文字通りの『肉壁』になったことで、サカズキから与えられる灼熱のダメージを、ほんのすこし緩和させたのだ。
――大丈夫だよ。
彼女はそう言わんばかりに目を細め、こくりとうなずく。彼女はエースをやさしく抱きしめ、耳元でなにかをささやく。
瞠目する彼から離れた彼女は、出血の止まらない胸の傷に白魚のような手を被せる。
「“わたしの火を捧げ、彼岸に向かうかの者の火を此岸へ留めることをお許しください”」
「“わたしから融け出た蝋は、すべてあなたのもの”」
ですからどうか――どうか、お頼み申し上げます。
『彼女』の肉体は、もう表情すら見えない状態にまで光っていた。
どうか、わたしたちの船長の家族の命を、もういちど。
わたしのすべてと引き換えにして、どうか。
誰にも聞かれることのなかった呟きに呼応するように、目を潰すかのような閃光が戦場を覆い尽くした。
◆
「エースの、胸の、傷が――」
「――行ぐな、#名前#!!」
淡い光に包まれた#名前#の体が、花びらとなって宙に溶けていく。
微笑む〈癒し手〉はルフィの言葉に応えることはなく、何かを掲げるように両手を天にかざす。
〈――――〉
口は動いているのに、声はまるで聞こえない。
けれど、彼女が「何」をしたのかはすぐにわかった。
「体が、あたたかい……?」「傷が塞がって――」「なんだこれは!?」「まさか、あの嬢ちゃん――海賊にも海軍にも、両方に……」「あれが〈癒やし手〉の力……!」
「――#名前#!!」
名前はルフィとエースを背にかばった状態で赤犬と対峙していた。
瞳は既に花の色を失い、顔は白を通り越して青い。穿たれた胸からは血が流れ落ち続け、地面に血溜まりを作り上げている。身につけていた白い衣服は赤黒く、大輪の花のように広範囲に汚れてしまっている。
「……あなたに、なんて、つかまって、やらない」
小刻みに震える手でサカズキを指差し、か細い声で絞り出した言葉。
「小娘がァ――」
「やめろ――やめろォ!!」
赤犬は額に青筋を浮かべ、マグマの拳を衝動的に穿つ。名前の背後で、ルフィが絶叫する。
「――させん!」
「ジンベエ!!」
一撃を身を挺して受け止めたのはジンベエ。
「これ以上は――手出しはさせぬ!」
けれど。
名前にとって、緩和されたとしても衝撃波はとどめだった。
胸に大きな穴を開けた少女は――花びらとなって、散っていった。
◆
――ね、ルフィ。
「どうした? #名前#」
――わたしを海に連れ出してくれて、ありがとう。
あれはまだ、麦わらの一味に加わって間もない日のこと。
毎日が新鮮で、驚きと楽しさに溢れていて。どこまでも無垢だった少女が自分を仲間に入れてくれた船長にそう告げたとき。
麦わら帽子のよく似合う少年は一瞬きょとんとした表情を見せて。
「にしし! おう、どういたしまして!」
そう、太陽のように、ニカッと笑顔を見せながら応えた。
――ああ、じゅうぶんだ
最期に思い出すことが、これでよかった。
肉体が崩れるのとともに思考が融けていくのを感じながら、少女はこれまでの旅路に想いを馳せる。
(海に出てから、ずっとずっと、毎日が驚きに満ち溢れていた)
悪魔の実を食べてゴム人間になった船長。
お酒が好きで、ちょっとだけ迷子になりやすい三刀流の剣士。
足技が得意で、女の子にとっても優しいコック。
青っ鼻がチャーミングな、頼れる船医のトナカイさん。
みかん色の髪が綺麗な、したたかで頼れるみんなの航海士。
長いお鼻に、飛び抜けた集中力を持っている狙撃手。
花のように数多の『手』を使って戦う考古学者。
体中を改造している、頼りになって面白い船大工。
一番歳上なのにおちゃめな、世にも不思議な骸骨姿の演奏家。
そんな驚きに満ち溢れた人たちの『仲間』として、ここまで来ることができたのだから。
(――ねえパパ。わたし、パパの言った言葉の意味がわかったよ)
最期の別れになると知っていてなお送り出してくれた父親。
再び彼に会うとき、そこにいる少女は『彼女』とは違うけれど、きっと彼は暖かく迎え入れてくれるだろう。
彼もまた、少女と同じところより生まれ出た同胞なのだから。
だから、怖いことなどなにもない。
むしろ、誇らしい気持ちのほうが『彼女』の胸を満たした。
(ずっと、守ってもらってばかりだったから――今度はわたしが守ってあげるんだ)
――ああ、でも。
そうだ、と思い出したことがある。
(いちか、ばちか)
届くかな――届くと良いな。
そんなことを考えながら、名前はこちらを見つめる船長に、言の葉を届ける。
果たして。その声が本当に届いたのか、彼女に確かめる術はもうない。
此処まで連れてきてくれた船長のお姉さんにもお礼を言いたかったのに、それを言う猶予ももうない。泣きながら抱きしめて、恨んでくれていいとまで言った優しいお姉さん。
弟を身を挺して庇った彼の兄のように、ああ、このきょうだいは、兄も姉も、とっても愛情深いひとなのだと。だからわたしたちの船長はこんなに優しくってぽかぽかした人なのだと納得できた。
――どうか、ひとりでもおおく、いきのびることができますように。
完全に消える刹那、花弁となった少女の目は、空を見ていた。
どこまでも続く蒼穹に、なぜだか涙が出そうだった。
◆
マリンフォードで起きた頂上戦争の終盤で起きたそれを、うまく説明できる人間はきっとどこにもいないだろう。
彼らはどこまでもただの人で――奇跡を目撃した、群衆に過ぎない。
けれど、ただひとつ、わかっていることは。
――あの日、麦わらの一味の〈癒し手〉は、花となって散ったということだけ。
◆
名前をマリンフォードまで連れてきたのは、ルフィの姉だ。
「姉さんを恨んでくれていい」
「もう顔も見たくないと言われてもいい。殴って、罵られる覚悟もできてる」
それでも。
長い前髪をかきあげ、泣きはらした顔を隠しもせず女は言った。
「――それでも、弟たちを死なせたくなかった」
「ゔゔ、ゔ、ううううう――!!」
殴られる覚悟はあった。きっとただではすまないけれど、それで愛する弟が少しでも気が晴れるならそれでよかった。
「ごめ゛ん゛、ねえ゛ぢゃん、ごめ゛ん゛!!」
弟は姉を殴らなかった。「ごめん」と、ただ泣いて抱きしめた。
エースとルフィが海賊となり、賞金首となってしまったいま、祖父であるガープの希望は『探検者』と自身を称するようになった孫娘ひとりだけだったはずだ。
名前は海兵になれるほど強くはなく、海賊になれるほど、身内への情を投げ出せなかった。
自身の出生はもう知っている。革命家モンキー・D・ドラゴンの娘。ルフィの実の姉であるということは、つまりそういうことだ。だから祖父は、執拗に孫たちを海兵に育てようとした。
とはいえ、ガープにちょっと雑に扱われた程度で肩を脱臼してしまった孫娘は早々にその教育からは離脱させられてしまったけれど。
探検者として旅をするうち、拠点を増やすうちに、名前は強くなった。肉体的にも精神的にも。過程でふたつある臓器のいくつかを提供して、協力者もできた。必死にできることを探して、探して、探して――痛感する。
どこまでもなまえは無力だった。己の無力さを痛感するばかりの日々だった。
弟たちの前だから必死に自分を奮い立たせるようさまざまな言葉で象ってみせたけど、救えないもののほうが大きすぎて、世界の理不尽に立ち向かえない無力さが呪わしくて、なにもかも壊れてしまえと願いながら、家族が無事であるように祈ることしかできなかった。
弟たちの手配書を大切に仕舞いながら、どうか捕まってくれるなと祈った。「知識」がある彼女には、それが無駄だとわかっていたのに。
■
その少年は、どこかで見たことのあるような面立ちをしていた。真っ白な肌と闇夜のような黒髪、それから鋭さのある鳶色の瞳。背丈は小柄だが、しかし佇まいにはどこか高貴さを感じる。フリルスタンドカラーのシャツ、立て襟のコート、スンとお澄まし顔が様になっている、海軍の一部でちょっとだけ有名な「海賊狩り」である。
とはいえ。その内情といえば、生き別れた両親を探すべく、時代の荒波に精神が荒み海賊となってしまった人を主にこれ以上外道にさせないよう徹底的に屈服させたうえ精神的にケアをして飯まで作ってやり人生相談しながら受け渡すという厚遇っぷり。本人は「本物のクズにはここまでしない」「身柄と引き換えにカネを稼いでいるのだからそのぶんくらいは」と
「娘だ」
ジュラキュール・ミホークは、顔色を変えることなく答えた。
刹那、その場の空気が凍る。
「「――娘ェ!?」」
近くに居た誰も彼もが少年――否、少女と男を見比べる。
「おかしいだろ! ファクトはそんなこと一言も言ってなかったぞ!」
「知らなかったからだろう。娘と最後の会ったのがあれが二歳の頃だ」
「ぼくが母と生き別れたのは十年以上前です。父親の存在は知っていましたが……」言葉を濁しながら、ファクトは横目で「父親」を見上げた。
「……さすがに、七武海が父とは新手のジョークかと」
苦虫を噛み潰したような声色に、思わず「ああ……」と一気に同情めいた空気が漂う。
いやあ、まあ、たしかに。誰だって七武海が父親なんて言われても信じないよなあ。でもよく見たら顔は似てるぞ、特に目元。ふざけんなファクトくんちゃんは鷹の目なんかと似ても似つかねえプリティな顔だろうが!おい待てなんかおかしいのいるぞ。
「火拳のエース、癒し手の娘は、麦わらの目の前で死んだ」
「――!!」
「その件で、お前に客だ」
「は……」
「麦わらの一味のゾロさんですね」
「お前は」
「僕はファクト。あなたの船長の姉君の船で、操舵手の真似事をしています」
そして、と少女は懐から一通の封筒を取り出した。
「これは、あなたがたへ宛てた、癒やし手のお嬢さんからの手紙です。バーソロミュー・くまに飛ばされた彼女と出会い、彼女の要望を受け、マリンフォードまで連れて行ったのは、我々です」
麦わらのみんなへ
これを読んでいるということは、きっとファクトちゃんに預けた手紙が届いたということでしょう。
そして、わたしはルフィを守りきれたということでしょう。そう願っています。
私はこれから、ルフィとお兄さんを助けに、ルフィのお姉ちゃんの手を借りてマリンフォードへ乗り込むことにしました。パパも合流してそばまで送ってくれるので、きっと潜り込むのは問題がないはずです。
みんなと合流できない今、私は自分で考え、麦わらの一味のクルーとして、船長を助けに行くことを決めました。
私は逃げるのが得意だし、海軍も私を殺せないはずですから。
きっとみんな、とても心配してくれると思います。
わたしはゾロのように強くないし、サンジくんのようにお料理は得意じゃないし、ナミのように航海術に長けていないし、ロビンのように歴史に詳しくないし、チョッパーのような医療はできないし、ウソップのように勇敢ではないし、フランキーのように鋼の体でもなく、ブルックのように音楽が得意でもない。
でも、わたしも麦わらの一味だから、やるときはやるって決めました。
絶対に、ルフィとお兄さんを助けます。私のすべてを懸けて。
だからどうか、信じて待っててください。
そしてもし――もし、また会えたのなら、
「あいつ……バカ野郎がっ……!」
「ですが、きっとあなた方も同じ立場ならそうなさったでしょう」
ぐしゃりと手紙を握りしめ、呻くようにゾロは呟く。固く握られた手を両手で包み、そっと解しながらファクトが応えた。
「癒やし手のお嬢さんのことは、今この鷹の目が言ったとおりです」
ですが、
「ここからが本題です」
背後の男と似た目をした娘は、ゾロをまっすぐ見つめながら口を開いた。
■
「こんにちは、麦わらの一味のみんな」
フードを下ろし、現れた顔。見覚えのある――中性的な美形のものに、
「ほら、ご挨拶を」
「ん……」
男の背後から、そうっと様子を窺うようにして顔を見せる少女。その面立ちは、ずっと待ち望んでいた「彼女」と瓜二つで。
仲間宛てに届けられた手紙の、最後の一節が脳裏によぎる。
”そしてもし――もし、また会えたのなら、そのときはまた、みんなと旅をしたいです。”
「約束、果たしてくれるかい」
「――当たり前だ!」
勢いよく飛び出したルフィの腕が、少女を掴んで一気に引き寄せる。「きゃっ!」と小さく悲鳴を上げながら、目を瞬かせた少女は、ルフィを見つめる。
ひどく困惑した様子で、不思議そうに首を傾げ、少女が呟く。
「わたし、あなたを知ってる」
「しししっ! 当たり前だろ、仲間なんだから!」