鷹の目の子
襟首と袖にフリルがあしらわれたシャツと、その上には深紅色のベストに足首まで隠れるほどの黒の外套。胸元には外套と同じ黒のジャボが付けられている。
いつも真っ直ぐに伸びる背筋、それを強調するかのような少しだけ踵の高いブーツ。短めの濡羽色の髪が風に靡き、白磁の肌にアプリコットの瞳。表情は無機質な人形のように冷たく、鋭さを感じる形をしている目元やけぶるような睫毛が、より一層神秘性を掻き立てた。
「……」
薄く色づく唇が震える。躊躇うようにしつつも、耐えきれず向けた視線。その先には男がひとり立っている。
人知れず、唾を飲み込む。身体がひどく重く感じる。腹部がキリキリと軋むような感覚。今を逃せば、次にいつ相まみえることができるだろう。冷たくなっている手を握りしめる。ハア、と浅く息を吐く。
「……さ」
声は掠れていた。胸に宿るのは己に向けた落胆のみ。唇を小さく噛む。一度唾を飲み込めば、あとはもう「いつも通り」だ。
「失礼、海兵さん」
くるりと踵を返し、何事も無かったかのように近くにいた海兵に声をかける。無機質な顔ににこりと笑みを携えて、要件を話した。
「指名手配犯の捕縛をしたので換金をしたいのですが、よろしいですか?」
「……あ、は、はい! 少々お待ちください!」
声をかけられて惚けた顔を見せた若い海兵は、正気に戻るとすぐさま頷き、施設内に駆けて行く。
彼が驚いた理由はふたつ。
ひとつは、声をかけてきた相手が最近名の知れた「海賊狩り」であったこと。
もうひとつは、紡がれた声が透きとおる硝子のような繊細さを孕んだ、乙女のそれだったからだ。
■
「わたしたちの輝く一等星……かわいい子」
どうか生き延びてね。そう呟きながら幼い子に口づけをする女の姿。それが少女が最後に母親を見た記憶だ。
不本意な形で母親と生き別れて約十年。突如として世界へ放り出されてしまった子供は、かろうじて生を繋ぎ生き延びていた。
別離の際に持たされたビブルカードはまだ失われておらず、母親がどこかの空の下で生きているということだけはわかっている。母に叩き込まれたサバイバル技術や自身が生きることに特化していたこともあり、人間屋にでもすぐさま売り飛ばされてしまいそうな華奢な子供は、見た目に反し図太く生きている。
名はファクト。母方の一族の慣例に従い、自分で決めて自分でつけた名である。とはいえ、母方の親族には会ったこともないのだが。
(今日の海賊はそこそこ金になったな)
海軍施設で監禁を終えたファクトは、カフェで優雅にブランチを楽しんでいた。
ずっしりとした重みの貨幣は作り込んだ鞄の奥底にしまい込んである。少々手間はかかったが、かけた時間に対しメリットのあるリターンが返ってきたからよしとしよう。
オレンジジュースをひとくち飲み、ちまちまサンドイッチを食べ進める。
「新しい船、買おうかな……」
ぽつりとつぶやく声はカフェの賑わいに溶けて消えた。
ファクトは今、海賊狩りを生業にしていた。
夜空に輝く星のひとつを名と定めた少女は、生きていくために男装するようになった。
世は大海賊時代、毎日どこかの海で髑髏を掲げた船が出立し、どこかで罪のない人々が蹂躙される世紀末。海賊だけではなく、民衆や弱者を守る立場のものが悪事に手を染めることもある地獄のような世界である。
そんな世界に突然放り出された小娘がひとり生きていくためにはどうしたらいいか。答えは簡単だ。『舐められないように力をつける』、これに尽きる。
圧倒的武力の前に人は無力。それも、「悪魔の実」というものが存在する世界ならなおのこと。
親のいない幼い子供など、人攫いやならず者たちにとっては格好の的である。女子供などどんな目に遭うかわかったものではない。
一年目、できるかぎり遠くの島へ逃げた。
サバイバル技術を仕込まれていたことが幸いし、なんとか暮らしていた島を離れ、流れに身を任せてできる限り遠くをめざした。母親と生き別れたのは穏やかな初夏の夜明けだったのに、季節はいつの間にか銀世界へと変わり、吐く息は白く肺が凍るような冷たさを帯びていた。
道中、手先の小器用さで短期雇用を勝ち取ってはちまちま食いつなぎ、稼いだ小金で船を乗り継ぐ。そうやって人気のない山奥にたどり着いた少女は、そこを根城に決めた。
母親と生き別れたわけだが、幸いなことに生きていくために必要なものは母が用立てしてくれていた。野営に必要なサバイバル用品、小さく結ばれたいくつもの貨幣の束、ビブルカードが二枚。困った時に見るようにと言われた使い込まれた手帳、母とお揃いのロケットペンダントと、父親が与えたという十字の意匠のネックレス。
父親のことは知らない。ただ、とても強いひとだと、娘に父親について尋ねられた母は決まってそう語っていた。
生き別れることになったときも、母は「お父さんのもとへ行くのよ」と言ってファクトを逃がした。その瞳に嘘偽りがないことは娘であるファクトがいちばん知っている。
まずは生きていくために稼ぐ方法を見つける。
そして用意ができたら、父親を探しに行こう。その先に、母もきっといるはずだ。
そう幼心に決意を固め、始まったサバイバル生活。
まず最初に、ファクトはそれまで伸ばしていた髪を切り落とし、男として振る舞うようになった。
もともと、全体的に線が細く凹凸の少ない姿は“女”と呼ぶには色気が薄く、潔癖感が強い。加え、髪も短くなってしまえば、顔立ちも相まって幼い少年のように見える。切り落とした髪は質に持って行って換金した、有効活用である。
服は古着屋で良さそうなものを見つけては安く買い、自分で仕立ててそれなりに見れる格好をするようになった。一人称を「わたし」から「ぼく」に変えれば、変声期前の男児とそう変わらない。
鼻腔をくすぐる香りは男物の香水が浅く漂っている。その身を包む衣類を脱がしたのならば、身体がハッキリと乙女のそれだと分かるのだろうが、現状、彼女を彼女であると知る者はとても少なかった。そも、本人も積極的にそれを口にすることはなかったのも大きい。
「……母は」
数秒の間を置いて、少女は諦めた声で答えた。
「ふたりで住んでいた街の貴族に見初められてしまって」
「……嫁がされたのか?」
「いいえ」
ゾロの問いに、娘はゆるゆると首を振り、
「……己の死体を偽装して住んでいた家を炎上させたあと、いまはどこにいるのかわからないです」
と。
懊悩を滲ませた声で答えたのである。
世界一の大剣豪である父親、その伴侶たる母親。そんなふたりの子どもとして生まれた娘は、その見た目と違い、たいへん良識的だった。
「……苦労してんな」
「元気出せ、ココア飲むか?」
「……ありがたく」
ゾロとペローナの憐れむような瞳に、娘は諦めの滲み出る表情で、静かにうなずいた。
■
「確かに、わたしは父のような剣技の才は持ち合わせていません」
しかし、と少女は口角をグッと引き上げる。
「……こう見えて、運転は得意です」
言葉と共に、ヴォンとエンジンがかかる。
ドドドドと小刻みな振動を感じながら、少女は常日頃の不安げな表情を消し、不敵にわらった。
「皆、誤解してるんだけどね」
ファクトは華奢な見目の少女だ。世界一の大剣豪である父を持ちながら、少女は剣を握ることができなかった。手に豆を作り生皮が剥け母に泣いて止められるまでに必死に努力と研鑽を積み重ねたが、しかし神は彼女に剣の才能を与えてはくれなかった。人生における唯一無二の挫折である。
だが、それすなわち、「才能がない」ということではないのだ。
ファクトは父親の件もあり自己肯定感がとても低く気づいていないが、周囲の人間はちゃんと知っている。
「あの子は『剣技に関する才能だけがない』んだよ」
類稀なドライビングテクニック、多彩な器用さと発想の柔軟性、母と生き別れ、十年以上をひとり生きてきた娘である。この大海賊時代、たったひとりで賞金稼ぎにまでなってみせた、それが「普通」であるわけがないのに。
「つまり、剣技以外のことなら、基本的になんでも熟練以上のことができる」
剣以外の武器なら、どのようなものでも容易く使いこなせる才能、幼子ひとりでも生き抜く才能、他者の本質を見極める才能――