前日譚


それは気まぐれに近いものだった。
夜の帳が落ちた頃、ふらりと帰った住まいの近くに、それはあった。
まるで大きなクマみたい。最初に感じた印象はそんなもので。警戒心もなく、わたしはそれを持ち帰ることにした。

「ねぇ、あなた。生きている?」
「……あぁ」

ぐったりとしながらも鋭い目でこちらを見るクマに笑いかければ、「変な女だ」なんて言って、そのまま静かになった。
屈んで様子を伺うと、なるほど、怪我をしていたらしい。ほんのりと鼻に香る錆びた匂いが、それが血なのだと訴える。
これはいけない。失血死されても困る。なんせ住まいの近くなので、お巡りさんになにか訊かれたら一番怪しくなるのはわたしだ。
そう思ったわたしは、さっさとクマを家に連れて入った。

それが最初。始まりのはじまり――わたしとクマの、別れへ向かう始まりだった。


珍しく負傷した仕事だった。内容自体は大したものでは無かったが、与えられた傷が思ったよりも深く、出血が想定よりも多かった。
行き倒れるようにどこかのブロック塀に背中を預けて座り込み、まあこんな死に方しかできないかなんて思いながら目を閉じかけ――どこからともなく聞こえた声に適当に返事をして、意識は真っ暗になった。

「……死に損なったか」

目を開けると知らない天井があった。それほど大きくない、アパートのような一室に居るのだと気づく。
伏黒甚爾は、自分が誰かに助けられたのだと理解した。そしてそれが、気を失う前に現れた女なのだということも、うっすらと理解していた。。

「……あら、起きたの? おはよう」

どこか懐かしいようなシャボンの香りが鼻をくすぐる。
それと同時に聞こえてきた女の声は、意識が途絶える前に聞こえたものと同じものだった。

「アンタが治したのか?」
「うん? ああ、傷? うん、そうだねぇ」
「呪術師か?」
「じゅ……? いいえ、わたし、そんなにオカルトなものへ傾倒してはいないわ」
「そうかい」
「それよりも、あなた」

お腹は空いている? そう訊ねられて、思わず「は?」と思ってしまったのは仕方の無いことだろう。そう思った甚爾の心とは裏腹に、生存本能からか腹が空腹だと音を立てて訴える。
食べられそうだね、と小さく笑った女は、立ち上がり台所へと向かっていく。その背中は、手からこぼれたいつかのそれを彷彿とさせた。

藤永と名乗った女は、一度も染めたことのないであろう艶やかな黒髪の、まだ幼さの残る女だった。年齢はおそらく二十代前半か、と頭の中で目星をつける。
なんで助けたと訊いてみたものの、本人はのほほんとした様子で「クマみたいだったから」だと訳の分からない返答をしながらお茶を飲んだ。

「仕事終わりに歩いていたら、あなたが行き倒れててね。クマみたいと思って、拾ったの。まだ息があったし、なおせばいいかと思って」
「クマねぇ」

たしかに目の前の女と比べれば自分はクマのように見えるだろう。しかしそれを平然と拾って持ち帰るあたり、女のネジは何本か外れているらしい。

「あ、おかわりいる?」
「……おー、もらう」
「はあい」

茶碗を受け取り立ち上がった背を見る。脆そうな身体だ。部屋の中を見渡すと、生活感は薄く、女の部屋にしては殺風景だ。

「どうぞ」

にこにこと笑みを浮かべた女から茶碗を受け取り、甚爾は食事を再開させた。



「へぇ、これ、反転術式っていうの」

初めて知ったと女が笑う。近くに呪術師は居なかったのかと問えば、女は自分の身の上を簡単に甚爾に話して聞かせた。

「わたし、地方に住んでいてね。田舎だったの。これがあったから、あんまり、家族と話を合わせられなくて……おかあさんをなおして、すぐ家を出て、それっきり」

昔から六感が優れていたこともあって、上京してからは夜の仕事で相談屋のようなことをしながら暮らしているのだという。
ホステスと何が違うのかと問えば、そのホステスのメンタルケアもしていると女は教えてくれた。なるほど、ととりあえず頷いておいた。

「だからおっきな企業の社長さんとか、官僚のひとの話もたまに聞くかな。まあ、大半は愚痴みたいなものだけど」
「なら相当稼いでんだろ。なんでこんなアパートに住んでんだよ」
「貯金。自営業だからね、あって損はないもの」

お客に税務関連の人間も居るらしく、節税はバッチリだよなんてのんきに笑う。


「あなたの大切な人は、あなたとお子さんに幸せに生きて欲しかったからそう言ったんでしょう……それを、あなたもわかっていたでしょう」

ひどく辛そうな顔をしていた。怒りよりも悲しみの方が強そうな、苦しそうな顔だった。
女は甚爾に白い封筒を持たせて、そして淡々と言う。

「これで、お子さんと美味しいものでも食べて。あなたは、約束を守らなきゃだめだ」
「お前は」
「わたしは一緒に行かないし、もう会わない。さよならだよ、甚爾くん」

幸せになりなさい、と彼女は言う。

「奥さんが願ったように、あなたとあなたの愛した人との間に生まれた大切な命が、幸せであるよう、わたしも願ってる」

手を引かれて外に出る。慈しむように甚爾の頬を撫でた女は、出逢った頃のように微笑んで、そして。

「さようなら、クマさん」

胸に引っかき傷をひとつ残して、人混みの中へと消えていった。

封筒の中身は分厚い札束がみっちり詰められていた。数百万はあろうその金を、女は躊躇いもなく甚爾に渡した。
おそらくは――女はこの別れを最初から分かっていたのかもしれない


「……よう、時雨」
「おう。お前に頼まれた相手、調べたぞ」

手渡された封筒を開けて中身を確かめる。
写されていたのは、記憶にある姿とほぼ変わらない女と、女に抱きかかえられた、顔がよく似た小さな子供の姿だ。

「しかしお前、よりによってその女に手を出したのか?」
「あ?」
「ここいらの界隈じゃ有名だよ。先見をする占い師。この女に大丈夫だと言われた仕事は必ず成功するってな。ま、何年か前に休業してからは不定期でしか営業してねえらしいが」
「へぇ。アイツ、そんなすごい女だったのか」

記憶の中にあるのはのんきに笑う女の顔だけだ。ついぞ見ることのなかった一面に思わず笑ってしまう。

「こいつ――多分、オレの子だな」
「……は?」



「あー、やめだやめ。やってられっかこんなモン」

「オレのガキが売られる。好きにしろ」

「それから」
「先見の占い師の女の子供――注視しとくと良いんじゃねえの」

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