視えない事務員
都立呪術高専には呪力のない事務員が一人在籍している。
夜蛾学長がある日保護して連れてきた彼女は現在事務方のエースとして重宝されており、世話になる呪術師は絶えることはない。
外部と呪術師の調整を主に行う事務員――その「補佐」であるがゆえに、彼女は表に出ることはほとんどない裏方仕事を担当している。その手捌きは熟練の職人であり、もはや年度末は彼女なしでは乗り切れないと語る人間は多い。
事実、彼女のお陰で鬼忙しい年度末に補助監督が定時で上がれる日があるほどだ。あとはお察しである。
「終わらない……イヤ……ナンデ……ナンデェ……」
「ヒン……また五条さんの書類が溜まってるゥ……」
「助けて……タスケテ……」
控えめに言って地獄。
混沌と化す事務室に報告書を届けに来た高専生たちは、その惨憺たる有様に頬を引き攣らせた。
「まーた悟のバカが提出してねーのか」
「これ毎回やってる気がするんだよなぁ」
「しゃけしゃけ」
「え、これ、毎回……?」
「ああ、憂太は来るの初めてだったか」
慣れた様子の級友たちに乙骨は頬を引き攣らせる。なんやかんや直接報告書を届けに来ることはこれまでなかったため、まさかこんな地獄絵図が広がっているとは思ってもみなかったのだ。
「あらあら、お待たせしてごめんなさい」
「いーよ。#名前#さんもおつかれ」
「明太子」
「おっ、ちょうどいいとこに。憂太、この人事務員の#名前#ちゃんな、ウチで唯一のガチ一般人」
術式も無ければ呪力も無いというパンダの説明に乙骨はギョッとする。#名前#と呼ばれた女性は乙骨のような被呪者というわけでもない、本当に一般人――非術師なのだという。
スーツに身を包んだ、まだ歳若そうな女性が優しく微笑んだ。
「こんにちは、あなたが乙骨くんだね。私は事務員……の補佐の、みょうじ#名前#です。どうぞよろしくね」
「あっ、乙骨憂太です……よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げた乙骨に朗らかに笑いかける姿は力が抜ける。慈しむような目が、少しくすぐったかった。
「私は主に補助監督の皆さんの事務作業……報告書をまとめています。もし報告書を書いていて分からないことがあったら、気軽に聞いてね。できる限りサポートするので」
「報告書は#名前#さんに訊いときゃだいたい何とかなる。高専の常識な」
「#名前#ちゃん、また悟がなんかやってんのか?」
「ええ。多忙だと理解はしてるんだけど、不備があったから訊きにいったら理不尽にキレられるのは困るよねえ」
「えっ、#名前#ちゃんにもキレんの?」
「私はその程度スルーするっていうか、単純に質問しかしないから」
「なるほど会話放棄。賢明だ」
「明太マヨ」
「そ、それってアリなの……?」
「理不尽の権化相手にわざわざ対話する必要なんざねぇってことだよ。特に悟のバカは特にな」
「五条先生……」
慣れた様子で話すあたり、これが日常茶飯事なのだと言外に伝えられる。恩師とはいえ、さすがにそれは……と乙骨も引き気味だ。
「ツミちゃん先輩!」
「#名前#ッ、無事!?」
濡羽色のロングヘアを靡かせ、ボルドーのキャットラインがよく映える女性が勢いよく#名前#に抱きついた。パンツスーツ姿の彼女は、これでもかと情熱的に#名前#を抱きしめる。ムギュムギュと熱い抱擁に「ぐえ」とカエルを潰したような声が#名前#から漏れ出た。
「ツミちゃん先輩……土御門先輩は、私のバイト時代の先輩で、すごくお世話になった人で」
「もーっ、#名前#ちゃんが高専に就職したって聞いて心配で心配で! 私は呪術師とは相性悪いから積極的に関わりたくないし、そもそも呪術界反吐が出るくらい嫌いだからさ〜! やっぱウチに転職しなよォ、ウチなら今よりもっと休み取れるよホワイトだよ〜」
「ツミちゃん先輩、家業から離れるために一人暮らしなさってたんですけど、色々あって大学卒業後に本格的に戻ったんです」
「かわゆい後輩がゲスの食い物にされたらと思うとパンピなんてやってらんねーべ!」
あ、なるほど。五条は納得した。
目の前の女性の名字である『土御門』――どこの末裔かは分からないが、もしそれが安倍の家系であれば呪術界と相性が悪いのも納得である。ともあれ、呪術界に就職してしまったバイトの後輩を気にして離れた家業に出戻るあたり、根の善性は確かなものであり、呪術界とは相性が悪いだろう。
名字#名前#は東京都立呪術高専で事務員として働く唯一の一般人である。
そんな彼女の左の薬指には、シンプルな銀の指輪がいつでも存在を主張している。
「#名前#さんのタイプは?」
「わたし? んー……旦那さんかな」
照れる様子もなくさらりと答えた#名前#にお年頃な生徒たちが瞳を輝かせた。わらわらと近寄ってきた生徒たちが#名前#を囲む。
「なんだっけ、#名前#さんの旦那、音楽関係の仕事してんだったよな?」
「マジ!? #名前#さん、業界人の奥さんなの!?」
「いや、そんな大層なものでは。音楽関係――あー、長いことサポートメンバー? やってて、最近その一つのバンドの正式なメンバーになったって言ってたかな」
そういえば、と言った真希に野薔薇が食いつく。
音楽業界に詳しくない#名前#は苦笑しつつ、ブックマークをしてあるページを開き、これだよ、と画面を見せる。差し出されたスマホには、どこかのレコード会社のホームページ――所属バンドのページが映し出されていた。
「ブ……あっ、この人知ってる、前雑誌かなんかで見た!」
「#名前#さんの旦那さんは……釘崎! この人指輪してる!」
「なんですって!? ホント、指輪してるわね……#名前#さんと同じ左手……ってことは!」
「そう。その人、私の旦那さん」
歓声を上げながら釘崎と虎杖が手を取り合って飛び跳ねる。
微笑ましく思っていると、スマホはいつの間にか手を離れ、他の生徒たちの元へ渡っていた。
(そういえば、ちゃんと教えてなかったっけ)
なんやかんや、可愛がっている生徒の皆にも夫のことを教えたことは無かったと気づく。
呪術界の恐ろしさをよく知る同僚たちからあまり相手について語らぬよう警告を受けていたこともあって、#名前#は既婚ではあるが日頃それを匂わせるようなことはしないし、そもそも職場では旧姓を使っている。
なので指輪で大抵の人は察するものの、ときにはただのオシャレ、あるいは男避けなのではと勘繰られることも少なくなかった。
#名前#は普通に夫が好きだし、そもそもこんな危ない業界の人と恋愛をする気はさらさらない。後見人を務めてくれている夜蛾学長ともそこは折り合い済みだ。
女性の尊厳――というかそれ以前に基本的人権が守られない界隈など深入りしないに限る。周囲もそれを望んでるようだし、#名前#はあえて無知な一般人を演じていた。
「なんかひょろいな」
「このプロフィールの体重、身長に対して軽すぎない? #名前#のことちゃんと守れるのか心配だなあ」
「しゃけ! 梅ゆかり、ベーコンチーズ!」
「棘は心配しすぎだろ」
「でも気持ちは分かるぞ、棘。だってバンドマンってクズが多いって云うし……」
「しゃけしゃけ!」
深刻そうに言うパンダと狗巻に真希は「はァ?」と顔を顰め、
「ンなもん、#名前#さんに乱暴働いたら私らで締めればいいんだよ。つか呪術師よりはよっぽどマシ」
「否定できない」
「しゃけぇ……」
頼りになるのは真希、はっきりわかんだね。二年生たちの会話を聞いた一年生組は顔を見合せ、そして#名前#に詰め寄った。
「#名前#さんほんとに大丈夫なん? 何かあったら俺、すぐ助けに行くからさ」
「ありがとう悠仁くん」
「何かあったらすぐ相談してくださいね!」
「俺らで力になれることがあればなりますから」
「野薔薇ちゃんも恵くんもありがとう。困ったことがあったら、そのときは相談するね」
「そういえば、うちの奥さんに肩とか払ってもらうとなんか体が軽くなるんだよね」
そう言ったユキに、ソータは「マッサージが上手いってこと?」と首を傾げる。
「いや、普通にこう、ホコリ付いてるよ〜ってパッパッと払うだけ。だけどすごい体が軽くなったように感じるんだよね」
「それって、単にユキがお嫁さんから触ってくれて嬉しいからじゃない?」と、笑ってヨシュアが言う。
ユキが妻を大層愛しているのはよく知った話だ。まだブレチャのサポートメンバーだった頃から話題に度々出てきた女性のことを、メンバーは今では家族並に知っている。
ほとんど会ったことのない謎めいた存在ではあるが、彼女の話をする時のユキの幸せそうな顔で、良い人なのだろうということは分かっていた。
「あ、そうだ。今夜、ウチでご飯食べない? 俺のお嫁さんも居るよ」
「えっ、奥さん帰ってきたの?」
ヨシュアの言葉にうんと頷く。ユキの妻は事務員だが、繁忙期は学生寮に泊まり込むことも少なくない。マイナーな業界らしく、万年人手不足の中、少数精鋭の事務方で必死に書類を片付けていた。
そしてつい最近まで召集された彼の妻も、数日ほど泊まり込む日々を送っていたのだ。
「繁忙期が一段落ついたらしくてさ。それで昨日、お土産にって上司に貰ったお肉持ち帰ってきたんだけど、二人じゃ持て余すから良かったらと思って」
「肉!? お酒もアリ?」
パッと目を輝かせたソータにもちろんと笑う。
「だけど良いのか? 緊張するっていっつも留守にしてたろ」
マツの言葉に、たしかにとソータやヨシュアは顔を見合せる。
ユキの妻はたびたび家に来るバンドメンバーに嫌な顔一つせず、いつも夕飯の下ごしらえをして、メンバーが着く頃には外出して不在が多かった。
――というか、彼女自身の多忙も相まって、まともに話したことは数える程しかない。それもほぼ電話越し。数少ない在宅のときも、繁忙期終わりで寝室で爆睡していたのだ。事情を知っているため、わざわざ起こすだなんて非情な真似をできる男はこの中には居ないのだ。
「大丈夫だよ、今回はちゃんと居るから。俺が説得した」
やけに避けるから訊いてみたら、なんか男の子たちの話に邪魔なんじゃないかって思ってたらしくてさぁ、と苦笑するユキ。
それに驚いたのは他の三人だ。
「んなわけ無いじゃん!? むしろ毎回会えるの楽しみにしてんですケド!?」
「ユキのお嫁さん、奥ゆかしい人なんだね」
「たぶん、ちょっと人見知りも入ってるんだろうけどね。マツは俺が結婚する前に会ってるよね」
「あー、飲みの席で一回。でもあの頃、まだユキと付き合ってなかっただろ? って考えると、結構ゴールインまで早かったんだな?」
「俺が頑張ったからね」
ブイサインをしながら微笑むユキに、ブレイブチャイルドの面々はほう、と息を吐いた。完全な惚気である。
「まあ、そういうコトだから、良かったら今夜、どう?」
「俺は喜んで行かせてもらいまーす! お嫁さん、俺とちょっとしか歳変わんないんでしょ? ずっと話してみたかったんだよね!」
「オレも! 今日は特に予定もないから行きたいな!」
「じゃあ俺も。せっかくなら人妻のうまい飯を食いたい」
「わかった。じゃあ連絡しておくよ」
「ただいま」
ユキが奥へ向けて声をかけると、パタパタと足音が近づいてきた。閉ざされていたリビングへ続くドアが開いて、そこからひょっこりと女性が顔を出す。
「おかえりなさーい、あっ、」
「こんにちは、おじゃましま〜す」
「わ、こんにちは。ようこそ! ……ソータさん、で合ってます?」
「合ってます。後ろに居るのがヨシュアとマツ」
ソータに向けていた瞳が残りの二人を見やる。ああ、とどこか納得した様子で呟いた女性は「ようこそいらっしゃいました」と微笑んだ。
聞いた話では、歳はソータとヨシュアのちょうど中間あたりらしい。ユキとは片手ほど離れていることになるのか、という問いにユキはただ微笑んでいた。
バレンタインの話
「ただいまぁ」
よろよろとなんとか辿り着いた自宅にて、#名前#は倒れそうなところをすんでのところで踏ん張っていた。
両手には複数の紙袋。今日の収穫である。
「つかれた……」
紙袋を床に置き、大きく息を吐きながら肩を回す。塵も積もればなんとやら。地味に肩への負担があったので、早めに帰宅出来たのは僥倖だった。パンプスを脱ぎ、#名前#は紙袋を持ってよろよろとリビングへ向かう。
「ユキくーん?」
ドアを開けると、おかえりという声が聞こえた。――複数形で。
「……あら?」
「おかえり、#名前#」
「#名前#ちゃんおかえりー」
「ソータさん。こんにちは、ただいまです」
迎えてくれたのは大好きな夫と、夫の仕事仲間である青年だった。
#名前#は柔らかい笑みを浮かべながら、のっこいしょと手に提げていた紙袋をダイニングテーブルの上へ置いた。これでやっと一息つくことができる。
「なになに? これ、バレンタインのやつ?」
「そうです。職場で同僚からもらったのと……生徒さんたちからも受け取ってたら、結構な量になってしまって」
「#名前#ちゃんモテモテじゃん」
「ソータさんたちもファンの子たちから貰ったんじゃ?」
「それはそうなんだけど、郵送だし、何日かズレることもあるみたいだからさ」
オーバーリアクション気味なソータにくすくす笑って、そういえば、と#名前#は夫の顔を見る。
「今日はソータさんだけなの?」
「マツは後で合流、ヨシュアはカノジョと一緒に過ごすって言ってたよ」
「ヨシュアくんらしいねぇ」
「あーあ、俺も彼女欲しいなー」
「ソータはがっつき過ぎなんじゃない?」
「あんまり理想を追求しすぎると、とんでもない爆弾に当たる可能性ありますからね」
人間ってこわーい。軽やかに言いながら#名前#は紙袋からひとつの小箱を取り出した。
「というわけで、ソータさん」
「えっ?」
「ハッピーバレンタイン……つまりそういうコトです」
はいどうぞ、と手渡された小箱――丁寧にラッピングされている――に、ソータはブワッと顔を高揚させた。
「え、え、俺にくれるの!? やった、ありがと#名前#ちゃん」
「どういたしまして」
「#名前#、俺のは?」
「あとであげる」
夫からの要求をさらりと流した#名前#は、着替えてくると言い残して寝室へと消えた。
取り残されたのは男が二人。かたやご褒美を貰えたソータ、かたやお預けを食らってしまったユキ。
「俺、旦那さんなんだけどなー」
「いいじゃんいいじゃん、きっとアレだよ、オレたちが帰った後にトクベツなチョコくれるって事なんじゃない?」
自分の愛した女の子が色恋事にひどく消極的だと気づいたのは、付き合い始めて間もない頃だ。
まだあどけなさの残る、どこか垢抜けない女の子。けれどその性格は野花のように純朴で、小さな幸せに喜ぶことができ、些細なことにもきちんと感謝を伝える彼女に惹かれたことを後悔したことなどない。
だから求めた――けれど返ってきたのは柔らかな拒絶で、人づてに触りだけ聞いた彼女の脆い部分が、その時ハッキリと輪郭を持って浮き出した。
怯えている。人を愛すことに、特別を作ることに、彼女はひどく怯え、幼子のように泣いているように見えた。
それでも、と諦めることはしなかった。
何度も視線を合わせ、小さな両手を自分のそれで包み込み、大丈夫だと言い聞かせた。満たされない器に水を溜め込むように、繰り返し繰り返し伝えて、やっと彼女は頷いてくれた。
自分には理解できない闇をひた隠しにしている彼女に、ただ寄り添いたいと思った。
抱きしめると柔らかくて、世話焼きだけれど世話を焼かれるのも好きな可愛い女の子。
初めて出会った時はまだ知人のバイトの後輩だったけど、その次会う頃にはいい縁があって社会人になっていた。
うんと顔色も良くなって、ゆるやかに羽化の始まった蛹のようだった女の子。
自由に飛び立つ前にと捕まえたことを後悔することは無いだろう。
そも、付き合うことを承諾した時点で、こちらは逃がす気など微塵も無くなったわけだが。
誰が悪い訳では無い。ただ、人が良すぎただけ。ただそれだけで、家族は離散状態になってしまった。
「……ごめんなさい、だいすき……」
ずっと一緒に居たかった。できればおじいちゃんやおばあちゃんと呼べる歳になるまで。……そのときは、周りに自分たちの子どもが孫が居たらいいなと、ぼんやり考えてしまうくらいに愛していた。
今ではもうそれもただの夢だ。
彼が帰ってこられるかはわからない。けれど念の為、テーブルの上に書き置きを残した。見てくれますようにという気持ち半分、どうかこれを知ることなく避難して、自分を待っていてくれますようにと思う気持ちが半分。
随分欲張りになったものだと嗤う。
幸せは唐突に絶たれるものだと知っていたはずなのに――それでも、永遠を願ってしまった。
「…………さよなら」
彼女はバッグを肩に掛け、誰もいない部屋から出る。
――左の薬指に嵌められた最後の繋がりが、悲しげに煌めいていた。