ばびろん
「ねえ、これやっぱり……」
「あー……うん。そうだね、あたりだ」
「ちょいちょい、お二人さん。あたしにも分かるように頼んます」
絢となまえは顔を見合せた。二人はなにか伝え合うように数秒見つめあった末、わかったよと絢が頷く。
「つまりね、九字院くん」
僕らはこう言いたいわけだ、と彼は少年のような微笑みを携え、写真を指差す。
「この女、全部同一人物だよ」
「……は?」
惚けた声を出した九字院に、兄妹はよく似た曖昧な笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ、文緒くん。大丈夫、私の声だけ聞いて。大丈夫、あなたはまだ、その線を越えることはない……戻ってこれるよ……大丈夫、大丈夫――」
文緒はあと一歩で自死を選びかけていたところを正崎に保護されそのまま搬送された。
吊るされた縄、届けられた遺言書に、部屋の中で文緒は片手で強く己の首を絞め、もう片方の手で必死にスマートフォンを握りしめていた。過呼吸にも似たような状態で、正気を失いかけていた。
よすがとなったのは、スマートフォンから聞こえる、なまえの声であった。
文緒は精神に強いショックを受けた状態であり、当分は検診を受けながら療養しなければならない。何より、フラッシュバックにより度々暴れかけることもあり、当分は入院を余儀なくされている。
ことの異常性に休職も受理され、事実上のリタイアであった。
――自分達は、今、何をした?
捜査員たちは呆然と自身の手元を見つめる。そこにはいつの間にか遺書のようなものが書き連ねられており、利き手に持っているペンが、自分が書いたのだと言外に訴えている。そして捜査員たちは、己を一言で操ってみせたのが誰か、嫌でも分かった。
「……あの……お手洗いは……」
「それなら部屋を出てすぐのところに……大丈夫ですか!?」
「あ……だいじょ、ぶ、です……さ、がに、きつ、って……」
なまえの体は小刻みに震え、顔面は蒼白く額から脂汗が滲み、呂律もうまく回っていない。
目の焦点も合っていないようで、今にも倒れてしまいそうなところを、口元を押さえ、必死に踏ん張っている状態だった。
正崎はその姿に見覚えがあった。――床の上で必死に生にしがみつこうとしていた部下と重なったのだ。
「瀬黒さん、すまないけど妹をお手洗いまで連れて行ってもらってもいいかな? ……こんな風に使ってしまったから、跳ね返りがきたらしい」
「わ、わかりました」
瀬黒は慌てて頷き、今にも倒れそうななまえの体を支え、そのまま会議室を出ていく。
残されたのは呆然とする捜査員たちと、無表情の絢だけだ。
「――妹は」
絢は硬い声で、未だ動揺の最中にある捜査員たちに向けて言った。
「初めてこれを使った時、ショックでひと月以上喋らなかった」
感情が声に乗らないよう注意を払いながら、絢は淡々と喋る。
「ひどいことをしてしまったと、毎日泣いていた。そして喋るのを拒むようになった。僕や両親がどれだけ諭しても、家族ですら操ってしまうのではといつも怯えていた。呼吸をすることさえも怖くて仕方ないようだった」
隣で彼の言葉を聞きながら、正崎は想像した。幼い少女が、自分の手に余る力を持ってしまった姿を。
(きっとそれは……)
それは絶望だ。愛する家族ですら知らないうちに蹂躙してしまうのではという恐怖は幼い少女の心に深く傷をつけただろう。
「跳ね返り、ってのは?」
「妹が自分にかけた縛りだよ。力は人を助けるために使う、悪いことにはけして使わない――当人の意思に反して自殺を促すのは、悪いことだろう」
幼い少女にとって、ルールを作ることは必要不可欠だったのだろう。絢の複雑そうな顔がそれを示している。
人の道を踏み外したようなことはしない、誰かを助けるために使う――そのルールを定めて、ようやくなまえは話すようになったのだと。
気づけばどよめきは収まり、部屋にいる全員が絢を見ていた。
「そのルールを作っても、もう妹は日の下には行けないと影で生きるようにしてきた。何にも悪いことはしてないのに。ただ誰も傷つけたくない一心で。――共感してほしいわけじゃない。けれどそんな妹が表に出てまで、自分の秘密を打ち明けてまでしてあなた方に協力を決めた、その覚悟は理解して頂きたい」
極論、自分は他人のことなどどうでもいいのだと絢はせせら笑う。美しい顔に酷薄な笑みを浮かべ、けれどと続ける。
「僕が手伝うと決めたのは妹が手を貸すと決めたからだ。妹さえ無事なら、荒事だろうが非合法な手段だろうがどうぞお好きになさるといい」
なまえはまだ顔色が優れず、あまり喋ろうとしない。それは遠回しに九字院に話しかけるなと訴えていた。
「絢くん」
「九字院くん」
男が二人向かい合う。凪いだ目をする絢に対し、九字院は口元にわずかに笑みを乗せている。
「――なまえさんがあたしに言えなかったのはこれ?」
「大半は」
絢は頷いた。九字院の問いを肯定するものだ。
「ふむ……あたしがそれくらいで尻込むとでも思ってんのかね」
「そも、こんな事件でも起きなけりゃ妹は一生誰にも話すことは無かったよ」
「瀬黒さん」
「はい」
なまえは微笑みを浮かべた。
「どうか、見届けてください――それだけで、私、勇気が湧くから」
「……ええ。わかりました。貴女は、私が見届けます」
「ありがとう。……貴女が文緒くんの後に正崎さんの相棒になってくれてよかった」
もう迷いはないと言わんばかりになまえは歩き出した。
その背はか細くも芯が通っているように見え、瀬黒は気を引き締め、側にあった角材を手に取りそれに続いてあるき出したのだった。
「あなたを止めに来た」
「どうやって?」
「同じだから」
その言葉に一切の迷いは無かった。
女はきょとんとした表情でなまえを見る。なまえは感情の籠もらない、淡々とした声色で話し続ける。
「あなたはもしもの私」
「――なんてこと」
女の顔が喜びに歪む。
「あなたも、あなたも持っているのね――嬉しいわ、私と『同じ世界』で生きてる人が居たなんて――」
「曲世愛」
なまえは口角を上げた。
「――“あなたは私が終わらせる”」
言うなれば。
これは、一世一代の賭けのようなものだ。
そしてなまえは、その賭けに勝ったといえるだろう。
なまえは曲世愛を止めると決めた時、全てを担保にすると決めた。
『能力』をより強く使うためには担保が大きければ大きいほど効果がより強く、より顕著に現れることを知っていたからだ。
だからなまえは賭けた。
自分の全てを賭け、目の前のおぞましい悪――もうひとりの自分に引導を渡すために。
「……なにを、賭けたんだ」
正崎の問いに瀬黒は辛そうに顔を歪め――一拍置いて、なまえの賭けたものを伝えた。
その言葉に正崎は絶句し、額に手を当て、小さく呻いた。
「そう、か……」
「なまえさんは、私に見届けてほしいと。それだけで勇気が湧くからと、でも……」
下唇を噛み、悔しそうに瀬黒は顔を歪める。
「何故、なまえさんがそこまでしなければならなかったのか――守るべき市民に、結果的に私達は守られた……その事実が、今はどうしようもなく悔しいです」
「ああ。その通りだ――悔しいよ、一人の女性の未来を差し出してでしか、悪人を逮捕できなかったなんて」
「……でも、分かっているんです。曲世を見て思いました。きっと私一人ではどうにもできなかったって。――なまえさんしか、曲世に対する対抗手段を持つ人は居なかったって」
「――だから、彼女は自分の未来を差し出したんだろうな」
「すまない、九字院」
「よしてくださいよ正崎さん。まるで悪いことでもしたみたいだ」
「したよ」正崎は顔を曇らせる。「お前と彼女の未来を奪ったも同然だ」
「――あたしもあの子も、んなこたぁ考えてませんぜ。元はといえば、あたしが件の情報をあの兄弟に見せたのが始まりなんですよ。あんたが責任を感じる必要なんざ、これっぽっちもありゃしません」
「ただ」と九字院は空を仰ぐ。
「あの子の中に、あたしと生きる未来があったっつうのが、あたしとしちゃあ一番の収穫でしたね。あの兄妹、そういうの一切顔に出さねえんですわ」
「長い付き合いだったか」
「ええまあ。かれこれ五年ほどですかね。あたしが警部補になる前からの付き合いで――兄の絢くんと最初に出会って、その後にあの子にね」
「確か絢は……お前と同じ歳だったか?」
「ええ。そんでなまえは絢くんとは七つ違いです。今年二十五だったかと」
「……若いな。あの兄妹は見た目もそうだが、二人ともどこか浮世離れしている」
「でしょうなあ。んなもんだから五年間ずーっと交流してるんですが、これがまた難しくて」
「――待て。お前、彼女とは付き合っていたんじゃ?」
「ハハッ、痛いとこ突いてきますねえ」
あたしとしては付き合ってるつもりだったんですがと言い、九字院は何かを思い出したようで情けなく眉を下げた。
「あちらはどうもそう思ってなかったようで。いや、ちゃんと告白しなかったあたしにも落ち度はあるんですけどね。まさかただの肉体関係だけだと思われてたとは」
「にくっ……お、お前、仮にも警部補がそんな」
「わーかってます。どこで情報が漏れたんだか知らねえが、おかげで他の捜査班の面々に散々言われましたよ」
「だろうな。俺も含め、彼女を妹……あるいは娘のように思ってる刑事は多いだろう。……彼女が居なければ、おそらく俺たちは全滅だった」
「でしょうね。でなけりゃ、あの子がこんな危険なヤマに協力する筈がねえ。あの兄妹は、基本的に平穏に生きていたいだけなんで」
「妹はね、愛した男との未来を担保にしたのさ」
絢は上着の内ポケットから一枚の写真を取り出し、それを九字院に手渡した。九字院は無言でそれを受け取り、写真に映されたものをジッと見つめる。
思い出すのは、ただ微笑んだ彼女の姿だけだ。
あの微笑みの裏で、どんなに壮絶な覚悟を決めたのだと知らず、ただ綺麗な思い出のまま、自分の許を去ったのだと今なら分かる。
そんな彼女が自分に遺してくれたもの。――絢から渡された写真には、ひとつの生命が映し出されていた。
「……これを撮ったのは?」
「曲世と対決する前日。産婦人科に行って、帰ってきたらこれを見せられたよ……すぐに相手が誰か分かった」
なまえは家族である絢以外では九字院や正崎、文緒くらいとしか異性の交流は無い。所帯持ちの正崎に、入院・療養中の文緒は自然と除かれ、残ったのはただ一人。
迂闊に家を空けるんじゃ無かったと恨めしげな声が空気に溶けていく。
「会うことは」
「できない。これから裁判が始まって、曲世愛は自分の所業を事細かに説明していくだろうね――妹がそう命じたから。だけどそれには相応の対価が必要だ」
「なまえにとっての対価ってのは、あたしだったってことか」
「産まれた子供は会わせることができる。対価の範囲外だから。……でも本人とは無理だ。無理に会おうとすれば、あの子は死ぬよ」
なまえが曲世愛を捕まえるために差し出したのは、ずっと切望していた『愛する人との未来』だ。
お腹の子と、言葉にせずとも想いが通じ合っていた男性とずっと一緒に過ごすこと。死が分かつその時まで、愛した人と、家族になって過ごしたい。そんなささやかな少女の願いは、対価として潰えてしまった。
それほどなまえにとって、九字院と二度と会えないことは大きな対価だった。
「正崎さんにも謝られましたよ」
「あー……あの人は子持ちだから尚のことだろうね」
「あたしは、あの子が好きだ」
「知ってるよ」
「……いつになれば会えると思う?」
「曲世が死ぬか、妹の死期が近くなったら」
「そいつぁ、気が遠くなりそうですなぁ」
「好きな人ができたのならその人と幸せになってくれと妹から言付かってる」
「そんなの無理だって知ってて言ってんのかねえ、あのお嬢さんは」
「あの子が初めて恋をしたのはあんただった。だから、手加減を知らないのさ」
「……産まれたら 養育費は払うし、それ以上も――」
「何のために僕が居ると? 妹や子供一人ぐらい養う甲斐性はある。ただ、地方に移るのはほぼ確定かな」
都会は妊婦の身体に悪すぎると呟き、絢は無言で新域を一望する。
「特にこの街は、血の匂いがこびり付いてそうだからね――」
両親は火に巻かれて死んだ。絢が十五歳の秋のことだ。
当時妹はまだ小学二年生で、今はもう名前も顔もよく思い出せないだろう。
両親は優しい人たちだった。
体の弱かった父と、そんな父を献身的に支え、文字通り生きる指標になってあげていた母親。愛し合う二人に愛されて育った絢となまえは、どこにでもいる、普通の仲の良い兄弟だった。
――ただひとつ、絢が、いもうとを愛したことを除いては。
「絢、おいで」
「なに、父さん」
死ぬ前日のことだ。父親が、絢と二人きりで話がしたいと言った。
青白く生気を感じさせない風貌だが、それがより儚さを強調し、父親の持つ美貌を魔性へと押し上げているとまで言われるほど、父親は美しい人だった。佳人薄命とでも言うべきなのだろう。しかし父は母以外の女性に一切の興味を持たなかった。文字通り、父にとって母は命綱だった。
父が母以外で愛した女性は、間違いなく娘であるなまえだけだろう。
「おれは、お前達の母さんを連れて行く」
「……うん」
「この母屋と財産は全て遺していく。売るも潰すも、好きにしなさい」
「わかった」
「……なまえを頼む。あの子は、おれと同じ力を持ってしまった。きっと生きていくのも辛い人生が待っているだろう」
「――大丈夫。最期まで、側で守るよ。……死が僕らを分かつとも」
「ああ」父は子供のように無邪気に笑う。「やっぱりお前は、おれの子だ」
――思えば、なまえの能力は、父と母のハイブリッドのようなものだ。
言葉巧みに人を操れた父親と、明るく愛嬌があり、そして強かった母親。
自分は父親の外見と性格を継いでしまったが、妹はどうだったろう。
能力ゆえに影を落としてしまったが、元の性格は母親譲りで愛嬌があった。外見も母に似て愛らしく凛々しい姿で、だというのにねじ曲がった父の話術を歪んだカタチで引き継いでしまった。それこそがあの子の最大の不幸で――自分の最大の幸運だった。
妹を愛している。一人の女性として、愛している。
曲世の能力が効かなかったのはとてもシンプルな理由だ。
彼は、妹以外では勃たない。
「おとーさんっ」
「元気にしてたかい?」
「うん!」
九字院は駆け寄ってきた小さな子供を軽々と抱き上げた。きゃらきゃらと笑う顔は自分にも彼女にも良く似ている――間違いなくなまえと自分の子であった。
「こらこら、荷物を忘れちゃいけないぞう」
「にーちゃん! ありがとお」
「はいはい、どういたしまして。これ、よろしく」
「あいよ。……絢くんはどこへお出かけで?」
「んー? ちょっと面会にね。……さ、お父さんの言うことよく聞いて、ママにお土産話たーくさん作っておいで」
「はーい」
誰と会うのかはなんとなく分かった。だけどそれに口を挟むほど野暮な真似はしない。どれだけ腸が煮えくり返っているのか、少なからず理解しているからだ。
九字院は幼い我が子の顔を見る。
「なあに、とうさん?」
「んー? ……いやあ、大きくなったなあと思ってね。母さんによく似てるよ」
「ママはおとうさんににてるってゆってた」
「そうかい。……じゃ、今日はどこに行きますかね」
「ぼく博物館がいい! あすまにーちゃんにおしえてもらった!」
「おっ、そんじゃ今日は博物館で決まりですな」
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