みずち に
鷲獅子(グリフォン)からひらりと黒い影が降り立つ。
わっと〈春霖の庭〉に所属するメンバーたちはその影――ミズチの元へと駆け寄っていく。まるで押し潰すかのような勢いで突進していく姿に潰されてしまわないかとシロエはひやりとした心地になった。
しかしそれは杞憂だったらしい。突進してきた後輩たちを受け止め、勢いをいなす姿は現実(リアル)でもそうしていたのだろうとわかるほど手慣れていたからだ。一人一人と言葉を交わし、ときに頭を撫で、頬をつついたりする姿は小さな弟妹の面倒を見る姉のような安心感があった。
そして周囲に集まった後輩たちの群れを抜け出て、ミズチは粛々とシロエの元へと歩みを進める。
――なんだろう、これ。
ミズチが一歩、また一歩と近づいてくるたび、シロエはなぜか腹の奥が蠢くような感覚に晒された。遠目に確認することができた穏やかな陽だまりのような雰囲気はそこにはなく、面頬に隠された顔の下も、今はごっそりと表情が抜け落ちているのだろうとわかる。
ミズチの纏う空気はどこまでも研ぎ澄まされた刃のようだった。
シロエはミズチのステータスを確認し、目を見開いた。明らかに異常だと分かる。九十六――それが今のミズチのレベルだった。
一体どんな修羅場を潜り抜けてきたのだろうか。ただ一人、孤独の中でどんな試練を受けたというのだろうか? 今分かることといえば、シロエには想像もつかない修練を熟して彼女はアキバへ戻ってきたのだということだ。
だからこそ伝えなければならないだろう。孤独と向き合い、それに打ち克った少女に。
ささやかだけれど、祝福の言葉を。
「――おかえり、ミズチ」
その言葉に目を見開いた少女は、どこか安心したかのように頬をほころばせて、「シロエさんには敵わないですね」と呟いて、
「ただいま、シロエさん」
鋭い刃を柄に納め、いつものように応えるのだった。
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「ミナミへの遠征、私も同行することは可能ですか?」
静かに空気に溶けるような声色で紡がれた言葉は、これまで自分の意思というものをあまり見せてこなかったミズチが明確に表した「感情」だった。
「それは――もちろん、来てもらえるのならありがたいけど……」
ミズチのレベルは九十六。そのレベルは現在アキバに居る〈冒険者〉の中ではトップクラス――というか、少々異質な次元だ。同じ職業(アサシン)である大規模戦闘に幾度となく挑んできた〈シルバーソード〉のウィリアムですらまだ九十五であったというのに、ミズチのレベルはそれを上回る。彼女が度々ふらりとアキバを単身離れていることは知っていたが、だとしてもここまで練度を上げるには相当の時間を費やしたはずだ。
「ミズチ、一つ訊きたいことがあるんだ」
「私に答えられることなら」
ミズチは穏やかに微笑んだ。その言葉にシロエは胸を撫で下ろす。〈茶会〉の頃からの付き合いだが、ミズチはいつもチャットでの会話だったし性別も知らなかった。こうして異世界に訪れて彼女の性別を知ったわけだが、実はいまだに直接会話をするとドギマギしてしまうのだ。
これは彼女が悪いわけではなく、純粋に〈茶会〉の破天荒な女性陣に振り回されていたがゆえの防衛本能のようなものだ。「すごかったですもんね」と鷹揚に頷いて許してくれたミズチの懐の深さには感謝しかない。
「ミズチは、その、どうやって一人でそのレベルに? まだこの世界に来て一年くらいしか経っていないし、ゲームだった頃ならまだしも、僕らは元の世界と同じ、一日が二十四時間の世界で暮らしているのに……」
「ああ、なるほど」とミズチはシロエの意図を察したらしい。
「ギルドにも所属していない私が、どうやってここまでレベルを上げたのか――それがシロエさんの懸念事項なんですね」
「ごめん、信じてないわけじゃないんだけど」
「いいえ。その懸念は当たり前のものです。……どこからお話しましょうか」
うーんと口元に手を当てて考えるポーズを取ったミズチは、困ったように首を傾げる。その姿は一人の〈冒険者〉というより、〈春霖の庭〉の面々が見知った「頼れる優しいお姉さん(せんぱい)」のそれだ。
そこにぬるりと現れる複数の影。
一つの影がそろりそろりとミズチの背後へと近づいてくる。ヒクヒクと耳が動き、ふさふさの尻尾がご機嫌そうにゆらゆら揺れる。「いいこと聞いちゃったぞーう」と悪戯な声が部屋の中に響いて。
「その話、アタシもちょーっと聞かせてもらおっかな」
「ナズナさん、どうしてここに?」
「すまない、こっそり聞かせてもらっていたのだ」
後ろから羽交い締めにするかのようにミズチに抱きついたナズナはニヤリと微笑んでいて。その横からひょこと顔を出したのはアカツキだった。申し訳無さそうに眉を下げるアカツキに、ミズチは「お気になさらず」と淡く微笑んで首を振る。
「それに、私もミズチ殿がどんな訓練をしていたのか興味がある。ぜひご教授願いたい」
「そうそう。今のアキバじゃトップクラスのレベルなんだよ、ミズチ。気づいてないだろうけど、普通に歩いてるだけで注目の的さね」
アンタのことだから、それもあってあんまりアキバの表に出てこないんだろうけどさ。そう付け加えられたミズチは、今度こそ本当に困ったように眉を下げた。
「私のはなんていうか……現実逃避みたいなものだったので。人に話せることも勧めることもできないような有様なんですけども」
「じゃあ尚更聞かなきゃじゃ〜ん」
「うむ。プレイヤーとしては先達ではあるが、ミズチ殿は私よりもまだ幼いと聞く。年齢の話は野暮だが、危ないことをしたのならちゃんと注意せねば」
「――まあ、そういうことだから。ミズチ、ちょっと話してもらえるかな?」
ミズチの助けを求めるような目にそう返したシロエは、キラリとメガネを光らせる。そして敗北を悟ったミズチは、一つため息を吐き出すのだった。
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「――痛みを知らずして、何が人間か」
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