この感情にふさわしい名前をつけるのなら、きっと「一目惚れ」というものかもしれない。
 ――せんせい。根暗先生。
 口の中で転がす度、甘い味が広がるような気持ちになる。根暗ぼっちというちょっとだけ変わった名前の男の人。私よりも年上で精神科医として勤務する彼に、わたしは恋焦がれていた。
 同じ病院内に併設されている小さな喫茶店。それがわたしの働く職場だ。コーヒーなどの飲み物に始まり、手作りのパンなども販売しているためそこそこ繁盛しているお店。
 わたしの仕事は主にレジやドリンクなどの表に立つものだ。本当は接客なんて苦手だけど、穏やかな職場の雰囲気のおかげで何とかやっている。
 レジに立つのがほとんどなわたしにとって、お客さまはちょっとした人間観察の対象だった。
 この店に来る人は大抵三パターンほどに分かれていて、病院内に勤務する人・入院患者かその家族・外で評判を聞いてわざわざ買いに来た人(あるいは偶然立ち寄った人)のどれかである。
 中でもわたしの働く時間帯はお医者さんが多い頃で、あの人を知ったのも偶然だった。
「……コーヒーを一つ」
「かしこまりました! 少々お待ちください」
 どこか緊張した面持ちで店に来た彼に、わたしの目は釘付けになった。
 少し丸まっているけどもすらりとした高い背丈、色が白く、長めの前髪の間から見えるちょっと鋭そうな瞳、目元にあるホクロ。
(……きれいな人)
 ちょっと影がある感じが中々に好みだった。白衣を着ているので、おそらく病院に勤務する先生なのだろう。
 この店のコーヒーは拘っているものらしいので、気に入って貰えたら働き手として嬉しいことはない。イコール自分の給料にも影響してくるものなので。
 わたしは紅茶党なのでコーヒーの良さはあまり分からないが、それでもこの店のコーヒーは美味しいと思ったので、顧客をバリバリ開拓していきたいところである。
 手早くマニュアル通りにコーヒーをいれて差し出す。
「お砂糖とミルクがご入用でしたら、此方から好きなだけお取りください」
「あ、は、はい……」
 わたしは満面の笑みを浮かべ、コーヒーを受け取った先生を見つめる。
「ありがとうございました、またお越しくださいませ」
 瞳を見ながらそう言ったわたしに、彼は驚いたような表現を浮かべ、少し頬を染めながら、こくりと頷いたのだった、




「……根暗せんせい」
 そういう名前なんだ、あの人。口の中で数度反芻して、その都度胸の奥に不思議な感覚。
 何も食べていないのに食べ過ぎちゃったような、けれどもこれで満たされたかのような。奇妙な感覚だった。
 この街――ヤンデレタウンに暮らし始めてしばらく経つが、こんな感覚は初めてで、少し困惑する。世の中には情熱的な恋愛をする人たちが多く居るのは知っているし、そのパッションが行き過ぎて……加熱しすぎて「ヤンデレ」と呼ばれるような状態になるのも知っている。でもそれはわたしとは無関係だとずっと思っていた。
 誰かに情熱的に愛されるような身分でも無いし、まして特定の誰かを愛せるほど余裕のある生活をしている訳でもない。
 恋や愛なんてテレビの向こうの、それこそワイドショーでよく食い物にされている話題だと認識していたわたしにとって、この感覚はとても困ったものだった。
 なんせ、波のように来て御することも上手くできないのだ、気分は突然暴れ馬を押し付けられた騎手のようなものだ。
 ――けれど、それを悪くないと思う自分が居るのもまた事実だった。
 片や高卒のフリーター、片や医大卒の精神科医……無謀なのは重々承知だったが、それでも目に焼き付いた姿は消えてはくれない。ならそれは、天からの『やってみろ』というお告げなのかもしれない。
 何とかこの胸の内のモンスターを御して、あの人に近づきたい。患者になんかなりたくない、一人の異性として意識してもらいたい――そう思う程度には、わたしの中に生まれた熱はわたしを蝕み始めていた。


「……ねくら先生? お疲れさまです」
「あ……お、お疲れ様です」
 仕事終わりなのか、白衣を脱いでスーツ姿の男性が立っている。その人が誰なのかすぐに分かってしまったあたり、わたしもなかなか重症だと苦笑する。
「ええと……なまえさんは、仕事終わりですか?」
「はい。今日はもう店じまいで……ふふ、なんだか新鮮な気持ちです。せんせいの白衣脱いだところ、初めて見ました」
 にこにこと笑顔で言うわたしに、彼は少し頬を染めて視線を外す。その少しキョドるところも好きだなあと感じる。
「スーツ、似合いますね。いつもの白衣もお似合いですけど、先生カッコイイから何でも様になっててすてき」
「えっ、あ、えと……あ、ありがとうございます……」
「ごめんない、呼び止めてしまって。お気をつけて帰ってくださいね」

「あ、あの……」
 と、か細い声がわたしを呼び止める。
 わたしは振り向き、「はい?」と首を傾げる。
「……こ、これから時間があるなら……もし良ければ、その」
 一緒に映画でもどうですか、と彼が言う。
「映画ですか? うわあ、観るの久しぶり、嬉しいなあ! わたしでよければ是非!」
 にこにこと笑い、満面の笑みを浮かべて頷く。ホッとした様子の彼に、わたしの胸がじーんと熱くなる。わたしのために、頑張ってくれたんだなあ。その気持ちが何よりも嬉しかった。

 ちょっとだけ、彼に申し訳なく思う時がある。わたしはわたしのために彼に近づいて、じわじわと真綿で首を絞めるかのように外堀を埋め、栄養剤を与えるが如く好意を与え続けた結果結ばれることができたけれど、わたしが居なければ、彼はもっと別の、良いところのお嬢さんと恋に落ちていた可能性もあると思うのだ。
(あなたを手放せないわたしを許さないでね)
 大きな体に抱きしめられながら、わたしは心地良さに目を細め、彼の香りに飲み込まれたいと、自ら擦り寄った。


 好意を持たれている、と気づいたのはいつだったか。少し恥ずかしげに自分の名前を呼ぶ女性の姿に、胸の奥にえも言われぬ何かが産み落とされた。
 根暗先生、と甘さを孕んだ声で名前を呼ばれる度、津波のように多幸感に飲み込まれる。「おつかれさまです」と微笑む女性は、自分に好意を寄せてくれているという。周囲からそれとなく教えられればじわじわ意識してしまうのは不可抗力だった。観察すればするほど自分に好意を寄せていると感じてしまう言動と仕草、瞳の奥にちらつき、ひた隠そうとする健気な姿。
 そんな風に異性に想われるなんて生まれて初めてで、自分はこの人に好かれているという前提で女性と話をするのは未知の経験だった。
 店にコーヒーを買いに行く度、彼女が居ないかどうか気になってしまう。居ないと気落ちしている自分に気づいた時にはもうどうしようもなかった。
 どうしようもなく彼女が好きだ――そう思うのに時間はかからなかった。


「……ぼっちくん……好き……」
 
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