ほっちゃんの姉さん


「姉さん」

 台所に立つ姉に声をかける。顔を上げた姉は、穏やかに微笑んでいた。

「なあに、ほくちゃん」
 姉さんは、とても優しい人である。
 幼い頃から両親の不在で燻っていた己をあやし、溢れんばかりの愛情を与えてくれた。たった一つしか違わないのに、姉はまるで大人のように見えていた。そんな姉が、今はとても小さく見える。

 姉さんは、中学卒業と共に実家を出た。事務所に所属して、修行をすることになったからだ。
 母親にせがまれ仕方なく伸ばしていた黒髪は肩までの短さになり、背も女性にしては平均より少し高いくらいだった姉は、今では細身でありながらたゆまぬ努力で危険なアクションもこなしてみせる、日本でも有数の女性スタントウーマンとして活躍している。
 弟として、最前線で常に戦い続ける姉のことは誇らしく思っている。『氷鷹』の名字を使わず、特殊メイクで父の血を感じる顔の印象を変え、己の腕ひとつで奮闘してきたことをよく知っている。
 運動が苦手でインドア派だった姉が、今ではワイヤー無しでも派手なアクションシーンを撮っているのだから、どれだけ努力したのか、想像するに余りあるものだ。
 そのことを両親も知っているし、実際、姉の活躍もよく耳にしているようだった。リバースライブを経て、世間様のような普通の『父親』らしいことをしてくるようになった――そこそこ鬱陶しい――父など、姉の事務所の社長と友人なのをいいことに、定期的に写真を送ってもらってるらしい。自分が姉の立場なら心底鬱陶しくて仕方ないだろう。
 ――もっとも、姉は両親を『認識』できないので、特に気にしていない様子だが。

「体調は平気なのか? この前少し寝込んだと、海月さんから聞いたぞ」
「くらげくん、ほくちゃんと連絡してんだ……ご覧の通り、姉さんならすっかり元気だよ」
「そうか……仕事が忙しいのは分かる。だがスタントだけではなく、モデルや音楽製作、マネジメントまでしてるんだ。常人の何倍も常に動いてるんだぞ姉さんは。ちゃんと休んでくれ」
「はあい」
 眉を下げて返事をした姉にうむと頷いて、そのまま近寄る。
 「手伝うことは?」と訊ねると、「もうすぐできるから待っていてね」とやんわり断られた。姉はやはり一枚上手だ。

「姉さん」
「なあに、ほくちゃん」
「父さんと母さんに会うつもりはないか?」
 ぴたりと、滞りなく動いていた姉の動きが止まる。
 数秒の沈黙。姉が小さく息を吐いた音が、室内にいやに響いた。「ほくちゃん」と自分を呼ぶ声は、少し強張ったような声色だった。

「それは、誰かに言われたの? ……二人から、そういうように頼まれた?」

 姉さんは微笑んでいた。
 いつもの微笑みと唯一違うのは、それが無理矢理作ったものだと鈍感だとよく言われる自分でもわかるほど、ぎこちないものだということ。

「俺がそう思ったんだ。……正直、二人ともそろそろ自制がきかなくなってる気がする。姉さんの事務所の社長と懇意にしていて、定期的に写真を貰ってる父さんはともかく、母さんはそろそろ限界かもしれない」
「……そう」
 微笑んだまま呟いた姉は、困ったねと言いながら止まっていた料理を再開した。ぐつぐつと鍋で食材を煮込む音と共に、まな板の上でリズミカルに野菜を切っていく音が混ざりあう。
 問いかけの返事が来ないことにはどう言葉をかければ良いかわからない。迂闊に変なことを言って、姉を傷つける可能性は排除したかった。姉さんが、本当はとてもか弱く繊細な女性だと知っているから。

「――本音を言うと、」
 どう対応すれば良いのかわからないのだと、姉さんはぽつりと言った。
「対応……」
「“普通”の親子なら、それまでの積み重ねがあるから久々の再会でも無理なくできるんだろうけど、うちは、特殊だったし。昔から親子らしいことをした記憶も無いし、私なんてもうここ三、四年連絡も会話もしてないから、自分の中の二人に対する応対マニュアルが初期化されたような感覚なんだよね」
「初期化……リセットされてる、ということか?」
「リセットというか……自分のなかでもう必要無さそう、ってものは自然と優先順位が低くなってくんだよね。それに割けるリソースが減った、って感じかなあ」

 なにかと覚えることが多くて、と付け加えた姉の姿を見て、非常識だと思いながらもほっとしてる自分が居た。
 姉さんは、父さんのようにどんなことも何かと器用にこなしていく、両親の才能を継いだ天才型ではないかと思っていた側面があったからだ。そんなことを考えた自分の愚かしさに腹が立つ。
 そう見えたのは、姉がうまく自分をセルフプロデュースしてそう見せていただけだ。それが姉の処世術で、ひとり孤独な棘の道を進んでいくために必要なものだったからだ。
 かつて、姉の親友であり俺も尊敬している役者は、姉さんを「無理矢理ロボットの心を心臓に挿げ替えた人間」だと評した。あの時はいまいち分かっていなかったが、今なら分かる気がする。
 姉さんは基本的に自分と同じように努力家で、本当はあまり器用な人ではないのだろう。

「……すまない、姉さん」
「うん? どうしたの、ほくちゃん」
「俺はずっと、姉さんは父さんのようなタイプの人間なのだと思っていた。だが、今話していてわかった。……姉さんは、常に精一杯頑張っている状態なんだな」
 目を見開いた姉は、口をもごもごと動かし、それから眉を下げて微笑んだ。
「とりあえず言えるのは、姉さんはそんなにキャパシティの大きい人間ではない、ってことかなあ。……あの人の容量の大きさは常人のものじゃないよ」
「それは確かに」

「私は、あの人達をきちんと『認識』できないし、仮に会いたいって思われていても――会ってどうなる、って気持ちが大きくて。おかしいってわかってるのに、仮にも自分の両親をあの人達としか表現できなくて」
「姉さん……」
「傷つけたくない、っていうのは建前なんだよね。結局、私は自分の負担が増えることが嫌なだけの、人でなしなんだと思う」
「それは違う!」
 思わず声を荒げてしまった。肩を揺らして驚いた様子の姉さんに、もう一度それは違うよと、丁寧に伝える。

「姉さんは、人でなしではないぞ。仮に人でなしなら、あんなに俺に世話を焼いて、自分の寂しさを隠して親のように構って、守ってくれたりしないだろう」
「ほくちゃん、それは」
「姉さんは『自分を愛してくれる人を愛している』だけだと言いたいのかもしれないが、それのなにが悪い? 父さんと母さんは、確かに俺たちを愛してくれていた。そして、今なら分かるよ、姉さんは自分のぶんの両親との時間までも俺に分け与えてくれていた。でも、それでも足りなかった。俺は満足できなかった。――俺ですらそうなんだ、もっと時間のなかった姉さんが親に対してそうなっても仕方ないだろう。それは、父さんと母さんの落ち度だ」
「北斗……私は、そんなにあなたに庇ってもらえるようなことはしてないよ」
「してもらった。幼い頃の俺にとって、姉さんは父さんと母さんのような存在だった。だから、どうか自分をそんなに卑下しないでほしい。姉さん、」

 あなたは世界一の姉さんなんだ。そう伝えたかった。


「――ただいま、ほっちゃん! 僕のリトルプリンセスは居ますか?!」
「ただいまほっちゃーん! 私のかわいいリトルプリンセスー!」
「姉さんならもう帰ったぞ」
「「ええっ!?」」

「そんなっ、あんなに引き留めておいてと頼んだじゃないですか!」
「会いたかったのに〜! ほっちゃんのいけず!」
「やかましい! そもそも、会ってどうするっていうんだ? 今の姉さんにはあんた達の『親らしい』行動は全てエゴの押し付けでしかないんだぞ。姉さんを思うなら、もっとソフトに距離を近づけようとは思わないのか!」
「ほっちゃんは定期的に会えてるからそう言えるのよっ、ママはもうとっても寂しい! この寂しさは会わないと解消されない!」
「恥を知れ恥を! 何なんだ、今まで散々放っておいて、今更親らしいことをしてすり寄るなんて最低だぞっ、姉さんはもう十九、親を一番必要としていた時に散々放っておいて、育ったら手元に戻そうなんて小賢しい真似を……!」
「ほっちゃんの言い分は分かります。実際、あの子にそう思われていても仕方ないでしょう。忙しさにかまけて、いい子でいてくれたあの子を蔑ろにしたのは事実です。……だからこそ、少しでも近づきたい。それがエゴだとしても、僕は父親として、一人の人間として、もう一度娘の世界に存在したいんです」
「……分かってるだろう、父さん。姉さんは、もうあんた達を認識できないんだぞ」
「わかっています」父は頷いた。「それでも、あの子は世界で一人だけの、僕の娘です」


「鍋に、姉さんが作ってくれたミネストローネが入ってる。俺はもう食べたから、食べたいなら食べるといい」
「なまえちゃんの手料理! 誠矢くん、食べましょ!」
「ええ! 折角の娘の手料理、急いで温めないと!」

 ――すまん、姉さん。もう少し辛抱してくれ……

1/48
prev  next
ALICE+