仮題:異界漂流譚 黄昏の裁定者たち
一章:アケビが合間合間に視る夢が鍵。何故召喚の儀が行われたのか、異世界で暮らしながら、世界の成り立ちを召喚された子供たちが解き明かしていく
メイン主人公はアケビ。仲間と過ごす日々や、セイやミヤコとの冒険、ヨクとのロマンスを描きつつ、離別を選ぶまで。



 ふわり、ふわり。
 目を閉じ、アケビは自分の体を宙に浮かせていた。

「きょうもいい天気だぁ」

 そよ風が頬を撫でていく。青々と茂る木々の間に設置したハンモックは、いつだって誰かが利用しているくらい居心地がよかった。
 地面から足を離し、風に身を任せて揺られる感覚は、なぜだか昔の記憶を思い出させる。
 郷愁とも呼べるその感覚は、今のアケビにとってとても心地よく、心を穏やかにさせてくれるものだった。

「今日はもう、やることないし」

 そう呟いたアケビは、指の先で宙をやさしく|突《つつ》き――
 瞬間、どこからともなく淡い光が宙に湧き出した。
 現れた光の群れは形を変え、それまで何もなかったはずの《《そこ》》に、ずらりと文字が浮かび上がっていく。
 たった数秒の出来事だった。
 現状、これを解読できる人間は限られている。とはいえ、読み解いたとしてもなにかメリットがあるわけではない。
 慣れ親しんだ|母国語《にほんご》で書かれているのは、今日のスケジュールである。
 もう一度指先で文字を突けば、光で作られていた文字はいともたやすく弾け、粒となって空気に溶けていく。
 これまでの自分であれば、きっと歓声を上げていた光景だ。
 しかし、どれだけ幻想的な光景も、今のアケビにとっては『普通』に部類される。その事実が、チクリと心を突き刺した。

(この生活にも慣れたもんだなぁ)

 かつては夢物語の中でしか見たことのなかった『力』を、息をするように使いこなしている――その事実は、アケビに無邪気な高揚感を与えるとともに、どうしようもない現実へ叩き落とした。
 空を見上げれば、どこまでも真っ青な、絵の具のような原色の青空が広がっている。
 生まれてからずっと暮らしていた場所とは違う目に痛いほどの青色には、まだ当分見慣れることはできないだろう。
 アケビは目を瞑る。

「……そろそろ、一ヶ月くらい経つかぁ」

 それは半分、自分に言い聞かせるような声色だった。
 ――遡ること、およそ一ヶ月前。
 《《あの日》》から、アケビたちの人生はぐるりと様相を変えることになった。
 アケビは、日本のいち地方の田舎町で暮らす、普通の女子高生だった。
 学校に行けば友人が居て、帰り道では買い食いをしたり、休日に遊んだり、学生らしく勉強に悪戦苦闘したりする日々。
 どこにでもあるようなありふれた人生だったのだが――それはもう、過去の話になってしまっていた。
 この場所で暮らしている。それが何よりの証明だ。

「おーい、アケビちゃーん」

 遠くから自分を呼ぶ声に、意識が現実へ戻る。
 ぱちりを目を開き、寝転んだまま横を向くと、手を振りながら近づいてくる影が見えた。

「……アンディ? どしたの?」

 麦藁色の髪をした少年は、「ヨッ」と片手を挙げ、爽やかな笑みを浮かべた。

「オレ、今日の仕事終わったから暇してんだけどさ、よかったら一緒にマヒロんとこ行かない?」
「マヒロくんの? いまってなにしてんだっけ?」
「新しい服作るって言ってたぞ。今の時間なら、まあたぶん布の染色してるだろうから、好きなの頼めるはず」
「え、マジ? マヒロくんの新作か〜……なら行こっかなぁ」
「おう。いこいこ、行こうぜ」

 人好きのする笑みを浮かべ、おいでと手招きする彼は、アケビと一緒に異世界にやって来たひとりだった。アケビはひょいとハンモックから飛び降り、彼と並んで歩き出す。日に透けた麦藁色の髪が目に眩しかった。

「ね、アンディ」
「ん?」
「あたしたちがここに来て、もう一ヶ月過ぎちゃったよ」
「おー、月日が過ぎるのは早えなあ。光陰矢のごとしってか?」
「このまま、一年過ぎちゃうのもあっちゅーまなのかな」
「うはは、ありえそうだなぁ」

 季節は初夏を迎えていた。
 風通しのよい邸宅の回廊を、ふたりは慣れた様子で進んでいく。
 ジリジリと焦げつくような暑さは故郷を思い出させるが、《《ここ》》の暑さはさらっとしていて、湿度が少ないのが特徴だ。
 故郷の夏は日差しが強くて、蒸し暑くて、夜は虫の鳴き声がやかましかったが、ここにはそういうものが一切ない。それに気づくたび、家族の顔を思い出す。

「……アンディはさあ」
「んー?」

 アケビは口を開きかけて、閉じた。

「なんでもない」
「なんだよお、気になるなあ。ソウスケ兄ちゃんに言ってみなさいよ」
「んーん、いい。大したことじゃないから」
「そか? ま、なんかあったら言いな」
「面倒見いいなあ、さすが年長」
「伊達に一年休学してたわけじゃないんだわ」

 快活に笑う声が廊下に響き渡る。
 ソウスケの声は、ハッキリと遠くまでよく届く声だ。この青空のように爽やかなその声は、アケビの『日常』の一部を彩ってくれている。

「ミヤコとカイくんはいつものとこ?」
「うん。|研究室《ラボ》でいろいろ話し込んでるみたいよ? レンはヨクに付き合って訓練、ハナちゃんとネネは図書室で調べ物。センジュとナゴミちゃんは今日の昼当番だから厨房だろうし、セイは《《いつものやつ》》の時間だから」
「なるほどねぇ。んで、暇してたあたしにお鉢が回ってきたってコト?」
「んな皮肉るなよぉ。オレも暇だったから誘ったんだしさぁ」
「べつに皮肉ってないって」

 ムウと唇を尖らせるソウスケに、アケビは笑って否定した。
 事実、暇を持て余してハンモックで寝ようとしてたのだから否定しようがない。このまま昼寝するところ、予定を入れてもらってありがたいくらいだ。
 ソウスケにはそういうところがあった。本人は意識してやっているのかわからないが、誰かの心が沈んだり弱ったりしていると、その明るさで引っ張り上げてくれる。『年長者』を自称しているだけあって、ボーダーラインの見極めがとてもうまいのである。

「楽しみだね、マヒロくんコレクション」
「だな。オレ作業着欲しいなあ、ツナギみたいなの」
「いいねえ。あたしもセットアップみたいなのほしーな」
「カアーッ! この子はおしゃれさんみたいなこと言いよってからに!」
「うひひ」

 ソウスケにうりうりと頬を突かれて、アケビは笑う。
 それまで話したこともなかった隣のクラスの男の子と、こうして性別の垣根を越えて友情を育んでいる。それは思いがけずアケビに――アケビたちに、良いものを|齎《もたら》してくれた。

 ――遡ること、およそ一ヶ月前。

 田舎町に暮らしていた十二人の男女は、突如として『異世界』に召喚された。
 ちょうど召喚された時間に教室の中にいただけの、それ以外に共通点はさしてないであろう子供たち。
 雲ひとつない空の下、乾燥した空気がふたりの頬を撫でる。
 召喚された|少年少女《こども》たちは、いま。
〈エンプティス王国〉――そう呼ばれる国で、それなりに楽しく暮らしている。

■1 ――昼下がり、工房

 アケビたちが暮らしている邸宅の片隅に存在する、ひとつの部屋。
 一歩踏み入ればがらりと内装が変化するその場所は、たったひとりのためだけに、とある魔術師が作り上げた〈工房〉だった。

 木製の棚が石造りの壁を所狭しと覆い、ふたつある窓が、外の日差しを優しく取り込んでいる。
 日の当たるそのスペースは、《《彼》》のもっぱらの作業場所だ。
 しかし、いま彼が使っているのは、その横にある水場である。
 排水口に栓をして、じゃぶじゃぶと布を色のついた水に沈める大きな背中を、アケビとソウスケは眺めていた。

「いつみても職人にしか見えないねえ」
「マヒロは真面目だし仕事も丁寧だし、普通に会社員より職人向きだろうなあ」

 と、話しながらふたり同時にグラスを呷る。
 シンクロする動作は双子のようだ。温かい目で作業風景を見学していると、のそ、と大きな背中がこちらを振り返った。

「……ごめん、待たせて」

 がっしりとした筋肉質の体とは裏腹に、あどけなさの残る顔立ちの少年――マヒロは、どこかふわふわした声でふたりに謝罪した。
 そんな彼に、アケビとソウスケは『いやいやいや』と揃ってかぶりを振る。

「あたしたちが突然押しかけたのが悪いんだし、ぜんっぜん気にしなくていいからね」
「そうそう。オレらが暇を持て余してマヒロの服作りを見学しにきたのが悪いんだし」
「そうか……?」
「そうなの!」

 首を傾げたマヒロに力強く答え、アケビは漬けられた布に目を向ける。数回繰り返しているのか、布にはずいぶんと色が染まっているようだ。
 向かいの椅子に座ったマヒロに、ソウスケが「おつかれさん」と言ってグラスにお茶を注いで渡す。

「ありがとう」

 礼を告げながら、マヒロもまた、グラスを一気に呷った。

「ていうか、今回は青緑色なんだね。爽やかでイイね! あたし結構好き」
「ああ……。これは、ハナさんからのリクエスト」
「ハナちゃんがか? 珍しいなあ」

 怜悧な美しさを秘めた同級生の姿を思い浮かべ、アケビとソウスケは顔を見合わせる。
 彼女はファッションなどの知識はあるが、そこまで好みがあるというタイプではなかったはずだ。どちらかといえば、彼女とよく行動を共にするネネの方が何十倍もこだわりが強い。
 ふたりの気持ちが分かるのか、マヒロもこくりと頷く。

「なんでも、次の『謁見』に着ていくらしい。〈選ばれし者〉であるという共通の証として、全員の服装にワンポイントで取り入れる、って」
「ははあ、なるほど」

 謁見に使うなら納得だわとソウスケ。
 アケビも頷きつつ、頭の中に提案者であるハナの姿を思い浮かべた。

(ハナちゃんのことだから、たぶん何か考えがあってのことなんだろうけど……)

 しかし、妙な部分はある。
〈選ばれし者〉としての役割を果たす手前、ある程度の気品は必要だろうというのはわかるのだが、果たしてそれだけの理由であの女傑がそんなことをするのだろうか。

「……ねえ、マヒロくん。ハナちゃんはなんでそんな事するって言い出したの?」
「さあ……? ただ、染めた布に〈属性付与〉を施すとは」
「ふうん」

 ム、とアケビは唇を尖らせる。
〈選ばれし者〉――異世界に召喚されたアケビたちに与えられた肩書きの一つだ。
 端的に言うと、勇者のようなポジションの人物に与えられる『称号』である。
 王、宮廷魔術師、貴族、商人、農家など、この世界の〈ヒト〉には、ありとあらゆる称号というものが存在している。
 ただし、それをはっきりと視認できるのはごく一部の限られた人間のみで、大抵の人間は自分にどんな称号があるのか――そもそも、称号という概念についてもあまり知る者はいない。必要ないからだ。

「なんの〈属性〉付与するんだろ」
「そこらへんは、おれもあんまり……。いつも付与するの、カイが主体になってくれてるからだし」
「あーね。マヒロくんの〈|祝福《ギフト》〉はどっちかといえば実技特化って感じだし。センジュくんも……あれはちょい方向性違うけど、まあその類だし」

 アケビの言葉に、ソウスケも頷きながら応える。

「んだなあ。カイのは、ありゃあ実験とかの〈魔法〉の|類《たぐい》に造形が深いっつーか、研究熱心になるやつっつーか、マッドになっちまうやつっていうか」
「ネネちゃんとレンくんは玄人向け過ぎて理解追いつかないし、あたしやミヤコは情報戦特化、ナゴミちゃんは治癒専門、ヨクくんやアンディは一点特化の属性魔法だし」
「まーな! ……でもまあ、オレのもヨクのも厳密には属性魔法じゃないけんだけど」
「初耳」
「説明難しすぎんのよ、オレらのやつ。ミヤコちゃんの配慮で属性魔法ってことにしてんの」
「なるほどぉ」

 さすがミヤコ。
 頼れる少女のことを思い浮かべつつ、意識を話題に戻す。
 目下の謎は、なぜハナが〈属性付与〉した物を身に着けることにしたのかだろう。
〈属性付与〉は、文字どおり服や装飾品に〈属性〉能力を付与するものだ。
 防御力を上げることのできる防具や、一定の属性魔法の威力が上がる剣や杖など、RPGでよく見るアイテムがこれに該当する。

 記憶にある限り、これまで謁見で服装にそこまで指定をしたことはなかった。
 だが、今回は《《ハナが》》そうするようにと指定した。
 短い期間ではあるが、ある程度友好度を積み上げた今なら、自ずと見えてくる『答え』がある。

「……城にきな臭いのでも居たのかなあ」
「あー、ハナちゃんならそういうの分かるかも。あの子いいとこのお嬢さんだし」
「エッ!? 初耳なんだけど」
「おれも……」

 何気なく出した言葉に予想外の情報が返ってきた。
 目を丸くするアケビとマヒロに、ソウスケは「そらそうだろ」と快活に笑う。

「まあな、普通の高校生なら知らんて。オレはバイトいろいろしてたからさ。その関係でなんとなーく知ってるってだけだし」
「はへえ」
「……ソウスケ、物知り」
「年長者だからな!」

 軽やかにウインクをして、Vサインを作るソウスケ。
 キザったらしい動きなのに、見事に様になっている。こういうおちゃめさが憎めないのだ。困った人ね、とアケビは半笑いで応える。

「ハナちゃんのすることにムダなことなんて無いだろうし、深く考えるまでもないのかなあ……欲に溺れた大人に簡単に騙されたりしないようなメンバーではあるけど」
「ハナちゃん、ヨク、カイ、そしてオレという頼れるお兄さんが居るしな」

 ニカッと笑みを浮かべ、自分自身を指してソウスケが言う。

 アケビたちに与えられた|称号《ステータス》は、ただの形だけのものではない。
 異世界より召喚された異邦人――それが〈選ばれし者〉の正体だ。
 その一人として、ソウスケもこれまで数回ほど王宮に呼ばれていた。一ヶ月の間にである。地味に頻度が高いのではと思わないでもないが、当事者たち曰く、『お互いにまだ腹の探り合いってところ』らしい。

(腹芸はあたしじゃさっぱりだからなぁ)

 ボクシングでいう、軽いジャブと言ったところか。探られると痛い《《腹》》がこちらにはあるのでやむを得ないことではある。任せっぱなしは心が痛むが、こういうのは|専門家《プロ》に任せるに限る。
 ひとしきり笑って、アケビはスンと真顔になった。

「ところでアンディさあ、同じセリフ、ハナちゃんの前で言える?」
「言えるけどたぶんすごい目で見られるよ」
「ハナちゃん、アンディにちょくちょく手厳しいよね」
「愛の鞭だと自負しております……」
「そっかあ」

 澄んだ眼差しを携え、ソウスケは仰々しく胸に手を当て、深くうなずく。
 それたぶん違うと思う――そう斬り捨てられるほどアケビは非情ではない。相づちと共に、生暖かい目で見るだけに留めておいた。

「……それで」

 ふたりの様子を眺めていたマヒロが、ぽやぽやした表情のまま、口を開いた。

「……ふたりは、なにをつくりたいんだ?」
「ン?」
「おれでよければ、つくるよ」

 だから来たんだろう? とマヒロが言う。
 薄く微笑んだマヒロに、アケビとソウスケは顔を見合わせて――

「じゃあお兄さんはツナギがほしい! 頑丈な、頑丈な作業服をひとつ! 夏がくるので通気性も確保してほしいです!」
「あたしはセットアップの服! 日差し避けるのに薄手の長袖がほしい! できれば女の子でおそろいにしたいんですけど!!」

 と。
 欲望に負けたきょうだいのような男女は目を輝かせ、大きく手を上げて身を乗り出したのだった。

 昼前の厨房は戦場――それを実感したのはこの世界に来てからだ。

「あっち〜い」

 備え付けのコンロをフルで働かせ、ついているはずの冷房が効いているのかもわからない戦場――その真っ只中で、アケビはせっせとすりこぎで芋を潰していた。
 真綿で首を絞めるような暑さに、額に滲む汗。
 ふうと息を吐き、首元に巻いた濡れタオルで額を拭う。口から出るのはまだ慣れることのでいない『違和感』についてだった。

「ここの夏、やっぱなんか違うよね〜」

 思わず出た言葉に、隣で作業していた三つ編みおさげの少女が笑いながらうなずいた。

「なんていうか……乾燥してる感じがするよね」
「そうそう! アンディともこの前話したんだけどさあ、日本と違って湿度が足りない。いや、ベタベタしないのはいいんだけどさあ……」

 あと空が青すぎてびびる。真顔で言ったアケビに、少女が穏やかな声で答える。

「ふふ、ほんとう……エンプティスは、日本とは違うね」
「ね〜」

 沸騰した鍋に乾燥マカロニをざらざらと流し入れ、そばに置いてある砂時計をひっくり返す。アナログな手法だが、厨房担当をしているとなかなかどうして砂時計は便利だった。
 今日の『食事当番』は三人で、アケビもそのひとりである。
 芋をこれでもかとすり潰しながら、アケビは少女に問いかけた。

「ナゴミちゃんは夏好き?」
「ううん。日差しが強いから、あまり」
「そっか〜」
「アケビちゃんは好きなの?」
「ん〜……消去法? 冬は雪かきノルマできるからさあ」

 アケビの答えに、ナゴミと呼ばれた少女は「ああ」と小さくうなずいて、

「アケビちゃんのおうち、山のほうだったよね」
「そうなの! だからもー冬がヤバいのなんのって! 最低でも朝は五時起き待ったなし!」
「それは……大変だねえ」
「だからあたしはまだ夏のが好きかな」

 ノルマも雪かきではなく庭と畑の水やりで済む。散水ノズル付きのホースを使えば一気に済ませられるのがなおよい。うんうんと頷きながら、アケビはもうひとりの『食事当番』の方に顔を向けた。

「センジュくんは夏好き?」
「普通」

 透き通った、男性の声が端的に答えた。
 一刀両断である。
 取り付く島もないとはこのことだろう。あまりにも切れ味の良すぎる答えに、アケビとナゴミは無言で見つめあう。

「……」
「……」

 マジで? という意味も込めて無言で件の人物を指差すと、ナゴミは心底申し訳なさそうな表情を浮かべながら、そっと指差すアケビの手を包み込むように握り、優しく下ろす。
 動きが止まったふたりに気づかず、作業場の違う黒一点は野菜の皮を剥き続けている。
 厨房はひどくシュールな状態に陥っていた。

(――『氷の美形』は伊達じゃないってか?)

 口元を引き攣らせ、半目になりながら心の中でぼやくアケビ。 
 コミュニケーションという概念をどこか――そう、母親のお腹の中にでも忘れてきてしまったのではと一瞬考えたが、『例外』が自分の隣にいるのを思い出し、違うなと即座に思い直す。

(アンディがいればまだ穏便に済ませられるんだけど、あたしそんな優しくないもんね)

 形ばかりの笑みを浮かべて、「そっかあ」と、ひどく優しい声で、アケビは言った。

「好きな男の子がセンジュくんみたいに一刀両断聞く耳持たず、立て板に水のなんじゃらほいみたいな男だったら、百年の愛も一瞬で風化して消えちゃうね」

 ガチン、と凍りつく黒一点。
 その様子を知りつつも無視して、アケビは今度こそ優しい笑みを浮かべて言った。

「ナゴミちゃんも、会話はちゃんとできる人がいいよね」
「え、ええ……っと」

 オロオロと視線をさまよわせて――数秒。
 こくりと、ナゴミはうなずいた。

「……ちゃんと意思の疎通ができないのは、困る……かな」
「だよね〜! マヒロくんはぽやぽやくんだけどちゃんとおしゃべりしようっていう気持ちがあるし、カイくんも言葉選びセンス独特すぎるけどちゃんと会話する意思あるし? レンくんはアレもう尖りまくりだけど女の子を大切にする気持ちは人一倍だし?」

 やっぱり話し合いって大事だよね〜! と明るく締めくくって、アケビは作業を再開する。
 隣に心配そうに黒一点を見つめていたナゴミも、砂時計の砂が落ちきったことに気づいて、慌てて作業に戻っていった。
 動かないのは件の黒一点のみである。

(ちょーっとおいたがすぎちゃったかな?)

 とはいえ、これからもツンドラ対応をされるのはさすがに困るのだ。
『お互いに助け合いの精神を忘れず、日々をより良く過ごせるように最善を尽くす』
 それが、異世界召喚されたアケビたち《《全員》》が心の指標として立てた目標なのだから。



 ――目が覚めて一番に見たものがどれだけ美しかったか、覚えているか?

 〈一〉

 おわりの見えない、一面の湖だった。

 わたしは湖にぽつんと浮かぶ小舟に乗っている。不安定な揺れに身を任せ、果てのない地平線を見つめていた。
 湖は底が見えるほどに透けていて、緑の混ざったうつくしい水面に、底に沈む石が宝石のようにきらきら光っている。
 しばらくその光景を目に焼き付けて、わたしは身体の力を抜いた。
 天を仰げば、雲ひとつないまっさらな青空が広がっている。
 降りそそぐ穏やかな陽射しが、春の陽気にふさわしい温もりで体を包みこむ。湯船に浸かったときのような優しい温もりが、わたしを抱きしめていた。
 わたしの乗る小舟は、湖の上を漂っていた。
 櫂はついておらず、湖面にぽつんと浮かぶのが仕事のようだった。時折風が吹くので、それでここまで流れ着いたのかもしれない。
 ぼんやりと考えながら、わたしは小舟から身を乗り出す。翡翠色の|水面《みなも》に触れてみたいと思い立ってのことだった。
 水面に、人のかたちの影が差す。

 《《それ》》は、此方を見つめていた。

 ■

 ――目を覚ますときに感じる、浮いているような感覚が好きだった。
 それを体感するたび、言葉に表すには難しい高揚感のようなものに包まれる。
 水に身体を浮かせたときのような、あの得体の知れない怖さと喜びが混じり合ったような、奇妙な興奮が体内に同居する感覚に、いつの間にか魅入られていた。
 ――眠りに落ちる直前の、一瞬の微睡みが好きだった。
 あまり意識しすぎると目が冴えてしまうので《《それ》》を感じるのはごく稀だったが、だからこそ体感したときはよく眠れた。深く深く、此処ではないどこかへ落ちていくその感覚は、心地よい眠りを齎してくれた。
 ――どうしようもないほどに、眠りにつき、目を覚ます瞬間が好きだった。
 だからだろうか。不思議と、わかってしまうのだ。『不可解な眠り』というものは、自分が愛するあの微睡みや浮遊感を与えてはくれない。
 ひたすらにどこか不愉快で、嫌な感覚が体を包み込んだ状態で目を覚ますのだと――

(……あたし、なにしてんの?)

 数度、まばたきをする。
 まず彼女の胸を支配したのは、戸惑いだった。
 ついさっきまで教室で自分の席に座っていたというのに、どういうわけか、自分はいま、知らない部屋に仰向けになって倒れている。
 アケビは寝起きで回らない頭を回転させる。
 明らかに奇妙な状況だ。『不可解な目覚め』特有の身体にまとわりつくような不快感もそうだが、なにより。

(きっもちわりぃ……)

 今にも|嘔吐《えず》きたいのを耐える。
 車酔いしたかのように、どうしようもなく気持ち悪かった。胃のあたりがムカムカして、今にも喉まで酸っぱいものがせり上がってきそうな、あの不快感が体を支配していた。
 ぐらぐらと揺れる頭、ぼやけて焦点の合わない視界、鉛のように重たくて動かない体――ここまで具合が悪くなるのは久しぶりだ。
 そもそも、此処は一体どこなのだろう。
 状況を把握しようと、アケビはどうにか使えそうな目を動かした。
 視界は普段よりぼやけているものの、状況を把握できる程度には見えている。必死に目を動かし、動かない体でも情報を得ようとアケビは音もなく藻掻く。

(……映画のセットみたい)

 四方を囲む年季の入った|煉瓦《レンガ》の壁、ふかふかの感触で体を包む深紅の絨毯。日本ではそう見かけない、西洋色の強い部屋である。窓は無いが、天井が高く開放感があって、それが部屋を広く見せているようだった。
 ぼんやりと天井を見つめていたアケビは、じっと目を凝らした。
 ステンドグラスだろうか、高く|聳《そび》えた先の天井に、色がついている。
 色とりどりのガラスがきらめいて、しっかり見えていない状態でも綺麗だと思う。けれどぼやけたそれは、いくつものライトが重なっているようにも見えてしまって。

(うー、チカチカする……)

 目の奥に星が弾けたような気がして、アケビは天井から目を逸らした。
 息を吐き出し、目線を地面に戻す。視界はさっきより鮮明になって、気持ち悪さも和らいできた。そのことに安堵しながら、アケビは体の感覚を確かめる。
 まだ強張っているところはあるけれど、動けないほどではない。

(うん、これなら動けるかも)

 よし、と心の中で気合を入れる。
 指先の感覚が戻ってきたのを感じ、仰向けになっていた体を動かそうと力を込めた、そのときだった。

「よかった、お目覚めになられたんですね」

 囁くような、丁寧な口調の女性の声が耳をくすぐった。
 唐突に聞こえた声に、ふたたび体がこわばる。目だけを動かすと、傍らに座り、こちらを見つめる、一対の目があった。

「……だ、れ?」
「あなたと同じく、この部屋で目覚めた者です」

 問いかけながら、アケビは自分の声が嗄れていたことに驚く。
 想像していたよりもずっと、自分の体は不調だったらしい。しかし、彼女の嗄れた声に驚くこともなく、声の主は――自分と同じ制服を着ている少女は、丁寧な口調で答えた。

(大人っぽい喋り方……)

 丁寧な口調と、落ち着いた声色が少女から感じるイメージをぼやけさせる。見覚えがあるので同級生のような気がするのだが、部屋が薄暗いこともあって、顔がよく見えない。
 確認するためにも、やはり起きなければ。
 身じろぎしたアケビに気づいたのか、少女が問いかける。

「体を起こしますか? よければ手伝いますが」
「ゔん……お願い、しても、い、かな?」
「はい」

 たどたどしい言葉に快くうなずいて、少女はアケビの体を支えてくれた。
 ふにっとした女性的な柔らかさと温もりが体を包む。偶然にも近づいたことで、薄暗くてあまり見えなかった少女の顔がよく見えた。
 まろい輪郭に鋭さのある目元を宿す、穏やかに微笑む少女がいた。

「うえ……体だっる……」
「お疲れさまです」

 少女に支えられ、ようやっと体を起こす。律儀に労ってくれる少女に、弱々しくもアケビは笑いかける。

「こんな起き方すんの、滅多にないからさあ……だるいのなんのって」
「他の皆さんもそう仰っていましたね。私は、比較的慣れているので大丈夫だったのですが……」
「マジ? すごいね」

 驚いたアケビに、「褒められることではありませんけど」と少女は肩をすくめる。

「ですが、今回に限ってはそのおかげで助かりました。……倦怠感が治まるまでは、このまま安静になさってください。まだ全員が目を覚ましたわけではありませんから」
「そうする……ありがと」
「お気になさらず」

 困った時はお互い様ですよ、と笑みを浮かべる少女。
 あたたかな微笑だった。それを見て――無意識に緊張状態が続いていたのか、アケビは今度こそ、体の強張りが解けていくのがわかった。
 だが、まだ問題はなにも解決してはいない。自分は今、やっとスタートラインに立ったようなものなのだ。
 気合を入れ直し、アケビは部屋を見渡した。

「やっぱ変な部屋……」

 思わず飛び出した言葉だったが、それ以外に例えようがないというのが一番強かった。
 教室とはまったく異なる知らない部屋。多少血が巡るようになった頭で自分を見下ろせば、履いていた内履きも脱げてどこかへ消え、文字どおり身一つの状態だ。
 これをおかしいと言わず、何をおかしいといえばいいのか。今のアケビの頭にはそれ以外の言葉が浮かび上がってこなかった。
 隣に座る少女が、「念のためにお訊ねしますが」と、アケビに問いかける。

「この部屋に覚えはありますか?」
「……ドイツ村?」
「そうですよね」

 頭を捻って絞り出した答えは、我ながら陳腐なものだった。そんな返答にも丁寧に相づちを打ってくれる少女に、いたたまれない気持ちになる。

(いやだって、こんなとこ、遊園地とかしかでしか見たことないし)

 今の自分にわかるのは、この部屋が少なくとも日常生活でそうお目にかかるような部屋ではないということだ。見かけるとしたら、それこそどこかのテーマパークくらいのものだろう。
 アケビの考えは顔にありありと出ていたようで、少女は「大丈夫ですよ」と言って、アケビを慰めた。

「私も、他の皆さんも同じように思いましたから。普段見ることのない部屋ですものね」
「ウン……」

 アケビの背を撫でながら優しくそう言ってくれる少女の優しさが沁みる。
 少女から滲み出る優しさは、なぜだか母親を彷彿とさせた。見た目も性格ももちろん違うし、同級生に違いないのに、確かにそこには母性があった。
 アケビはスン、と鼻をすする。

(――あ、そうだ)

 お礼を告げようとして、アケビは大事なことに気がついた。

(あたし、まだ名前も言ってない)

 そして、依然として見覚えのある彼女の名前も思い出せないままだ。
 ちらりとアケビは少女の顔を見やった。
 丸みのある、やわらかな輪郭が美味しそうな女の子。黒髪を肩下まで流している、自分のことを介助してくれた同級生――そう、《《クラスメイトのはずだ》》。
 もとより、人の名前は比較的覚えている自信があった。今だって、大半のクラスメイトの名前は|諳《そら》んじて言える程度には。
 ……だというのに、何なのだろう、これは。

(なんで出てこないの?)

 確かに覚えているはずの彼女の名前が、ぽっかりと穴が空いたようにして思い出せない。答えを黒く塗りつぶされたかのような気持ち悪さに、アケビは気づけば声を上げていた。

「あっ、あのさ」
「どうかされましたか?」

 根気強く背を撫でてくれていた手が止まる。
 不思議そうに首を傾げた少女に、アケビはあのね、と呟いて。

「……な、なまえ」
「なまえ」
「そう。名前! あ、あたし、アケビっていうの。ごめん、ちゃんと名乗ってなくて! それで、あの、あなたの名前、訊いていい……?」

 本来なら、クラスメイトの名前は把握しているはずだった。
 春を迎え、クラス替えが行われてアケビが一番にするのが『クラスメイトの名前を把握すること』だからだ。
 話すことがなくとも、一年間同じクラスになるのだからと、ルーティンのように覚えてきた名前。ましてクラスメイトの名前なら、曖昧でも欠片でも覚えているはずなのに、しかし、彼女の『名前』が出てこない。
 自力で思い出せないことは悔しいが、背に腹は変えられない。そもそも、恩人の名前を知るのに恥もなにもない。それを|躊躇《ためら》うことこそ格好悪いことだ。
 だけど、不快に思ったらどうしよう。
 一抹の不安が過る。もしかしたら傷つけるかもしれないと思うと胸が痛んだ。
 だって、クラスメイトなのだ。話したことがほとんどないとはいえ、新学期が始まってもう三ヶ月は過ぎようというのに名前も呼べないなんて。それも男子ならまだしも、同じ女の子の名前をだ。
 そんなアケビの不安をよそに、目を瞬かせた少女は気を悪くすることもなく、「そうですね」とうなずいた。

「こちらこそ、名乗りもせず申し訳ありません」
「いやっ、そんな、だって、クラスメイトだよね? ごめん、ほんとなら覚えてるはずなんだけどっ! ……うー、ごめん。すごいダサいこと言ってるのはわかってんだけど、あの、ほんとに」
「大丈夫、わかっていますから」

 相槌を打ちながら少女は「アケビさんと呼んでも?」と、優しく問いかける。アケビが即座に首を縦に振ると、彼女はまろい輪郭に笑みを|描《えが》いた。

「アケビさん、とても記憶力がよろしいんですよね。以前、同じクラスだった子から話を聞いたことがあります。だから、大丈夫です。わかっていますよ」

 言外に『心配しなくていい』と諭されて顔が熱くなる。自分がどれだけ焦っていたのか、身につまされるような気分だった。

(あたし、かっこわるい……)

 落ち込むアケビをよそに、少女はとびきり穏やかに答えた。

「私の名前は、ミヤコといいます」
「……ミヤコ」
「はい」

 どうぞミヤコと呼んでください。
 そう言って、少女――ミヤコはアケビと顔を合わせて、優しく笑いかけた。

〈二〉

「――嗚呼、目を覚ましたんだね」

 ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
 シャボンのような清潔感のある香りと、バニラだろうか、すこし香水のような、甘い香りが混ざり合って、彼の周りに漂っているような気がする。甘ったる過ぎず、かといってあっさりし過ぎているわけでもない。しかし一度知ったら忘れられない、独特な香り。
 よかった、という呟きが耳に響く。
 声の主は軽やかな足取りでアケビに近づいてきた。
 砂糖菓子のように甘く整った美貌、それと同じくらい甘い声は、普段話すことがなくともアケビの記憶に色濃く残っている。

「おはよう。目が覚めてよかったよ」

 わざわざ膝を折って目線を合わせた彼は、間違いなくクラスメイトのひとりだった。
 顔に|蕩《とろ》けそうなほど優しい笑みを浮かべ、アケビを見つめている。眠気も倦怠感もすべて吹き飛ぶような微笑。その抜きん出た美貌から、もう一人のクラスメイトと共に校内屈指のイケメンだと人気を博していたのを思い出す。

「う、ウン。おはよう……」

 ぎこちなく頷いて、アケビは返事をする。
 クラスメイトとはいえ、この美少年とはほとんど話したことがなかった。二年へ進級してから同じクラスになったというのもあるが、純粋に話す機会がなかったのだ。
 対して、美少年は気負った様子もなく、軽やかな笑い声を上げる。

「ははっ、驚かせちゃったかな? 普段、話すことはあまりないもんね」
「あー……ごめん、正直驚いてる」

 彼は少女漫画から抜け出てきたような美男子ではあるが、漫画のように常に周囲に人が集まっているようなタイプではない。
 あくまでも『クラスメイト』として周囲に溶け込んでいたこともあって、話題には名前が上がるものの、その美貌を見に廊下に見物人が出るようなこともなく。
 教室内で他の女子から声をかけられるところを見かけることは多かったが、それだけだ。アケビから声をかけようとしたことはないし、これからもよほどのことがない限りそうだっただろう。
 けれど、相手の方はそうでもなかったらしい。

「本当に、無事に起きてくれてよかった……」

 美少年は心底安心した様子で、噛み締めるように呟いた。
 その姿すら画になるのだから、美少年とはつくづく凄まじい生物である。

(あたし、なんかしたっけ……?)

 アケビは心の中で首を傾げた。
 気のせいだろうか、まるで友人に接するかのように距離が近い気がする。
 会話もほとんどしたことのないクラスメイトに対しての反応にしては少々過剰ではと思わなくもないが、きっとそういう性格なのだろう。

「……ま、なんとかね」

 とりあえず笑っておけばいいか、とアケビは誤魔化すように笑った。

「……では、あとはお願いしてもいいですか? ヨクくん」
「うん。任せて」

 一段落ついたところで、静かに二人の様子を見つめていたミヤコが話を切り出した。
 えっ、とアケビが口を挟む間もなく美少年が笑顔でうなずく。ほとんど話したことのない美少年と二人きりはさすがに荷が重い。
 縋るようにミヤコを見れば、あの母親を彷彿とさせる微笑みが返ってくる。

「私は部屋の中をしばらく調査してみます。まだ全員が目覚めたわけではありませんから」
「えっ、えっ……あ、じゃああたしも手伝うよ!」
「アケビさんは目を覚ましたばかりで、まだ本調子ではないでしょう? 無理に動いてなにかあっては大変ですから、ゆっくり休んでいてください。ヨクくんはアケビさんよりも早く目覚めていますから、ある程度の質問には答えてくれるはずです」
「う、うぅん……」
「――もしかして、俺といるのはイヤ?」

 渋るアケビに、隣から甘く切ない声色で訊ねる声が届く。ゾワゾワと背筋に何かが駆け上がった。「ね?」と幼子を諭すようにミヤコに言われてしまえば、もう抗いようがない。

「そ、んなこと、は、ない、ですよ……?」

 しおしおと笑みを浮かべて受け入れたアケビに、二人は似たような笑みを浮かべたのだった。


(あーん、身動きが取れない……)

 そわそわ、と体が小刻みに揺れる。どうにも座りが悪く、落ち着かなかった。アケビはむにゅむにゅ唇を動かし、ちらりと隣に視線を向ける。
 横顔からして美少年なクラスメイトが座っていた。
 実際には少ししか時間は経ってないのだろうが、アケビの体感は何時間も共に居るような状態だった。彼の周囲に漂う、人を惹き寄せる甘い香りが自分の体にも移っているような気すらしてくる。
 此処に友人が居たらさぞ羨ましがられることだろう。頭の中の友人たちは『こういう時こそイケメンをキメんだよ!!』と叫んでいる――彼女たちは立派な面食いだった。

「――っク、ふふっ……」

 唐突に聞こえた笑い声に体がびくんと跳ねる。
 忍び笑いのような、押し殺した笑い声だ。おそるおそる顔を向ければ、口元に手を当てて、くすくすと笑う美少年がいた。

(えぇ……?)

 これはどうしたらいいのだろう。考えあぐねるアケビに、彼は「ごめん」と呟き、少し待ってほしいと空いた手でジェスチャーする。
 わかったと頷いて返し、アケビはしばしこの美少年を観察することにした。
 スッと通った鼻筋、垂れ目がちな甘い目元、白い肌。だけどちらちらと見える肌色は、間違いなく男性の体だ。アケビよりも太く、がっしりとしている。
 確か部活には入っていなかったはずだが――彼は鍛えているような体つきをしている。

(うらやましいなぁ)

 アケビも部活には入っていないが、家で自主的に筋トレは行っていた。暇を持て余してきょうだいに付き合う形で始めたトレーニングだったのだが、今ではすっかりライフワークの一部になっていた。
 女と男じゃ筋肉量が違うのは重々承知だが、此処まで成果に差が出ると羨ましくもなるというものだ。

「……あんまり熱烈に見られると、ちょっと恥ずかしいかな」
「えっ」

 あからさまに見られているのに気づいたのか、彼が恥ずかしげな表情で言う。
 アケビは両手を上げ、慌てて弁明した。

「ご、ごめん! 悪気なかったんだけど……男の子ってやっぱいいなあって」
「男が?」

 きょとんとした表情を見せた彼に、アケビはうなずく。

「ほら、筋肉とか目に見えてわかるじゃん? あたし、家で筋トレしてるんだけど、あんまり目に見えて成果がなくってさ。男の子はやっぱり追い込んだら追い込んだだけバッキバキになっていいなあと思って」

 けしてやましい考えがあったわけではないのだと言外に伝える。アケビの言葉に、なるほどと彼が呟いた。

「そっか。自分じゃあまり自覚がなかったから」
「う、羨ましい……言ってみたいぜ、その言葉……」

 体重は一応減少し、見た目こそある程度ボディメイクできていると思っているが、所詮は付け焼き刃である。
 ムム、と唇を尖らせたアケビに、彼は愉快そうに肩を揺らす。

「っふふ、アケビちゃん、すごく……なんていうのかな、想像していたよりも、すごくあっさりしてるんだね」
「そ? でも、あたしもヨクくんの印象変わったかな」

 やっぱ話してみるもんだねえ、と呟くアケビ。
 今までは『観賞用』と一線を引いてきたが、こうして話してみると気さくで、話しやすいタイプだった。
『美少年である』という一点で大きく話しにくいと気後れしてしまうのだが、一度打ち解けてしまえばあとは気楽に話しかけられる、そういう性格の人だというのがアケビの得た所感である。話しかけられないどころか、そもそもまともに会話が成立しないのがもう一人の美少年だ。
 そう考えれば、彼のなんと話しかけやすいことか。アケビは笑って、友人に接するように答える。ヨクの動きがぴたりと止まった。

「――名前」
「ん? 名前?」

 驚いた表情のヨクにアケビは暫し頭を回転させ、自分の失態に気づいた。
「あっ」と思わず声に出る。

「ご、ごめん! ほとんど話したことない奴にいきなり名前呼びされるとか、キモかったね!? あたしヨクくんの名字完璧に言えるか自信なかったからつい名前で呼んだんだけど……マジごめん、不快なら名字で呼ぶからちょっと名字の正しい発音方法を教えてもらっても」
「いやっ、いやいや、ち、違う! 嫌じゃない!」

 動揺していたせいか、マシンガントークのように怒涛の勢いで話すアケビをヨクが制止した。アケビの動きがぴたりと止まる。
 ヨクはアケビを宥めるように、落ち着いた声で言った。

「大丈夫、嫌じゃないよ。ぜんぜん、嫌じゃない!」
「……え、そ、そうなの?」
「そう!」

 アケビの問いに、ヨクが大きく首を縦に振る。興奮しているのか、頬に赤みが差している。

「ほら、僕たち、ま、まともに話したこと、なかっただろう? だから、名前を知っててもらえたことにびっくりしちゃって」
「いやいやいや、そりゃあ天下の美少年だもん。名前くらい知ってるって。むしろあたしの名前を知ってたことに驚いてるんだけど」
「美少年だなんて、やめてよ……教室で、いつも明るく話してるところを見かけていたから。アケビちゃんはすごく明るいから、目に入るんだよ」
「そ、そうかな?」
「そうだよ。だからいつか話しかけようと思ってたんだけど……なかなかチャンスに恵まれなくて」

 と、ヨクが言う。
 予想外に褒められて、なんだか体がムズムズしてくる。一方的に知っているだけの相手だと思っていたのに、相手の方からも認知されているとは――友人たちに知られたら、飛びかかられてもみくちゃにされてしまうこと間違いなしだ。
 頬を掻き、アケビは「照れるなあ」と笑った。
「僕も照れているよ」と、ヨクも笑って。
 二人はしばし見つめ合い――脱力したかのようにへにゃりとした笑みを浮かべた。

 薄明かりに照らされた部屋の中を、アケビとヨクは並んで座っている。
 見つめているのは、眠りから目を覚ました誰かを介抱するミヤコの姿だった。

「……ミヤコ、すごいよね」ぽつりとアケビが言う。「あたしさあ、たぶんミヤコがいなかったら、不安でヒスってたかも。たぶん、いや絶対にヤバかったと思う」
「分かるよ。僕も――彼女のお陰で、今でこそだいぶ落ち着いているけれど、目覚めたばかりの時は、しばらく動揺が抜けきらなくてね」

 僕が目を覚ましたのは、三番目くらいだったかな、とヨクが言う。
 時間にして、僅か数時間前の出来事ではあるものの、この部屋の中に居ると、ひどく時間の流れが緩慢に感じてしまう。まるで遠い昔に起こった出来事のように、彼はアケビに話した。

「だけど、ミヤコちゃんと――もうひとり。二番目に目を覚ました子で……セイって言うんだけど、分かるかな?」
「ああ、マスクの男の子でしょ? 分かるよ、ある意味有名だしね」

 と、アケビが肩を竦めながら答える。
 そうだね、とヨクは微笑んだ。

「彼と一緒にね、落ち着くまで話をしてくれていたんだ。それで、なんとか落ち着いたよ」

 〈三〉

 薄暗がりの中、煉瓦の壁に溶接された照明に灯された火が揺れている。
 何もない閉鎖的な空間。広さでいえば、教室ひとつ分よりも少し大きいくらいの――天井が高く、窓のない部屋の中、蠢く複数の影があった。
 影は部屋の中心に、円になって集まっている。
 そこに居たのは、十二人の男女だった。

「とりあえず、改めて状況を整理しましょう――」

 口火を切ったミヤコに、他の十一人がうなずく。
 男子七人、女子五人。
 そのうち二名は隣のクラスの生徒で、偶然教室に来ていただけだった。人選に規則性はなく、偶然『その時間に教室の中に居た』というだけの――ただそれだけの関係性。
 お互いに存在は認知しているが、一部を除き、会話するほど親しくはない。言ってしまえば、こうならなければ話すこともなかったであろう相手。
 しかし、こんな状況では人見知りする時間も猶予もなく、少年少女は打ち解けた。異常なほどのスピードで、全員が心を通わせ合ったのだ。元からそうであったかのように。
 短時間で打ち解けるため、緩衝材となってみせたのは進行役を承った彼女――ミヤコである。その物腰の柔らかさと穏やかな雰囲気で不安に満ちた心を解きほぐし、アケビにそうしたように、ヨクにそうしたように、親身になって接した。
 こんな異常事態の中、一体どれほどの人が、ここまで親身になってくれるだろうか? 弱った心に優しさが沁みるように、少女の善性が、この短時間での結束を可能にしてみせたのである。
 ミヤコは全員に分かるよう、ひとつひとつ丁寧に言葉を紡ぐ。

「私たちは、この部屋で目を覚ます直前まで学校の教室の中に居ました。朝の時間で、まだホームルームも始まっていない時間帯――そして偶然にも教室の中に居た私たちは、意識を失い、この部屋で目を覚ましました」

 付け加えることはありますか? という問いかけに、全員が首を横に振る。
 現在の状況は、彼女の説明のとおりだったからだ。
 ミヤコは言う。

「わかっていることといえば、この部屋が教室ではないということと……」
「オレらの端末の『時間』が同じ時刻で止まってる、っつーことね」

 言葉を引き継いだのはソウスケだ。
 隣のクラスから来ていた二人のうちの一人である。諸事情で一年ほど休学していたため、年齢はひとつ上だという。そんな彼は、ミヤコに次いで人を纏める力があるようだった。
 ひらりと自身の持っていた携帯端末を振り、ソウスケは続けた。

「どうにも、故障とかではないわな。時計が止まってるってのと、電波が飛んでねえから圏外ってだけでタイマー機能もカメラ機能も使えるし、まーじで時間止まってるだけ」

 そこに、少しばかり悪戯な声で、アケビが付け足す。

「ついでに充電も減らない?」
「んだなあ。これは吉報だよな、何せオレたち身一つだし。靴まで脱げてるから、言ってしまえば村人よりも今のオレたちはか弱いといっても過言ではない」
「それは過言じゃない?」
「うはは! ま、ともあれ。確認したのが持ってる子ら限定だから母数が少ねえけど、間違いないっしょ」
「授業が間近で、手元にない人も居ましたからね」

 頷きながらミヤコが答える。他の同級生たちも、概ね似たような反応だった。
 携帯端末を持っていたのはアケビやヨク、ソウスケを含めた六人ほどで、残りの面々は各自端末を持ち歩かなかったり、通学用の鞄に既に仕舞ったりして手元にない状態だった。
 だが、六人も端末が――それぞれ契約会社や機種も違う端末が、全て『同じ時刻』で止まっている。これ以上に確かな証拠も無いだろう。
 十二人はそう結論づけた。結論づけるしかなかったとも言えるが――

「ま、でもわかっただけで一歩前進だよな」

 と、爽やかな笑顔で言ったソウスケの言葉に尽きる。

 ただでさえ、暗中模索を強制させられているような状況なのだ。ひとつでも何かが『判明する』というだけで、ちょっとした希望にもなる。
 それを裏付けるように、それぞれの表情も目覚めたときの困惑や緊張感を滲ませたものではなく、少しリラックスしたものになっている。

「……なんか、いい感じだね?」
「ええ、安心しました」

 いつでもフォローできるように、と隣り合う形で座っていた二人は、ひそひそと言葉を交わす。アケビとミヤコは顔を見合わせて微笑む。

「……あの、皆さん。よろしいでしょうか?」

 話を続けるため、ミヤコが声を上げる。
 状況説明はできた。後は、この部屋からの『脱出方法』について話さねばならない。

「これからのことなのですが……」

 ミヤコがそう言った瞬間である。
 アケビは、見てしまった。

「――ミヤコ様。ここからはどうか|私《わたくし》めにお任せください」

 覚えのない男の声が部屋の中に響く。
 あれは、なんだ?
 口の中が急速に渇いていくのが分かった。
 ぞっ、と背筋が凍る。アケビは息を殺し、ただミヤコの背後に居る《《それ》》を見つめる。薄暗さが拭えない室内では、《《それ》》がどこから出てきたのかまでは分からない。
 感じたのは本能的なおぞましさ――ホラー映画を観た時のような、スッと体の芯が冷える感覚。隣に座っていたのに、至近距離で話をしていたのに、それでも気づけなかったという事実。

(あたしは、何で気付かなかった――?)

 ミヤコの背後から、ぬるりと青白い男の手が現れた。

「……えっ?」

 呆然と、ミヤコが呟く。
 どこからともなく聞こえてきた男の声。
 その声と共にミヤコの背後に現れた手――活気づいていた部屋の空気が瞬時に凍りつく。誰かの「ヒッ」という押し殺した悲鳴が、《《それ》》は異常なのだと訴えていた。
 目を見開き固まってしまったミヤコの頬を、その《《手》》が撫でる。するりするりとどこかいやらしげな手付きで、頬から首筋、肩、腕へと、舐めるように行き着いて――

「お待たせしてしまい、大変申し訳ありません」

 ミヤコの手と自分の手を恋人同士のように絡め、彼女の耳元で囁くようにそう言った人物――アケビが凝視していたその人物――居るはずのない『十三人目』が、影から浮き出るように姿を表した。

『十三人目』は、背丈の高い男性だった。
 青白く思える白い肌に、若草色の髪と蜂蜜色の瞳を持つその男は、右目に|片眼鏡《モノクル》を掛けていた。白のローブの下には長身痩躯が隠されており、留め具の血のように赤い石のブローチがギラギラと輝いている。顔立ちは日本人とは明らかに異なる、彫りの深い整った顔だ。

「あ……あなた……は、一体……」

 懸命に声を絞り出し、ミヤコが男に訊ねた。
 無防備な少女の背後から突如として現れた男は、彼女のその言葉に貼り付けたような笑みを浮かべ――

「嗚呼ッ……! 皆様無事にご覚醒なされたようで|私《わたくし》大変安心いたしました! 恥ずかしくもタイミングを逃してしまい正直いつ出ていこうか迷っていたのですがさすがはミヤコ様。一番に目を覚まして室内の探索を始めた時点で思っていましたが、随分と統率力に長けておられるようで、次にお目覚めになられたヨク様と共に他の皆様のメンタルケアまで手厚く行われるその手腕、ぜひわたくしめにもご教授頂きたく――」
「いやなっがいわ!」

 気づいたときには叫んでいた。
 アケビのツッコミに、男はきょとんとした顔で喋るのを止める。
 寒暖差で風邪を引きそうだった。どこで息継ぎしているのか分からないノンストップのコミカルな語り口に飲まれかけたが、それどころではない。この男の登場で部屋は静まり返り、急なホラー演出に悲鳴まで上がったのだ。アケビの寿命も、この男のせいで数年縮まった気がする。

「あんた誰? どちら様? ワット・ユア・ネーム!? 名前を名乗れ!」

 アケビは即座に立ち上がり、彼女を男から引き剥がして自分の背に隠した。
 さり気なく触れたミヤコの手は冷えていて、顔色も青くなっていた。そうなって当然だった。誰だって、突然あんなホラー体験をしたらそうなってしまう。
 ひりつく空気の中、不思議そうな顔をしている男だけがただただ異様だった。
 男はあからさまに警戒されているにもかかわらず、「これは失礼いたしました」と悪びれる様子もない笑顔で言った。

「では、わたくしも僭越ながら自己紹介させていただかねばなりませんね」

 男は胸に手を当て、恭しく一礼する。

「私はバロン。この〈エンプティス王国〉において、宮廷魔術師をさせて頂いております」

■〈四〉

「きゅうてい」「まじゅつし」
 アケビとミヤコは顔を見合わせた。
 未知の言語を聞いたときのような、呆けた顔で互いに見つめ合い、頭には大量の疑問符が浮かんでいる。
 そしてそれは、呆然と見つめていた同級生たちも例外ではなく。
「なんて?」「ちょい待ちちょい待ち、情報が地味に多いな!?」「王国? 王国って言った?」「僕の記憶が確かなら、日本は王国ではなかったはずなんだけど」「そうだよ、ましてエンプティスなんて小洒落た名前でもないよ」「……外国なのか? ここ」「ぎゃあ! 怖くて言わんかったことを!」「私たち、いつの間にか密輸されてた、ってコト!?」「黙りなさい、耳が痛い」「ぎゃいん!」
 一気に大混乱に陥った部屋の中、ハッと意識を取り戻したミヤコが声を張った。

「――ッ、皆さん、落ち着いて!」

 この数時間の中で一番大きな声。
 パンッ、と大きく柏手を打ち、そう言ったミヤコに、ぴたりと声が止む。
 全員の視線を受けながら、ミヤコは一回り小さい声で、もう一度「落ち着いて」と、できるだけ穏やかに言った。

「落ち着き、ましたか?」
「…………はい」




 バロンの屋敷はとても広い。この屋敷は王宮から下げ渡されたものらしく、元は側室の一人の住まう場所として使っていたものだという。
 現在のエンプティス王は未婚であるため使われていないことと、数代前から娶る妃に数の制限が生まれたらしく、もう使わない館を体良く押し付けられたのだとバロンは笑いながら教えてくれた。
 ここまで広いと、何をしても早々バレなくてありがたいのですよ――と、それはそれはとても美しい微笑みとともに。

(いや、なにしたんだあれ)

 思い出しながらアケビは頭を捻った。
 あの胡散臭い笑みは確実に『何か』をやらかしたことのある笑みだった。具体的に何をしたのかを言わないあたり、確信犯のような気もするのだが――藪をつついて蛇を出すのも憚られる。
 ともあれ、バロンの屋敷はすさまじい豪邸であった。
 やって来たばかりの頃、この屋敷は田んぼ何枚分あるのかなとみんなで話したことを思い出す。
 歩数計はないので体感だが、暮らし始めたばかりの頃はこの迷路のような広さに慣れず、歩きすぎで何人か轟沈していたし、アケビを含めた多少は体力に自信のある面々でもふくらはぎが張ってしまうほどだった。おそらく、通っていた学校並かそれ以上の広さだ。
 だというのに、屋敷は綺麗にキープされているのだから不思議なものである。この屋敷に使用人は誰一人として居ないというのに。
 しかし、慣れてしまえばどうってことはない。人間は適応できる生き物だ。
 屋敷は構造が複雑になっているぶん、ショートカットできる道というものがいくつかある。日々の暮らしでそれを見つけては全員で共有し、アケビたちは屋敷での生活に慣れていった。
 蝕むような陽射しを帽子で避けながら、アケビは庭を進む。季節は夏の第二月に入り、日本で言う夏の到来だ。
 異世界に十二ヶ月というものはなく、春夏秋冬、それぞれの季節に三ヶ月ずつ季節が分けられており、春の第一月、春の第二月……と呼ぶらしい。これも、バロンが〈魔術〉や〈魔法〉とともに教えてくれたことだった。

「おーい、ご飯できたよー!」

 アケビが大きな声で言うと、庭の一角に作られた訓練場に居た面々――〈選ばれし者〉として表に立った四人が手を振って応えた。
 四人――ヨク・ソウスケ・ハナ・カイは、毎日のようにこの訓練場で〈祝福〉や魔法の練習に精を出している。
 とはいえ、主にするのはカイ以外の三人だ。カイは〈祝福〉が分析系統であるため、三人の使う魔法の精度を上げるサポート役が主な仕事だった。
〈選ばれし者〉という称号はなかなか厄介なもので、ゲームの中の勇者一行のように、国から『力』を使った依頼なども舞い込むらしい。
 四人以外の面々は、表向きバロンの屋敷で〈選ばれし者〉の世話係をしているという設定なので、表立って力になれないのが心苦しい限りだ。当人たちは気にするなと言ってくれているが、それでもだ。


「異世界に来て、もうそんなに月日が流れたんだね」

 しみじみと呟くヨクに、アケビも「だねぇ」と笑いながらうなずく。
 困難を極めると思われていた異世界生活は、不思議なほどにすんなりとアケビたちの『日常』へと成り代わった。
 第一にバロンのサポートあってのことだが、全員がこの生活に順応するのが早かったというのが大きいだろう。



 ここで過ごすうち、体に変化が起きた者もいる。特に変化が顕著だったのはミヤコだ。
 目覚めた日、不安の中でアケビを包み込んでくれた柔らかさは鳴りを潜め、まろい輪郭も随分とシュッとしてしまった。
 その変化について、|彼女《ミヤコ》は哀愁を帯びた様子で言及してくれた。

「……ええ、はい。そうですね、エンプティスに来てからというもの、目に見えるようにスルスルと痩せまして……ふふ、いかに自分が運動不足だったかを思い知らされる日々ですね……」

 丸みを帯び、ふくよかだった体型もシュッと縦に長くなり、なんだかとても切なくなったのを覚えている。あの包容力のある恵体は魔性だった……と、口には出さないが思っているアケビである。
 けれど同じように思っていたクラスメイトも居たようで、何かしら、ミヤコへ供えようとする動きが一時期活発になっていた。
 落ち込んだミヤコに、ネネが「元気出しなよォ」と笑顔でケーキを差し出して誘惑していたこともあった。見た目こそ可憐で人形のようなネネであるが、なかなかどうしてその性格は一癖も二癖もあり、台風のような少女だった。
「食べちゃおうよぉ、おいしいよ?」
「やめなさい馬鹿」
「あいやぁ!」

 ゴンッ! と痛そうな音が響く。誘惑してきたネネに、無表情で拳を振り下ろしたハナの姿は今でも鮮明に思い出せる。能力と相まって、まさしく『氷の女帝』のようだった。

(まんまるで柔らかそうなミヤコも好きだったんだけどなぁ。マシュマロみたいで)

 当初から風呂を分けるなど、肉付きがいいのを本人は気にしていたようだが、アケビからして見ればまだまだ標準値の体型だと思っていた。むしろあのふっくらした感じがいいのに、とソウスケとこっそり話したことだってある。ソウスケは胸と尻のハイブリッド派閥だという要らない知識まで得た。
 ネネなど、本人を前にして「こンのムチムチ感が興奮しちゃうんだよなァ〜!」と大盛り上がりで、「ネネ殿|理解《わか》ってるぅ!」とレンと意気投合して周りから怯えられるほどだった。女体への熱量が飛び抜けて異様に多いふたりである。

(骨格とか筋肉の関係もあるから、イコール肥満って訳でもないしねえ)

 しかし、ミヤコ本人が悲壮感を漂わせながら「健康的になったのを喜べばいいのか、己の怠惰を嘆くべきなのか……」と顔を覆っていたので、もしかしたらふくよかなのを気にしていたのかもしれない。

 穏やかで動じない振る舞いに対し、なかなか繊細な一面のある乙女、というのがアケビの中のミヤコ評だ。
 何であれ、アケビは『本人が幸せに過ごせる体型がベスト』と思っているので、ミヤコが複雑そうにしつつも嬉しそうにしているので、「良かったね」と笑っている。
 個人的にはもう少し筋肉傾倒派が出てもよいのではと思う。朝イチの筋トレ後の牛乳は効くぞ、というのがアケビの主張である。
 今のところ、賛同してくれているのはソウスケくらいだが。


「ね。ねねね、ミヤコ」
「はい? どうかされましたかアケビさん?」

 不思議そうに首を傾げたミヤコに、アケビは顔を近づけた。

「あ、あのさ……センジュくんって、もしかして、ナゴミちゃんのこと好きなの?」
「え?」

 チラチラと見る視線の先には、仲睦まじく買い出しをする男女の姿があった。件の人物――センジュとナゴミのふたりだ。
 エンプティスの城下町に二人はよく馴染んでいた。今は店先に並ぶ雑貨を見ているようで、何かを見つけてはセンジュから顔を近づけて話しかけている。それにクスクスと笑って応えるナゴミの姿は、まさしく恋人同士のそれだった。

(ナゴミちゃん、楽しそう)

 よかった、とアケビは人知れず胸を撫で下ろした。
 ナゴミは非常に大人しいというか、こちらが若干不安になるほど自己主張の少ない女の子だ。今は改善されてきたものの、出会ったばかりの頃はあまり顔色も良くなさそうで、見ていて。
 とても良い子だというのは、この異世界で過ごす日々で十二分に知っている。一行の中で一番料理上手で、今では台所を統べる主のポジションだ。
 そんなナゴミに対し、甲斐甲斐しく構っているのがセンジュだった。

(あの氷の美形が! 溶けてる!!)

 彼――|桜庭千樹《さくらばせんじゅ》は、ヨクと並ぶ美少年でありながら、誰にも心を開かない鉄壁の無表情と容赦のない言葉の無感情さで有名な美少年だった。
 絵画のように浮世離れした美貌に、血が通ってるのか怪しくなるほどの冷徹さが『観賞用イケメン』というレッテルを貼られるに至った理由である。
 もう一人のイケメンについては、人当たりはいいのだが、人当たりが良すぎて告白のタイミングを与えないタイプだとアケビはこの異世界に来てからの日々で思い知った。
 |彼《ヨク》は恋愛対象として見られないタイプのイケメンだ。なので、異世界に訪れて初めて見たセンジュのデレっぷりを初めて見たとき、アケビは慄いた。ちょうどそばに居たソウスケに飛びついたほどに。
 今だって、ナゴミに語りかける姿は普段の冷酷さが鳴りを潜めたかのように穏やかで、春のように温かな微笑が浮かんでいる。
 瞳は熱っぽく、春というより灼熱に近い。猛暑を閉じ込めたような瞳だ。

「あたし、センジュくんはそもそも恋に興味ないタイプだと思ってたからさあ!」
「……なるほど。アケビさんはご存知なかったんですね。……あの、彼は元の世界にいた頃からナゴミさんにはあんな感じですよ」
「うそォ!?」
「私は一年の頃、図書委員会で同じだったので見慣れていたのですが……そうですね、センジュくん、クラスでは立て板に水って感じですものね」
「そうッ、そうそう、そうなの!」

 何度もうなずくアケビに、わかりますよとミヤコもうなずく。
 そして、ぽつぽつと二人の馴れ初めのようなことを教えてくれた。

「二人は一年生の頃、同じクラスだったんです。きっかけは私にはわかりませんが、どうにもセンジュくんから惹かれたようで……なので、図書委員では公然の秘密のような感じでした。いたずらに吹聴するようなタイプの人は、そもそも図書委員会には入らないでしょうし……彼、ナゴミさん以外の人間への対応にあからさまに温度差がありましたから」
「なるほど、そゆことね……」

 アケビを含め、センジュは大半の人間からは魔王のような美少年という認識だったので、ミヤコから語られたエピソードは非常に珍しいものだった。
 同時に、図書委員たちの判断は賢明だったなとも思う。

(センジュくん、おっかねえもんなあ。味方で良かったーって思うタイプ)

 おそらく、彼はナゴミ以外の人間が相手なら躊躇わずに傷つけることができる。彼にとって、ナゴミ以外の人間は須らく「モノ」でしかないというのがアケビの見解だった。
 これは女の勘だが、間違ってないだろうとミヤコの言葉で確信した。

「情報止められてたんだ。……ま、でもよかったよねー、知られてたら絶対ナゴミちゃん苦労したろうし」

 アケビの言葉に、ミヤコは、ええ、ええ、と深くうなずいた。

「センジュくんは隠れファンが多いですから……」

 どれだけ冷徹な対応だろうが、センジュは普通に生きていたらそうそうお目にかからないような端正な顔立ちの美少年だ。あの美貌は思春期の少女には『毒』と言っても過言ではないだろう。遠い目をして、疲れたような声色で呟いたミヤコには心当たりがあるようだった。

「……当時、センジュくんと同じ日の当番を巡って、女子の先輩方がよく争っていましたね……水面下で」
「うわこっわ」
「当然、センジュくんもそれを察していたようでして、なので、一年の頃は私が同じ日の当番を務めました。ナゴミさんは同じクラスだったので、組み合わせの都合上難しくて」
「あ、だからセンジュくんミヤコには人当たりいいのか!」

 納得のいく理由がやっと聞けた。手を打つアケビに、ミヤコが笑って頷いた。

「あの中で、私が一番マシに思えたようでしたね。事実、私も当番のときは世間話程度しかしませんでしたし……適度な距離は大切だとつくづく学んだ一年でした」
「でも、それじゃミヤコが大変だったんじゃない? 先輩からいじめられなかった?」
「いいえ。私がどこまでもフラットな対応だったのが功を奏したのか……何度か探りを入れられはしましたが、先輩方は所詮その年で卒業される方々でしたし、毅然と対応すればそれ以上は」
「へ〜!」

 ミヤコは温厚だが、時折とんでもない毒を入り混ぜる。それをアケビは心に刻んだ。

「とはいえ、図書委員になるような人たちです。争うような人はごく一部で、それ以外の人たちは皆ひっそりと二人の恋路を見守っていましたよ」
「ほ〜!」
「それはなんとまあ……甘酸っぱいですねえ」

 目を輝かせたアケビの隣、ひょっこりと現れたバロンがときめいたような声色で言った。
 いつの間に、と目を丸くした二人に、彼はにこりと笑みを見せる。



 赤い月が揺れている。黒く塗りつぶしたような空。星はどこにもなく、ただひとつ浮かぶそれを、わたしはいつまでも見つめていた。

「……また夢」

 むくりと起き上がって、アケビは両手を上げ、グッと背筋を伸ばす。固まって眠っていたのか、パキ、と節々から音が鳴る。

「ねえねえアンディ、あたし思い出したんだけど」
「ん?」

 二人、訓練場で筋トレをするのが日課になってきた今日この頃。
 顔を上げたソウスケに、アケビは人指し指を宙でかき混ぜながらつぶやいた。

「《《あの日》》さあ、めちゃめちゃ寒かったよね?」
「……ああ、召喚された日?」
「そうそう」
 異世界に召喚された日――あの日は冬が急に戻ってきたかのような、ぞっとするほど寒い朝だった。
 季節は六月に入り、毎日じわじわと蝕むような暑さの日が続いていたところ、突然のことだった。突然のその寒さにひどく驚いたものだった。

「あたし、ってかみんなもだけど、寒すぎて冬服フル装備で登校したじゃん?」

 ソウスケが力強く頷いた。

「したした! もうすぐ七月か〜って半袖取り出した直後にすっげえ寒くなんだもん、あーれはビビったね」
「でしょ!?」
「――スーパームーンだって、朝から騒がしかったな」

 どこからともなく現れ、そう告げたのは白衣姿のカイだ。
 今日も朝方まで研究に没頭していたのか、相変わらず顔色が悪い。「おはよ〜」「おっはー」と二人が明るく挨拶すると、カイは無言で片手を挙げ、それに応える。

(そういや、スーパームーンとか言ってたなあ)

 《《あの日》》、数十年ぶりに今夜は赤い月が観測できると朝のニュース番組で女性キャスターが言っていたのを思い出す。記憶の中の女性キャスターの姿はおぼろげで、時間の経過を実感してしまう。

「そうそう。言ってたわあ、スーパームーン! 六月に見れんのは珍しいんだーってな」
「だけどさあ、それ肉眼で見ても赤いんか? あたし、寒さでやられすぎて、ささくれたことしか考えらんなかったんだけど」
「あー、どうだったかな。カメラとかで撮って赤く見えるのか? ってかぶっちゃけこっちの方じゃたぶん見れなかったろうしなあ」
「ニュースは全国版だからな」

 ばっさりとカイが斬り捨てる。つまり、言ってしまえばそれだけの話なのだった。

「だが……どうだろうな」

 カイがふと呟いた。

「なにが?」
「月には引力があるからな――眉唾程度でしかないが、存外、あの日が満月だったから僕らは喚ばれてしまったのかもしれない、と先日ミヤコと話をしたのを思い出した」
「あー……」
「漫画とかであるよな、満月の夜は一番魔力が充ちる――的な」
「はいはいはいはい」
「あくまで仮説だ。何せ、僕らの世界には魔法はどこまでもフィクションだ」
「ですよねー」



「端正な顔、っていうと、セイくんもなんですけどね」
「セイくんはどっちかというと美少女顔だよね。中性的というか、マスクで顔隠れててもわかるくらいだったし」
「レンくんは……」
「やめようミヤコ。あたし、あれもう半分確信犯じゃねえかと疑ってるから」

 言及したら尚のこと喜びそうな気がして、なんだか嫌だ。ネネが舌打ちする気持ちがわかるってもんである。
 ケッ、と吐き捨てるアケビに、ミヤコはいつものように微笑む。

「おー? なんだなんだ、恋バナ? オレもまーぜてっ」
「あらアンディ、訓練終わったの?」
 背後からひょっこりと現れたソウスケに、アケビが訊ねる。
 汗を一筋流しながら、ソウスケは「今さっきね」と両手でピースサインを作った。

「アケビちゃん、ソウスケくんと仲がいいんだね」
「なんか《《合う》》んだよね。ねっ? アンディ」
「そだねぇ」

 お互いに人差し指の先をツンを合わせて、兄妹のようにそっくりな笑みを見せる。
 ソウスケの名字が「安藤」であると知ったアケビが、「じゃあアンディだね!」と無邪気に言って、それにお兄ちゃん然としたソウスケが受け入れた結果であった。
 それに微笑ましげな表情を浮かべるのがミヤコである。



 王の御前に参ると決めたとき、全員で考えたのが、「召喚された人数を偽る」というものだった。
『選ばれし者』として王の前に出向くのは、ヨク・ハナ・ソウスケ・カイの四人に絞り、残りの面々はバロンが雇った使用人という設定である。
 これは諜報能力持ちの面々が別行動をとっても怪しまれないようにという理由と、エンプティスへの信用度があまりにも足りなかったというのが大きな理由だ。
 警戒はいくらしても足りない、というのが全員の共通認識だ。
 表に出るメンバーとして選出された面々は、人当たりの良さ、ルックス、性格などを考慮し、なにより与えられた〈祝福〉が「戦うことに特化したもの」という縛りで選ばれた。

 砂糖菓子のように繊細な美貌を携え、巧みに火属性の魔法を操るヨク。
 好青年で人当たりもよく、守りに特化した風属性の魔法を使うソウスケ。
 眼鏡の下に秘めたすべてを見透かしそうな眼光、不健康そうな青白い肌にボサボサの髪と、いかにも研究者然とした雰囲気のカイ。
 そして紅一点として、冷ややかなオーラを纏いながらも独特の美しさを感じる、氷属性の魔法を得意とするハナ。
 このパーティーが召喚されたのだとバロンは国王へ報告した。

 

「きな臭いわね、この国」
 夕食の時間、ハナがそう口火を切った。
「きな臭い、とは」
「貴族どもに顔合わせさせられたときにつくづく思ったけれど、あれ本当に貴族? 体裁を整えることすらできてなかったわよ」
「あー」
 そう言われれば確かに、とソウスケがうなずく。
「なんか、野次馬根性ってか、高貴さはなかったなあ。わりかしそこら辺にいる観客みたいな感じ」
「服こそ豪華だったけれど、中身が伴ってない。服に着られてる貴族ってどういうことよ」

「で、どうなの実際のとこ」
 尋ねられて、宮廷魔術師は晴れやかな笑みを浮かべる。
「ご覧の通りですね。ハナ様のご指摘、見事に正鵠を射たもので、|私《わたくし》ちょっとゾクゾクしてしまいました……」
「頬を赤らめるな」
 もじもじとするバロンにハナが吐き捨てる。

「……〈水の都〉?」
 ソーダを飲みながら、アケビがつぶやく。
 窓から入ってくる風が体を撫でる。
 最近は夏が近くなり、日に日に暑さが増してきていた。魔道具のお陰で入ってくる風が適温にされているので助かっているが、無かったらそれなりに寝苦しいことだろう。
 全員が風呂で汗を流し、談話室で寛いでいたところに現れたバロンからの提案だった。
「はい。皆様もエンプティスの外を知るべきなのではと思いまして」
「確かに、オレら外知らないもんなあ」
 アケビの隣で果実酢の炭酸割りを飲みながらソウスケがつぶやいた。
「だけど、なんで今? あたしたちも此処での生活に慣れてきたけど、エンプティスの国内のこともあんまり詳しくないのに」
「」

「センジュはナゴミちゃん狂だかんなあ」
 ワハハと大笑いしながらソウスケが言った。さらりとひどいことを言っているような気がするのだが、それが許されるのがソウスケという男の人徳である。

「大陸図が欲しいですね」
 ミヤコの言葉に、カイが同意するように頷く。
「ああ。この世界の地図を見たい」
「魔法があるのですから、世界地図くらい存在していてもおかしくありませんし」
「むしろ、僕たちの世界よりもより高度かもしれないぞ? 触ったらホログラムが浮き出してくるかのような……」
「ファンタジーですねえ」
「いやそれどっちかといえばSF寄りでは? ミヤコ殿、結構そこらへんの分類ゆるゆるですなぁ」
 おほほ、と口元に手を当てつつ言ったレンを、ギロリと睨むカイ。
「黙れレン」
「えっ、カイ殿が拙者に冷たい……?」

「なんていうか、名前に統一性が無いよな?」
「わかる! アジア圏に唐突にヨーロッパの国が埋め込まれた的な……」
「そうそう。街並みヨーロッパだけど国民性は日本ぶち込んどきました! みたいな」
「はいはいはいはい」

「仮説ですが……私たちに、翻訳魔法でも掛けられているのかもしれません」
「翻訳……」
「はい。私たちは日本語を扱いますから、元来、英語圏の方々とは少し言葉の《《読み取り方》》が異なります。もしそういったことをされていた場合、使う文字の種類が多いが故の違和感なのかもしれません」
「な、なるほどぉ!」「名探偵だよミヤコちゃん!」
 ポンと手を打ち、アケビとソウスケが頷きあう。言われてみればしっくりくる仮説だった。



「違和感といえば、国民の温度差も不思議ですね」
 エンプティスは斜陽を迎えているというが、その国民性はどこかちぐはぐな印象を召喚された全員が抱いていた。
 城下町で暮らす人々はのどかで淡々とした暮らしを享受しているが、反して国境付近で暮らす産業を支える人々は危機感を露わにし、国を捨てている現状がある。
 異世界に来て数ヶ月しか経っていない子供がそう考えるほどに、どこかこの〈異世界〉は奇妙なところがある。

「マジで『不思議の国』って感じ」
「ワンダーランドかあ」

「俺らは動けないかんなあ。表向き〈召喚者〉だし、王様やらの目があるし」
「そうね。だとすれば動けるのは――」
「……調査向きの〈祝福〉を持つ、あたしたちってことだね」
「はい。そうなりますね」

 ピリッとした緊張感に背筋が伸びる。
 隣でミヤコが柔らかな声で肯定してくれたことが嬉しかった。アケビは笑みを浮かべ、ぐっと胸を張る。
「やってやろーじゃん! 行くのは何人? あたしとミヤコは情報系だから要るっしょ、あとはー」
「はいはいはい! 拙者! 拙者にお供の役を授けていただきたく!」
「……僕は無理だな。能力系統やお題目としてはアリだが、立場上人目があるし、今進めている案件をできるだけしておきたい」

 コーヒーを飲みながら、カイが答える。アケビはウンウンと頷き、

「じゃあカイくんは無理だなあ」
「拙者! 拙者も〜っ!」
「マヒロくんは?」
「……おれも、できるだけ作っておきたいものがあるから、難しい。ごめんね」
「謝んなくっていいよぉ! 」


「……〈裁定者〉?」
「昔からある、まあ、御伽話のようなものだ」
 レイメイは長椅子に座り、優美な笑みを見せた。
 教師のような雰囲気に、三人の背筋が自然と伸びる。それにまたレイメイは微笑んで、丁寧に話し始めてくれた。

 ――世界がまだ、もっと曖昧な形で在った頃。
 知性を持った生き物たちは、己が領地を広げるため、幾度も争いを続けた。おびただしいほどの血が流れ、罪なき無辜の民たちは死に絶え、地上は血に汚れ、澄んでいた魔素はどす黒い汚泥のような毒へ変化してしまっていた時代。
 懸命に生きようと足掻く生き物たちの前に、現れた者がいた。
 その者たちは〈御業〉とも呼ばれる、魔法とも魔術とも異なる大いなる力を以て、争い続ける者たちへ制裁を下し、人々へ安寧を齎した。
 それによって無辜の民は救われ、争いは消え、土地に根付いて暮らす人びとが増え、世界は安寧に包まれた。
 以降、〈御業〉を使い人々を救ったその者たちのは、〈裁定者〉と呼ばれ、崇められるようになったという。
 話を聞くに、それはエンプティスの言い伝えなのだという。

「そんなお話、バロンさんの書斎では見かけませんでしたが……」

 顔を曇らせてミヤコが呟く。アケビとセイもうなずく。

「バロン、そんなこと言ってなかったよね?」
「うん。一言も」

 三人は顔を見合わせた。全員の顔には、緊張感と戸惑いが見え隠れしている。どうにも、〈水の都〉に来てからというもの、新情報がやけに多い気がする。
 困惑する三人に、レイメイが言った。
「敢えて伏せられていたのか、それともわざと伏せていたのか――そこが鍵なのではないかな」
 どこか煙に巻くような口調のレイメイだが、その言葉はストンと胸の内に落ちた。
 年の功とでも言うべきなのか、永い時を生きる美貌の主は、全て見透かしたような顔で微笑みを浮かべている。

(……バロンがわざと隠してたってこと?)

 若葉色の髪の美形を思い出し、アケビは顔を曇らせた。
 召喚されてからというもの、ずっと傍でサポートしてくれていた相手を疑うのは良心が咎める。
 そもそも、彼が嘘をついたとして、自分たちが国の外へ出してしまえばバレてしまうような嘘をつく必要性があるのだろうか?
 疑問は尽きないが、だからこそ調べなければならないのだろう。

(帰るためには疑うしかないのかな)

 疑いたくはないが仕方ない。すこしだけ切なさを抱きながら、アケビは〈大図鑑〉を起動する。すっかり見慣れてしまった検索画面に文字を打ち込んで、アケビは長椅子で寛ぐ男を見た。

「あの、レイメイさん」
「なんだ?」

 切れ長の美しい瞳がアケビを射貫く。少しばかり胸をときめかせつつ、アケビは訊ねた。

「」

 世界が生まれた日、神様はルールを作った。
 理を大きく歪めるものがあるのならば、裁定者を遣わすべし。
 裁定者はこことは異なる世界からやって来る。違うルールの中で生きる、選ばれた者たちである。
 そして裁定者たちには、天より異能を授けられる。
 我らはそれを、『祝福』と呼ぶ。
 裁きの時は訪れる。
 世界よ祝福せよ、黄昏の終わり、裁定者は審判を下すだろう。




「世界の裁定よ。我らのこの懊悩すら世界の思うままと考えれば、全てバカバカしく思えてくる」
「……っだとしてでも! アンタ、王様なんでしょ!? ならどれだけバカバカしくっても、国民を守りなさいよ! アンタを信じていた人たちのために、踏ん張ってみなさいよ!」
 アケビの叫びに、王は薄く微笑んだ。
 ひどく疲れたような笑みだった。まだ歳若いはずなのに、その姿は随分老け込んでいるようにも見える。
「……眩い娘だ。それでこそ〈裁定者〉よな……我らが〈召喚の儀〉を行ったのは、間違いでは無かったらしい」
 なあ、|魔術師《バロン》よ。
 呟いた王の隣には、いつの間にか一人立っていた。この異世界に連れてこられてから見慣れてしまった、純白のローブだ。
「バロン……!」
「やっぱお前クロなんかい!」
「警戒緩めるな!」
 アケビの背を守りつつ、ソウスケが笑みに苛立ちを混ぜながら叫んだ。一瞬ブレた守りに、ハナが氷の茨を作り出しながら厳しく叱りつける。
 王の間は今や混沌としていた。廊下では戦闘系の〈祝福〉を持つ仲間たちが衛兵たちを足止めし、元の世界へ続く道を目指すために奮戦している。
 この王の間に対峙しているのは、アケビとエンプティスの王である。
 玉座に座するこの王は、滅びを選んだ。
 それだけが、いまアケビにわかる事実だった。

「……アケビさん! 時間がありません、強行してでも行かなければ……!」

 セイの傍らで状況を《《視》》続けていたミヤコが言う。
 アケビは歯を食いしばり、強く目の前の王だった男を見据える。

「――終わりを迎える、大いに結構!」

 深く息を吸い、アケビは叫んだ。

「だけどね、やらかしたンなら、手前のケツは手前で拭きな! あたしたちが言いたいのはそれだけ!」

 そもそもの話、斜陽を迎えつつある国に引導を渡そうと異世界から召喚しようとすること自体がおかしいのだ。
 周りには大国が囲っているのだ、水面下でも、吸収してもらえないか交渉するくらいできただろう。だけどこの男はそれをしなかった。
 大きすぎる自壊衝動だとミヤコは称していたが、アケビにはそれよりもっとタチの悪いものに思えて仕方なかった。

(つまりアンタは、ままならないから人に押し付けて、ぶん投げたんでしょ!)

 これは子供の癇癪だ。若きエンプティスの王は、ヤケになってすべてを道連れにすることを選んだのだ。


〈扉〉が開く。
念願の帰り道に、全員の顔が明るく染まる。
次々と〈扉〉の中へ入っていく中、ふと『違和感』を感じ、ヨクは後ろを振り向いた。
《《三人が、扉に入らないまま、立っていた》》。

「アケビちゃん?」

 驚きで目を見開いたヨクに、アケビは笑みを浮かべた。
 手を伸ばせば掴めるはずの距離なのに、見えない壁があるかのように透明な壁に阻まれ、触ることができない。

「――ッ、アケビちゃん! ミヤコちゃん、セイ!」

 透明な壁を叩きながらヨクが叫ぶ。その声に、他の仲間達もこの状況に気づいたようだった。
〈扉〉に入らなかったのは、アケビとミヤコ、セイの三人だった。
 三人は扉に入った仲間を見つめ、それぞれ穏やかな表情を浮かべている。
 どうして、この違和感に気付かなかったのか――そこまで考えて、この場にミヤコがいることを思い出す。
 ミヤコの能力は、《《人の思考も書き換えることができる》》――
 つまり、それは。
「バレちゃいましたか」とミヤコがはにかんだ。

「三人とも、どうして……!」
「〈扉〉を閉じるのに、人が必要なんです」

 戸惑うヨクに、ミヤコが答えた。
 一度開いた〈扉〉は自動的には閉まらない。誰かが閉める必要がある。
 アケビたちがエンプティスに召喚されたのは、事前にバロンが異世界の座標を割り出し、〈鍵〉が教室を指定したことで、ピンポイントで『教室』に居た全員が連れてこられたのである。
 だが、今回はそれができない。
 なら、どうやって元の世界に戻るのか――
 元々あちらの世界の住人である自分たち自身を〈鍵〉とし、座標を元の世界になんとか繋ぎ合わせたのである。
 しかし、あくまでも繋いだのは元の世界への道筋のみ。目的地を指定出来ていない状態だった。
 それを解決するにはどうしたらいいのか。
 送り出す――〈扉〉を閉じる|人員《メンバー》が、降り立つ目的地を明確にイメージするしかない。
 それが水の都秘蔵の書物とミヤコの〈情報〉、アケビの〈大図鑑〉で調べ尽くしてわかったことだった。

「幸い、僕らは戻らなくても特に問題がない組だったから。僕はそもそもの話、もう《《戻れない》》んだけど」
「……それ、あんたがこの世界に来てから具合が良くなったのと同じ理由?」

 明るく答えたセイにハナが問う。
「ご明察」とセイは可憐にウインクをして微笑んだ。

「〈魔素欠乏症〉って言うらしいよ。僕の体、ずっと虚弱体質だったんだけど、原因不明だったの。要は魔素があっちの世界に無さすぎて良くなかったみたいで」
「戻っても、待ってるのは死のみってことね」
「ザッツライト!」

 グッと親指を上げるセイ。それを呆れた目で見て、ハナはため息をついた。

「ミヤコちゃん……お母さんに会いたいって言ってたろ」
 ソウスケが顔を歪めながら呟いた。
 いつもの明るい姿のソウスケとは違う、痛みを抱えた表情だった。ミヤコは一瞬目を見開いて、それからいつものような笑みを浮かべる。
「……大丈夫。私たちだって、何も無策で残るわけではありませんよ」
 ミヤコは胸を張ってみせる。ぎゅっと胸の部分を握りしめ、安心させるように。
 その姿にソウスケは目を見開く。
 ミヤコが握りしめた手の中――そこには、ソウスケが買ってやったペンダントが、虹色の光を淡く放ちながら輝いている。
「私たちはこれから、この世界と向こうの世界を行き来できる方法を探します。これから生まれる時差については〈水の都〉で既に計算して頂いていますから。――だから、大丈夫です」
 その“大丈夫”は、いったい誰に向けてのものなんだ? そう問いかけたい気持ちを飲み込み、希望を提示した優しい少女を見る。

「競争ですよ。私たちが向こうへ行けるようになるのが先か、皆さんがやる事をやって、戻ってくるのが先か」

 人差し指を立て、いたずらに笑った顔は今まで見た中で一番無邪気で。
 ――やっぱり末っ子だなぁ。
 ソウスケは心の中でつぶやいた。自分の中の『お兄ちゃん』な部分が、元の世界に残してきた妹を思い出したからだだった。

(……俺はやっぱ、戻んないとダメだなぁ)

 同時に、自分はどこまでも『兄』なのだと思い知らされる。人生の大半を捧げてきたものなのだ、放り投げるのはそう簡単ではないという事なのだろう。きっと此処で残れば、それこそ永遠に胸に後悔が残ることになる。
 しょうがないか、とソウスケは苦くも嬉しそうに笑った。
 いつも丁寧な言葉の奥にあった、歳相応の、本来の|彼女《ミヤコ》が見えたような気がしたからだ。
 別れの寸前でも希望を示した彼女は、やはりどうしようもなく優しいのだと、

 光が収束し始めている。目も眩むほどの光は室内灯くらいにまで収まってきている。発動した呪文が、終わりへ向かっているのだ。
〈扉〉の向こう、元いた世界へ戻るための唯一の道が閉ざされていく。
 ――三人は、その様子を見届けながら、笑っていた。
 嬉しそうに、悲しそうに、苦しそうに、切なそうに、楽しそうに、愛おしそうに、皆で過ごした、この異世界での日々を思い返しながら。


 閉じる扉を見届けて、アケビがつぶやいた。

「……言わなくてよかったの?」

 不安そうな声だった。表情は扉が閉まるまでの晴れやかなものとはうってかわり、憂いを帯びている。
 そんなアケビの肩を優しく叩き、セイが微笑む。

「大丈夫。きっと、遅かれ早かれ勘づいてる人もいるはずだよ。でなきゃ、皆また会おうだなんて言わないって」

 “また会おう”
 扉を潜っていったクラスメイトたち、その表情は言葉と同様に、再会を疑っていなかった。
 誰も言葉にすることはなかったが、それぞれ思うところがあるのだろう。
 事実、帰還したクラスメイトたちの理由は、大半が『やり残したことがあるから』というものだった。
 やり残したことがある――それは、やり残したことが無ければ帰る理由は無かったというようにも聞こえて。
 清算をするために帰ったとなれば、目的を果たせば帰る意思があるということでもある。
 再会を必ず、というレンの言葉は、いつかきっと現実になるだろう。
 だからそれまでは、しばしの別れだ。
 寂しさはあるけれど、永遠の別れではない。
「ね、アケビ?」
 セイがアケビに言う。
 光の粒が舞う。
 幻想的な光景は、アケビが観続けた〈夢〉を思い出させる。
 この異世界とも異なる、すべての始まりと終わりを司る閉ざされた場所。アケビに夢を介し伝えられた『世界』の成り立ちは、あまりにも壮大でまだ飲み込めていないところもたくさんある。
 だけど、これからアケビは永い時間を過ごしていく。世界に定められた〈裁定者〉としてこの異世界で生きていく。
 ただの『人間』としての意識が強い今のアケビには、自分がこれからどうしたらいいのかさっぱりわからない。だけど、それでも生きていくしかない。
 それはきっと想像もつかないほど辛いことや悲しいこともあって、だけど楽しくて、幸せなこともたくさんあるのだろう。その途中、今は離ればなれになっている仲間たちとも再会できるだろう。
 そう考えれば、不安よりも前向きな気持ちのほうが強くなる。


 ――いつか皆であの『箱庭』に訪れよう。抱えきれないほどたくさんの土産話を携えていけば、きっとあの人たちは受け入れてくれるだろうから。
 そう考えながら、笑い返したのだった。
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