おとや
 乙夜の恋人である彼女は乙夜に対して冷たい。
 クーデレとでも言えばいいのか、しかし自分の友人に対しては非常に慈愛溢れる笑顔を見せているので、乙夜専用のクーデレなのかもしれなかった。

 なぜ付き合っているのかと問いかける人は多い。実際、なぜ付き合ってるのか考えたこともある。しかし、彼女が魅力的な女の子であることには変わりないのだ。

 クラス全員の女の子をお姫様抱っこしてお姫様にしたり、なんなら男子すら抱えてお姫様にしてしまう逸話持ち。

 忘れられない女の子がいる。
 忘れられない――というか、過去を回想するとどうしても思い出してしまう女の子がいる、というのが正しいだろう。
 保育園の頃、園内の九割の女の子のくちびるを奪ったときのこと。
 幼い頃からプレイボーイの片鱗を遺憾なく発揮していた乙夜を拒絶した数少ない――しかも、その行為をそっと窘めてくれた女の子がいた。
 当時の乙夜よりふたつも年下だったというのに、その子は舌っ足らずながら、へにゃりと眉を下げて、乙夜のくちびるを拒絶した。
――「こういうのはね、いちばんだいすきなことするのよ」
 とてもおませな言葉とは裏腹に、とても切なそうな顔をして。
 そんな女の子が、幼心に「かわいい」と思ったのだ。
 けれどその女の子は、次見る頃にはいなくなっていた。家庭の都合で、愛知から県外へ引っ越してしまったのだという。引っ越したその理由がどんなものだったのか、幼い彼にはわからなかった。
 ただ、もう会えないのだと、漠然と傷ついたのを覚えている。


「だって、ドキドキが好きなんでしょう?」
 真剣な顔で問いかけた乙夜に対し。
 きょとんとした顔で、なまえは自分の夫を見つめていた。
 ふたりは数秒ほど見つめ合い――初めに違和感に気づいたのはなまえだった。微動だにしない夫の姿に、「おや?」と言わんばかりに顔をしかめる。なにか説明が足りなかったのだろうか。そう考えたなまえは、続けて口を開く。
「……あなた、ドキドキが好きなんでしょう? 付き合う前の、スリリングなやつ。だからできるだけいい塩梅で接してきたつもりなんだけど、足りなかった?」
 なにか間違えたのかなと呟く顔は真剣そのもの。あまりの事実に、さすがに全員が口を閉ざしていた。静まり返った部屋の中、しかし彼女をよく知る人たちは「やっぱりな」と言わんばかりの表情で、各々マイペースに注文したメニューを食している。
 とどのつまり、乙夜なまえは。

「わたし、あなたの要望に応えられなかった?」

 智真(ちさな)なまえという女は、元来尽くすタイプなのだった。

「……ちまちゃん、本当に乙夜さんのこと大切に思っていますよ」
 注文したサラダを取り分けながら、だからたまにすごく大胆なことしちゃうんですとなまえの親友である女は語る。唖然とする男たちなど気にする様子もなく、取り分け終わった女は優雅にお茶を啜り、顔を上げて笑顔で言う。
「健気じゃありませんか、夫の好みに合わせてずっとずっと、ドキドキを絶やさないように振る舞ってきたんですから」
「いやこれ行きすぎじゃない!?」即座にツッコんだのは夫である潔だ。
「これが致死量の愛ってやつ。はっぴーまりっじ!」
「終わらせないで!!」

「や、待て。乙夜生きてる!?」
「アカンやろ。あいつたまに来る奥さんのデレでぶっ飛びかけとんのにこんなネタバラシされたらどうなるか」
「乙夜死んだ?」
「ダメだ、フリーズしてる」
「あれはもう駄目やね」
「完全敗北」

「ね〜、唐揚げ食べる?」
「あ、頂こうかな」
「レモン汁いる人〜」
「てか誰? いきなり芋焼酎頼んだ人」
「ごめん俺だわ」
「出たな薩摩男児」

(デレ後)
 ソファで寛いでいると、自室からでてきた妻が、すこし難しい顔で隣に座った。
「――明日、暇?」
「え、なに、どしたん? デートの誘い?」
「いや……ああ、でも、そうなのかも」
 否定しようとして止めたなまえは、少しだけ困ったような顔で、片手に携えたそれを乙夜に見せた。シーズンが始まる前、日本から海外に戻る際に嫌というほど見る――フライトチケットである。
 妻は言った。
「明日、北海道に行くことになったんだけど……オフなら一緒に来る?」
「行く」

「プライベートジェットとかヤバ」
「内容が内容だから、先方が手配してくれることが多いんだよ。一刻も早く対処してもらいたいときが主にそう。大抵は新幹線で済むから利用することはないんだけど」
「今回は北海道だから飛行機ってワケね。納得」
 てかこのシートめちゃめちゃ座り心地いいじゃん。のんびり感想を告げる乙夜に、なまえは困ったようにただ微笑んだ。まさか本当に来るとは思わなかった、のえみである。

「……誘っておいてあれだけど、わたし仕事があるので半日くらい不在だよ」
「余裕。てか半日で終わるもんなの?」
「今回は点検がメインだから。普段なら数日かけて下準備して、それから実行する。でも今回はそれが必要ないから、本当に最低限だけね」

 本来担当しているはずの人間が怪我を負い、当分仕事に復帰できないということでなまえに回ってきた話だった。



「ちまちゃん、旦那さんからの電話の曲ってさあ」
「シナモロールの子守唄じゃんね」
「なまえちゃん、シナモロール好きだからなあ」
「はーん、なるほどね(名推理顔)」




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