シーザーと終わりを待つ少女

01

 山奥の屋敷にひとりは寂しいよと言って一緒に住んでくれている家主の親戚が、一人の男性を連れて帰ってきた。
 イタリアから来たのだというその人は、とても若々しい風貌だというのに#名前#の父親よりも年上なのだとこっそりと親戚が教えてくれた。
 親戚を含め一族にも何人かそういう人が居たのであまり驚きはしなかったが、一族外にもそんな人が居るのだと初めて知った。


 第一印象は、美しい人だというものだった。外つ国の人をこんなに近くでまじまじと見るのは#名前#にとって生まれて初めてのことだ。
 彫りの深い顔立ちに、向日葵のように鮮やかな金色の髪。両方の目元に痣があるが、それすらチャームポイントになるほど整った顔立ちの男性。
 普通に出会っていたのなら見惚れていたかもしれない。――目の前のこの男性が血濡れでなかったのなら。

「お、おじさん、この人……!」
「すまない、ちょっとワケありだ」

 自身もボロボロの状態だった親戚は、同じくボロボロで血濡れた状態の男性を連れて帰ってきた。
 自身よりも体格のいいその人を軽々と寝台に寝かせると、親戚は「介助を頼む」と言い残して本家へ行ってしまった。なので今、この家には#名前#と眠る彼以外に人は居ない。
 #名前#には異国の言葉は分からない。親戚曰く男性は日本語も話せるとのことだが、それでも不安は残る。
 いざという時の保険として、#名前#は携帯を握りしめた。翻訳機能つきのそれが、#名前#にとって唯一の命綱である。
 幸いにも男性の傷は浅かったようで、見える範囲での消毒や手当てはしておいた。#名前#は医者では無いので骨折しているかどうかは分からないが、あからさまに変色している部分はないのでおそらくは大丈夫なはずた。

 寝台の上でこんこんと眠る姿を見て、胸がざわざわと波打つような感覚が止まない。

(こんなの、生まれて初めて)

 不思議な感覚だった。
 はたしてこの感覚が良いものなのか、#名前#には分からなかった。


「……ここ、は」
「私と私の親戚が住んでいる、山奥の家です」

 どれくらい眠っていたのだろう。霞む視界の中で、聞こえてきた声の主と思われる女の姿を捉える。意識を失う前、共に作戦にあたった友人が自分を支えた状態で話していた相手の声のだとすぐに分かった。
 視界が開けて、ぼやけていた視界が明瞭になってくる。機能を取り戻した瞳が、一人の少女の姿を捉えた。

「君が手当てをしてくれたのかい?」
「……見えるところだけしかできませんでしたが、一応」

 男はよく鍛えられた逆三角形の逞しい体付きで、#名前#の手では到底動かすことができなかった。できたことといえば、寝台に寝かされた彼の体にあった見える範囲の傷を手当てして、布団を掛けたことくらいだ。

「彼は?」
「本家に話をしに行くと、貴方をここに寝かせてすぐに行ってしまって……その、連絡が取れなくて、もしかしたら、話し合いがまだ終わってないのかもしれなくて」

 しどろもどろになりつつも懸命に説明する#名前#を翡翠色の目がじっと見つめている。穴でも空いてしまいそうなほど熱烈な視線に耐えられるほど#名前#には男性への耐性はなかった。
 できるだけ男の方を見ないようにしながら、寝台のシーツを見つめ#名前#は口を開いた。

「あの……その、」
「何だい? シニョリーナ」
「しにょ……? えっと、喉、渇きませんか? 飲み物、なにか持ってきますね」
「ああ……そうだな、お願いしても?」
「ええ、少しお待ちくださいね」

 #名前#は男から目を逸らしたまま立ち上がり、そのまま台所へと向かった。戦略的撤退である。

02



「可愛らしいお嬢さんだな……」

 #名前#が部屋を出ていった後。思わず口から出た言葉に、自分でも苦笑してしまう。男――シーザーは#名前#の後ろ姿を頭の中で思い出しながら、そのまま体を寝台に預けた。

 今回、シーザーがこの国――日本に来たのは、ある『作戦』に協力するためだった。
 それ自体は無事遂行できたのだが、最後の最後で相手が自爆攻撃を手当たり次第に仕掛けてきたのに対応しきれず、怪我を負ってしまった。

(おれもまだまだ修行が足りんな……)

 エア・サプレーナ島にて波紋戦士となって数十年。見た目こそ当時とほぼ変わらないが、安穏とした日々で少々危機感が鈍ったのかもしれない。
 平和なのは良いこと。だが弟子達も居る手前、もう少し気を引き締めねばならないな、とシーザーは息を吐いた。

(それにしても……彼女が例の子か)

 肩まで切りそろえられた黒髪を揺らして部屋を出ていった後ろ姿を思い出す。
 東洋人特有の幼げに見える顔立ちに、成熟した大人の目をした少女。人形のような陶器の肌と桃色の唇が艶めかしく、けれど体の節々はまだ大人になりきる前のそれで、アンバランスに見えながらも形を成している少女に興味を持ったのは仕方の無いことだろう。
 シーザー、とこの家に来る前友人が言っていたことを思い出す。

 ――シーザー、うちにはひとり、女の子が居るんだ。
 そう告げた友人の目は誰かを想う眼差しで、娘が居るのかと訊ねたシーザーに、いいや違うと友人は首を振った。
 ――遠縁の親戚の子だよ。訳ありでね、二年ほど前から一緒に暮らしている。
 訳ありとは何なのか、疑問符を浮かべるシーザーに友人は淡く微笑んだ。
 ――彼女はもうじき、死んでしまうんだ。
 語られた言葉の残酷さに、頭を殴られたような衝撃が走った。


 友人は、エア・サプレーナ島からは遥かに遠い極東の島国・日本の出身だった。
 若々しい美貌の持ち主だが実年齢はシーザーよりも上で、しかも波紋法を使っているわけではないと知った時の衝撃は計り知れない。
 謎は多いが、それが不快にならない、人に対して距離感をよく分かっている男だった。
 そんな男と友人になり数十年、初めてと言ってもいいほどの友人からの頼みに、シーザーは二つ返事で答えた。
 友人は何度も危険性を説いたが、自分に頼むほどのことなのなら尚更協力すると言うと、彼は複雑そうな顔でありがとうと頭を下げた。

 『作戦』は、とある鉱石を奪うというものだった。
 奪うとは聞こえは悪いが、元は友人の一族が管理していたもので一世紀ほど前に奪われてしまったのだという。まるで苦虫を噛み潰したような、そして確かな怒りを秘めた友人の口調から、その略奪者こそが罪のない少女に死に至る呪いをかけた張本人なのだとシーザーは察した。

 友人は二十歳になると共に死んでしまう親戚の少女を助けたかった。自身の半分も生きていない歳若い娘が、諦観した様子で静かに死を待つのを見ていられなかった。

「罪のない少女に、なんて呪いを掛けてくれたのだと俺は怒りを抑えられなかった」

 俯いた友人が何を思っているのか、シーザーには分からない。

「きっと、そのお嬢さんもまた元気になるさ」

 その為におれを呼んだんだろうと笑いかけると、友人は痛みを堪えるように、顔に笑みを浮かべた。望むのはただ一つ――ただ死を待つ小さな少女が、笑って大人になっていく姿を見ることだけだ。

02

「おはよう、シニョリーナ」
「おはようございます、シーザーさん」

 中庭へ向かうと、物干し竿に洗濯物を掛ける小さな後ろ姿が一つ。明るく声をかけると、後ろ姿の主はこちらへと振り返って、優しい笑みを浮かべた。

「洗濯物かい? おれも手伝うよ」
「いえ、もう終わりますから……あっ」
「女性一人に任せるなんて男の名折れさ。大丈夫、家事は一通りできるから安心しておくれ」
「……あ、りがとうございます」

 数秒の間を置きながらもお礼を告げた#名前#に、シーザーは笑顔で返す。

 屋敷に――日本に来てから、気づけば数日が経っていた。
 波紋を使ったこともあり、シーザーは自由に屋敷の中を歩き回れる程回復し、怪我もほとんどが瘡蓋か完治し、数本ほどヒビが入っていた肋骨も治りかけている。
 友人は一度は帰ってきたものの、事の後始末に追われているようで、少女のことを頼むとシーザーに言い残して慌ただしく本家へとトンボ帰りして行った。
 必然的に屋敷にはシーザーと#名前#の二人きりとなってしまったため、残された二人がコミュニケーションをとって距離が近づいたのは必然的だったと言えよう。

「毎回毎回、本当にごめ……ありがとうございます。とても助かります」
「気にしないでくれ。おれも毎日散歩ばかりじゃあ少々体が鈍っちまう。体を使わないとすっきりしないんだ」
「健康的ですねぇ」

 手伝いを申し出ると申し訳なさそうに謝る少女に「どうせならありがとうの方が嬉しいな」と言ったのは、彼女が小さな体でせっせと布団を日干ししていたところを手伝った時だ。
 #名前#はどうもこの屋敷に住まわせてもらってることに負い目があるらしく、屋敷の家事全般をほとんど一人で行っていた。
 それは迫り来る終わりに目を背ける意味合いもあったのかもしれないが、屋敷は二人で住むには大きく、そんなところを毎日一人で綺麗に保つなんて相当な運動量だ。なので友人は彼女が家事をしていると手が空いてる時は積極的に手伝っていたし、シーザーも同じように手伝った。

「今日は天気が良いな」
「はい。山の天気は変わりやすいと言いますけど、今日は大丈夫そうで安心です」
「#名前#は、どんな天候の日が好きなんだ?」
「天候? そうですね……やっぱり、晴れの日ですね。洗濯物がよく乾きますから」
「ははっ、そうだな。おれも、晴れの日が好きだよ」 
「おんなじですね」
「ああ、お揃いだな」

 少しずつ交流を重ね、#名前#のことを一つ知っていく度、温かなものがシーザーの胸を満たす。
 親友であるジョセフ・ジョースター……ジョジョにスケコマシや女好きなどと言われることがあったように、若い頃は様々なお嬢さん達と交流し、また関係を持った時期もあった。
 けれどそれも昔の話。師であるリサリサの跡を継いでエア・サプレーナ島の主人となって数十年――その間に何人か将来を意識した女性は居たものの、全てそういう雰囲気に至る前に別れを迎えてしまった。
 そして現在に至るまで、シーザーは独身のままだ。

 外見こそ二十代から三十代前半程度に保っているが、中身は五十を過ぎた男である。長らく独り身であれば大抵の家事はこなせるようになるし、弟子たちが居たとはいえ、自分でできる事は自分でやるのがシーザーの流儀だった。
 なので#名前#の家事を手伝うのは一切苦ではないし、久々の麗しい女性との触れ合いに年甲斐もなくテンションが上がっている。
 女性を大切にするイタリアの男であるからこそ、友人もシーザーを少女と二人きりの状態になるのを許したのだろう。見る目があるな、と心の中で頷いておく。

「シーザーさん」
「ん? 次は何をやるんだ? おれも手伝うぜ」
「いえ、午前の家事はこれで終わりなので……その」

 シーザーから目を逸らしながら、口をもごもごと動かし、#名前#はどこか緊張した様子で、

「リビングで、休憩しませんか?」
「ああ、良いね。#名前#も一緒なんだろう?」
「……は、はい。その、テレビとか、観ましょう。……一緒に」
「喜んでお供させてもらうよ」

 笑顔で頷くと、ちらりとこちらを見た#名前#が、ぎこちなくもはにかんだ。

(――これが、ジャパニーズカワイイなのか……ッ?)

 どうにも彼女の笑顔を見るだけで思いきり抱きしめたい衝動に駆られてしまう。だがそんなことはしない。したが最後、#名前#とせっかく縮まった距離が元に戻ってしまう危険性があるからだ。
 年上として余裕を見せなければ――笑顔の奥で湧き上がる欲望を押さえつけ、シーザーは#名前#と共にリビングへと向かった。


「へぇ、麓の街は結構栄えているんだな」

リビングで揃ってソファに座り、#名前#がリモコンでスイッチを点けた。ちょうどやっていたのはローカル系の番組で、地元――今#名前#とシーザーの居る山奥の、麓の街の店を紹介するものだ。
来日してすぐに『作戦』にあたり、ろくに街を見物していないシーザーにとって、麓の街の様子を見られるのはありがたい。
街は随分と開けていて、日本と言うよりも、シーザーの故郷であるイタリアのような、西洋の雰囲気に近い建物や道の造りをしているのが意外だ。そんなシーザーのちょっとした疑問に、#名前#は丁寧に答えてくれた。

「……麓の、ここら辺の土地は、大半が学校だったり、それ関連の施設になっていますから」
「ああ、確か#名前#の一族が大地主なんだったか?」
「はい。厳密には本家――一族の皆が集まるお屋敷の持ち主であるお家が元々この街の土地の大半を所有していて……だから、一族でこの街に住んでる大人は、不動産関係の仕事とかしてる人居ますね」

 所有している土地は、この広大な街の大半を占める。管理するにしても一つの家だけでは到底目が届かず、街を一族ぐるみで管理することで、土地に根を萌し、近隣に暮らす人々の手助けをして信頼を集め、この街で暮らす大人で一族を知らない者はほぼいない。
 権力者としての一家言を持ったこともあり、一族の子が学校内でトラブルに巻き込まれることはほぼ無いため、一族の大半の子供達は一定の年齢になるまでこの街で暮らしているほどだ。

「だからこんな山奥の土地も所有してるんだな」
「はい。この山一帯が一族の所有で、夏場とか、保養所みたいに使う子も多いんですよ」

 それでなくとも時折親類が遊びに来るので、静寂とは無縁な日々なのだと#名前#は笑う。

「それは良いな。――そうだ、#名前#。おれと麓の街へ行かないか? 君の生まれた街を、おれも見てみたい」
「……そ、れは……」

 ひどく狼狽えた様子で、#名前#は「あぁ」「うぅ」と小さく唸り、とうとう俯いてしまった。

「……麓には、あんまり、行きたくなくって」

 項垂れたまま、#名前#がぽつりとこぼした。
 #名前#達の住む山の麓にある市街地は#名前#が生まれてから十八年もの時間を過ごした大切な場所だった。そこには今も#名前#の家族や親類が暮らしており、時折#名前#は思いを馳せるかのように町のある方角をぼんやり見つめることがある。

「さみしくなってしまうから」

何がとは言わなかった。けれどシーザーにはそれが何を指しているのかすぐに分かった。その意味を悟ると共に、あんまりだと、そう思った。
月明かりに照らされながら、悲しみを隠して笑った#名前#の顔を見た瞬間、胸が張り裂けそうになる。



「#名前#を見くびるなよ」

怒りを孕んだ声と共に、心底冷えきった黒曜石の瞳がシーザーを射抜く。
目の前の男が怜悧な美貌に感情を滲ませるのは珍しいことだ。どうせなら怒る顔ではなく、笑った顔を見てみたかったとぼんやり思った。

「シーザー、お前はあの子を、#名前#をかわいそうだと思ったのか? 哀れだと、不憫だと――もしそう思ったのなら、それはあの子に対する侮辱だと知れ」

人里離れた山奥で、ただ終わる日が来るのを待つ。二十回目の誕生日が来るのを待つ。
二十回目の誕生日を迎えたその瞬間、#名前#の命は終わりを迎える。
あまりにも残酷な運命だった。

#名前#には呪いが掛けられている。
その呪いは、二十歳の誕生日を迎えるまでに、一族の者以外で『愛する人』を見つけなければ――もし居たとしても、その相手と心を通わすことができなければ、魂は冥府へ誘われてしまうというものだ。
 
#名前#にとって、それは実質的な余命宣告に等しかった。

#名前#の家は古くから続くとても大きな一族の一家族である。そしてこの一族の女性は、常に狙われているといっても過言ではない。
呪いをかけたのも、一族の女性を狙う家の者の仕業であった。そしてタイミングを図ったかのように、彼らは#名前#にいくつもの縁談を提示してきた。
一族の女として、血を汚しすぎたあちらの家の者と結婚するなど論外だ。行き着く先がただの子を成すための『道具』と知って嫁ぐような馬鹿はいない。#名前#もそうだった。

かといって一族外の、何も知らない一般人と恋に落ちることはできなかった。
『一般人』と恋をしたとして、あちらの家の者が、恋人となった人に危害を加える可能性があったからだ。自分のせいで罪のない人が傷付くのは嫌だった。
――なにより、いずれ終わるものと知っていた。
曖昧で漠然とした感覚に、行為に、入れ込むことができなかった。年頃の乙女のように、熱を出すことはついぞ一度も無く。
与えられた猶予は二十年。――そして今年が、その二十年目である。
高校を卒業し、この山奥の屋敷に住み始めて二年目のこと。ただ終わりを待つ日々を過ごしていた#名前#の運命は大きく動き出すことになる。



「#名前#は……」

怖くはないのか、苦しくは、辛くはないのか――言いかけて口を噤んだシーザーに、#名前#は微笑む。

「悲しくはないです。ただ、少しばかりさみしいと思ってしまうだけ」
「君は、誰かに恋をしようとは思わなかったのか?」
「いずれ終わるものなのに? たしかに、ひと時でもかりそめの恋に落ちていたのならば、この呪いは解けていたかもしれないーーだけどそれは、あまりにも相手に対して不誠実です」

呪いを解く方法はシンプルだ。一族外の男と恋に落ち、心を通わし、体を一度交わらせれば良い。
やろうと思えばできたのかもしれない。だけど#名前#にはそれができなかった。どうしても、それだけはできなかった。

「心の底から好きと思えないのに、愛せないのに、上っ面だけの言葉で愛を交わして、体を許すことが私にはできなかった」

だけど後悔はないのだと、彼女はシーザーの方へ振り向く。

「かりそめの恋で誰かを傷つけたくなかった。終わりがあるものが、私はとてもおそろしかった」

人の心は繊細で壊れやすい。そう知っていたからこそ、一族外の異性に容易に心を開くことも、愛すこともできなかった。愛することがこわかった。
潔癖なのかもしれないと本人は笑っていたが、そんなことはないとシーザーは思う。
――その高潔さは、なんて愛おしいのだろう。

「#名前#」

いじらしく、しかし確かな意思を持って背筋を伸ばす姿を愛おしく思わない訳がなかった。
年甲斐もなく、『欲しい』と思った。このひとりぼっちの天使を腕の中に閉じ込めたいと、連れ去ってしまいたいと。

「――君が好きだ」

それを自覚したのは、言葉を言い終えた瞬間だった。

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