語彙失ってやんの
「どサ目ェついてらんだこのウド! 酢味噌で和いでけたるがらなッ!」

 ある昼である。滅多に荒げられることのない橋本の、珍しい大音声が蝶屋敷を震わせた。
 好奇心で足を向けるもの、対応に急ぐものどもが目にしたのは、板張りの床に正座させられている炎柱・煉獄杏寿郎と、階級が二つ下のはずなのに銃を掲げながら仁王立ちで煉獄を見下ろしている橋本新平の姿だった。
 どうしたことだ、これは。圧倒的に煉獄に非があるような、烈火のごときキレ方である。野次馬どもは状況が読めずにいた。

「銃口どご覗ぎ込む奴があるがッ! おめはッ! 二度とッ! 銃っこサ触んでねッ!」
「す、すまない橋本、気を付けるから」
「いっぺんの気の緩みで人が死ぬのがわがらね奴サ銃どご触らすわげねぁべが! 気づがねがったおいが一番頭わやだげど! カァーッ!」

 馴染みはないにしても銃がどういったものか知っている野次馬は「あー……」と橋本に同情的な視線を送ってすらいる。橋本は最後に「このバッ……、バーカ!」と吐き捨てて煉獄を廊下にペッと投げた。
 野次馬どもに半ば飛び込むようにして橋本の病室を締め出された煉獄の頭には、特大の疑問符が浮かんでいる。ピシャリと拒絶の意でもって閉じられた戸を唖然として眺めていると、野次馬どもが次々と質問を口にした。

「よっぽどだ。よっぽどのことがあったぞ」
「何やってんですか炎柱様」
「うむ、いや、何もしてないんだがな……」
「そんなわけないでしょ。銃口覗き込んで何もしてないは無理がありますよ」
「何もしないであの怒り方はないですよ」
「最近人間らしいですけど、あいつのあだ名『氷像』でしたからね。血の気が無くて冷たくて、表情が変わらないって」
「最近人間らしいなら良いことではないか。いい変化だ。それに万一弾が出たところで避けられると思っていたものだから」
「何やってんですか。何やってんですか本当に」
「うーん、丁重に扱っていたつもりだが……」
「そうじゃない、そこじゃない」

 人だかりの中に投げ込まれた煉獄が野次馬どもと首を傾げていると、つい先ほど煉獄を締め出した戸が開く。
 身支度を整えた橋本が、夜叉のような顔をして立っていた。手短に吐かれた「散れや。見世物じゃねえぞ」の一言が、どれだけ野次馬どもの肝胆を寒からしめたか。久々の温度感に煉獄も内心で舌を巻きながら、橋本の荷物が多いことに気づく。

「大荷物だな。任務か?」

 あれだけ怒鳴られておいて、普段とちっとも変わらない声音だった。野次馬どもの内心が「バカ野郎!」で一致する。ちょっとは懲りたふりをしろ。火に油を注ぐな。こんな時まで炎柱してなくていいから。燃やすのは鬼だけでいいから。
 煉獄より少し高いところにある底なし井戸みたいな目が据わる。鼻から音を立てて長く息を吸った橋本は、煉獄を睥睨していた目をツイと反らして言った。

「そんなもんだ。しばらく帰らんから、ちびっこ達の子守はお前がやれよ」
「どこへ?」

 煉獄が訊くと、橋本は能面を崩して眉間にしわを寄せた。
 長い沈黙だった。橋本は苦渋の末に出した結論を、さも「ほんとは言いたくないんですけど」といった顔で呟いた。

「……………………岩柱邸」


*****


「療養中にすまない。しばらく玄弥が世話になる」
「あとはもう様子見みたいなものでしたし、構いませんよ。しばらく騒がしくなりますが何卒ご容赦を。……にしても」
「なんだ?」
「多いですね、猫」
「ム。嫌いだっただろうか」
「まさか。めちゃくちゃ好きです」


 猫屋敷。もとい岩柱邸は、自然豊かな山に面した落ち着いた佇まいであった。内装こそ悲鳴嶼のために様々な同線確保の拵えがあるものの、最強の鬼殺隊員の邸である、という予備知識がなければ至って普通の豪華な猫屋敷だ。
 悲鳴嶼は「なら良かった」と落涙しながら橋本を奥へ案内する。足元にすり寄る猫たちを器用に避けながら歩くさまは、正しく一般人のそれのようであった。全盲とは思えない。が、ところどころ柱の下の部分や鴨居に布が張り付けてあるあたり、「きっと何度かここに足だの頭だのぶつけてきたんだな」と橋本は思った。その実他人の家にお邪魔する経験はこれが三度目なので、他所の生活感に関心しっぱなしであった。一度目は地元でカチコミの際、二度目は炎柱邸である。

「すみません、俺が出迎えにいくべきだったのに」

 通された先に待っていたのは側頭部の髪を刈りこんだ青年だ。蝶屋敷のちびっこ達とおおよそ同い年の同期だそうだが、タッパがある。やけにある。
 青年は申し訳なさそうに頭を下げているが、足元を見れば理由はわかった。子猫の爪が裾に引っかかっている。ぴいぴいと助けを求める声は必死だが、あまりに愛らしく映ってしまうのでしばらく眺めそうになる。が、橋本は鋼の意志で頭を振った。猫ちゃんが助けを求めてるんだぞ、しっかりしろ俺。

「俺はいい、猫ちゃんが先」
「猫ちゃん」
「猫ちゃん……」

 しまった、口を滑らせた。橋本は怪訝そうな雰囲気に気づかないふりをして引っかかったままの子猫に近寄る。愛猫家であるが触れ合う機会はほとんどなかったので、裾を押さえる係を拝命した。やっとのことで爪を外してもらった子猫は脱兎のごとくどこかへ走り去っていってしまった。

「来てもらって早々すみません。改めて、不死川玄弥です」
「いや、いいもん見せてもらった。消化不良だけど。橋本新平だ」

 橋本はすっかり子猫を揉む気満々だった手を数度握ったり開いたりしてから玄弥と握手をした。察したらしい悲鳴嶼が微笑んでいる。妙に気恥ずかしい。
 玄弥は見た目こそ厳つそうに見えるものの、話していればすぐにわかる素直さと聡明さ、礼儀正しさが目映い子どもだった。が、やはり彼も鬼殺隊員、瞳の奥に燃えるような怨嗟を覗かせている。
 この手合いはこじらせるか、はたまたよく育つか。

「んじゃ、早速だが」

 橋本は空気を切り替えるように言った。「ん」と玄弥に人差し指を向ける。人としての礼儀がなっちゃいない。が、すぐさま手首を返し、起こす。玄弥の目の前で、橋本が天井を指さしているような格好になる。
 見える見える、玄弥の頭の上に疑問符が浮かんでいるのが見えるぞ。橋本はわざと特に優しそうな笑みを浮かべ、殊更優しく言った。

「利き手の人差し指で、この指を引いてみな」

 玄弥はおずおずと右手の人差し指を構え、橋本の人差し指にチョンと乗せ、ゆっくり引いた。
 これでいいのだろうか、と戸惑っている玄弥に、橋本は優しそうな笑みをかき消して言う。

「今の動作で一人殺せるのが、今日からお前が稽古する銃ってもんだ」

 判決を告げるような声音だった。
 サッと玄弥の顔が引き締まった。後ろで見守っていた悲鳴嶼の気配もまた。
 意地悪なことをしたかもしれない。だが間違ったことは言っていない。玄弥の人差し指に、今度は橋本が人差し指を置いた。

「よくよく念頭に置いとけ。刀による鬼殺は基本、抜刀、構え、距離を詰め、狙い、振りかぶって、渾身の力を込めて切るまでが必要だ。銃は構え、狙い、撃つ。半分の動作で済む。反面、刀は斬りながらでも軌道を変えられるが、銃は撃っちまえば銃弾の飛ぶ方向は変えらんねえ」
「……」
「特殊な呼吸も必要ない。訓練も刀より短くて済む。量産も容易く、女子どもでも老人でも扱える。が、この指先一つで意図しない相手の命を奪えちまう武器でもあることをゆめゆめ忘れんな」

 玄弥の指に添えられた橋本の人差し指は、驚くほどに動かなかった。震えひとつ起こさなかった。ひどく漠然とした印象だったが、あまりに固い覚悟とそれによってコントロールされる指先は、橋本の矜持の強さを物語っていた。

「……はい!」

 部屋の外で猫が逃げ出す音がした。それほどに威勢のいい返事をした玄弥は、しかし恥じ入る素振りも見せなかった。
 橋本は再び柔和な表情を浮かべると、「それが分かればまず第一歩だ」と年のわりに高いところにある玄弥の頭を撫でた。今回は自身の機能回復訓練の一環として、希望者へ日輪銃の稽古をつける。不死川玄弥は記念すべき一期生だ。
 橋本は藤襲山を思い出す。随分かかったが、あの時夢見た未来への第一歩だ。思っていたより柔らかい髪をかき混ぜながら、橋本もまた顔を引き締めた。



 訓練は数日間に分けて行う予定だ。いくら刀より訓練が短くて済むとはいえ、実戦で使えるものに仕上げるには相応の訓練はやはり必要なものである。が、初日からじゃあやってみよっかバンババーンとはやらないのが橋本のポリシーであり、銃を教えることがあれば絶対に守ろうと決めていたことでもあった。呼吸の特訓が苦い思い出すぎるためである。
 室内から場所を移し、悲鳴嶼が訓練に使う山に橋本と玄弥はいた。林のなかのすこし開けた場所で、「さてと」と前置きして橋本はドカリと胡坐をかいた。

「座んな、まずは座学だ。室内でもよかったんだが、ああも猫ちゃんが多いと万一があっちゃいけねえ」

 おもむろに風呂敷を広げ、その上に数丁の銃を並べる。玄弥は橋本の正面に座った。

「日輪銃として改造に成功して、そのうち鬼殺に十分な威力があるのがこの二種類。鎖閂式小銃と底碪式小銃。カタカナで言うとボルトアクション小銃とレバーアクション小銃だ。鎖閂式はこの部分で一発ずつ弾を薬室に込めるが、底碪式は引き金と一体になってる用心鉄を動かして装填する。それぞれにそれぞれの持ち味と欠点があるが、これは明日以降触ってみて馴染む奴を選ぶしかねえかなって感じだ」

 橋本は風呂敷の上にある銃をそれぞれ指さしながら「三八式日輪歩兵銃、エンフィールド三式改、ウィンチェスター改」と呼んだ。改、というのが日輪銃として改造済みである証左らしい。

「もう一つは?」

 風呂敷に並べられた銃は四丁だった。玄弥はのこる一丁を指して訊く。

「これは刀鍛冶の村の連中とメチャクチャ喧嘩しながら作ったオリジナルだ」

 ほかの銃に比べて木地の多い短い銃だった。ほかの三丁と比べて大きい銃口が二つならんでついている。なんとなく仕組みを見るに、砲身の根元から折れるようだ。奇妙なもんだなあ、こんなのも銃って呼ぶのか。玄弥は口には出さずに思う。

「ちょっと語ってもいいか。いいか、座学だし。よっしゃ喋るぞ」

 疑問に思う間もなかった。どっちにしたって断る気はなかったのに勝手に喋りだそうと銃を手に取った橋本を見て、玄弥は「この人意外と能天気だが大丈夫か」とハラハラした。が、すぐさま杞憂だったとわかる。我が子をあやすように銃を手繰りながら橋本が言った。

「玄弥。何で銃を使おうと思った?」
「……俺には呼吸が使えません。悲鳴嶼さんがやってる反復動作は覚えましたが、それでも並みの隊員にやっと並ぶかどうか。俺はもっと強くならなきゃいけないんです」
「何で強くなる必要がある?」
「謝りたい人がいます。その人は……階級が高くて。同じところまで行かなきゃ、きっと口きいてくれません」
「……ははん、なるほど。より強く、より長生きするために銃を選んだってわけだ」
「気に入りませんか」
「いや、むしろ最適だ。特にこの銃には」

 橋本はベルトの弾薬盒から珍しい形の弾を出し、玄弥の前で振って見せた。カタカタと音がする。中に大きなものがひとつ入っているということだ。

「まだ日本は西欧に比べりゃ兵器開発が進んでねえから、日本語名称がなくてカタカナ語ばっかりになっちまうんだがな。近接戦闘向けにライフリングを短く、グリップも短く、古い言い方すりゃ馬上筒に近い設計にした。その分一発の殺傷力を上げるために水平二連式を採用。内部構造を簡素にまとめたおかげで軽い。本体はバカみてえにただただひたッすら頑丈な素材だが、無煙火薬と特別製の実包で鬼殺を可能にした、この世でただ一つ、ダブルバレル・ソードオフ・ショットガン型の」

 朗読のように、歌うように橋本は言う。言う間にも手は止まらず、慣れた様子で弾を装填していた。一度言葉を区切り向かい合う玄弥を見て微笑むと、橋本は真横に腕を伸ばして銃を構えた。
 瞬間。銃声。玄弥は驚いて目を瞑ってしまった。再び目を開けると、数間先の木にまで銃弾が届いたらしい。銃口の延長線上の立木が抉りぬかれたようになっていた。

「南蛮式超大口径日輪銃、銘を南祖坊」

 玄弥は思わず橋本の指先と木立を交互に見た。先ほどの橋本の言を思い出す。指先一つで鬼が狩れる武器。つまり、鬼より弱い人がこんなものを食らって無事で済むはずがない。刀も十二分にそう言えるが、銃もまた断固たる覚悟がなければ扱えない武器であるのだと知った。
 しかし言い切った橋本の晴れ晴れとした顔に満ちる自信たるや。その凛々しさたるや。玄弥はしばし食い入るように橋本を見つめていた。「嬉しいね、穴が開いちまうぜ」と言われてやっと我に返った玄弥に、橋本はしたり顔で笑う。


「怖いか?」
「……はい。でも、その。……かっこいいっすね」

 橋本はパチクリと瞬きすると、「ドハハ!」と笑った。

「その通りだ! まず覚えておいてほしいのは二つ。銃を撃っていいのは覚悟がある奴だけってこと。もう一つは、銃はカッコイイってこと」
「ッス!」

 掴みは上々、玄弥はすっかり銃が気に入ったらしい。橋本は丁寧に銃の仕組みを説き、玄弥も吸い込むように覚えた。
 人よりも強い鬼を狩る。人間である以上、どうしても困難が多いのは今に始まったことではない。が、今に始まったことではないなら、人類の『今』でもって困難を乗り越えるのも難しくない、とは橋本の持論である。いくらでも刷新していけばいいのだ。更新し続ければいいのだ。
 有史以来、人類は神秘を克服するために科学を発展させた。橋本達にはまだ未来の話であるが、「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」なんて言葉も登場する。実際、魔法を再現するために必要な技法書が科学なのだ。
 怪異として人知を超えた怪物と戦うために、科学でもって人知を超えた武器を用意して何が悪い。ハッタリだろうが一時でも味方の戦意を高揚させるものがあるなら使え。持ち得る全て注ぎ込め。鬼殺に対する橋本の考えは藤襲山の頃から何も変わっていないが、やっと時代の追いついた感がある。
 さて、ここからがやっとこさ本番だ。
 橋本は考える。玄弥が一番使いこなせる銃。指導要領。これからの稽古。新規の希望者。ゆくゆくは、鬼殺隊における歩兵師団の運用。夢へのロードマップは着々と進んでいる。
 先ほどまで引き締められていた玄弥の頬にあどけなさが戻っているのが見える。まずは二人。これを波及させていけばいい。だだ広い湖に、ちろっと風を吹かせるくらいのことしか俺にはできない。それがいつか水面をこれでもかと波立てて、鬼どもを飲み込むような大きなうねりになればいい。
 ここから、ここから。銃でもってその頬に柔らかさを取り戻した一人目を思いながら、橋本はくり返し噛み締めていた。


*****


「ひたすらに直線だ。銃弾は基本曲がらねえ」

 次の日からは実際に銃に触れる内容だった。改造日輪銃も用意はあったが、玄弥がいたく気に入ったようであったのと、なるべく早く仕上がる方との本人の希望を酌んで南祖坊での訓練となった。
 基本的な仕組み等については昨日のうちに全て話しておいたので、構えを確かめながら空砲で身振りを確かめていく。
 南祖坊がショートレンジ用に設計されているとはいえ、近接戦闘の補助的に日輪刀をサブウェポンとして運用するのが良いだろうとの提案で訓練が進む。が、どうにも日輪刀と同時に南祖坊で薙ぎ、南祖坊と同時に日輪刀で突く動作が目立つ。取り回しとしては悪くないものの、それぞれの手にしている武器が全くの別物である意識を持つことと空間認識力の向上、左右の手でそれぞれの武器を手繰る練習の必要性が浮き彫りになった。

「威力が威力だから両手で構えるのが好ましいが、身体かなり出来上がってるから威力のいなし方を覚えればこのまま片手でも取り回しできるな。玄弥はデカめの楽器とかやるか? あれ両手バラバラに動かすから普段の練習としては良さそうだなと思うんだが」
「うーん、やったことないです。悲鳴嶼さんが屋敷にいるときは、あの人音と気配でものを見て動くのでなるべく静かにしよう、っていうのもあって。炊事じゃ足りないですかね?」
「炊事も良いが、そうだなあ。それこそ岩柱様みてえな武器扱う機会がありゃ良いかもだが、それの習得にあてる時間が惜しい」
「やっぱり、ひたすら組手しかないか」
「嬉しいやら悲しいやら、今のところ日輪銃と日輪刀の二刀流剣士は俺と玄弥しかいねえ。俺もそろそろ本格的に後方支援任務が始まりそうでなあ。もちろん空いてるうちはしっかり面倒見るが、それもいつまでできるかわからねえ」

 実際のところ、いくら橋本が稽古をつけたと言っても片や魔改造歩兵銃、此方魔改造南蛮銃とくればあまりに取り回しに違いがありすぎるため、日輪刀や呼吸の修行のように「体捌きは見て盗め」という指導ができなかった。結局は動作をものにできるまで訓練する他ないのだが、すこしでも完成までの道行きを短くする必要がある。
 悪い意味で煮詰まった。橋本は「これは俺の課題だ。お前はまず身のこなし少しでも掴めるように、一旦がむしゃらに動いてみろ。理論立てはその後だ」と顎をしゃくってみせる。玄弥は息を整えてすぐさま構えを取った。
 それにしても。橋本は玄弥を監督しながら度々思う。こりゃまたえらい体格の恵まれ方したなあ、この子は。
 同じ年ごろのちびっこ達と比較するよりも、二十歳を超えた歴戦の隊士たちと比較した方が近い体格。どえらい手足の長さであった。この長さの腕であれば、剣付き日輪歩兵銃を振らせたら呼吸を使わずともその刃先は恐るべき速度になるだろう。攻撃の側面にあって長さがもたらす利点は枚挙に暇がない。
 しかし本来であれば、この手に銃を握らせることがない方がよかったのだ、という事実もまた体格への感嘆と同じ激しさをもって橋本に降り注いだ。

「くそっ」

 南蛮銃を取り落とした玄弥が地面を蹴りつけている。橋本はサッと距離を詰め、荒々しく銃を拾い上げようとしていた玄弥の手を掴んだ。

「あー、南蛮銃の運用とはちょっと逸れるかもだが、狙撃にはコツがある。忘我だ。自己の喪失と呼ばれることもあるほどに、自分を殺すことで目標を撃つ」
「喪失、ですか」
「先の戦争では、狙撃手は自分の居場所が割れるのを防ぐために口に雪を含んで白い息が出ない様にしたそうだ。山での狩猟は人間の匂い一つ察知された時点でしばらくは狩れないとも言う。よく言えば自然に溶け込み息を殺す、悪く言えば人間性と理性を捨てること。弓術にも通ずるが、生き物を直線で狙い撃つことに必要なのは言っちまえば、落ち着き。ほれ、鼻から吸って深呼吸せい。休憩にすんぞ」

 橋本は慣れないながらも穏やかに、いっそ茶目っ気すら滲ませて言った。煉獄と仲を深めてから気づいたことだが、人間思っている以上に会話している相手の感情に引きずられるものだ。今までの橋本は人を避けていたのもあるが、あまりに拒絶の意志がダダ洩れであったがために人の方から橋本を避けていた、というのが正しかったとわかる。苦い記憶がありながら、自身もまた怨嗟のこもった湿布をバラまいていた。触らぬ神に祟りなしとはまさに以前の橋本を表すにふさわしい。
 休憩休憩〜、と努めて朗らかに銃を拾う橋本の背中に、玄弥の三白眼から送られる鋭い視線が突き刺さっている。あまりに乏しい交流経験からでは、どう返事をしてやるのが最適解なのかわからない。橋本は玄弥に見えない様に下唇を突き出した。

 翌日以降も休憩を切りだせば覗き込むような視線が玄弥から送られてきた。大体木陰の下で並んで座って水分採って一息、といった具合だが、その間ふと気づけばヒタリと見られている。勘弁してくれ、俺人付き合いと酒の美味さだけはわからない。どっちもちょっと苦くて腑がガッと熱くなる感覚があることしかわからない。
 まだ数日だが、玄弥は明らかに自主練習に励んでいた。日を跨ぐたびに体捌きが教えた以上に成長している。喜ばしいことではあるが、だからこそ稽古で休憩時間をしっかり設けてやらないと故障しかねんだろが、不満があるなら自主練をほどほどで切り上げてくれと持参した水筒に口をつけながらグルグル考えていた。

「……意外っすね」

 しかして気まずさの泥濘を最初に突破したのは玄弥だった。橋本が瞠目している間に、玄弥は悲鳴嶼に持たされた巨大な水筒で唇を湿らせている。

「すまん、なにが?」
「や、噂なんですけど、氷像みたいな奴って聞いてたので。もっと稽古厳しいかと思ってました。意外と喋るし、猫好きだし」
「……氷像ってのは初耳だが、猫以外に関しては、最近心境の変化があったというか」

 玄弥が先を促すように黙り込む。橋本は顎先をやわく引っかきながら言った。

「恨みつらみで戦ってると、だんだん色んなものが麻痺してくる。俺は麻痺しまくった末に「俺以外の人間みんなバカだ」って考えに落ち着いちまった。だが、俺もバカも同じ人間だ。俺が考えを巡らすように、バカもバカなりに考えを巡らしてる。で、案外俺が思いもよらなかった答えを出してたりするんだ、これが。しかも、案外自分で自分を雁字搦めにしてたものを許してくれたりする。……バカは変わらずにバカだが、俺もバカだったってことに今更になって気づいた」
「……俺も同じこと思ってます。俺の思ったように行ったことなんかなくて、でも自分がバカだと思いたくなかった。お前らがバカなんだって」
「おう、悩むのは若いうちの特権だぜ。お前もいつか、「お前はそれでいいんだ、バカ」って、バカ正直に言ってくれる奴に会えるよ」

 橋本は気恥ずかしさを隠すようにパッと立ち上がって太陽を浴びながら「うわあー」と言って伸びをした。

「マ、どうしても気持ちが麻痺して暗く考えちまうときは腹減ってるか睡眠不足か、あとは寒いかのどれかだ。ちゃんと食って温かくして寝て、お天道様浴びて「わー」とか言えば気も晴れる」
「そんな簡単なわけないじゃないですか」
「案外簡単だぞ。もちろん考えることを放棄していいわけじゃねえが、考えない時間ってのもいいもんだ。趣味の時間とかな。あるか?」

 橋本が振り返って尋ねると、玄弥は目線を逸らしたまま「……盆栽」と言った。

「いいじゃねえか。実物ってのはいいもんだぞ本当」
「橋本さんは実物じゃないんですか? いや待て、なんだ実物じゃない趣味って」
「想像上の猫ちゃんを可愛がってる。世話になってる藤の家紋の家の主人が猫が苦手っつってな、実物を愛でる機会がないもんだから」
「そんな虚しい趣味があるか!」

 玄弥は思わず吠えた。「威勢が戻ったな、特訓再開だ」と笑った橋本を一度ぎろりと睨み、その日の訓練を終えると橋本の手を引いて岩柱邸のある場所に拉致した。玄弥にとっては慣れた道でも橋本にとってはここ数日歩き始めた山道であったので道中何度か悲鳴やら非難やらが聞こえたが、きっぱりさっぱり無視して歩いた。

「ねッこちゃん!」

 橋本が連行されたのは厨房裏の勝手口だった。夕飯のおこぼれに預かろうと集まった猫たちが錬成した、橋本にとってある種の天国がそこにあった。猫屋敷にあって最も猫が集まる場所、吹き溜まりである。
 橋本は悲鳴を上げるために吸った息を必死こいて胸中に留めた。たぶん叫びだしたらこの子らはみんな逃げる。わずかに残った理性がその予想をはじき出すまでに一瞬もかからなかった。こと戦争と猫のことになると恐ろしく頭の回転が速い男である。みっともなく「ヒーッ」と息を吸った橋本を見て、玄弥は一層呆れたような顔をした。

「ホラ実物! いますから!」
「ウゥウアアオォォォ。俺。俺触り方わからん。空想猫しか触ったことない。生きてる猫触るの初めてかもしれん」
「ダアもお!」

 玄弥は恰幅のいい猫を抱き上げ、橋本に押し付けた。「持ち方がわからん!」とついに悲鳴を上げた橋本に「勝手に収まる!」と一喝した。およそ直線らしい直線がない、丸々とした猫はわずかに不服そうな顔をしながらも橋本の腕の中でウゴウゴと収まりのいい場所を探し始める。時折落ちそうになるのに耐えかねて、橋本は泡食ったような顔をしてしゃがんだ。この高さなら万が一落ちても大丈夫だろうと思ったらしい。猫は「お、いい足場があるじゃん」と言わんばかりに橋本の腿の上で丸まった。

「猫ってホントに丸くなるのか」
「そうなったら吸えますよ」
「吸う!? 何を!?」
「猫を!」

 玄弥は足元にすり寄ってきた猫を抱え上げ、「ほらこう」と猫の背に鼻を埋めて大きく息を吸った。橋本は小さく「猫の呼吸だ……」と呟いてから見様見真似で同じく吸った。橋本も全集中・常中が使える呼吸の剣士であったので、常人のそれよりもはるかに発達した肺がめいっぱい膨らむまで猫の後頭部のあたりを何度も吸った。

「うわ……あったけえ……猫ちゃんって骨があるのか……ウワ、息してる……生きてる……」
「猫のことなんだと思ってるんだアンタ」
「空想上の生き物……」
「もう何も言えねえよ」
「ありがとうな玄弥……いやとんでもねえな玄弥……こりゃ断つのに苦労するぞ……」

 フカフカと紡ぎだされる喃語めいた呻きに玄弥はすっかり気を良くした。橋本は夕日を浴びながら猫を堪能している。めちゃくちゃ賢いのに変なところで何も知らない、変な大人だなあと思いながら、中にいるだろう悲鳴嶼に声をかけようと玄弥が目を逸らした時だった。
 重たいものが地面にこすりつけられる音。猫たちの驚いたような鳴き声。橋本の膝で丸まっていたはずの猫がすっ飛んでくる。
 弾かれるように振り返る。橋本が地面に倒れ伏していた。


*****


 煉獄は息を整えて橋本を見下ろした。岩柱邸の一室に敷かれた布団に、数日前に見送った時よりも泥のような顔色の橋本が寝ている。隣には玄弥が看病にあたっていた。
 さっと橋本の顔の横に座った煉獄は、ノーモーションで橋本の頭を一度引っ叩いた。瞠目した玄弥が飛び上がる。橋本は目覚めないままだった。

「うむ! ザンギリ頭を叩いてみれば、睡眠不足の音がするな!」
「ァにやってんだアンタッ!」

 いやぁなに手加減はしている、と笑った煉獄には一切の気丈さもなく、まさしく「普段通り」といった風体であった。玄弥はドン引きしながらも「この人が橋本さんに「バカ」と言った人なのかもしれない」と思った。『氷像』を人間にした人間であるならばこの気兼ねなさも頷ける。しかし、それと気を失っている人間のド頭をブッ叩くことはどう差し引きしても放免にはならない。「そういうことじゃない」と大声を出すために玄弥が息を吸い、吐く直前に襖が開いた。湯呑を乗せた盆を持った悲鳴嶼である。

「すまない、私も玄弥も気が動転した。本人があとは様子見だと言っていたから、てっきり体調に憂慮することはないとばかり」
「自責めされるな悲鳴嶼殿! 橋本が言っていたことに嘘はない。こうなったのも本人の自己管理不足ゆえ、起きたら本人から謝罪もあるだろう!」

 玄弥が突然倒れた橋本に驚き散らかして悲鳴嶼を呼び、同じく驚き散らかした悲鳴嶼が医者よりも先に煉獄に鴉を飛ばした。煉獄もまた驚き散らかして駆けつけてしまったのだが、煉獄が岩柱邸を訪れた段階でやっと全員が「順序を間違えたな」と正気に戻った運びである。
 煉獄と玄弥に茶を勧めながら悲鳴嶼もまた座った。壁際に橋本を見送った際に持っていた荷物が丁寧に片付けられているのを見るに、ここが借りている部屋なのだなと煉獄はアタリをつける。
 勧められた茶を含み、玄弥もやっとのことで気が落ち着いた。ふと大きめのカバンの隣に、仕舞われないまま置いてある外套と首巻、ボロボロの本が玄弥の目についた。

「あれも仕舞いますか?」

 特に気負いなく発した言葉だったが、柱二名からは「やっちまった」と解釈できそうな気配が一瞬だけ噴き出した。すぐさま収まったが、その残滓に居心地が悪くなる。玄弥が居住まいを正すのを見て、煉獄は申し訳なさそうに笑った。

「あれは橋本の大事なものだから、俺では触るのも憚られてしまってな」

 同調するように悲鳴嶼が低く頷く。『氷像』を人間にした人間ですら触るのを遠慮する代物ってなんだ。玄弥は考えを巡らせ、すぐさまたどり着いた。
 その人の、その人たる所以だ。

「不死川隊員、橋本が銃にこだわるのはもちろん知っているな?」
「はい」
「訓練に使う銃に、こいつは銘をつけていたか?」
「はい。南祖坊と」

 それを聞いて煉獄は喜色を浮かべた。

「うむ。君なら、頼めば見せてくれるだろう。俺では駄目だ、二度と銃に触るなと言われてしまったから」
「どういうことスか、それ」
「君にとっては与太かもしれんが、本人にとっては命よりも大事なのだ。まあ深くは考えなくてもいい。が、そういう人間もいるのだな、と経験程度に話を聞いてみても損はないと俺は思う!」

 そう言って湯呑を煽ると、「では失礼する!」と煉獄は立ち上がった。悲鳴嶼が申し訳なさそうに見送りに立つのも制して、サッサと帰ってしまった。呼びつけといて見送りもしないのはいくら何でも柱抜きにしても失礼ってもんだろう、と玄弥が急いで後を追う。玄弥が追ってくるのに気づいてもなお煉獄は足を止めなかった。

「か、帰んの早くないですか」
「なに、目覚めた時に俺がいたら恐らく橋本が怒り出す。ちょっとばかし喧嘩中なのでな。それに、あの姿を見て、俺も強くならねばなと思ったのだ。早く鍛錬がしたい!」

 今日は驚くことばかりだ。玄弥はそろそろ頭が痛くなってくるのを感じた。つい今しがた自分の屋敷からここまで突っ走ってきただろうに、何がどうなったら追加で訓練がしたいなんて思うんだろうこの人。口には出さなかったが、玄弥の三白眼が口ほどにものを言っていた。気づいた煉獄が玄関でついに足を止め、答える。

「おや、不死川隊員も洋靴を履くのか」
「え、はい」
「足は痛まないか?」
「いえ。足痛めては任務に支障が出ますし、合うものが手に入ったので。どうかしました?」
「橋本も長靴を履くのだが、あれは先の戦争に従軍されたご賢父のものなのだそうだ。聞いた話だが、当時の長靴はまだ日本人の足に合わないものがほとんどで、行軍の際などは草鞋に履き替える者も多かったと。あとで踵を見せてもらうといい。彼の覚悟の堅固さを物語っているぞ」

 玄弥はなぜ靴の話題が覚悟の話題に飛ぶのか、見当がつかなかった。

「ついでにもう一つ! 彼はマタギという猟師の子なのだが、マタギとは鬼よりも又強い者、という意味があるとか」

 未だ頭に疑問符を浮かべている玄弥に「では達者で!」と笑って煉獄は帰った。
 玄弥は玄関に突っ立ったまま重々しく溜息を吐いた。今日は寝つきが良さそうだ。頭が疲れた。落ち着けてから戻ることにしよう。



「……あのクソガキ来てませんでしたか」
「……クソガキ」
「……杏寿郎です」

 橋本は目を開けないまま言った。玄弥が煉獄を追って退室してから間もなくのことである。眠り続けたように見えて、その実頭をブッ叩かれた拍子に橋本は覚醒していた。さもありなん。橋本は心底居心地が悪そうに布団を頭の上まで引き上げた。

「クソガキ、というなら、君も大概そうだ。橋本新平」
「それに関しては申し開きもありません。強いて言えば、張り切りすぎました。初めて鬼殺隊員に稽古をつけられる機会でしたので」
「そうだろうが、そうではない」

 悲鳴嶼がヒタリと言う。橋本は布団の中の方が居心地が悪くなった。念のためゆっくりと起き上がり、悲鳴嶼の方を向いて胡坐をかき、両ひざにゆるく握った拳を置いた。真面目に叱られるときの構えである。

「君は眠れないのか。眠らないのか」
「眠れないので眠らなくなったんですよ。夜にいい思い出がないもんで」
「……欺瞞。嘘ではないが、すべての真実でもないだろう」

 きっぱりと言われては反論もできなくなってしまった。橋本は悲鳴嶼に見えないのをいいことに下唇を突き出した。そのままわずかに押し黙り、ひどく慎重に言葉を選びながら懺悔する。

「半分は本当です。いい年こいて夜が怖いものですから。残り半分は、寝る間も惜しいから眠らないでいたら眠れなくなった、とでも言うのが正しいかと」
「張り切りすぎたと言っていたな。それほど銃使いの鬼殺隊員が増えることが嬉しいか?」
「嬉しいですよ。このために昇進も辞退し続けて来たんで」
「何が目的だ? そうまでして銃を普及させたい理由は何だ?」
「岩柱様が危惧してるようなことは一切ないって神仏に誓えますよ。俺たちの命は日の本の人間を守るためのものですが、守られるべき命と同じ命です。万が一にも捨て石にしていいものじゃない。鬼殺隊員も含めて人が死なないようにしたい、ただその一念でやってきました。銃はその手段であり、矜持です。何物にも代えられず、また代えるつもりもありません」
「刀ではできないことなのだな」
「勿論。鬼殺隊の歴史がその証左と言えます」

 視線がかち合わないのは百も承知のうえで橋本は悲鳴嶼の目を射貫くように見た。緊迫感が空間をまるごと満たした。さながら戦地である。悲鳴嶼は何も返さなかった。
 終わりがないように錯覚した沈黙の時間は、橋本の発言で一旦の休戦を迎える。

「マ、今までの鬼殺隊が全て無駄だとは一切思っていません。鬼殺隊のおかげで今も生きていますし、こうして好き勝手わがまま言って銃の研究やらもさせて頂いてること考えたら足向けて眠れなんかしませんよ。でも藤の家紋の家ってあちこちにあるから、結果寝なくなったのも一理ありますね。なんつって」
「……南無、やはり君はクソガキだ」
「ええ……」

 右手が膝の上を滑り、橋本はガックリと項垂れた。めちゃくちゃ自己弁護をしたにも関わらず、自分の評価が「クソガキ」を脱することはなかった。悲鳴嶼とは他の鬼殺隊員と比べれば、互いに特殊な武器を扱う者同士というのもあって刀鍛冶の里などでよく話した。今までだって階級差を抜きにしても至極真面目に受け答えをしてきたはずだが、どこで答弁を間違えただろう。悲鳴嶼には橋本の目にこびりついて取れなくなった隈は見えていないはずであるにも関わらず、憐れむような顔で落涙している。

「私は子どもを信じない、君は他人を信じない。私がそうしている以上、それもいいだろう。だが、友を得てなおその不動さを、私は心配に思う」
「これでもかなり人間のこと好きになったんですが、まだ足りませんか」
「不足。君のそれは庇護であって慈悲ではない。この組織の中にあって、私と君は長い付き合いに部類するだろう。先ほど我々の命は万が一にも捨て石にしていいものではないと言っていたが、その中に君は確かに含まれているか? 人命を庇うその背を、私は案じているのだ」

 橋本は「アラ珍しい」と口走りかけた唇を再び突き出した。思考は言葉になる寸前で止まったが、言葉にならなかった思考が戻って来た時に思い当たったのは、「ああこの人、俺の事ほんと可愛がってくれてるんだな」という実感だった。先ほどから橋本へくり返し吐かれる悲鳴嶼の「クソガキ」は、ひどく慈愛を含んだものだったのだ。
 これは橋本にとってまさしく青天の霹靂と呼ぶにふさわしい大事件である。今まで散々遠ざけていたくせに、内に秘めていた寂寥を感じ取った人間がいたとは。橋本は目を閉じ、瞼の裏に生家を思い浮かべた。今はないそこに住む両親は仕事柄どうしても頻繁に麓の村人と交流できずとも、確かに人を信じて生きていた。
 俺も、もう少し人間を信じてみよう。こうだと思い込むのではなく、せっかくため込んだ語彙と知識を総動員して編み出した自分の言葉で、他人を識ろう。

「じゃあ、ちょっと長くなるんですけど、聞いてもらっていいですか」
「構わない。許す限り付き合おう」

 悲鳴嶼は笑った。
 がんばって手短にまとめます、と前置きして橋本が語ったのは自身の過去、故郷にある三つの湖の誕生とそれに付随する平安から続く伝承であった。曰く、三湖伝説と。
 あるマタギの青年が掟を破り仲間の分のイワナまで食べてしまったところ、急に耐えがたい渇きに襲われ三十三夜も川の水を飲み続け、いつしか三十三尺の竜へと変化し、住処として作った湖があること。ある男が「草鞋が切れたところが終の棲家になる」と神託を受け鉄の草鞋で旅を続け、竜が作った湖で草鞋が切れたために竜と七日七晩の戦いを繰り広げ、敗れた竜は新たな土地に新たな湖を作ったこと。ある娘が美貌の不朽を願い、啓示を受けた泉の水を飲み続けた末に竜へと変貌し、泉を広げて作った湖があること。
 そうして、ある男とマタギの竜が娘の竜を巡って戦い、勝利したマタギの竜と娘の竜が同じ湖で暮らしていること。

「竜の夫婦が暮らしている湖はとんでもなく水深が深いせいか、はたまた竜が二匹もいるせいか夏でも冷たく、冬は凍らないんですよ。晩年の父が凪いだ気風の人だったのもあるし、マタギの伝説としても、人間を超える伝承としても、俺はこれに強い憧れがあります。何も過去がどうこうって話じゃなく、俺が願ってそうありたいから不動なんです。余計な心配をおかけして申し訳ないですけど」

 要所要所を省き、駆け足ながらも橋本は語り終え、一度息をついた。寝物語に伝承を紡ぐ父の優しい声音も、冷えないよう布団をかけなおしてくれる母の眼差しもちゃんと覚えている。懐旧はほんの数秒だったが、それでも橋本に再び熱い血が流れる。どうにも指先まで熱を運んではくれないが、焼けるように喉の奥を熱し、ギリリと引き締めてくれる血だ。

「このことを、煉獄は?」
「教えました。というか、ここへ来るのに身支度しがてら教えていたらアイツ『南祖坊』の銃口を覗き込んでやがったので、めちゃくちゃに怒鳴って飛び出して来ちまいました」

 悲鳴嶼は低く「南無」と唸った。これはたぶん「なるほど」の意だ。泣き声みたいになっている。

「話してくれたこと、嬉しく思う。だが、それでも君は私にとってクソガキだ。養生しなさい」
「えー何でですか。最高の自己弁護だったじゃありませんか。今ので好感度うなぎ上りでしょうよ」
「ふふ。すまないな、後に続く隊士は皆クソガキに思える性質ゆえ」
「そこは猫可愛がりって言えばいいのに。語調が妙に強い」

 悲鳴嶼には察されているだろうが明確には見えていない、という甘えもあってか、橋本は悲鳴嶼の前では比較的無防備だった。みっともなくニヘリと口角を緩める。ここ最近何やら急激に色々なことを赦されている気がする。成し遂げたい宿願への道のりは思っていたよりも早い展開を見せているし、玄弥にも偉そうに説教しちまった手前、ほんのちょっとだけ、走り抜けるのではなく歩いてみるのもいいやもしれない。橋本はやわらかな日光と、日光を受けて輝く蓬髪を思い起こした。あれを文字通り罪を濯ぐ烈火ではなく、ただ注ぐ陽光として受け取ってみよう。
 この年になって、この段階になってやっと気づかされるとは。妙な面映ゆさに橋本が頬を緩めると、不意に襖が開く。煉獄を見送りにいった玄弥だった。ひどく腑に落ちないような顔をしながら開かれた襖の前で立ち尽くしている。

「どうした、入りなさい」

 悲鳴嶼が促すと、どこか上の空の様子で玄弥は座った。思わず橋本が「アイツ何か言ったか?」と問う。帰ってきた返答に橋本は心底震え上がることになる。

「橋本さん、踵見せてもらっていいすか?」
「えっ怖い。なんで?」



*****


「アーッハッハッハッハッハッハッハ!」

 割れるような大音声であった。昼日中の蝶屋敷である。大音声の主は顔を覆って床にひっくりかえっていた。橋本である。

「うーむ、ひどい! ひどいぞ! およそ人の心がない! そもそも二度と銃を触るなと言ったのはお前だろうに!」
「ハァー楽しい! いやほんと面白いなお前、ほんと二度とちゃんとした銃触らせられねえなお前! この距離でコルク銃当てられねえってよっぽどだな! ああ愉快愉快!」
「その目つきの悪さ、性格の悪さの現れだったのではあるまいか! 性格が悪い! そもそも俺は隻眼だというのに何だこの不条理は! 俺だってこの当たらなさは細工を疑うぞ!」
「俺が八百長やってるってのかこの鳥除け目玉! 片目でもそんだけデカい目してりゃよく見えるだろうが! 知ってるぞちびっこ共に薬湯ぶっかけ回してたの!」

 玄弥への特別訓練が終了した次の日、橋本はちびっこ達に貸していた本の感想文を回収するために蝶屋敷を訪れていた。訓練初日で調子に乗って南祖坊を片手撃ちしたせいで、治りたての右肩を再び痛めていた。ちびっこ達を後回しにして受診ののち、煉獄の病室を訪れる。ある目論見のためである。

「元気してたかよ」
「君よりは」
「ぬかしやがれ。お前玄弥に踵のこと言ったろ」
「言ったな。頼まれたか?」
「起き抜けに「踵見せてもらっていいですか?」だぞ。何が楽しくて人の靴擦れ見たいんだよ」

 語調こそ剣呑だが、互いに表情は穏やかだ。不和は時間が癒したと見える。しばしじゃれ合いのようなやり取りが続いた。
 この頃合いなら大丈夫だろうか。橋本は懐から小箱をひとつ取り出した。

「先日はすまんかった。俺の説明が悪かった。これァ詫びの品だ。が、散々危ねえって言った矢先にヒョイヒョイ銃口覗く奴に素直にやるのもなんか気に入らんので、射的で落とせたらお前にくれてやろう」

 あまりに不遜な物言いだが、煉獄はパッキリと笑って答えた。

「うむ。危険なものだと言い聞かされておきながらあの所業、俺もすまなかった! 反省の余地があるのに大人しく受け取っては逆に立つ瀬がない。その勝負乗ろう!」

 そして急遽始まった射的遊びであったが、これが思いのほか難航した。いかんせん挑戦者の煉獄杏寿郎と言う男、橋本の戦い方を見ておきながら、何の気なしに銃口を覗き込む男である。銃というものをとんと理解していない男である。元々コルク銃が狙撃には向かない精度をしていることを鑑みても、三尺ほどの距離に置かれた小箱に当てることすらできないでいた。そうして先ほどの大爆笑へと至る。
 せせら笑う橋本の声の健やかさたるや。煉獄はコルクを詰めなおしながら、橋本はそろそろ退院だろうなと思った。乞えば文句を言いながら来てくれる男ではあるが、ほぼ毎日顔を合わせていただけにちょっとだけうすら寂しいものがある。

「これじゃあいつまで経っても渡せねえじゃねえかよ。貸してみろ」

 しびれを切らした橋本が煉獄の背後にまわり、煉獄の構えを修正しながら覆いかぶさるようにコルク銃を構える。最近にしては珍しく橋本の指先は氷のように冷え切っていた。ああさてはこの男、仲直りするのが初めてで緊張しているな。気づいて、銃を構えていた煉獄の指先は一気に血の気を取り戻した。温かくなった指先で再び銃を握る。先ほどよりも手になじむように感じられた。

「見るのは目標、よりもちょっと先。構えが曲がってんだもうちょい右。力抜いて、まだ引き金に指はかけない。雨どいから水滴が落ちるみたいに、その時が来てやっと引き金に指かけて、自然に撃つ」

 至極穏やかな声だった。煉獄は橋本の声があまりに人間味に欠けるので、瀞のようだと思った。無窮の湖のような。以前橋本が話した竜が棲む湖を思い出し、煉獄はせっかく温まった指先から熱が引いていくのを感じ焦って引き金を引いた。
 コルクの弾が撃ち出される。上部を撃ちすえられた小箱はゆっくりとバランスを崩して後ろに転がった。
 背後から呑気な歓声が上がった。やっとか、と離れる橋本の体温が妙に嫌だった。嫌な予感がした。どうにも、目のつくところに置いておかないと落ち着かない、といったような心地である。
 まさか慕情ではあるまいな。ふとよぎった可能性を煉獄は鏖殺した。万が一にもないな。間違っても恋慕ではない。なにか矜持のような。情どうこうというよりは、どこか天啓めいた。煉獄はどうにも言葉を選びあぐねていた。友情と呼ぶには温度が高く、慕情と呼ぶにはあまりにも毛色が違う。
 そうやって煉獄が首をひねっている間に、橋本は小箱を拾い上げて差し出した。

「ん。詫びの品だ。開けろよ」
「うむ。では失礼して」

 小箱に収められていたのは眼帯だった。あて布の部分に炎を模した意匠が光る。支給された隊服と羽織り以外にはもっぱら和服を着る煉獄にとっては、すごく洗練されたもののように映った。

「お前もぼちぼち退院、まで行かなくても試運転がてら動く機会があるかもしれんだろ。布巻いてるより機能的にも衛生的にもいいかと思って」
「よもや……よもや」
「うは、語彙失ってやんの」

 カカカ、と笑って「じゃあちびっこ達に顔出してくらぁ」と橋本は病室を後にした。残されたのは煉獄とコルクの弾と眼帯だった。
 煉獄はじっとりと冷や汗をかいていた。気が気じゃなかった。外出時に家の鍵をかけわすれたような、書類を机の上に置いたままのような、重要なことを無意識下で忘れている時と同じ嫌な予感があった。
 たかが予感、されど予感である。百戦錬磨の第六感は時にどんな情報にも勝ることを煉獄は身をもって知っていた。
 何かが動いている。それが何かはわからない。すごく遠いところでありえないほどの怒涛が鳴っているのを、ぼんやり聞いているような。せせらぐ川を眺めて山間の大瀑布を思うような。大事の気配をなんとなく察知しているだけの状況。だがそれすらも煉獄の肺腑を引き絞るには十分だった。
 ああ、やはり先日さっさと帰ってよかった。煉獄が思い浮かべたのは岩柱邸であった。悲鳴嶼を思い起こすと、なにか腑に落ちたような感覚がある。

「何かを失わなければ強くはなれない、か」

 悲鳴嶼はその強さのために人への信心を、煉獄は親愛を失っていた。これから橋本が失おうとしているものは何だろう。橋本が失うことで、俺からも失われるものはなんだろう。
 煉獄は眼帯を装着した。誂えられたようにぴったりと身に馴染む。額にかかる紐の感触が、煉獄の思いを一層激しく焚きつけた。

「あのクソ野郎。何を考えているかは知らんが、俺が「捨て置け」と言われて「ああそうですか」とは言えぬ男であるのを思い出させてやらねばなるまい」

 早く稽古がしたい。訓練がしたい。特訓がしたい。復帰したい。前線に立ちたい。人を護りたい。
 強くなる必要があった。守るためではなく失わないために。岩柱邸で見た橋本の青白い顔を、しばらくは見なくていいように。
 煉獄はもう一度だけ「クソ野郎」と毒づいた。廊下の遠いところから「お風邪ですか橋本さん!」と炭治郎のバカ元気な声がした。
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