ここが最大瞬間風速だった

 悪く言えば愚直とでも呼ぶのだろうが、つくづく真っ直ぐな男だな。
 橋本は歩きながらそんなことを考えていた。
 竈門ら「ちびっこ達」が吉原で上弦の陸を討ち果たし、またしばらく絶対安静を言い渡されたのと入れ替わりで橋本は晴れて蝶屋敷を退院し、昼は稽古に研究、夜は任務に勤しむ超稼働の生活が戻ってから少し経っていた。まさしく寝る間もないほど忙しいながら、時折玄弥から「猫吸いに来ないんですか」と文をもらうなど充実しまくった鬼殺隊畜生活を送っていたある日、煉獄から文が届いた。

「会って話したいことがある」

 それだけの手紙だった。このくらいでどうせ鴉を飛ばすなら言伝として飛ばせば済むものを。わざわざ文をしたためる手間を面倒がってしまう橋本にしてみれば、煉獄の文は「真面目」さの現れに映った。煉獄もまた蝶屋敷を退院しているものの、もうしばらくは任務を見送られるとのことだった。二度目の炎柱邸への道のりは、「会わなきゃ話せねえ話ってなんだ」の疑問と「先日のこと槇寿郎殿になんて言って詫びよう」の懊悩で橋本の頭はいっぱいいっぱいだ。

「お久しぶりです! 先日は父が失礼を……」
「いえ、先に失礼なことしたのは手前です。どうか顔を上げちゃくれませんか、これが渡せない」

 煉獄邸の玄関先で橋本を待っていたらしい千寿郎が、橋本の顔を見るなり頭を下げた。こちとら内心も知らないまま勝手に物を言い、あまつさえ発砲すらしているのだから詫びられては立つ瀬がない。橋本は「飯田橋、北辰社の牛酪です。早いとこ仕舞わないと溶けちまうよ」と千寿郎に手土産を渡した。
 大正時代、意外なことに牛酪は練乳と並んでおおよそ大衆にひろく普及していた。というのも、先の戦争で軍需生産目標としてカゼインや乳糖またはホエーなど、さまざまな脱脂乳成分の緊急生産が挙げられていた。これらはどれも加糖練乳や牛酪の副産物であったので、「戦争には使えねえが食えるもんだし物資も枯渇してるし流通さしたろうぜ」と逆説的に牛酪が大量に生産される運びとなっていたわけである。
 橋本が手土産として持ち込んだ牛酪は北辰社のものだ。旧幕臣として徳川に、明治からは政府に仕えた榎本武揚という男が明治六年ごろに東京に興した牧場である。
 身もふたもないが、歴史のあるもん持ってきたら許してくれないかな、といった魂胆であった。橋本はすっかり槇寿郎に対しての苦手意識とも加害者意識ともつかない腑がざわつく感覚が染みついていた。

「ここまでしてくださらなくても、父はもう怒っていませんよ」

 なるべく手のひらの熱が伝わらないように牛酪を受け取った千寿郎が微笑む。以前会ったときよりも頬がふっくらとしている気がした。前に会ったときはいっそやつれたような顔であったものな。思い返してみれば「竈門少年と同じく」と煉獄が言っていたので、もしかすると自分よりも前に竈門とも一度話をしているのかもしれない。自分よりも若い者から食らう説教はとくに効く。心を入れ替えて家のことをやっているのかもしれない、と思うと同時に泣きっ面に蜂けしかけちまったんだな、と橋本はまたも唇をへの字に押し曲げた。
 なんか気を遣わせちゃって申し訳ないな。橋本はそれっぽい軽口を並べながら千寿郎の頭を丁寧に掻きまわして、煉獄が待つ居室へ案内された。

「すまん、待たせた」
「大層待った!」
「そこは世辞でも否定しろや」

 煉獄は座って待っていた。淡黄の着流しが良く似合う。左目を覆う眼帯は先日橋本が贈ったものだ。促されるまま煉獄の正面に座ると、支度されていたらしい茶が運ばれてくる。橋本をここへ案内してから厨へ牛酪を仕舞い、茶を用意してすぐさま戻ってきたわりには千寿郎の額に汗一つなく、息も上がっていない。失念しがちだったが、この弟もあの最終選別突破してんだった。橋本は新鮮な驚きに感動しながら茶を受け取った。
 あらためて観察する昼日中の煉獄邸は、橋本が夢に見るようなうつくしい場所であった。庭に面した襖が開けられ、よく手入れされた庭木が日光を浴びてまぶしく光る。すこやかな葉が照り返す陽の熱を頬に感じながら橋本は口を開いた。

「用意周到だな」

 橋本の言葉を受けて、煉獄は湯呑を置いてから「うん」と言った。ひどく何かをこらえていたような顔をしている。橋本は急かさなかった。

「……柱への復帰は、難しいと」

 聞いて橋本の脳裏によぎったのは、煉獄に窓から投げ飛ばされかけた日の会話だった。
 無限列車から生きて帰っただけ大収穫であったのは互いに理解していたが、なぜか「こいつがいればもう何でもできちまうな」と漠然とした、しかし激しい予感があった。

「難しかろうが、俺は絶対に復帰してみせるぞ! そしてお前の銃と煉獄の赤き炎刀でもって鬼をじゃんじゃん討伐してみせる!」
「馬鹿野郎、俺が復帰できない前提で決意新たにしてんじゃねえ! 俺だって復帰して鬼どもに啖呵切ってやんだよ!」

 そういって肩を抱き合って大騒ぎしたのも遥か昔のように思える。あの時見せたヤケクソみてえにバカでかい煉獄の笑顔がすっかり鳴りを潜めているのが恐ろしくて、橋本は膝の上に置かれていた煉獄の手を掴んだ。

「やはり肺に穴をあけたのが良くなかったようだ。柱として必要なほどの呼吸と身体の回復が見込めないと」
「……」
「今後は柱を引退し、後進の指導などに従事することになるだろう。父上と千寿郎にはまだ伝えてないが」
「……そうか」
「ああ」

 文をしたため、完璧にふたりになったうえで話したかったことはすべて話した、と煉獄が言葉を切った。それでもヤケクソ花火の笑顔が戻ってくることはない。
 橋本新平という男は、人とのかかわりをほぼ一切断ってきた陸の孤島的世捨て人であったが、だからと人の心がわからないわけではこれっぽっちもなかった。

「杏寿郎、俺はお前が気に入らねえ」

 ずっと思っていたことがある。煉獄はずっと「煉獄杏寿郎」なのではないか。
 事実そうなのだろう、とも橋本は思っていた。橋本が鬼殺隊に捧げたものはあくまで半生ぽっちだが、煉獄は人生、なんなら生まれる前から命全てをもって鬼殺隊に殉じることが決められている。
 そんな話があるかよ!
 橋本は煉獄を得難き友だと思っている。唯一無二だと思っている。自身にとってそうであるからという面もあるが、こと煉獄に関してはただ一つだけ余人には絶対に劣らないと自負している点があるからである。

「お前、炎柱・煉獄杏寿郎でなきゃ生きてる価値がねえみたいな顔してんじゃねえぞ。お前以前俺に「個人として」って前置きして友達になろうっつったじゃねえか。俺も同じだぞ。お前は「炎柱・煉獄杏寿郎」じゃなく「橋本新平の友人・煉獄杏寿郎」じゃ不服だってか? 俺一人じゃ煉獄家四百年の歴史には劣るってのか?」

 煉獄は何も言わなかった。ただ静かに掴まれている自分の手を見つめて座っている。
 気に入らねえ。実に気に入らねえ。勝手に燃え上がりやがって、俺に火をつけておいて、俺がお前に火をつけられないなんてことがあってたまるか。この灯火を消してなるものか。橋本は肋骨が知覚できそうなほどに胸が熱くなっているのに無理を通して、ガチガチみっともなく震えそうになる奥歯に鞭打って言葉をつづけた。

「ふざけんじゃねえ。俺に火をつけておいて、お前だけ勝手に燃え尽きようなんざ絶対に許さねえ。何回でも言うぞ、俺はお前がお前だから、煉獄杏寿郎を理由に生きてもいいと思ったんだ。柱じゃないから何だ、三行半のつもりか? 舐めんなバカ。覚えとけよ、お前は俺の矜持だ。お前の肩書が何だろうと、俺はお前の友を辞めてやるつもりはねえよ」

 橋本新平という男は人の心がわからないわけではこれっぽっちもなかったが、如何せん人とのかかわりをほぼ断ってきた陸の孤島的世捨て人であった。そのために随分とけんか腰な励ましを吐いてしまったな、と後に下唇を突き出すはめになるのだが、今現在の橋本はひたすら煉獄へ伝えることだけを考えていた。
 お前はお前だ。俺はお前と唯一無二の友になったのだ。間違っても炎柱だからでも鬼殺隊員だからでもなく。その精神性に絆されたのだ。俺の内心を知ってそれでも憐れむことはせず、ただ「大丈夫だ」と手を広げてくれたことを何よりの救いに思っている。
 そうだ。煉獄は橋本を許した。「辛かったな」でもなく「かわいそうに」でもなく、「大丈夫だ」と言ったのだ。
 橋本は煉獄ににじり寄り、荒々しく肩を抱いた。猗窩座と交戦した際に咄嗟に掴んだ肩よりも少しだけ細く硬かった。胸腔の裏側に爪を立てられているような心地だった。どれだけ力を込めても爪の痛みが遠のくことはなく、少しだけ骨の浮いた煉獄の肩が込められた力と同じだけ抱き寄せられるだけだった。どうすればいい。何をすればいい。何を差し出せば、この自分にとってのセントエルモの火をもう一度灯せるだろう。
 橋本はめまぐるしく記憶を手繰った。今まで蓄えた何かの中に、きっと助燃材にできる何かがあるはずだ。そうでなければ何のための頭だ。
 そうしてふと、似たような境遇を思い出した。

「痛え。ああ。痛え。新平。おめは怪我サしでねが。新平」

 胸腔に立てられた爪が明確な刃物に変わった。今際の際の母だった。
 痛みに喘ぐ母を抱き起し、きつく、きつく抱きしめながらその胸を父の銃で撃った。母は殺されるまで橋本の耳元で苦しんでいた。橋本は壊れたように涙を流しながらくり返し「大丈夫」と唱え、母親を手にかけたのだった。
 そうだ。あの夜から続く不信の日々を煉獄は「大丈夫だ」と言った。

「……大丈夫だ杏寿郎。大丈夫」

 自身へも含めた祈りのような声だった。どんどんか細くなり、ついには息だけになりながら橋本はくり返し「大丈夫だ」と煉獄へ唱えた。
 煉獄の手が持ち上がり、微かに震えだしていた橋本の背を撫でた。

「そうかな」
「そうに決まってら」
「ひとついいだろうか」
「聞いてから判断する」
「今から泣く。濡らしてしまうから外套と首巻を外してくれないだろうか」
「バカ野郎構やしねえ。このまま泣けよ。こんどはお前のために」
「俺のためにか。うん」

 橋本の肩に煉獄が鼻を埋めた。ほどなくして鼻をすする音がする。煉獄は橋本の外套をくしゃくしゃに握りしめて静かに泣き出した。
 外套を握りしめられる力に応えるように橋本もまた煉獄を抱きしめる力を強めた。どれだけ押さえつけるように掻き抱いても、煉獄の肩はしゃくりあげる度に橋本の手をわずかに押し返す。鼻先を肩に埋めなおそうと身じろぐたびにその背中は橋本の腕に抗って動いた。首巻ごしにぶつかる嗚咽は熱いほどだった。
 煉獄の体がいつまでも温かいことが、橋本にとってなにより嬉しかった。

「いいんだな。本当に。俺が俺でいていいのだな」
「悪いわけあるか。俺がその証左だ。お前がそれを否定してくれちゃ、俺ごと否定されるんだぞ。いいんだよ」
「そうか。そうなのか。そうだな。そうなんだろう、お前が言うなら」

 煉獄はくり返し橋本の右肩に鼻先をこすりつけて泣いた。硝煙の匂いが染みついている。煉獄もまた胸腔をめちゃくちゃに引っかく爪の痛みを知覚し、その痛みの名前がわからないまま落涙した。






 永遠にも一瞬にも感ぜられる時間だった。どっちでもよかった。永遠ならば永遠で全く構わなかったし、一瞬でも何も口惜しくはなかった。「ふは」と息を吸った煉獄が橋本から体を離す。

「はー。ありがとう。すっきりした」
「それァ良かった。なに、いいってことよ」
「うむ。……すまん、それで本題なのだが」
「ここまでが前振りかよ!?」

 人生に例えるなら祝言レベルの一大ビッグイベントを経験したと思っていた橋本は思わず声を荒げた。煉獄もまさか自分がここまで泣くとも思っていなかったらしく、すっかり泣きはらした目をこすりながら「こんなはずでは」みたいな顔をしている。

「俺だってこんなにベチャベチャになってから話を切り出すつもりではなかったぞ! 本当に前置きのつもりだったのだ! なのにお前ときたら先走っていい話の方向に突っ走って、挙句俺までつられて湿っぽくなってしまったではないか!」
「アー!? 湿っぽく話切り出したのはお前だろうが! いっつも頼んでもねえのに爆竹みてえな野郎が静かに喋りだしたら「オッ……これは……」って思うに決まってんだろうが! ちったあ普段の自分の立ち居振る舞いを自覚しろ鳥除け目玉!」

 二人はヤイヤイ言いながら煉獄の顔をしっちゃかめっちゃかに拭いて、すっかり冷めた茶を飲んだ。千寿郎の茶は冷めても美味かった。

「で本題って何よ。こんだけ大仰な前振り置いたんだからさぞメチャクチャ重大発表なんだろうな」
「うむ。これからの進退はまだわからないが、今までよりは膨大な時間ができることになるだろうと思う。そこで、お前の研究や教室の手伝いができればと思ったのだ」
「おう。は? え? おう。思ってたほどじゃねえな」

 煉獄はムッとして咄嗟に拳を振りかぶったが、ゼロ距離で友人の頬を殴るのは理性が抑えた。行き場をなくした右手の人差し指で、ひとまずとばかりに橋本の額をギュイと押す。いくら柱に復帰ができないからと言っても鬼殺隊で指折りの剣士だった煉獄の膂力に、橋本は後ろに転げないために「フギギ」と堪えなくてはならなかった。

「……我妻少年から聞いているぞ。最近算術や教養の授業をしに来るお前からやけに疲れた音がするそうだ。疲れた音、というのはわからないが、何にせよ疲れているのだろう」
「クソ、あのビックリ人間め。あーそうだよ。授業が負担になってるわけじゃ決してねぇが、マァとにかく忙しい。それに近々しばらく遠方の任務に行くことになりそうでな、その間どうしようかと思って」
「それは立派に負担なのではないか? さておき、任務を代行することはできないがそれ以外で何か手伝えること、と思い至ったのがお前の授業の補佐だ」

 自身の健診に蝶屋敷へ足しげく通っている煉獄は、以前橋本が入院中ちびっこ達を見張りにつけられた際に「ちょうどいい機会だ」とはじめた「頭の稽古」が今も不定期で続いていることを知っていた。長くこちらへ戻る予定のないときは数枚の宿題が渡されているらしく、「煉獄さんここわかります? 橋本さんに内緒で教えてくださいよ」と黄色い頭に教えを請われたこともあった。嘴平は宿題を日輪刀の切れ味確認のために細切れにしていたことは内緒にしている。
 ふむ、と橋本は顎をなでた。考えるときの仕草であった。

「お前いつ空いてる? いや無限に空いてるのか」
「手前で言っておいてなんだが、そういわれると何やらムカつくものがあるな。空いているとも。なんだ」
「授業参観すんべ」
「ほう?」

 曰く、どういった授業を普段行っているかを見学してもらい、それに倣って橋本が不在の間の監督をしてもらうと。

「一回か二回見て、いざやる時にはやりやすいようにしてもらって構わねえ。お前に英語の添削とかできると思えんし」
「素直にムカつくがその通りだ。カタカナ語はわからんから能の授業にしてもいいだろうか? 教養として」
「ああ、それでもいいな。落語は前に一回読ませたが、お前能とか歌舞伎のほうが好きだったもんな」
「落語は何を?」
「三枚起請」
「また随分と背伸びさせたな」
「食いつき良かったぞ。弱冠一名」

 煉獄は「あー」と冗長な返事をした。

「じゃあマそういうこった。授業の日取りは追って連絡するから、来れそうな時に見に来いよ」
「む。待て。これで話は終わりみたいな方向にもっていくのは止せ。どうしてお前はそう話の流れを作るのが巧いのだ、半世捨て人だったくせに」
「は? 今日やけに言うじゃねえかこの野郎」

 立ち上がるためににじって下がった橋本を煉獄が引き留める。引き留め方に配慮が欠けている。相手が相手であれば怒りだすような煉獄の物言いにも、橋本はこの短期間ですっかり慣れた。それほど濃い時間を過ごした結果とも言える。

「後進の隊士に頭の稽古をつけはじめたその心が知りたいと思っていたのだ。鬼殺の剣士の時間は少ない。生き残ることを考えればその時間を鍛錬にあてろとお前は言わなかったなと」

 橋本は「ふむ」と唇の下を何度も指の腹で撫ぜた。橋本が理論立てしているときの癖だった。

「お前、俺を窓から投げ飛ばしかけた時に俺が言ったこと覚えてるか?」
「その呼び方そろそろ止めないか。いつまでも申し訳なくなる」
「他になんて呼べっつーんだよ。で、覚えてんのか」
「どの部分だ?」
「お前が俺にこの戦争を変えるつもりかっつった後」
「ああ」

 今なお新鮮な感動でもって煉獄を打ち据えるあの言葉だ。橋本は代々柱を輩出してきた煉獄家の嫡子に「この戦争を終わらせるつもりに決まってんだろ」と答えた。最終選別で「こいつ珍しい物の見方をするな」と思ったのも懐かしいが、あの時やっと明確に「こいつ珍しいんじゃなく根本的に違う視点で鬼殺を見ていやがるな」と確信した。

「戦争が終わると何があると思う? 今まで戦争に従事していた人間が、言っちまえば還俗することになる。鬼殺に駆けずり回ってた隊士がいきなり世間にぽっと投げ出されて堅気の生活ができるか? 俺は無理だと思ってる。繰り返すようだが俺はこの戦争を終わらせるつもりでやってきた。これからもそうだ。だが、終わらしといてその後のことは知りませーんってのは随分と無責任じゃねえか」

 橋本が一度言葉を切った。煉獄は先日我妻が持ってきた橋本の宿題が「目利きと値切り」であったのを思い出していた。「良いネギの見分け方とかわかります? 大根はヒゲが少ないほうが良いっていうのは覚えてんですけど、炭治郎まだ目覚ましてすぐだから聞きにいくのもなぁって」と深刻そうな顔をしてぺら紙を持ってきたときは何事かと思ったものだった。

「もちろん戦場でグダグダ考えてちゃ世話ねえが、あの子らならそこらへん切り替えキッチリしてるだろうし、試験的にやってる面もある。日輪銃の実装配備と並行して進言してたんだよ教養学習の機会増やしませんかってな。無限列車で「お前が死んだらパァになる」っつった予算はこのへんもある。マそりゃさておき、金と人手と知識と技術はあればあるだけ良い。俺はその知識担当がやりたかったってわけ。これ前にも言った気がするな」

 橋本は唇から指を離して口角を吊り上げた。反して煉獄はきょとんとした顔をしている。

「東京だけでなくとも堅気の働き口はあるだろうに。実は寂しがりか」
「俺が? まさか。人の心サわがるって言え」

 橋本は噴出して笑った。方言を包み隠さず破顔するようになったのだな。それを許されていることに再び胸中がモゾモゾしながら煉獄は「う、うん」と言った。

「俺は気持ちが追い付かなかったってだけで、せっかく同じ釜の飯食って同じだけ血も涙も汗も流して戦った仲間だぞ、気軽に会いてえなって思うやつもいるかもしれねえだろ。仰るとおり人の世は東京だけじゃねえし、海超えて生きていくやつもいるだろう。それならそれでいいんだよ。そういうやつには海を越えて文を送る方法を教えるし、郷里に戻るならそれもいい。生き残った後この世のどこかで、どうにかして生きていける術を教えるのが俺の授業の理念だ」

 橋本はドヤ、と笑顔を作った。やはり捨て身なほどにやさしいのだこの男は。戦争が終わった後の生き方も考えているとは。煉獄は改めて橋本の思慮の規模に舌を巻いた。言っちゃなんだが、自分はそんなことさっぱり考えちゃいなかった。

「なるほど、なるほど。委細承知した。やはり頭が良い奴は頭が良いのだな」
「相変わらず語彙がねえのな。通常運転かそれ?」
「橋本! やはりお前は強いな、頭方面が! 武技で鬼殺隊に貢献するのが難しくなった以上、俺もお前のように頭方面で動くことになるだろうと思う。俺にも指導をしてくれまいか!」

 かっ、と口を開いて、普段にも増してハキハキと煉獄は言った。橋本は煉獄の顔に生気が戻っているのを見て、今度は悪だくみをするようにニマリと笑った。

「無限列車でも思ったが、お前は指揮官向きだよ。状況把握が早くて、帯同してる隊士の力量も見誤らないからその後の指示が絶妙だ。これも考えてたんだが、この組織指揮官が足りてねえ。現場叩き上げの後方指揮官がいるってなれば頼もしいし、なにより現場の負担も減る。もってこいじゃねえか!」

 橋本は一度言葉を切り、自身の膝をバチリと叩いた。

「なんと。それは良いことか!」
「良いも良い、超いいぞ」
「ならば頼む! 後方指揮官として足るだけの知識を教えてくれまいか!」
「乗ったッ! これからお前を指揮官に叩き上げながらちびっこ達の自習監督できるようにして、俺は任務こなしながら授業して指導をつける! ウワこれ俺めちゃくちゃ忙しいぞ!」

 実にやりがいがある。
 煉獄は無限列車で座席が乗客を飲み込もうと動き出した際、とっさに外套の内ポケットに手を伸ばしかけた橋本に「乗客に当たるような道具は使うな!」と指示を飛ばした。橋本の胸元にあったのは南部式大型自動拳銃だったが、確かに密集した狭い場所での取り回しには日輪銃ほどではないが向かない。肉を貫通して向こうにいる乗客を撃つ危険性まで考慮してかは今となってはわからないが、「こいつ戦闘に関しちゃマジで頭いいな」と内心で舌を巻いたのを思い出した。
 そんな男が指揮官を目指したいという。こんなうまい話があるか。相手が煉獄であるから絶対ないと言い切れるが、これが普通の隊士に言われたなら派閥争いなんかの謀略を疑うほどだ。俺が見込んだ男を、俺の手で指揮官に仕立て上げる。なんという僥倖だろう。橋本は結局やることが増えているにも関わらず、いつも冷たい胸の内がワクワクと温まっているのを感じた。
 一方の煉獄は「やっちまった」の思いで頭がいっぱいだった。やっちまった。橋本の慰労のために手伝いを申し出たはずが、うっかり仕事を増やしてしまった。煉獄は固まったまま冷たい汗を流した。気づいた橋本が言う。

「なに、今更気づいたのか? 構やしねえよ。それにお前が最強になるなら一時の苦労くらいいくらでもしてやるさ。なあ杏寿郎、互いが互いに最高峰を目指すのもいいだろうが、俺たち二人で鬼殺隊の『智略』最強目指そうぜ。俺たちならきっとできる」

 そう言って橋本は煉獄に手を差し出した。すっかり煉獄を信じ切るようになった橋本の瞳は、今や以前の無窮のような深遠さはなく、さざ波を立てる湖面のようにきらめいていた。煉獄が吸い寄せられるように手を出すと、橋本は「ヘイヘイ」と言いながら上下左右に手のひらを叩き、最後に呆気に取られている煉獄の掌に拳を叩きつけると「ヨッシャ」と言った。

「そうと決まりゃ算段だ。同時進行でついてこれるか?」
「うむ。いや、よもや。すっかり上機嫌ではないか」
「嬉しいに決まってんだろ。鬼殺隊は個人主義が多いからなんぼ言ったって戦略面に興味持ってくれる奴いなかったのによ、よりによってお前が頭方面で指導をしてくれってそりゃ嬉しいわ。上機嫌にもならあよ」
「そうか。そうか! ならば俺も最強にならねば面目が立たないな! 食らいついてやるとも、ありったけで頼む!」

 燃えるじゃねえか。そう言いそうになって橋本は我に返った。
 自身の体温の低さは自覚している。あまりの心の昂らなさに一時は気の病を考えたこともあるほどだ。それが今や、内側からゴウゴウと血の巡る音が聞こえるようである。
 やっちまった。橋本は内心でわずかに舌を出したが、そこに後悔は微塵もない。
 あーあ、やっちまった。杏寿郎に火ィつけたは良いが、俺にも延焼しちまった。


*****


「アウステルリッツ三帝会戦」
「いきなり来たな」
「手加減すんなってご希望だったもんで」

 夕日の残照が満ちる炭治郎の病室には橋本、煉獄とちびっこ達がそろっていた。炭治郎は大事を取ってまだ寝台の上に座った状態だが、我妻と嘴平、煉獄は椅子に腰かけ、橋本は立ったまま語り始める。
 授業参観かつ教育実習、兼指導ないし戦略の講義の記念すべき初回である。

「海の向こうの戦争だから細かい説明は省いていくが、気になるようなら質疑応答の時間で対応する。配った紙を見ろ」

 煉獄たちに事前に配られていた紙には簡単な地形図と四角がいくつか描かれている。布陣のようすらしい。

「まずこの状況になる前の状況を説明する。めちゃくちゃ強大な陸軍兵力を持った国と、それを危険視した三ヵ国の同盟による戦争でのことだ。連戦に続く連戦で勝利を収めていた強国の六万五千の兵たちは補給線が伸び、疲弊しはじめていた。向かう先には九万の軍勢。この機を逃すまいと同盟軍が南方、西方からそれぞれ九万と二万の援軍を向かわせている。さらに今まで不干渉を貫いていた第三国が参戦をチラつかせてきていた」
「ほう」
「……?」
「うん……?」
「……」
「嘴平寝るな」

 橋本が自身の手元にある紙を掲げ、指をさしながら戦況を説明する。「戦の授業だぞ」と諫めれば嘴平は起きたが、竈門と我妻は頭の上に特大の疑問符を浮かべている。橋本が自分の紙の裏側に今までの話を改めて図に起こしながら説明すると、二人は納得したように頷いた。はじめから頷いたのは煉獄だけである。

「すごく不利じゃないですか?」
「すごくどころじゃない。もンのすごーっく不利だ。さて、直面した将軍は単純かつ最適な方法でこれの打開を考えた。思いついたやつから手を上げな」
「はい!」
「竈門早かった」
「わかりません!」
「正直でよろしい。思いついたやつからっつったの聞こえたか? 次」
「はい‼‼」
「お前は声小さくしろ。はい杏寿郎」
「第三国は実際に参戦を表明したのでないなら後回し! 各個撃破だ!」
「おおド正解。ほれ」

 橋本は煉獄の膝に飴をひとつ放り投げた。我妻から「ちぇー」と口惜しそうな声が上がる。なるほど、ささやかな褒美を設けることで集中とやる気を持続させている。もらえれば勿論嬉しいし、もらえなくてもやる気をなくすほど豪奢でもないさじ加減が絶妙であった。自分が監督するときにもそうしよう、と煉獄は飴を懐に仕舞った。
 授業は続く。

「攻撃は最大の防御とはまさにこのこと。六万五千の陸軍はまず前方の九万の軍勢を蹴散らすことにした。数ではこちらが負けているが、それもひっくり返せる戦場として選んだのが配った紙の場所だ。中心には高地がある。さて、杏寿郎が各個撃破と言ったが、ド正解と言ったのには理由がある。多くの援軍がある同盟軍、部隊が疲弊している陸軍、これをそれぞれ鬼殺隊と鬼と仮定して、どうすれば戦略的に効率よく燃費よく鬼を討ちとれるか、ド正解と言った理由とは。相談してみな。時間は三分だ」

 橋本が短く指示を出すと、ちびっこ達は慣れたように頭を突き合わせて相談を始めた。煉獄も見よう見まねで会話の中に額を突っ込む。

「すまん、いつも大体こういう運びなのか?」
「そうだぜ。宿題の答え合わせの時はまた違うが、値切りのときもこんな感じだった」
「こうやって俺たちが相談している間に、禰豆子の面倒を見てくれてるんです」

 炭治郎が大層ありがたそうに言った。バレないようにちらりと見やると、橋本は禰豆子の箱を静かにノックし「竈門妹ー、前に渡した折り紙できたかー?」と様子をうかがっている。箱の中からは「むむむん!」と自慢げな返事とともに色とりどりの折り紙を抱えた禰豆子が飛び出した。

「おお随分作ったな。桜はどれだ?」
「むんむ」
「緑色? じゃあこの葉桜か、今回の自信作は」
「むぅむー。むむん! ムー!」
「そりゃ失敬、全部自信作とは恐れ入る。器用に折れたなあ。爪が長ぇから細かいとこまで折れるもんな。達者、達者」

 いつぞや「兄弟いなかったから」と言った割に、橋本の顔には過不足ない柔和な笑みが浮かんでいた。「こっちは何の花だ?」と絵の大きい図鑑を手に禰豆子を相手取る橋本の纏う雰囲気は、きっとこの男が本来持っていた生来のものでもあるのだろうと煉獄は思う。夜明け前の空よりも暗く、どんな滝つぼよりも深い深淵のような目を思えば、その雰囲気がわずかな間でも取り戻せていることを喜ぶべきかもしれないが、そうではないと唇の裏側にやわく歯を立てた。

「随分静かだが相談は終わったとみていいな?」

 橋本がこちらを見ずに言った。はっとして振り返れば、ちびっこ達も禰豆子がフンフンと自慢の折り紙をお披露目しているのに目を奪われていたらしい。すっかり言葉もなく見入ってしまっていた。我妻が慌てだす。

「じゃあ結果を聞かしてもらおうじゃねえの」
「ダッ、ちょ、煉獄さんが答えてくれます!」
「我妻少年は身内を売るのが早いな!?」

 モチャモチャともめている間に橋本は最初にいた場所に戻っている。禰豆子にはあやとり紐を与えていた。相談の結果が出ていないことを百も承知のうえで「さぞ正解ど真ん中の解答が聞けるだろうなあ」と腕を組んで笑顔を浮かべている。夕日の残り香が橋本を逆光に照らすのも相まって、その顔の凶悪さときたら不死川のようだった。煉獄は「性格の悪さもきっと生来のものなんだろう」と口走りそうになって止めた。

「……数的有利、というのは実直にみえて何物にも代えがたい。向こうが各個撃破を目論んでいる以上、合流を防ぐため確実にそれぞれの軍を壊滅させていくだろう。それよりも早く援軍と合流し、改めて陣を敷く必要がある」

 そこで煉獄は一度言葉を切り、最初に配られた紙を見ながら再び言葉をつづける。

「兵の多少を見るに、この黒い図のほうが同盟軍なのだろう。どうしても合流が不可能なら、この真ん中の高地を開戦よりも早い段階で確保したうえ、包囲されるのを防ぐために高地の左右にも兵を置いた方が良かろう」
「お前戦闘のことになると本当に頭いいな。素晴らしい、大正解だ。今日の大正解の褒美は杏寿郎がかっさらうかもしれねえな」

 先ほどの邪悪な笑顔もどこへやら、混じりけなし不純物ゼロの微笑みは宵闇のなかでもはっきりと煉獄の目に映る。橋本は心底、といったふうに煉獄を褒めちぎって飴玉を渡した。

「実に素晴らしい。まさに同盟軍がやろうとしていたことだ。だが、最強陸軍もそんなこたあわかってる。ここにきて大陸軍の目標は「いかに敵を素早く各個撃破するか、そしてそのためにどうやって敵を決戦に引きずり込み、殲滅するか」だ。ここからが戦術史有数の見どころだぞ。大陸軍は全速力で行軍し、この高地を取った」
「おお」
「だがすぐこれを放棄した」
「ええ!?」
「捨てちゃうんですか!?」

 生徒(?)たちから歓声が上がる。かつて海の向こうの遠い国で起きた戦略芸術を美しく解体しては並べていくような橋本の話術に皆すっかりのめりこむように聞き入っていた。特に煉獄は汗を握りこむほどに。


「しかも高地から撤退する後ろ姿は焦り散らかし、疲れ、まとまりもなくグダグダしたひでえもんだった。さらにこの撤退の直前、将軍は敵軍と使者を交わして休戦交渉を始めている。将軍はいかに継戦の意志が無いかをひどく困った様子で使者に伝えたそうだ」
「これ敵にとって勝機なんじゃないですか?」
「おうよ。大陸軍は高地から退き、兵たちは疲れ果て、指揮官にも継戦の意志がない」
「勝負どころじゃねえか! 俺様なら突っ込むね!」
「おう。ついに同盟軍は実際に大陸軍を討ち滅ぼすべく高地へ兵を突っ込んだ!」

 生徒たちの熱に比例して橋本も声を張る。ちびっこ達はワクワクと手を握って橋本の次の言葉を待ったが、煉獄はここにきて急激に頭が冷めた。

「決戦してるじゃないか」

 何の気ない呟きだったが、場の空気を一変させるには十分だった。
 いくら疲弊しているとはいえ相手は三ヵ国が束になって始末しようとしている大陸軍。かつ、大陸軍の目的は各個撃破のための決戦だった。煉獄は頭で冷えた血が体に落ちていくにつれて、皮膚がドンドン粟立っていった。
 これが、戦術か。

「おう。これら全て、自分が決めた場所に敵を引きずり込むために将軍が垂らした甘い蜜だ」

 橋本も応えるように声音を低く落として言った。その低さたるや地響きのよう、さも大群の軍靴の音のように聞こえた。

「でも、それでも数では勝ってるし、有利な場所も取ってるんでしょ? まだ同盟のほうが有利なんじゃないの?」
「これのすごいところは、どんでん返しがこれだけじゃ終わらんところだ。将軍は次の罠もちゃーんと仕掛けたうえで高地を明け渡したのさ。さて、ここでもう一度布陣図を見てみな」
「四角がいっぱいありますね!」
「竈門、鎖骨折るぞ。黒い図が同盟、白い図が大陸軍だ」
「大陸軍南側の右翼が薄い」
「もう今日は杏寿郎より先に正解言えたら無条件で褒美にした方がいいまであるな。正解。同盟軍は北の攻撃を囮にしつつ、大陸軍右翼の撃破に向けて兵の大部分を動かした」
「もうだめだあ! 橋本さんこれ同盟軍が勝っちゃうよ」

 我妻が大きい声を出した。嘴平はいまいち頭が追い付いていないらしく、竈門から補足を受けている。橋本は不敵な笑みを浮かべると、禰豆子のもとから「借りるぞ」と色紙を数枚持ってきて折りたたみ、竈門の寝台に置いた自分の分の布陣図に配置した。

「この赤いのが杏寿郎、竈門は緑。黄色と空色はお前ら二人。ここにお前たちが実際にいると思って予測しろ。この南の戦闘に」

 橋本は言葉を切って、黒い折り紙をぺた、と置いた。吹けば飛ぶような紙切れだが、死刑宣告のような印象を受けるその置き方に煉獄は生唾をがぶ飲みした。

「上弦の鬼が加勢したら、どうする」

 つい先日上弦の陸を討ち果たしたばかりのちびっこ達はひゅっと顔を青ざめて、竈門と嘴平は黒い紙の方へ自分の色紙を押し付けた。我妻だけは自分の色紙を布陣図から取り上げ胸に抱いている。

「紋逸! 逃げてんじゃねえ!」
「上弦でしょ!? 上弦でしょ!? 逃げるよ逃げますよ!」
「橋本、比喩か?」
「いや、実際に化け物みてえな指揮官が大陸軍に一万弱の兵を連れて加勢した」
「俺と伊之助ならできる! 勝てる! 煉獄さんも来てくれますかッ!」

 竈門はすっかり熱くなって黒い折り紙に「ウオオ」と緑の色紙を押し付けている。布陣図に穴が開きそうだ。
 確かに上弦の参戦があったとなれば、加勢に行かなければ他の隊士も危ない。しかしこれは戦略の授業でもある。橋本が先ほど「次の罠」と言ったのが煉獄の中でずっと引っかかっていた。頭突きするように布陣図に近づけていた頭をふと起こす。窓辺に佇む橋本が満足そうに微笑んだのが見えた。
 これだ。視点。
 煉獄は改めて高い位置から今の布陣図を見渡し、気づき、叫んだ。

「竈門少年、猪頭少年! 高地の防御が手薄になっている。二つ目の罠はこれだ!」

 風が吹くような声だった。橋本はたまらないようにクツクツと隙間風のような笑い方をしたかとおもうと、何もかもを薙ぎ倒す豪風みたいな爆笑をした。

「ああ、お前、ほんとに向いてるよ」

 月明かりが差し込み始めた窓辺でうっそりと笑った橋本の顔は今までのどんな笑顔よりも底知れず、妖しかった。ある者は恐怖し、ある者は歓喜する笑みとはこういうものをいうのだと煉獄は思う。具体的には前者が敵、後者は味方だろう。勝ちを確信した軍師の笑みは恐ろしい。それもこれも、最初に自分たちを同盟軍だとして考えろと言われたせいもあるのだろうが。

「ああ、ああ。高地が開いてる。それに主戦場は北と南だ。大陸軍の中央も暇してんだよ。大陸軍は北で戦闘している兵の一部と中央の兵で高地をもぎ取り、それに気づいた同盟軍が奪還のために動きだすも間もなく南は戦線崩壊、大陸軍の加勢部隊に挟み撃ちにされた。中央と南を片付けちまえば北の掃討は時間の問題、同盟軍は撤退を始めるがそれを許すほど大陸軍は甘くない。惨敗だ。同盟軍の、火を見るより明らかな、これ以上ないほど決定的な、惨敗だ」

 橋本は説明しながら布陣図に置かれていた色紙を払い落し、黒の紙をひらひらと旗のように翻して手遊んだ。最後通牒を突き付けられたような顔をしてすっかり言葉を失っているせい生徒たちに「まだ終わりじゃねえ」と前置きして橋本はさらに続けた。

「覚えてるか? この時九万と二万、さらに第三国の参戦がほのめかされてたな。だがこの圧勝で心が折れた同盟の中の一国が大陸軍の国と講和、つまり「この戦争もう終わりにしましょう」って約束ごとを交わした。さらにもう一国が同盟を脱退、三ヵ国同盟は完全に瓦解した。たった二つの罠でこれだけの戦争を終わらせることができるのが戦術、そして戦術史のなかでも特に芸術と呼ばれるのがこのアウステルリッツ三帝会戦だ」

 弄んでいた黒い紙をサッサと紙飛行機にして飛ばすと橋本はドヤと口角を上げた。飛ばされた先にいた禰豆子の背中に紙飛行機がツンと刺さると、禰豆子は折り紙とあやとり紐を両手に持ったまま抗議に走った。「すまねえな」と呑気な詫びを述べる橋本に反して、生徒側は今なおすっかり打ちのめされたような心地だった。
 圧倒的な数的不利も状況不利もひっくり返せる。一つの戦闘でさらに上の単位、戦争を終わらせることができる。橋本は今まで研究していた「戦術」の一面を突き付けられ、煉獄は心臓がバコバコと大暴れしていた。
 煉獄が見た目だけ静かに感動している隣で、ちびっこ達は「スケールがでかすぎて今後に生かせる気がしない」といった顔で押し黙っていた。今の話のどこを鬼狩りに生かせって言うんだ。竈門と我妻の顔にはでかでかとそう書かれているようだ。被り物をしている嘴平は背中である。

「おうおうチビ共、これお前たちにもできるぞ。今まで教えたろ」
「いや……そ、想像がつきません……」
「なに、戦略を練るのは俺だの杏寿郎だのがやるさ。お前たちもこの戦争で鍵になったことができるっつってんだよ」
「俺一人で小山を守れるほど強くなりゃいいんだろ! 実際俺は王だからそれができるんだがよ!」

 嘴平はムキ!と被り物の内側で歯を剥いて吠えた。隣の我妻から「それ以上の話してるんでしょばか……」と言われたのを無視して空中に正拳突きを繰り返している。
 橋本は「ちげーよ」と言いながら禰豆子が持っていた折り紙を借りると手元でサッサと折りながらちびっこ達に問いかけた。

「野菜の目利きを教えたろ。その時何が一番大事っつったか覚えてるか?」
「店主が言ってることは本当かどうかをよく考えろって……」
「三枚起請の時は?」
「お芝居の練習しましたよね」
「紋治郎めちゃくちゃ下手くそだったな」
「伊之助も大概だぞ!」

 子犬が絡まるようにじゃれ始めたちびっこ達に「話まだ終わってねえぞ!」と言いながら橋本は両手に奇妙な折り方をした紙を掲げた。改めてちびっこ達が食い入るように見つめる。

「相手が言ってることが本当かどうか見極められるようになれれば、例えば一つ目の罠、高地の取り合いの時に退く大陸軍の素振りが演技であったことを見抜けたかもしれない。休戦交渉がうまく運べたのは将軍の演技力によるものだろう。そんなふうに、戦争は生活に置き換えて見ることができ、反対に生活で難なくこなしていることを戦争で使う必要が出てくることもある。同じ人間がやってる以上、かけ離れてるように見えるその二つに繋がりがないわけがねえんだよ。俺たちが不甲斐ねえばっかりにお前たちには鬼狩りばっかりさせてきちまったが、これからはもう少し「戦場で使えて日常で役立つ」ようなことを教えていくからな。覚悟しておけよ」

 そうして二つの部品を組み合わせて出来上がった折り紙の手裏剣を掲げた橋本は、花のつぼみがほころぶように喜色を浮かべていく少年たちの顔をみて満足そうに笑った。禰豆子が「わたしもそれ折りたい」と寄ってくるのに「お前もだぞ竈門妹、人間戻った時のために料理のさしすせそでも教え込んどいてやろうか」といたずらっぽい笑みを浮かべる。
 一方で、煉獄は橋本の顔をじっと見ていた。
 頑なに人を信じようとしなかった。人と関わることを可能な限り避けていた。元来柔らかな雰囲気を纏っただろうこの男が、深淵のような双眸をして向き合い続けていた書物も、結局こうして誰かに還元するために貯めこんだものだった。改めて煉獄は「あまりに優しい」と思う。
 これだけ痛めつけられておきながら、それでも優しい男なのだ。橋本をそう評するたびに、煉獄の胸中に奇妙な感情が去来する。
 今まで何度か経験している、妙なむずがゆさだった。これの名前を橋本に訊くのはなぜかどうにも気恥ずかしくて、煉獄は一人でこの気持ちの名前を探さなくてはならなかった。
 愛と呼ぶにはあまりに痛ましく、恋と呼ぶには収まらず、同情や憐れみとは毛色が違いすぎる。この熱の名前を、降り注ぐ月光が一瞬雲間に隠れた瞬間に、落雷のように煉獄は悟った。
 ――ああ。
 煉獄は気づいた。これは純然たる祈りだ。
 君よ、幸福であれ。君をこそ幸福たれ。世界の幸福の総数が、君のひとつの幸せであれ。君よ。幸せであれ。
 そしてむずがゆさは、その幸せを自身がもたらしたいと思う激しい願いでもあった。
 君よ、誰よりも幸せであれ。幸せになれ。そしてそれは、どうか俺の隣たらんことを。君の幸福が俺の幸福になる。君の幸福をこそ俺は願う。どうか君よ、幸せであれ。
 腑に落ちたとはまさにこのことを言うのだと煉獄は思った。五臓六腑がすっと落ちたような心地だった。だが、落ちた先が例えば橋本の瞳のなかであるなら、それもいいな、と思う。

「うむ」

 誰にでもなく煉獄はうなずいた。おそらく、自分に対してだった。
 橋本には、この男には、幸せになってもらわなければならない。煉獄家の長子、炎柱という生きる道を失った今、煉獄に新たに灯った道しるべはこれだ。
 お前に救われた命で、お前を誰より幸せにしてみせる。お前の願うところを全て叶えてみせる。母に教えを授かった日に比肩する強い決意が煉獄を満たす。

「嬉しいに決まってんだろ。鬼殺隊は個人主義が多いからなんぼ言ったって戦略面に興味持ってくれる奴いなかったのによ、よりによってお前が頭方面で指導をしてくれってそりゃ嬉しいわ。上機嫌にもならあよ」

 先日、炎柱邸で笑顔を見せた際に橋本が言ったことを思い出す。ワクワクともウキウキともつかない、短くも濃い付き合いのなかでは一番と言っていいほど血色のいい顔で橋本は笑っていた。
 なるほど、俺の頭が強くなればなるだけ、橋本はあの笑顔を浮かべるのでは?

「……うむ」

 煉獄はもう一度頷いた。覚悟への頷きだった。
 やってやるとも。俺は今や『ただの煉獄杏寿郎』なのだ。そうでなくともやってみせるが、今の俺に、橋本が望む『最強の知将』になれないわけがない。
 そうして煉獄はギュイ、と口角を上げて笑みを作った。全能感のやり場がここしかなかった。

「おい、さっきから何」

 ふと呼びかけられて見てみれば、橋本はちびっこ達から飴玉を奪われないように高く掲げているところだった。ちびっこ達は周りに群がりながら「今日は煉獄さんばっかりでズルかったじゃないですか!」「俺も食うぞ! おかき味がいい!」「そんなのないぞ!」「でも今までがんばったじゃん! これからもがんばるから! 先払い!」とシノゴノ喚いている。訳が分からないなりに面白そうだと思った禰豆子も参戦しているものだから手が付けられない。
 案外思っていたより人間らしいんだよな。煉獄は橋本の顔を見て笑った。

「……いや、とても面白かったなと思っていたのだ! 実にいい経験をした!」
「お言ったな? 戦略の歴史は人類の歴史だ。世界中の知恵者が数千年積み上げて来た叡智を一回程度でわかった気になってんじゃねえぞ。次は金字塔つながりでカンナエでもやるか」
「隙あり!」
「あっこの……ウワッどこの関節外したんだお前嘴平!」
「ギャッ伊之助気持ち悪い!」
「飴玉ぶんどってやった親分にきく口がそれか!? ひれ伏せや!」
「あーもういいわ、くれてやるから静かにしろ。もう日も落ちてんだぞ」
「うむ! 最強になる! やってやるぞ――――ッ‼‼」
「よくわかりませんが俺も強くなりますウオ―――ッ‼‼」
「ムム―!」
「あーあ、これで胡蝶さんに怒られんの俺だっつーんだから割に合わねえよ」




*****



「で、これがクララ・バートンとフローレンス・ナイチンゲールの功績だ。戦争は人の命を奪うが、マおかげといっていいもんか悩ましいところだが命を救う術を開発する機会でもあるな」
「すごいね、いつも使う救急箱を作った人なんだ!」
「包帯が使いまわしって、信じられないね!」
「私たちもなにか発明できちゃうかも!」
「橋本すまん! このス、す……?」
「スキピオ。カンナエの時にやったろうが、ローマの軍師。無理して横文字読もうとすんな」
「橋本さん! 水車教えてください!」
「水の呼吸のほうか? 仕組みのほうか?」
「呼吸のほうです! もう機能回復訓練始まってるので動いても問題ありません!」
「あっそ。栗花落に勝ってから言え。次」
「女性とかっこよくおしゃべりする方法とかないんですか?」
「ねえよ。芝居小屋でも連れてけ。次」
「ドングリって食えるのか」
「木の種類によっては殻と薄皮剥いて炒れば食えるらしいぞ。詳しいこと忘れたから今度本持ってきてやる。次!」
「ム、これスキピオじゃない! スパルタ! やっと読めたぞ!」
「スパルタは止めとけ、参考にならん部分が多い! 次ッ!」
「橋本さん! 呼吸の稽古を!」
「食ってもピリピリしないキノコ教えろ!」
「ナンパ術!」
「動物のおはなしが聞きたいです!」
「スパルタとはどこの国だ!?」
「ああ頼む順番に喋ってくれもう世話が焼ける――――‼‼‼」

 穏やかな昼日中の蝶屋敷に橋本に甲高い悲鳴が響き渡る。一室を借りて開催していた不定期あおぞら(室内)教室にはいつもの顔ぶれに加えて蝶屋敷のきよ、すみ、なほを加えた保育園と化していた。鬼殺しかしてこなかったからそれ以外には食指が動かないやもと思っていた少年少女らは、ふたを開けてみればその実好奇心旺盛なことこの上ない。橋本は言えば言っただけ覚えるちびっこ達と煉獄の脳みその空き容量に感心しながら、指導役の致命的な人手不足に頭を痛めていた。
 日暮れから任務で鬼を狩り、終わって帰ればなんとなく日が昇り始めていて寝るにも寝付けず、ついでだと授業の支度をしてしまえばほどほどの時間になってしまう。元気は売るほどにあるちびっこ達と煉獄に授業をしたのち気休め程度の仮眠をとって任務に行き、帰ってくる頃には日が……という生活がしばらく続いている。元々張り付いていた隈は一層色濃くなったし、元来生白い顔は白を通り越して青い。
 元々高い方ではない体温はここ最近めっきり低空飛行を続け、そろそろ何もしていなくても震えが収まらなくなってきた。あらゆる感覚は遠く、扱いなれた日輪銃が実はこの世で一番重いものなんじゃないかと思いながら、その状態を異常だと判断する頭ももう残っていなかったのでそのままにしていた。鬼殺隊畜生活ここに極まれり。
 案外その事態を重く見たのは生徒たちだった。病室に来ては比喩抜きにどこを見ているかわからない顔をして重そうに本を持つ橋本を見ていればさもありなん。
 まだ経過観察入院の段階にある竈門と嘴平を中心に蝶屋敷の隊員たちに手を借りて、何としても橋本をここで『落とす』作戦を遂行中だが、橋本も腐っても鬼殺隊士かつ柱の二歩手前とくれば、いくら竈門が不意を突いて首を締め落とそうとしても「行儀が悪い」だの「スキンシップが激しい」だのヌルリと躱された。竈門はスキンシップという言葉の意味がわからず悔しくて地面を蹴った。

「眠剤を処方してもかまいませんけれど」
「そのまま二度と目覚めなさそうだ」
「あら、締め落とすよりよっぽど健全ですよ」

 蝶屋敷の少女たちにも時折医科学の授業をしているのが助かっているらしい胡蝶もついには参戦した。なんでも、先日人造人間の話を聞かされた子が夜に怖がって仕方がないのだという。普段であればその思慮深さでもってそういった手合いの話はしない橋本がついに壊れたか、と医科学のプロも加わった「橋本さんを寝かしつけようの会」は、その実参加者数のわりに難航していた。三人寄っても文殊の知恵が聞いてあきれる始末である。

「寝てくださーいってみんなでぎゅっとしたら、だめですか?」
「私たちで橋本さんをぎゅってしておけるかな?」
「俺のぎゅっ、だと抵抗されるかもしれん。むしろ少女らの抱擁のほうが効果が見込める」
「煉獄さん、ずいぶん策士が板についてきましたね」

 胡蝶にそう褒められれば悪い気はしない。煉獄は嬉しさの一切を包み隠さず「そうか、ありがとう!」と言って胡蝶に耳を塞がれた。
 そして作戦決行の日、先述の乱痴気騒ぎに戻る。都合の合わなかった胡蝶以外の全員で詰めかけ、きよ、すみ、なほを切り込み隊長として橋本に抱き着いた。口々に「これってなんですか」「モテたい」「山菜採りに行くぞ」と叫ばれながら前後左右上下にガックガクと揺さぶられた橋本はもはや白目を剥きそうになっている。

「あと一押しだぞ!」

 ちびっこ達の要求にまぎれる程度の声量で伝えると、嘴平がとっさに毛布を引っ掴んで橋本に被せた。文字通り前後不覚になっている橋本はその温かさに崩れ落ちそうになる。煉獄は咄嗟に抱きとめようと手を出した。
 が、橋本が煉獄へ倒れこむことはなかった。焦点も合っていない瞳孔ガン開きの瞳のまま「こんたとごろで寝てる場合でね、一人でも多ぐ助げねば」と熱に浮かされたように呟いたのを聞いて、ちびっこ達もギクリと動きを止める。
 事情はそれぞれ違えども、ここにいる全員が相応の覚悟を持って死地に飛び込み続けている。鬼を残らず討ち果たしたいと思っている。それと同じくらい、仲間を失いたくない、とも。
 そのことをどうやって伝えよう。どうしたらこの人は一旦止まってくれるだろう。
 少年少女が考えあぐねてすっかり押し黙ってしまっている中で、煉獄だけが動いた。大きく息を吸い、橋本を渾身の力で殺さんばかりに抱きしめて言う。

「効率が悪い。千年殺せなかった鬼が数日の徹夜で殺せるものでないのはお前が一番わかっているな。鬼殺の剣士はお前だけではないし、何よりお前には俺の指導があるだろう。ここで故障されては俺が困る。俺だけでなく少年少女も迷惑しているぞ。わかるか、効率が悪いのだ。一度たっぷりと寝ろ」

 すぐさま我妻が「言い方ァ!?」と奇声を上げ、きよが「迷惑なんて思ってないですよ!」と声を荒げたが、橋本は人間性をすべて失ったような顔でしばしじっと虚空をみつめ、やがて「ンン」と言うとついに白目を剥いて脱力した。
 橋本がぐったりともたれかかるのを受け止めて、煉獄は息を着いた。橋本を説き伏せるには多少うそを織り交ぜてでも正論が必要だと判断したのは間違っていなかったらしい。橋本は以前自身が「煉獄杏寿郎を理由に生きていいと思った」と言ったのを今の状態で覚えているとは思わないが、嘘を混ぜた正論が結果として多少キツくても、自分が言えば橋本は聞き入れてくれると根拠もなく思っていた。存外うまくいったようだ。首巻からはみ出した鼻から長い寝息が繰り返されていることに安堵した。

「こっちに寝かせて下さい」

 息を吐くのもつかの間、蝶屋敷の少女たちはテキパキと橋本を寝かせる用の寝床を整えていた。ここまで来ればちょっとやそっとで起きないことはわかっていても煉獄はゆっくりとした手つきで橋本を寝かせたが、少女たちは「上着失礼しまぁす!」と慣れた手つきで橋本を楽な格好になるまでひん剥く。

「ねー炭治郎、俺たちも気絶してる時こんなふうに剥かれてるのかな」
「たまねぎだな」
「やめろ伊之助、たまねぎのこと橋本さんって言うな」
「逆だよ炭治郎」

 あれよあれよと達着け袴にシャツ姿にまで剥かれた橋本が転がされるのを見て、煉獄は口元をめちゃくちゃに歪めて笑い出すのをこらえた。ともすれば自身よりも大事な命が無造作に寝転がされているのが無性に面白くて、その何気なさが心底愛おしかった。

「さ、今日の授業は切り上げてしまおう。いつ起きるかもわからんし、教員にも休暇は不可欠だ」

 軽く手を叩いて促すとちびっこ達は教材や紙を片付け始めたが、少女たちはいそいそともう一組寝具を用意し始めた。

「む、どこかで使うものか?」
「いえ、煉獄様のご都合さえよければこのまま看病と見張りを兼ねてこちらに泊まっていただければと思って」

 煉獄の方を向いてニコリと笑った少女の名前を煉獄は覚えられていなかったが、あどけない頬に反して目元にはしっかりと強かさが見え隠れしていた。慣れない英字の本を読みながら橋本の授業に耳を傾けていた煉獄は、「いつの時代も女傑は率先して動きながら任せられるところは人に任せる器量があるな」と少女の笑みを見て思う。日々の生活是戦略、とは最初の授業の総括として橋本が語った言だったが、なるほどここにきて説得力を帯びるとは。

「ではお言葉に甘えて。夜半よりも早く起きれば声をかけよう」
「助かります」

 貸し部屋に寝床を用意し終えると少女たちは「橋本さん、起きたら私たちが「すいません」って言ってたって伝えてください」と部屋を後にした。少年たちも似たような言葉を残して部屋を去ると、先ほどまで白熱学習塾だった部屋は水を打ったように静かになった。
 手持ち無沙汰になった煉獄は、ふと橋本の顔を見た。まさしく死んだように眠る橋本の顔は安らかではないが、それでもひと時、現実の苦痛からは隔絶されたように見える。以前岩柱邸を訪れたあとに悲鳴嶼から届いた文には「橋本は眠ることを得意としていない節がある」と書かれていた。煉獄をしつこく「クソガキ」と呼んでいたことも。

「世話が焼けるのはどちらだ、クソ野郎」

 煉獄は久々に橋本への罵倒を口にした。未だ伝え方を考えあぐねている体でおこがましいかもしれないが、それでも、これだけの人数がお前を心配していることにどうして気づかない、ともどかしい心地であった。
 煉獄は鼻から大きく息を吸うと、ふと思い立って救急箱から包帯を拝借して橋本の頭に一周巻き付けた。その上から目の場所に印をつけ、包帯を持って一度部屋を出る。しばらくして戻ってくると、フンと息を吐いて橋本の顔が見える位置で洋書に立ち向かい始めた。やがて上った月が橋本の青白い頬を照り付ける段階になって、煉獄も眠った。



「およそ丸一日といったところか」
「嘘だろ杏寿郎」

 橋本が目覚めたのは翌日の昼下がりだった。顔が見える位置に置かれた椅子に腰かけた煉獄に応える橋本はぱっちり回復した風、というよりは「ちょっと寝疲れたから一旦起きて休憩すればもうひと眠りできます」とでも見えそうなげっそりとした寝覚めである。煉獄は申し訳なさや呆れを通り越して諦めめいた心境を覚えた。

「なんかたぶんめちゃくちゃ面白い夢見たわ……」
「ほう、どんな」
「猫を抱いたお前が破城槌にまたがって寺の鐘を突きながら「わっしょい!」って言ってたとこが鮮烈すぎて他を覚えてねえけど、ここが最大瞬間風速だった」
「それは……珍妙だな!」
「反応に困るなら素直にそうって言えよ。あー頭いてえ。色んな意味で痛え」

 そう言いながら布団に包まれたまま「ぐわ」と大あくびをしている橋本を見て、煉獄はまたも胸中がムニャムニャするのを感じた。
 これも祈りなのだろうが、祈りにもきっと種類があるのだろう。橋本のように自分から断ったわけではないが、煉獄もまた鬼殺に人生を捧げすぎて人付き合いと縁の遠い人生を送ってきていた。人間の一挙手一投足によって巻き起こる自身の情感についての知識が乏しい。
 昨日から引き続き取っ組み合っている洋書のページを手遊びながら、「橋本が俺との出会いで人間性を得ていくように、俺もまた改めて人間をやり直すことになるんだろう」とぼんやり思っていた。
 橋本は先日「しばらく遠方の任務に行く」と言った。
 それまでに例のものが出来上がればよいのだが。
 煉獄は洋書を閉じた。橋本から送られた眼帯の刺繍をなぞりながら、寝床でしっちゃかめっちゃかに伸びをしている橋本に水を用意しようと腰を上げた。
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