もう本当度し難いバカばっかりか
「階級乙、橋本新平。御身の前に参上いたしました」

 産屋敷邸。幾人もの隠の案内の末にやっとたどり着くことのできる鬼殺隊の中枢は、それでもなお傍目には看破しきれない防御のなかで厳かに佇んでいる。謁見の場として設けられた一室にも端々に美術的、あるいは防衛的に緻密な細工が施されていた。

「うん。皆もよく来てくれたね。こんな格好ですまないな」
「ご冗談を。拝謁叶いましたことを嬉しく思います」

 槇寿郎が答えた。
 上座に横たわる産屋敷輝哉の傍らには産屋敷あまねが控え、謁見の間には橋本新平、宇随天元、煉獄槇寿郎、煉獄杏寿郎が跪いている。引退した三柱に平隊士と言えども、皆歴戦の剣士たちだ。錚々たる顔ぶれである。
 ただ、橋本は自身がここに並ぶ意味を計りかねていた。他三名は皆引退したとはいえ柱の実績を持った男たち。狼の群れに投げ込まれた子ヤギの心地をなんとなく理解しながら輝哉の言葉を待つ。

「早速ですまないが、話しておきたいことがある。みんな、禰豆子が日光を克服したことは聞いてるね?」
「はい。同時期から鬼による被害の報告例がなりを潜めています」
「新平、どう分析する?」

 輝哉の問いかけに、橋本はキッと顎を引く。今回自分が召喚された趣旨はおそらく軍議に近いと判断した。立場は置いておいて、作戦の奏上を求められてならギリギリ納得できる。実際問題はひっ迫しているので、いっちょ思いっきり、忌憚なくやるか、と橋本は大きく息を吸った。

「鬼に人間の道理が通じるかは賭けですが、鬼舞辻が指揮をしているとなれば話は別、戦略の有用性が見込めます。戦の手法に則って判断するなら、力を蓄えているところでしょう。拠点とされている無限城に末端に至るまでの鬼を呼び寄せ、幾ばくかばかりの強化に努めているかと」
「うん。私もそう思う。そしてこれは勘だが、鬼舞辻はまもなく、……数か月ほどでここへ来るだろう」

 一同が前のめりになった。
 産屋敷が言うことは黒であっても白になる。鬼殺隊の統領である以上に、その血筋がもたらす奇妙な勘の鋭さは400年間幾度も鬼殺隊の窮地を予測し回避してきた実績がある。いくら荒唐無稽でも、産屋敷が黒になると言えば白を塗りつぶす必要があった。
 それを今まで身をもって経験してきていた男たちは、言葉を失いながらもそれが真実だと確信していた。ことこの組織に限って宗教とは最も力のない思想である。この世は神も仏もいないが、唯一啓示のようなものがあるとしたらそれは輝哉の言葉であると信じている。前傾姿勢が元に戻るころには全員の頭が「ならばどうすべきか」を考えるほうに切り替わっていた。

「そこで聞きたい。どうしようか?」

 声質に語調も相まって夕食の献立を相談するような気軽さであった。すっかり神経を昂らせきっていた元柱たちの血の気が頭からゆっくりと引いていく間に、橋本の頭脳は早くもいくつかのプランをはじき出していた。

「まず三つ。被害報告が減っているならこちらも戦力増強に努める他ありません、現役の柱も動員した専門的な稽古の実施が可能であると愚考します。次に、鬼舞辻が単独で来るにしても軍勢を率いて来るにしても、こちらは全力でもって迎撃する必要があります。今まで以上により大人数での組織戦を想定した訓練を実施しても良いかと。最後ですが、今後しばらく哨戒は依然として必要でしょうが、無限城の位置の断定を目的とした索敵は無意味と想定した方が良いです。被害が確認できないということは、それだけ地上でのさばっている鬼が少ない事実の証左であると考えます」
「……僭越ながら俺からも。こちらの戦力の拡充に関して、既存の戦術をさらに強化するのももちろん火急ですが、新たな武器の導入も進めるべきかと。いくら全ての鬼が鬼舞辻とつながっているとはいえ、組織的に新兵器の実装ができればあちらが対応を考えているうちに撃滅できます。これは所感ですが、呼吸ごとの特性として緻密な足さばきを必要としない岩や炎の呼吸には例えば太刀や長巻、反対に花、風や水の呼吸使いには日輪銃を支給し、早く馴染んだ者を選抜して特殊武器隊として運用できれば、戦略的により多岐にわたる組織戦が可能です。……どれも橋本の受け売りではありますが」

 煉獄は橋本に一瞥もくれずに話を締めくくった。互いに輝哉のほうを向いたまま喋っていたので、宇随と槇寿郎が目をギョロと見開いて驚いているのに気づいていなかった。
 こちらも視線は輝哉から逸らさず、しかし橋本は静かに歓喜に打ち震えていた。今しがた煉獄が言ったのは、まさに橋本が「補足としてこのへんも言っといたほうがいいだろうか」と思っていたことに他ならなかった。折を見て行われている『サルでもわかる用兵のしかた講座』は開催回数が2ケタを超えて久しいが、煉獄はいつまで経っても「言えば言っただけ吸い込む海綿」であったし、おかげで橋本の隈は一層色濃くなったのだが、それすらも誇らしいほどの知恵者へと成長している。
 争いは同じレベルの者同士の間でしか発生しない、というように、戦術の必要性は相対する敵の状態によって千変万化する。鹿の群れ相手に全力で総攻撃をかけても効率が悪く、猪の群れに同様の作戦を用いるのは愚劣、悪手極まりない。今までの鬼殺隊は純粋な力勝負であったが、ここからは様変わりする。言っちゃ悪いが、運が良かったなと橋本は思わずにはおれない。
 輝哉は満足そうに頷いた。その満足ぶりと言ったら、今までの発言をすべて予見していたかのようである。これ奏上する意味あんのかよ、と思いながら橋本は言葉を待った。

「すばらしいね杏寿郎。新平が教えたのかな?」
「は。指揮官が足りないと思っておりましたので」
「うん。やはり君は柱になるべきだよ。屋敷を構えて兵法を教える手もあると思うけれど」
「お言葉ですが、兵法どうこうよりも識字力の向上が最優先です。末端の剣士には識字ができない者も少なからずおります。どれも俺が柱でないから気づけたことですし、……やりたいこともありますので」
「新平が帯同した合同任務は生還率がとびぬけて高いそうだね。子どもたちに代わってお礼を言わせてもらうよ。やりたいことについては……ここでは訊かないでおこう」
「お心遣い感謝いたします」

 先ほどとは打って変わり、橋本の心中は海よりも凪いでいた。青白さも相まって精巧な人形のような印象を受ける橋本の顔が一番威力を増すのは無感情の時である。ちらりと盗み見た煉獄は、あまりの血の気のなさに喋る置物の可能性を疑うほどだった。
 そして同時に、その人間味のなさに橋本の言う「やりたいこと」へ疑念を抱いた。
 お前が俺と夢を語る時は、そんな顔ではなかった。装置のような顔ではなかった。内側から沸き立つ歓喜を必死に人の身に抑え込むような笑顔だったではないか。
 以前目の当たりにした瀞のような静けさを思い出して、煉獄はついに肝を冷やした。橋本はその明晰な頭脳でもって、煉獄にすら秘匿していることがある。その策謀の深さたるやまさに無窮だ。煉獄は自身がかじっただけに、橋本の計算高さの規模に生唾を飲む。

「これはみんなにも言っておいた方がいいだろう」

 輝哉の言葉で、ドロドロと低い方へ流れていた煉獄の意識が急上昇する。考え込んでいた内に話は進展していないようだった。
 跪く全員がひたりと輝哉を見る。輝哉は失われて久しい視覚をめぐらすように、視線に応えるように全員の顔をゆっくりと見て言った。

「無惨がこの屋敷に襲撃した際には、私が囮になると決めている」

 ひゅっ、と鳴ったのは果たして誰の喉だったか。輝哉の言葉は皆に息すら忘れさせるのに十二分の威力があった。
 鬼殺隊の統領が、頭首が、父が、その日が来れば真っ先に命を捨てると言ったのだ。

「ご再考を!」

 槇寿郎の鋭い声が飛ぶ。引退して長いとはいえ一族まるごと産屋敷の世話になってきた男にしてみれば、心中はいかばかりか。宇随、煉獄も続いて再考を願い出るが、輝哉はにこりと笑うのみだった。

「再考はしない。無論ひとりではないよ。あまねと、上の子たちも一緒だ。槇寿郎、天元、杏寿郎には作戦発動後に全権を委任する輝利哉と下の子たちの警護にあたる了承を、新平にはこれを前提に無惨を迎撃する作戦案をお願いしたいんだ」

 なにが無論か。普段であればいの一番に口を開くだろう煉獄すら押し黙っている。
 静寂を破ったのは橋本の喘鳴だった。痛ましく喉を鳴らし、必死に呼吸を続けている。見開かれた目に薄く涙すら滲ませる様は、見ている方が溺れ死ぬような苦しさだった。咄嗟に煉獄が手を伸ばして震える肩を撫でる。それにすら気づかない様子で橋本はゼイゼイと息をつき、やっとのことで声を出した。

「御館様は、俺に。父を二度、二度……殺せと?」

 助けを求めるような声音であった。実際心底苦しそうであったので間違いではないのだが、そうではないのが分からないほど元柱たちも人間を辞めてはいなかった。
 橋本の言葉で一番ダメージを受けていたのは、輝哉ではなく煉獄だった。煉獄は、橋本の実父に対する思いを知っている。普段氷像のような人間が眦をやわらかく緩める瞬間を、涙を落とすその先を知っている。彼が今際の際に食べたいと思うものが何かを知っている。筆舌に尽くしがたい絶望の中で、それでも彼をここまで突き動かしてきたものを知っている。もちろん煉獄自身にとっても輝哉の言葉は晴天の霹靂だったが、それ以上にその言葉を聞いた橋本の胸中を心配して止まなかった。
 いくら失明しているといえど、輝哉の聴覚はまだ生きている。橋本の悲鳴でもって、どうか再考をいただけないだろうか。その言葉でもって、彼を救ってやってはくれないだろうか。皆の心中が一致している中、輝哉はすこし考えてから答える。

「厳しいことをいうようだけれど、そうなるね」

 この世には神も仏もいない。輝哉もまた人であるのだから、彼に否と言われればそれだけが真実だった。
 橋本は細かく押し出すように息を吐いて、諦観したように目を閉じた。押し出されるように落ちた涙は一粒だけで、あとには何も続かなかった。橋本は左目、もとい、左の眉尻を強く押さえて押し黙る。槇寿郎と宇随が怪訝そうに見守るなか、煉獄だけがその手の下にある傷跡を思った。

「……御館様の望みとあらば」

 橋本を見つめたまま、槇寿郎が言う。年長者の意地とも聞こえる声音だった。大樹のような覚悟をすでに決めたらしい槇寿郎の声は、奇しくも洞窟を照らすかがり火めいて宇随と煉獄の意志にも熱を与える。

「同じく。必ずやご子息をお守りします」

 宇随もまた答えた。煉獄はか細く「拝命いたします」とだけ言った。そうとしか言えなかった。ここで自身が全力で頷いてしまえば、橋本はこの賛同を前提に産屋敷輝哉を囮とした鬼舞辻迎撃の策を編まねばならない。実父を失い、育ての親として慕ってきた輝哉を殺すための策を求められている橋本を、悔しいかな今の煉獄に救う手立てはなかった。自身といる時、少年たちといる時にあれだけ喜色を浮かべるその頬が、輝哉のたった二言で血の気を失って凍り付いていることに怒りすら覚える。
 どうしてこの世界は、彼にこんなにも厳しいのか。

「……御身の望みであれば、全てをもってして実現いたします」

 眼を閉じたまま、ともすれば聞き落しそうな声量で橋本は言った。ほとんど吐息だけの了承を聞き届けた輝哉が頷く。

「ありがとう、こどもたち」

 輝哉は心底ありがたそうに言う。信じられなかった。煉獄は、今一度この戦争の非情さを目の当たりにして、残った右目を見開くしかできなかった。


*****


 またも蝶屋敷で療養を命じられている竈門は、すんすんと空気の匂いを嗅いでは眉根を険しく寄せている。竈門ほどの超感覚を持っていなくても、朝の瑞々しい空気は心地よく感じる。だが竈門は「嘘だろ?」と何度も確かめては事実に直面して渋面を作っているように見えた。

「どったの炭治郎」
「うん……。すごい悲しい匂いというか、いっそ……絶望してるみたいな匂いがする」
「やっぱり? 俺もすごい錆びた金属みたいな音してて」
「なんだ、お前らもか。ドロドロしてるよな」
「何言ってるかわかんないよ。なにドロドロって」
「お前もだぞ! なんだ錆びた金属って」

 キャイキャイと微笑ましいちびっこ達は、微笑ましくじゃれ合いながらも刻一刻と近づいてくる「絶望」の気配に身構えた。まさか鬼ではあるまいが、それでも例えば「同志を亡くした剣士」の絶望とは規模が違う。徐々に口数も少なくなっていき、三者三様にひたりと入り口を見つめる。今まで感じたことのない気配だった。上弦の鬼と対峙したときもこんな感覚はしなかった。未知の絶望に、ちびっこ達はついに生唾をガブ飲みして縮こまりながら身を寄せる。
 世界をまるごと諦めざるを得なかったような気配は、ついに竈門の病室を訪れた。

「あえ!?」
「なんだその恰好! 新しい隊服か!? 俺は着ねえがな!」
「お見合い!? どこの誰と!? 俺たちと言うものがありながら!?」
「生きてるだけでおもしれえよなお前らは本当」

 上質な三つ揃いの黒い背広に身を包んだ橋本だった。普段は無造作に上げている前髪も今日ばかりはきっちり整えられている。地獄のようだった顔色が多少ましに見えるのは化粧のせいだろうか。竈門は白粉の匂いに母を思い出しながら、橋本ほど顔色の悪い人もちゃんとすればこれだけ格好よく見えるのだなと妙な部分で感心した。

「そうか! 馬子にも衣裳ってこういう時に使うんですね!」
「ずるいずるい! なんで! それで女の子と会うの!? 俺は任務開けなのに!?」
「どうなってんだこの布! なんかテラテラしてるな!」
「その擬音やめろ嘴平……おい待て触んな、なに触った手だそれ! お前!」
「伊之助さっきまでミミズ掘ってましたよ」
「おうカエルもわんさか獲れた。大漁だったぜ」
「ふざっけんな! 仕事着だっつうんだよ汚すなバカたれが!」

 ちびっこ達がワチャワチャと詰めかけると、橋本は至っていつも通りに言葉を返した。表情も素振りも平常だ。が、三人の超感覚はその素振りの中から確かに先ほどの絶望を知覚していた。どうしてだろう、なんでだろう。こんなにいつも通りに笑っているのに、表面だけ同じ人で、中身が全く別みたいだ。ちびっこ達は、特に嘴平は最近やっと20以上の数を数えられるようになったばかりなので、橋本に何が起きたのか想像がつかなかった。

「む! 乱痴気騒ぎか!? 混ぜてくれ!」
「煉獄さん! 橋本さんがデートだって! 言ってやってよ俺たちとは遊びだったのって!?」
「伊之助の丸洗い手伝ってください!」
「見ろ! カエルのワタだぞ! 美味いんだこれ」
「何事かわからない! だが愉快なのはいいことだ! あ橋本! そういえばこれ先日の礼だ!」
「は!? 何!? 収集つかなくなんだろ帰れや! もう本当度し難いバカばっかりか!」

 挨拶もそっちのけで竈門の病室にどこからともなく降ってわいた煉獄によってバカ騒ぎはさらに規模を増した。竈門は嘴平を締め上げながら喚き、煉獄はまとわりつく我妻に「門出を祝えずに何が男か!」と説教を垂れている。騒ぎを聞きつけた禰豆子も「たのしいねえ!? わたしも!」と抗議しはじめる。手に負えない。取扱注意の薬品を全部ぶちこんだみたいな喧騒に橋本はめまいを起こしそうになった。
 しばらく無のまま放置しておけば、橋本の身なりに気づいた煉獄が「任務か」と声をかけた。いや気づくのが遅い。げんなりしたまま「なに」と応えれば、煉獄は心なしかシュンとして言った。

「お前にしかできないことなのだろう。……励めとは言いたくはないが」
「……おう。……これ開けていいか?」
「うむ!」

 ちびっこ達の喧騒を見ないふりしながら、橋本はどさくさ紛れに渡された箱の封を解く。ちょうど手のひらほどの長方形の箱に入っていたのはべっ甲が上品に輝くラウンドフレームの眼鏡だった。試しに装着してみればぴったりと馴染み、意外なことに度が入っている。煉獄の目玉が感想を待つようにキラキラと見開かれているのが裸眼で見るよりも良く見えた。橋本の寸法と視力にあわせて拵えられた眼鏡は、それでなくとも理知的に見える橋本の顔を一層賢者のように見せた。

「度はあっているか?」
「おう……。いつやった?」
「以前皆でお前を落としたときに」
「視力の説明がつかねえじゃねえか」
「俺を誰だと思っている? 蝶屋敷の超常連だぞ、お前の身体測定の記録くらい軽々と盗み見できるとも!」
「偉そうに言ってるとこ悪いが、やってることみみっちいぞ」
「何とでも言うがいい。良く似合っているぞ。励めとは俺は言えん。だが、これに見合う働きをするといい」

 先日の曇天のような表情もどこへやら、晴れ渡る夏の青空みたいに笑った煉獄に気圧されたように橋本は押し黙った。眼鏡の淵を撫で、少ししてから根負けしたように微笑んだ。

「はは。任せろ。俺を誰だと思っていやがる」

 皮肉っぽい笑みを浮かべた橋本を見て、いつしか静かになっていたちびっこ達もどこかほっとしたような表情を見せた。その隙に我妻を払い落した煉獄が、橋本の背広の肩を払いながら言う。

「馬子だ。衣装を着ればしゃんとして見えるものだな」
「は? 座れや。お前にも教養の授業つけてやろうかこの鳥除け目玉」
「あはは! 冗談だ。いない間の授業は任せろ」
「おう。ほらこれ、一応宿題用意してあるから使え。頼んだぞ」
「うむ! 俺を誰だと思っている!」

 煉獄はいたずらっぽく歯を剥いて大輪の向日葵みたいな笑顔を浮かべた。わずかに呆れたような笑みでもって応えた橋本から紙束を受け取ると、「これでよし」と仕上げに一度橋本の肩をスッ叩く。

「かっこいいぞ!」
「そうかい、そりゃどうも。ちびっこ共、杏寿郎の言うことよく聞けよ」
「はい! いってらっしゃい!」
「土産は天ぷらだぞ!」
「デートだったら許さないんだからねッ!」

 つくづく最後まで喧々諤々と騒がしい、心底好ましいやつらだよ本当。橋本は竈門の病室を後にして、しばらく誰もいない廊下を歩く。竈門達の笑顔がとっくに見えなくなってから「ふは」と噴き出して笑った。

「ははは! はは。はは、は。……はーあ」

 顔を覆って腰を曲げて笑い、深く息を吸って顔を上げた時にそこにいたのは、抜き身の橋本新平であった。笑顔の微塵のかけらもなく、触れたそばから指が腐り落ちそうな絶対零度の無表情でもってそこにいた。


 一陣の風のように蝶屋敷を後にした橋本が向かったのは横浜港だった。よく晴れた朗らかな日であったが、海から吹き上げる潮風が体感温度をわずかに下げる。山育ちの橋本は新鮮な気持ちで街並みを眺め、領事館の前で立ち止まった。人を待つためである。
 ほどなくして領事館の前に豪奢な馬車が停まる。中から現れたのは産屋敷あまねだ。珍しく洋装に身を包んでいる。隠の手を借りて馬車を降りたあまねは、慣れない洋靴にも関わらず背の高い花のようにしゃきりと立つ。

「お待たせしました」
「とんでもございません。かえってご足労頂き申し訳ないのはこちらです」
「輝哉の名代とはいえ、実際の交渉はすべて橋本隊士にお願いしています。足を向けるのは当然ですよ。……眼鏡を?」
「貰いものです」

 橋本は恭しく手を取り、あまねも凛とエスコートに従う。知らない者が見れば誰もが羨む美しい男女であり、知る者が見ればぎょっと数度くり返し見るような光景であった。

「御館様からお聞きになられてるとは思いますが、これは貴女様を無惨に対する囮として使うための交渉です。気分のいいものではありません。最初の挨拶さえ終わればあとは離席することもできますが」
「私がいてはやりづらい、というのであれば離席いたします」
「……お戯れが過ぎます」
「戯れてなどおりません。つらい役回りを任せていますから。どうぞ橋本隊士のやりやすいように」
「……。ご配慮、感謝いたします」

 今回橋本が横浜港に来た理由は、来たる「無惨迎撃作戦」の下準備、外国からの鉄と爆薬の買い付けにある。
 橋本が立案した本作戦は、輝哉の勘によれば不遜にも中庭に降り立つだろう無惨を産屋敷一家ごと金属片を混ぜた火薬で爆散させる、といったものだった。先の召集の二日後にはこの作戦を上奏した橋本に輝哉は満足そうに微笑み、当の橋本は「これ間違っても杏寿郎には聞かせらんねえな」と胸中で黒い笑いがにじみだすのを感じた。先手として自爆、隠し玉をもう一つ、これで首が取れれば苦労しないが本命として悲鳴嶼を配置する作戦案は、日輪銃の認可までを思えば歯噛みしたくなるほどトントン拍子で許可が下り、さらに数日して実際に輸入交渉を行うまでに至っていた。
 あまねに肘を貸しながら進む橋本は、我妻の「デートだったら許さないんだからねッ!」の言葉を思い出した。表情には微塵も出さず、頭の端っこの方ですこしだけ笑う。
 悪いな我妻。これはデートだ。背広の鎧でおめかしして、舌戦という舞踊を、権謀術数というダンスホォルで踊るのさ。
 領事館のドアが開かれる。橋本には怪物が口を開けたように感じられた。
 そういえば、火蓋が切って落とされる、という言葉は銃が起源なんだった。橋本の脳裏に場違いなほどのんきな考えがよぎる。もとは火縄銃の弾込めの最終工程をいう言葉だったが、いつからか開戦の慣用句として使われてたな。
 おあつらえ向きじゃねえか。
 橋本はあまねに見えないように口角を吊り上げ、颯爽と歩を進めた。もちろんあまねへのエスコートも抜かりなく。


*****

「はじめまして。遠路はるばるご足労頂きありがとうございます。お会いできて光栄です。お互い民間ですが、先の戦争では大層お世話になったそうで。国に代えまして、改めて御礼申し上げます」
「おや、驚きましたな。随分と英語が流暢でらっしゃる」
「どうやら日本人の舌にクイーンズは馴染みが良いようでして。どうぞお掛けください、今お茶をお出しいたします。失礼、申し遅れました。敷島鎮守社にて仕入れ担当を仰せつかっております、喜瀬川と申します。こちらは我が社代表の名代としてお越しいただきました、みよし様です」

 品のいい調度品で固められた明るい応接間だった。見るからに座ったら沈み込みそうな一人がけのソファがテーブルを挟んで二つずつ。物寂しくはならなく、しかし華美すぎず、見る者が見れば値打ちものだろう装飾の調和が美しい。橋本達よりも後に入室した恰幅のいい英国人は二名。どちらも珍しそうに部屋を見まわしている。
 クイーンズの件と茶を出す以外はすべてが大嘘だった。
 国内であれば如何様にも改竄できる仕入れ記録が、遠く海を越えて海外で残ることになる今回の任務において一番のネックとなったことがある。鬼殺隊が政府非公認組織であったことだ。言ってしまえば秘密結社である鬼殺隊にとって、公に名前が記録されるのは今後の活動としてもこれまでの活動を見ても芳しくない、どころか避けなければならない。でなければ何のための隠だ、といった塩梅である。
 喜瀬川と名乗った橋本は二人と順繰りに握手を交わしながら、輝哉との打ち合わせを思い出す。

「偽名を使います。口座さえあれば登記簿は誤魔化してもよいでしょう」
「なるほど、買い物のやりとりが終わり次第、その敷島鎮守社は姿を消すわけだね」
「今回輸入先を英国にした理由の一つでもあります。重・軽工業に強く、米、中よりも距離がありますので」
「本国と情報のやりとりに時間がかかるだろうからね。その時間を我々の隠蔽に充てられるし、妙案だと思う。実際にやりとりをする、業者というのか企業というのか。どこにするべきだと思う?」
「官営ですと国の上層とのやり取りに障害が少ないでしょうし、民間の会社との交易が望ましいかと。もし万が一調査として接触された場合は、地方出身者を暗号話者として対応に当たらせます。訛りというのは日本語に馴染みがない諸外国にとって何にも勝る暗号になります」
「わかった。その対応のための人選はこちらでするよ、納金担当の隊士には間違っても鬼殺隊の名を出さないよう厳命しておこう」
「お願いいたします。こちらの手札はどこまで切りますか?」
「そうだね。柱稽古が始まると炊き出しが増えるし、武器の拡充も行うから……。柱の平均給料三か月分でどうだろう? 隊服に使う布の製法も使っていいよ」
「うわ。……失礼致しました。破格ですね。必ずバレない程度にぼったくって参ります」
「うん、頼んだよ」

 こちらのカードは橋本の感覚では膨大な資金と軽工業の技術のみ。だが、技術と情報と金は戦争を左右するほどに重要だ。これをどこでどう切るかが腕の見せ所であり、断じて失敗できない任務である。
 橋本は薄氷のような笑みのまま、普段よりも明瞭な視界で英国人を捉えた。好々爺然とした風体の紳士には申し訳ないが、散々食い荒らさせていただくことにする。
 のんびりと紅茶を含んだ紳士は穏やかに笑うと、「さて」と口火を切った。

「敷島鎮守社、と仰いましたな。今回は鉄と爆薬の買い付けとのことですが、業務内容をうかがっても?」
「言ってしまえば自警団と孤児院のようなものです。戦災孤児の保護と教育の支援、並びに警察では手が回らない害獣の駆除や対策などが主な業務内容であります。今回の発注に関しては、害獣駆除方面の業務での需要のためです。あくまで政府非公認の組織であるため銃火器の携行が難しく、また伝統に則って日本刀を武器として扱っておりますが、昨今の戦争で本来各地域で害獣駆除に当たっていた人員が著しく減少したために、弊社から日本各地に人員を派遣する運びとなりました。その人員の装備拡充のために、少々鉄が入り用でして」

 嘘を吐く際に重要なのは完全な嘘にしないこと、とは誰の言であったか。事情を知る者が聞けば今の橋本の言は「まァ間違ったこたァ言ってねえわな」と関心交じりに呆れるものであった。事実をそうとは言わないこと。橋本は元来人を信じられない質の人間であったので、「よいように解釈されそうな、しかし全く違うことは言っていない物言い」を得意としていた。その手練手管ときたら自らが立候補するまでもなく外交任務に輝哉から推薦されたほどである。
 考え込む素振りをした紳士は、傍らに控えた英国人と何言か交わすと再び橋本に向き直る。人の良さそうな笑みを浮かべているが、橋本も伊達にほぼ毎日命のやり取りをしていない。薄皮一枚隔てた下にどす黒いものが満ちているのを見逃さなかった。

「筋は通っていますね」
「……と、言いますと」
「戦後の混乱に乗じて、いくら自警団といえども武装組織ができるのを、いくら東のイエローモンキーといえども看過するわけがねえだろう。どこからが本当だ?」
「うぜえな、全部本当だわダボが。紅茶キチガイが随分と吠えるじゃないですか。そんなんだからアメリカ人に茶葉捨てられんだよ世界から孤立すんだよ。歴史から学ぶ姿勢ゼロか?」

 こちらは薄氷、向こうは薄皮のような笑みは一瞬で剥がれた。互いに獲物を前にするような凶悪な笑みでもって交わされるやりとりに、英語はわからないまでも異様な雰囲気を感じ取ったあまねが瞠目する。カップを揺らすほど荒々しく頬杖をついた紳士は、どちらかというと海賊のように見えた。
 思った通りだ。橋本もまた食って掛かるような笑みでもって応えながら思う。
 今回、何よりも念頭に置かれたのは「鬼殺隊の存在を公に出すことのないよう手を尽くすこと」だった。こちらが政府非公認であるため隠れなければならないなら、相手もまた政府非公認であればいい。互いが歴史の裏で暗躍するもの同士でのやりとりの方が都合がいいとの見立てで、今回商売を持ちかけたのは英国闇市にて暗躍する会社であった。見た目だけの堅苦しい身振り手振りはさておいて、腹を割って実益があるか無いかをガチでやり合った上で気に入らなければわかりやすい言語に出るのが得意な手合いである。最初こそ輝哉の提案に「鬼殺隊史上初の外交でそれっていいんすか?」と迷った橋本であったが、「まあ一物抱えたままお上品にとまってるやつよりやりやすいか」と結局首を縦に振った。

「言えるじゃないか。本音でやりあおうやベイビーちゃん」
「墓穴の準備できてるみてえじゃねえか。やってやんよブリカスが」

 橋本は語調こそつられて荒いものの、丁寧に背広の内ポケットから紙を差し出す。そう遠くはないテーブルの反対側で控えていた英国人が回収し紳士に見せると、紳士は「ほお」と面白そうに笑った。

「これでどんだけ出せる?」
「随分足元見てくれたじゃねえか。舐めてんのか? 赤ん坊のクソほどがいいとこだよ」
「舐めてんのはどっちだハゲ。破格だろうが。いいから吐けや」
「そっくりそのままお返ししてやらあ。まだ隠し玉があんだろうがよ」

 投げ捨てるように返された紙に舌打ちをしながら、まあそんなもんだよなと橋本は思う。提示した小切手に書かれた額は今回橋本が預けられた総額の五分の一以下だった。もちろん全額使うつもりもないし、金だけがカードでもない。
 どうしたもんか。橋本は考えるときの癖で左の眉尻に色濃く残る傷跡を撫でようと手を持ち上げ、眼鏡のつるに阻まれた。任務に出立する際に煉獄から送られた眼鏡である。

「これに見合う働きをするといい」

 そう言って自分を送りだした煉獄の表情が、レンズの内側に映し出されたように見えた。いつの間にか濡れた紙のように端っこがグチャグチャになっていた意識がじんわりと元通りになっていくのを知覚する。気づかないうちに、柄にもなく緊張なんかしていたらしい。
 余計な世話だ。頭の中でにべもなく吐き捨てるも、表情には柔らかいものが浮かんでいる。橋本は消えない傷の代わりに眼鏡のつるを何度か指先で叩くと、小切手を書き直して投げ返した。

「おたく、インドにも子会社あるだろう。いい綿の産地だよな。仕方ねえからもう一枚カード切ってやるよ。俺たちの装備として支給している制服、同じく綿製品だ。が、特殊な製法を用いて従来のそれをはるかに凌駕する強度を実現した。この製法をおまけでつけてやる」
「その製法を聞くまでは、赤ん坊のクソまでしか出せねえなあ」
「犬以下が。待てもできねえのかよ。……リング紡績機の糸管の回転数を巻き取り量に応じて回転数を落とすシステムを無効化する。どれだけスピンドルが膨らもうが巻き始めと変わらない速度を保つように再調整するんだ。巻き取り量が増えるにつれ糸にかかるテンションは上がり続ける。この段階で綿を鍛えることで既存のそれよりも強い糸ができるって寸法よ」
「ブラフだな。撚りが甘くなるだろう。リング紡績機を運用して生産するより労働者に手作業させた方がまだマシな糸ができるだろうが」
「誰がこれで全部っつったよハゲ。ライトがやったヘッドストックの改良あんだろ。あれ何十倍になるように調整すんだよ。既存の何十倍撚られた糸にバカクソ負荷かけて巻き取って、そのあと蒸す。これでクソつよ綿糸の完成だ。満足かよ。少なくともこの話の分は売ってもらおうか」

 紳士は再び傍らの英国人と何言か交わしている。その間に、一応報告しとこう、と橋本はあまねに声をかけた。

「みよし様、現在我々が供出できる資金の二割と隊服に使う糸の製法で手を打っています」
「製法はすべてを?」
「いいえ。八割が嘘です。この製法でできる糸はゴミですが、腐っても世界の工場ですし、そのうち誰かが巧いこと改良してやりくりするでしょう」
「……聞きしに勝るものですね」
「恐れながら、何がですか?」
「喜瀬川隊士の性格の悪さとか」
「杏寿郎ですか? 杏寿郎ですか」

 口のなかだけで「あの野郎!」と唱えながら橋本はあまねの顔を一瞥する。微かな笑みが浮かんでいる。その頬の線の柔らかさに、橋本はふと以前炎柱邸を訪れた際の奇妙な風を思いだした。柔らかく抱きとめるような。これまでを労うような、「たおやか」を用いるのが適切であるような奇妙な風の正体を、橋本は煉獄のご母堂だと思っている。
 自覚はあるが、早くに凄惨な亡くし方をしたおかげで橋本には奇妙な母体信仰が根付いている。曰く「母とはやわらかなもの、故に強いもの」と。しかし橋本の母は山で暮らし、思い起こされる手は畑仕事や厳しい冬の水によっておおよそ「やわらか」と呼べるものではなかった。それでも母をやわらかかったと思うのは、ひとえに橋本の母が強かったからである。
 日本刀の切れ味には仕組みがある。詳細は省くが大まかに言えば、焼き入れの際に刃の部分に粘土を盛ることで温度の過上昇を防ぎ、峰を強靭に、刃を柔らかく焼き上げることであの世界ドン引き最強刃物の切れ味を実現させている。世界最強武器の秘密が柔らかさなのだ。橋本の奇妙な信仰はこれに起因する。
 あまねの普段の立ち居振る舞いは、まさしく触れずとも切れるような、ひとたび敵意なぞ向けられようものなら絶倒するような鋭いものだと橋本は記憶している。この頬の穏やかさは似ても似つかない。しかし、橋本の奇妙な信仰にあっては二者は同一であった。あまねは強く、ゆえにやわらかなもの。言われてみれば言われるまでもない証明なのだが、今になってハッとさせられてしまった。我が子を見るようなあまねを、橋本は「この人もまた俺の母だ」と改めて強く思う。万年冷え性の指先までもホカホカになったような心地になったところで、テーブルの反対側から咳払いが起きた。

「その量でどうだ」

 橋本の前には、先ほど投げ返した小切手が何事か書き加えられて投げ返されていた。橋本は拾い上げて目を通す。提示した金額と紡績機の情報であちらが売れる鉄の量が書かれている。橋本は紳士に一瞥もくれずに言った。

「まァ口止め料も含めりゃこんなもんか。じゃあ今回の取引レートはこれで固定だ、これ以上の変動は認めねェ。この前提で、我が社はこれの三倍を支払う。つまり三倍売ってけ。気に入らねえなら手を引きな」
「……しくじった。クソ、引きこもり国家だと思ってナメてかかっちまったな。ああ仕方ねえ、売ってやるさ」
「有意義ナ交渉デシタ、ドォモアリガトゴザァマス」
「とってつけたように片言になるんじゃねえ」

 茶封筒から発注書を出して発注量と品目、金額を改めて書きとめ、今度ばかりは比較的丁寧に差し出した。鬼殺隊では珍しい万年筆が筆記体を記していくさまが珍しく見えたらしく、あまねは興味深そうに橋本の手元を見ていた。

「日本語にも楷書、草書と行書がありますでしょう」
「なるほど」

 腑に落ちたらしいあまねの目が輝いてみえる。生まれや育ちについて詳しいことは知らないが、それでも産屋敷の嫁に行くような方なので幼いころからある意味不自由極まりない生活をしてきたのかもしれない。何をやっても追いつけなさそうな人物の子供らしい一面に橋本も頬を緩ませていると、紳士から声が上がった。

「で? そっちの支払いは今夜か?」
「……何の話だ?」
「その隣の譲さん、割引分だろ」

 夜中に活動する手前、鬼殺隊員の心霊現象遭遇率は一般人の数倍ある。隊士間での怪談でも「結局生きてる人間が一番怖いよね」といったオチを迎えがちだそうだが、橋本が万が一披露する場があるとすればこの場の話をすると思った。
 全身の血のみならず体液にまで至るすべての水が凍ったような感覚だった。橋本は自分が思考を組み立てる前に水の呼吸を全力で始めた肺に、焦る事すらできなかった。
 この身すべてが、目の前の外道を殺すために動き出そうとしていた。

「はし……喜瀬川隊士」

 水の呼吸音を聞いたあまねが弾かれたように声をかける。あまねに英語はわからないものの、先ほどのやりとりの中に橋本がこれほど豹変する発言があったことは想像に難くなかった。流石に一般人への呼吸を使った傷害を容認することはできない。忘我のまま立ち上がった橋本に、果たして声は届いただろうか。

「おう、何だ。怒ったのか」

 紳士は茶化した様子で座ったまま笑っている。隣に控えている英国人も笑っている。しかし橋本は、相変わらず人間性を全喪失したままだ。ツイと持ち上げられ紳士の方へ伸ばされる手にはあまりに温度がない。凍った柳の枝がゆっくりと川に流されているようだとその場にいた全員が思った。流石におかしいと思った紳士が橋本の顔を見るも、そこには顔がなかった。厳密にはいつもの寝不足顔に薄く化粧の施された顔はそこにあるのだが、あまりに無だった。良くて能面。最悪、人間を模して造られた怪物のような顔が、瞬きひとつせずにこちらをヒタリと見つめ手を伸ばしている。
 自然、だった。土砂を巻き込んだ濁流が無音のまま自身へ向かってきている感覚。そう運命づけられているかと思うほど違和感も逃げ場もない。紳士は橋本の指先が目と鼻の先にまで近づいてやっと冷や汗を吹き出し、椅子を引いた。
 隣に控えていた英国人もその音でやっと我に返った。得体のしれない異物のような男を引きはがさん、と橋本の手を掴む。

「ギャッ」

 しかし、掴まれた橋本の手はふたたび自由になって紳士へと向けられていた。英国人が橋本の手を掴んだはずの自身の手を抱えて後ずさる。紳士が弾かれたように見ると、英国人の腕は関節が増えていた。
 再び橋本を見る。日本でなんと呼ぶのかは知らないが、紳士には橋本がすっかり死神に見えていた。悪魔だ。神に背いて人間に害成すもの。ゆっくりと、しかし着実に距離を詰めてくる橋本をすっかり人知の外のものに感じられた。同時に、「それなら音もなく一瞬で彼の腕を何重にもへし折れるだろう」と納得しかける。そんなわけあるか、と思う頭はほとんど残っていなかった。

「橋本新平!」

 鋭い声。一瞬遅れて、破裂するような音。
 あまねが橋本の横面を引っ叩いていた。虚の双眸がひとまず自分から逸らされたことに紳士は重く安堵の息を吐く。
 橋本は叩かれた頬をかすかに赤くしていた。ああ、ちゃんと人間だったとあまねが心の片隅で安心するのもつかの間、「ですから気分のいいものではないと申し上げたでしょう」と呟かれた声には相変わらず恐ろしいほどに色がない。

「何をしているのです」
「交渉です」
「人の腕を折ることがですか」
「そうです。弁舌だけですべてが終わるなら呼吸なぞ現代まで継承されはしなかった。お辛いようでしたら眼を瞑っていてください」

 そう言いながら再び紳士に顔を向けた橋本は、ついに紳士の襟首を掴み上げた。最初こそ激しい抵抗があったが、橋本が一度大きく「ヒュウゥ」と息を吸えばすぐに静かに縮こまる。
 大丈夫です、殺しはしませんよ。ここで殺しては誰が鉄を持ってきてくれるんです、と口角だけを吊り上げて橋本は言った。あまねは顎を引く。すこし考えて、あまねは目を瞑った。

「何だ。俺たちだって伊達にカタギじゃねえ商売やってねえぞ。脅しで強請れると思ってんのか」
「……」
「ジャップが。図に乗るなよ」
「……」
「だんまりか。たかが知れたな」

 紳士は果敢に言葉を続けたが、橋本は何も返さなかった。ただこの世の何よりも深い場所に落ちる影みたいな目で紳士を見つめ続けていた。一度の瞬きもないまま。
 しばし一方的にも見える応酬の末、やがて紳士は押し黙った。ひどく恐ろしい親に叱られるのを待つ子供のように橋本をうかがっては目を逸らす。何度も繰り返す。その間も橋本は呼吸の音以外は漏らさず、襟首を掴み上げる手もまた微動だにしなかった。

「何だ、何なんだチクショウ! 何だお前は!」

 やがて紳士は落涙までして叫んだ。なにがしかの糸が切れたらしい。それでも橋本は動かなかった。ついには「何でも言うことを聞くから」と泣いて縋り始めた段階でやっと瞬きをひとつ。やっと水の呼吸をやめた橋本は目線をこちらに向けさせるように今一度紳士の襟首を掴み上げなおし、しかし依然として温度が一切ない声音で言った。

「物分かりが良くて助かるよ。取引量はさっきのレートの7倍で出せ。わかるな? こちらが1、そちらが7だ。俺は常にお前を見ている。お前の中に俺はいる。万が一これが反故にされることがあれば、お前の身内も友も、全員を破滅させると明言しよう。疑うならば反故にすればいい。お前ひとりのちっぽけな恐れで、お前の周りの人間全員を不幸にできるものならな」
「わかった。わかった。聞く。その通りにする」
「色をつけてくれても構わない。みよし様を侮辱してくれたんだからな。別になくても構わねえぞ。その時はお前たちの母をどうにかしてしまうかもしれんが。ヤクザもんならそこらへんはわきまえてるかと思ってたがなあ。がっかりだ。そういえばモシンナガンも欲しいなあ。あればあるだけいいんだがよ」
「約束する。頼む。助けてくれ」
「隠し玉があんだろうと抜かしたな。その通りだ。お前にだけ教えてやろう。俺はお前を見ている。口外すればすぐにわかるさ。聞きたいか?」
「き、聞きたい」
「言い方」
「聞きたいですッ」

 紳士から丁寧な言い方が聞こえて、やっと橋本は顔の端に笑みを浮かべた。耳元にささやくために力ずくで引き寄せた襟はすっかり水浸しになっている。

「俺たちが駆除している害獣は、お前んとこでいうワイルドハントだ。オーディンだかフランシス・ドレークだかアーサー王だか知らないが、それらが扇動する死者の旅団と俺たちは何百年続く戦いをしている。よかったな、俺が優しくて。あんまり聞き分けが悪ければ、お前の船にネズミの一匹でも載せてしまうかと思った。また地獄が見たけりゃ今からでも支度するがよ。さぞいい景色だろ、一面の焦土ってのは」

 紳士は無言で首を横に何度も振った。その必死さといったら傍目には異様に映るほどで、薄目をあけたあまねは再び目を瞑った。
 様子を見届けて、橋本はようやく瞬きをした。新しい発注書をしたため、紳士に駄賃でもやるように突き出す。紳士は凍えきった手で激しく震えながら受け取った。

「ご苦労。下がっていい」

 椅子に座りなおし、尊大に足を組んだ橋本が言うや否や、紳士は未だ倒れていた連れ添いの英国人を引きずるようにして応接間を飛び出した。毛足の長い絨毯では走りづらかったらしく、後ろ姿は大層間抜けに見える。

「…………目を開けて頂いて結構です」

 呼びかけに応じて目を開いたあまねが最初に見たのは豪奢な絨毯、その次が体を折りたたむようにして項垂れ、頭を抱えている橋本だった。頭をめちゃくちゃに抱き込んでいる腕の隙間から、傷をなだめるように眼鏡のつるを繰り返し指先で撫でているのが見える。全集中・常中により一般人よりはるかに発達した肺をめいっぱい使って長く重い溜息を吐いていた。

「御見苦しいものをお見せしてしまい申し訳ありません」
「……いいえ、いいえ。私のために怒っていたのでしょう」

 橋本の溜息が止まる。あまねは橋本が見ていないのをいいことに、ごくわずかだけ下唇を引っ込めた。
 普段いくら超厳重な警備の産屋敷邸の奥にいるからといって、あまねも鬼殺隊のトップにいる人物である。橋本が豹変する前、英国人紳士がこちらを見ながら何事か言ったことくらいわかっていた。舐められたものだ、あろうことかこの母を。どこか気に入らなくも思いながら、それでもこの「氷像」が自分のためにあれだけの怒りを発露させた事実と頬を張ってしまった申し訳なさにあまねの目じりはトロリと下がる。
 あまねは未だ深く項垂れたままの橋本の背を撫でた。労うような手つきだった。

「叩いてしまってすみませんでした。この母は、あなたのような子を持てて嬉しく思います。辛いことをさせましたね。ですが、立派でしたよ」

 その言葉を最後に、しばし談話室には穏やかな衣擦れの音だけが響いた。橋本は再び黙りこくり、あまねもまた黙って橋本の背を撫でる。先ほどの時間すら止めるような絶対零度の空気はすっかり失せていた。
 しばらく経って、頭を上げないままの橋本から発せられた「いいえ、いいえ。俺こそ僥倖です」の言葉は熱く湿っていた。


*****


「まだやることが?」

 交渉が早く終わったので、念のため支度していた宿に挨拶だけしてあまねは産屋敷邸へと戻ることとなった。行きと同じ馬車に乗り込むのを見送ろうとした橋本へ向けられた発言である。

「はい。ご足労頂きありがとうございました。どうぞお気をつけて。後日、今日の報告書と事後報告に伺います」
「そう、ですか。橋本隊士も気をつけて」
「恐縮です」

 馬車の扉が閉まってから、あまねは「すこし歯切れが悪かったかしら」と自分の頬を揉んだ。いくら人間が一面だけでないとはいえ、自信を送り出す橋本の表情はささやかといえども人間味があった。
 交渉の場での橋本の様子に、あまねは心当たりがある。実家の神社の本殿に祀られている鏡のそれと似通っていた。生理の際は立ち入りを許されず、かつ真正面を通ってはいけないとまで言われて育ったあの場所から受ける印象と近い。生身の人間からあれと同じ気配がするとは、と考えかけて、あまねは頭を振った。
 それだけの覚悟と意志で鬼殺の道を歩む者に言えることは何もない。せめてその苦しみが報われるよう、自身もまた、それこそ死ぬほどの意地で報いなければならない。

「……やっちまったぜおい」

 一方、あまねを見送った橋本はまたも頭を抱えた。
 やっちまった。完全に我を失ってた。あまね様にまさかあんなこと言われると思ってなくてバチギレしてしまった。ガンつける作戦は元からやろうと思ってたが、しかもよりによって鬼殺隊の存在ほのめかしちまった。この忙しいときに、最悪海外まで単身赴任もあるかもしれん。あの英国人の友人だの家族だのをどうこうするつもりは一切ないが、でもまああちらさんは迷信深いお国柄だし何とかならんかな。鬼とは言ってないし。欧州版百鬼夜行の話しただけだし。何とかならなかったら俺が何とかするしかないけどさ。
 時折我妻が見せるような、喉の奥を鳴らすような溜息が絶えない。「ア°ー」と呻きながらも橋本は商店街に立ち寄り、ちびっこどもに土産を見繕った。生真面目に天ぷらにするか、帰路にそう時間がかからないまでも日持ちしないものを持って帰るより物珍しいものでも買っていった方が喜ぶだろうか、と今度は土産相手にウンウンと唸り、結局最中を購入して店を出たころにはすっかり空が真っ赤だった。なるほど地平線まで遮蔽物が少ないと、夕焼けもこれほどきれいに見えるものか。

「はー。ちょっと舐めてたな。やるじゃねえか世界」

 フーンと関心しながら、しかし橋本は裏路地に入っていった。人の行き来のないらしい袋小路は猫も寄り付かない、といった風体である。沈みかけの太陽が最後のあがきとばかりに街を真っ赤に染めているのに反して、背の高い建物に囲まれたここは気を抜けばなにかに躓きそうなほど暗い。行き止まりの壁の前で立ち止まり壁を眺めていた橋本が、がっくりと肩を落として言った。

「交渉中も大した役にも立たねえで、今度は気配一つまともに消せねえのか。とんだポンコツ抱えて御社もご苦労なもんで」

 わずかに後ずさる音。橋本が振り返ると、半日前の交渉で紳士の隣に控えていた英国人が立っていた。橋本がへし折った腕は吊られている。顔色は悪い。鎮痛剤の類を飲んでいないんだろうか、橋本は英国人の鬼気迫る表情もそっちのけでそんなことを考えている。英国人は懐から小銃を抜いた。

「スミス&ウェッソンのM1917か。どうせならコルトガバメント持てよ。そういうとこまで青二才か」
「黙れッ。お前のせいでボスはおかしくなっちまった。お前をパクってくるっつったら、俺をクビだなんて言いやがる。何をしやがった。俺の腕もそうだ!」

 橋本がだるそうに首を傾けると、さっきまで橋本の頭があった場所を弾丸が走り抜けていった。英国人は息を荒げている。息が荒れるのはしょうがないが、片手で構えてんのに肩を上下させちゃ射線がブレるんだよなあ。橋本は面倒くさそうに眉尻を撫でようとして、再び眼鏡のつるに阻まれた。
 弾をかわされたことに激高した英国人はさらにまくし立てるが、橋本は一ミリも聞いちゃいなかった。考え込むようにつるを指先でゆるく叩く。

「聞いてんのかッ。舐めやがってッ」

 英国人が再び発砲する。弾丸はちびっこ達への土産を入れた紙袋を貫通した。しばし考えたあとに紙袋を揺すってみると、被弾する前よりバランスが悪い。おそらく衝撃で中身がメチャクチャになっていた。紙袋の穴からは最中の粉がちらちら落ちる。
 台無しになった紙袋を見て、橋本はおもむろに眼鏡を外した。背広の内ポケットからセットでもらったケースを出し、丁重に仕舞い、ポケットへ戻す。比較的汚れていない地面へ紙袋を置く。整えられていた前髪を崩す。一連の動作は正気の者が見れば儀式のようだった。
 準備運動の代わりに一度肩を上げ下ろした橋本がやっと英国人を真っ直ぐに見る。その時は直接見られてはいないにしても、半日前と同じ目で射貫かれた英国人はひゅっと息をのむ。

「なにをしてでもぶっ殺してやりてえ野郎だが、いざこうなってみると恐怖政治ってのは効率がいいな、鬼舞辻め」

 零すように言ったのち、袋小路に異音が響き始める。発生源は橋本だった。英国人は最初、交渉の場で見せた奇妙な呼吸だと思った。しかし、それよりも低く恐ろしい音であることに気づく。
 例えるならば。巨大な獣が喉を鳴らす時のそれ。
 その夜、横浜はひどい雷雨だったらしい。


*****


「少年たち、橋本は今日は戻れないらしい。たっぷり宿題ももらっていることだし、今日はここでお開きにしよう」

 燃えるような夕焼けに満ちている竈門の病室は、そこにいる五人の髪色も相まって実際よりも赤く見えた。順番に赤茶、毛先が赤、金と赤、金、毛先が青である。
 てっきりその日のうちに土産がもらえると思っていたちびっこ達は一様にぶーたれ始めた。鬼殺隊員ながら純真さと仲の良さとで、こうしていれば年相応に見える。

「えーッ! かすてら!」
「天ぷら!」
「こら、橋本さんのことお土産で呼ぶな」
「さっき文が届いてな、土産を選んでいたら遅くなったのが理由だそうだ。土産には最中を買ったから帰るまでに宿題がんばれよ、と」
「もなか、おいしい?」
「おいしいよ禰豆子ちゃん、俺食べたことないけど。かわいいお菓子だよ、禰豆子ちゃんには負けるけど」
「もなかってなんだ!? どういう字書くんだ」
「最中って書くんだ」
「うむ。ぱりぱりした皮に餡子が包んである。求肥や栗が入っているものもあるな。しまった、俺も頼んでおくんだった」
「橋本さんならきっと買ってきてくれてますよ。楽しみ!」

 きゃいきゃい。擬音をつけるならそれが相応しい。ある者は未知の味に、ある者は久々の甘味に色めき立っている。世捨て人だったくせに、こうも人に好かれるのだから、世界ももう少し橋本に優しくなればいいのに。遠く離れた場所で夜を明かすだろう橋本を思いながら、煉獄は今日の授業の小道具を片付ける。
 不意に「あ!」と竈門が声を上げた。

「どうした?」
「橋本さんの分もあればいいなと思ったんです。あの人、自分の分は買わなさそうだと思って」

 せっかくならみんなで食べたい、とかそんな理由だろうかと思っていると、竈門が続ける。

「橋本さん、なんだかすごく傷ついたみたいな、なんていうか……ああー、煉獄さんも同じくらい鼻がよかったらきっと伝わるんですけど!」
「紋太郎、わかるぜ! 俺様もあれはなんて言ったらいいかわからねえ!」
「伊之助はいっつも言葉足らずじゃん」
「おやぷん、ばか?」
「こらっ」

 持ち前の仲の良さで脱線しそうになる会話をなんとか軌道修正すると、どうやら「橋本がなんかすごい参ってるっぽかったから、一緒に食べたらきっと元気出してくれるかなと思って」とのことだった。「橋本さん芝居うまいし普通の人ならあれでわかんないんだろうけど、俺たちわかっちゃうから」と眉根を寄せた我妻が付け足す。手出しのしようがわからないなりに精一杯考えている様に煉獄は素直に感動し、相手が橋本であることに倍感動した。
 世界が何だ。橋本は俺に、俺たちにこれだけ愛されている。お前が降らす多少の艱難辛苦、俺たちで払ってやろうとも。奥歯を噛み締めながら煉獄は思う。こんな世界が何だ。ちょっと夕焼けが美しいくらいで調子に乗るな。

「もし自分の分を買って来なくとも俺たちから分けてやろう。同じくらいになるように分ければいい」
「俺は分けてやらねえが良い考えだと思うぜ! えへへ、楽しみだなあ」
「え待って……あの崩れやすそうなお菓子を、どうやって……?」
「あッ!」

 すっかり失念していた。煉獄にとって壊れやすいものといえば幸福と最中といっても過言ではない。嘘である。それにしたって脆い最中をどう分けるかまでは考えていなかった。「えっと……」と額に人差し指をあてて唸る。

「もなか、くずれるねえ」
「崩れるな! うーむ、これは俺の宿題にしよう。次までに必ず考えついてみせるとも。そのかわり」
「はい! 俺たちも宿題がんばります!」
「竈門少年は体を治すのも、だ」

 穏やかに約束を交わし、煉獄は竈門の病室を後にした。我妻と嘴平はこのまま蝶屋敷に泊まるらしい。いくら元柱といえ、すっかり陽が落ちてしまっては出るものも出るだろう。私邸への帰路を急ごうとする煉獄を呼び止める声があった。胡蝶しのぶだ。

「橋本さんから何か連絡を受けてたりしませんか?」
「む? 少年たちへの土産を選んでいたら遅くなったから今日は戻れないと。何かあったか?」
「いえ、それならいいんです。お気をつけて」

 ああそう、それなら他にやることがあるわ、を美麗な笑みで包んだ顔だった。嫌味は微塵もないが、約束を反故にされればいい気もしないだろう。健診とかだろうか。気遣いに礼を言おうとする前に胡蝶は耳を塞いだ。以前の一件を忘れていないらしかった。努めて抑えた声量で「気遣い感謝する」というと、胡蝶はいたずらっぽく笑った。昔と同じ笑顔だ。
 そこまで考えて、煉獄はふと胡蝶の髪色が昔と変わったことに気が付いた。嘴平や時任のように毛先の色が変わる体質であるならそれまでなのだが、実姉のカナエは毛先まで変わらず鴉の濡れ羽色であったことを考えると一層謎が深まる。
 謎が深まったところで、鴉の鳴き声が響いた。そろそろ本格的に太陽は地平に隠れ、鬼が動き出し、鬼殺隊の戦いの時間が始まる。誰かの鴉は煉獄に目もくれずに空を急いだ。

「おっと。では」
「はい、お大事に」

 南風がひやりと冷たい。南の方では雨が降っているかもしれない。鴉に負けじと煉獄は帰路を急いだ。歩くよりもわずかに早く。頭の回転はそれよりも早く。
 彼から授かった知恵のなかに、彼の不安を少しでも取り除けるものはなかったか。ささやかな花のように咲く笑顔を、どの策なら浮かべさせられるだろう。彼はきっと自分で選んだくせに、「うまいじゃん」とびっくりして言うに違いない。どうすれば皆等しく幸福を共有できるだろう。
 胡蝶の髪色もどこへやら、煉獄はすっかり頭を最中の分け方でいっぱいにして歩いた。
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