とんぶりは見ている
 ざりざり。うむ、身綺麗になった。
 わがはいは猫である。名前はとんぶり。新平という男に世話をさせている。
 世話をさせる以上、下僕のことは主人たるわがはいが把握、管理しておかねばなるまい。そう思っていたのだが、ここにきて最近事情が変わった。
 わがはいは賢しいので、新平が夜うなされて「キョージュロ」なる人物を呼ぶのを知っている。「キョージュロ」なる人物は赤いのか、わがはいの首輪も赤い。わがはいの首輪どころか、新平の私物はわりと赤いものが多い。好きなのだなーくらいにしか思ってなかったが、繰り返すようだが事情が変わった。

「猫を飼っているのか!」
「お猫様って呼べや。俺のご主人だぞ」
「本気で言っているのか?」
「二割は冗談」

 この赤が生きて動いているような人間、なんと「キョージュロ」というのだという。
 なんてことだ! わがはいはイマジナリー「キョージュロ」であったのか!
 ゆゆしき事態だ。まさかわがはいを何かの代替にしようとは、わがはいの下僕ながら新平は面の皮だけでフルマラソン完走できる。
 ゆゆしき事態はこれだけではなかった。なんとこの「キョージュロ」なる人物、手のひらがものすごくポカポカなのである。撫でられたときの気持ちよさが下僕よりも上なのだ! くぅー度し難い! くやしい! 喉鳴りが止められん! うぐー! ごろごろごろごろ!

 二日後にはわがはいは「キョージュロ」を許してしまった。あの撫でには代えられん。
 それにくわえて、「キョージュロ」はほぼ毎朝、新平のかわりにわがはいのカリカリを出す係になった。太陽が高くなるまで新平が起きてこない日は、わがはいが声をかけてやると四つん這いでカリカリを出しに来る。ほまれあるわがはいの下僕であるのだからシャンとせよ、と背中に飛び乗ってやれば多少シャンとする。まったくこの下僕は手がかかる。やはり主人のわがはいがしっかり監督してやらねば。
 話がそれた。わがはい、「キョージュロ」を許してしまった。

「ご主人、橋本は息災か?」
「目の前に本人いますけど」

 うむ。ここ最近はうなされることもあんまりないぞ!

「とんちゃん、杏寿郎相手だとけっこうゴキゲンに喋るんだよ。何話してんの?」
「お前の近況報告を受けているぞ。昨日夜更かししたそうだな」
「えマジで言ってる?」
「いやカマかけただけだが。ほほー、夜更かししたのか、ほほう。はやく身支度しろ。職員会議は待ってはくれんぞ」
「くそったれ! コーヒー飲んで待ってろ!」

 わがはいそんなことは言っておらんぞ! わがはいが夜行性であるからして、新平が夜更かしすればするだけわがはいをもてなす時間が伸びるのだ。マわがはい昼のみならず夜もわりと寝ているが。
 わがはいが丁寧に説明してやっているあいだ、新平は笑った。「キョージュロ」がうちにくるようになってから、新平は夏の朝の空気みたいな笑い方をするようになった。わがはい、新平のこの笑い方が好きである。わが身の世話を任せる下僕であるからして、その心身は健康であればあるほどよい。
 「キョージュロ」でもって新平が幸せであるなら、主人がそれを拒む理由はないのだ。手もポカポカだし。こっちの理由はついでだ。ついでだぞ。

「とんちゃん、下僕きょうもお勤め行ってくるから」
「とんぶりも励むように!」

 言われずともわかっておるわ! 玄関先で新平と「キョージュロ」を見送って、わがはいは一日の務めをひとつ終えた。人間たちはとぅーどぅーりすとと呼ぶらしいが、わがはいもりすとは山積みだ。まずは、トイレの砂を整える仕事から始めるとする。


***


 ゆゆしき事態だ!
 ゆゆしき事態だ!!!!!!!!
 わがはいは大声を上げて逃げる! しかし下僕向けに誂えられたこの城に、わがはいが隠れるのにぴったりな場所などどこにもない!
 新平と「キョージュロ」は毒でも食べてしまったのか!? 朝方にばたばたと出て行ったかとおもえば遅くまで帰ってこないし、帰ってきたと思ったら疲れた顔をしているし! 幸せそうな顔をしていたので「よきかな」とニッコリしているのもつかの間、わがはいの缶詰よりも大きい缶詰を開けて煽りはじめた! それからしばらく経って、新平も「キョージュロ」もおかしくなってしまった!

「とんちゃん尻見せて! あのよ杏寿郎、ビックリマークとハテナマークって猫の肛門と尻尾の簡略した図がもとになってるらしくてよ! とんちゃん毛の根元のほう黒いからわかりやすいと思うんだよ! それはともかく俺今無性にとんちゃん吸いたくてしょうがねえ! 捕獲手伝えや!」
「任せろお! その筋ではゴッドハンド杏寿郎と呼ばれた男だぞ! とんぶりくらいみるみるうちにこのゴッドハンドで吸い寄せてやろうとも! ほおらとんぶり! 杏寿郎の手だぞ! にゃんにゃん!」
「ひっくい声でにゃんにゃん言うのおもしれえからやめれや! その筋ってどの筋だお前!」
「近所の公園が野良猫のねぐらでな! ご近所ではちょっと名が知れている!」
「恥ずかしくねえのかお前成人男性がよお! とんちゃんこっちこっちこっちこっちあー逃がした!」
「その角だ! 詰めろ!」
「うるせえな俺んちだ!」

 ふざけるな! クッソデカい二足歩行の生き物に本気で追いかけられたのは去勢手術なる拷問にかけられに行くときぶりだ! あれでわがはいはてっきり人間のダッシュが嫌いになったのだぞ!
 わがはいは持ち前の脚力で冷蔵庫の上へ逃げた! 途中下僕たちの頭やら何やらを踏んだ気がするが知らん! ざまあみろ! わがはいをそんなに追い回すからだぞ!
 冷蔵庫の上で毛を逆立てて体を大きく見せてやる。これでそこいらの猫、窓越しに来る野良のものたちは逃げていくが、悲しいかな新平はもっと体が大きい。もう無理かもしれない……おかしくなった新平と「キョージュロ」に頭からばりばり食べられてしまうんだ……わがはいは猫生を振り返る。
 振り返って、今まで新平が大きい缶詰を開けて、ここまで頭がおかしくなったことは今までなかったな、と気づいた。さすがに届かなかったのか、諦めたらしい新平を冷蔵庫の上からそろり、そろおりと伺うと、グチャグチャな笑顔がどこかいつもと違ったように見える。
 新平は「ディズニープリンセスだったら俺モアナになれると思うんだけど」などと言いながら新しい缶詰を開け始めた。まだ頭をおかしくするつもりか。耐えられん。新平がくれたいつもの寝床が恋しいが、今降りたらきっとばりばり食べられてしまう……わがはい、今日はこの上で寝ることにする。ちょっと冷たい空気が出てきて気持ちいいなここ……。


 明け方に見回してみれば、新平と「キョージュロ」はお皿をのせる板に突っ伏して動かなくなっていた。やっと静かになったか。手のかかる下僕らである。
 新平が毎朝にらみつけている小さい板が鳴った。新平がはっとして辺りを見回して、「うわあ」と言った。言いたいのはこっちだ。わがはいのパトロール経路がめちゃくちゃである。早めに片付けるように言っておかねば。
 連れだって玄関へ行き、肩を組んで戻ってきた下僕らは新平の寝床がある部屋に入った。これで居間にはおりても大丈夫だろう。食器棚や壁の飾りをなんとか足場にして降りる。途中何か落とした気もする。ゆるせ。わがはい可愛いから。
 いや、にしたってひどいものである。新平がここまで部屋を散らかしたのなど、この城に来たときと以前びっくりするくらいうなされた後くらいだった。わるいゆめを見たらしいが、なんのゆめを見たのか覚えていないらしかった。わがはいが必死に慰めるも、うろうろと歩き回っては本棚から本を抜いて地面に落としたりしていた。あの時より部屋が汚い。わがはいらしくもない言葉をつかうと、ヤバい。

「良くも悪くも、今日のこと、絶対忘れてやらないぞ」
「灰になっても覚えててくれ」

 新平の寝床の部屋からそんな会話が聞こえたっきり、城のなかは一気にシンとした。新平たちも寝たのだろうか。心配などではなく、わがはいが落ち着いて寝なおせるかを確認すべく寝床を確かめに行く。心配などではないぞ。いや嘘、心配だ。うなされていたら、新平を起こせるのはわがはいしかおらぬゆえ。下僕の心配をするのは主人のつとめのひとつゆえ!

 新平は、いや「キョージュロ」も、眠っていた。わがはいこの城から出たことがほとんどないゆえ、いささか浅学である自覚はあるが、それでもこの世のしあわせすべてを押し込んでできた形をしていた。笑いながら眠っていたのだが、そのさまがなによりもしあわせそうだったのだ。
 おのれ、「キョージュロ」め。わがはいが傍で寝てやるときよりもしあわせな顔など、新平にさせおって。
 わがはい、しっかり覚えているのだ。お前たち二人とも、はじめてわがはいを目にしたとき、なんか寂しそうな顔をしやがったのをな。
 それがどうだ、なんだこの笑みは。もう言葉にするほうが野暮だ。わがはい猫であるが、猫ですらそう思わされる。きっと今のふたりは、ずっとそうなりたかったものになれた時の顔をしている。
 ゆゆしき事態だ。これでは、わがはい、新平を慰める役目を放免になってしまう。どこかもの悲しくなって、わがはい思わず甘え鳴きをしてしまった。すると新平は「ウウム」と唸って、もぞもぞする。
 わがはい、目が良いのである。新平がもぞもぞして、新平と「キョージュロ」の間に隙間ができた。ちょうどわがはいが入れるくらいの!
 認めるのは気に食わないが、ああ認めてやるとも、新平も「キョージュロ」も、今まで散々相談にのってやっていたというのに、問題が解決となればわがはいを御役御免など、虫が良すぎるのではないか。わがはいも労われてしかるべきである。わがはいもくっつきたいのである!
 新平と「キョージュロ」の間にちょっと無理して座った。
 うわ良いこれ!!!!!!!!
 良いなこれ! ヤバい! こっちを向けば新平がいて、こっちを向けば「キョージュロ」がいるではないか! うわ「キョージュロ」寝ていても体がぽかぽかだ! 新平もなんか今日体ぽかぽかしているぞ! 「キョージュロ」のおかげか!? よくやった褒めてつかわす最高これ! うひょー!
 わがはい、すっかり上機嫌になって、喉ゴッロゴロ鳴らしたし、ふたりの腕を交互にフミフミもしてやった。新平はフミフミされるのが好きだ。きっと「キョージュロ」も好きに違いない。わがはいにこんな最高空間を提供してくれたのだ、礼には礼を尽くさねばならん。
 すっかり上機嫌になったわがはいは、さっきまでのモヤモヤ暗い考えなどどこかへ消え去ってしまっていた。ふたりが幸せそうで、わがはいも幸せである。そこでわがはいは、天才的なことに気が付いた。新平を慰める役目を「キョージュロ」がやってくれるなら、新平はわがはいの世話に全身全霊で取り組めるではないか! しかもこの「キョージュロ」、わがはいほどではないが新平の扱いかたをよくわかっている! 「キョージュロ」がいると新平も元気になるし! 妙案だ! やはりわがはいは天才なのだ!
 いつもは恥ずかしくて言えないのだが、だいすきな新平と、じつはだいすきな「キョージュロ」がずっと一緒にいてくれたら、わがはい幸せなのだ。けっして離れ離れになどなってくれるなよ、わがはいのために。
 むにゃむにゃとシアワセニウムがたっぷり出ている真ん中で、わがはいは悠々と伸びをする。うむ、やはり地上でいちばん素晴らしい生き物たるわがはいこそ、このシアワセニウムのるつぼに棲むにふさわしい。
 お前たちは、これからも、わがはいの下僕に変わりないのだ。シアワセニウムが途絶えることのないよう、わがはいが見ていてやるからな。おまえたち二人を管理する仕事が、あたらしくわがはいの務めゆえに。
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