「どうやら変死が相次いでいるようだ。すまないが、私の勘だけでは何とも言えない。見てきてくれるかな」
神も仏もないこの世界にあって、絶対のものがあるとすれば、産屋敷輝哉ただ一人、それから互いにとっての互いのみであった。
橋本新平と煉獄杏寿郎は、産屋敷邸の最奥にて跪いていた。この世に二つある絶対のうち一つから呼び出しをくらい、残る絶対と共に召喚に応じた。絶対の言うことは絶対である。詳細を聞くまでもなく了承し、しかし詳細がなけりゃ何もできないので、橋本が「任務の詳細をご説明願います」と頭を下げた。
「奇妙な殺され方をした遺体が複数発見されているようだ。包丁で滅多刺しにされたものや、その地では植生しない毒物による毒殺など。どう殴ったらそうなるのかと思うような撲殺であるとかね。どれも人間にできないこともないが、一つの地域に集中して目撃報告が上がっている。これが鬼によるものか、そうでないのかを調査してもらいたい」
「隠の調査では足りない、と? 」
「足りないね。地域が地域なものだから。だので、二人にはすべての根本を調査してほしい。報告書の類は全部まとめてあるから目を通してくれるかな」
「地域が地域?」
「うん。北海道」
「ほ」
二人はすっかりアホの顔のまま思考停止して、何もわからないまま試される北の大地に放り込まれる契約書にサインをしたのにやっと後悔をしたのは、膝下までの積雪に足をつっこんでからのことであった。
***
当時にせよ現代にせよ北方四島だ千島樺太交換条約だ利尻礼文だ細かいことを言い出すとマジでキリがないし死ぬほどデリケートなのだが、北海道という土地はだいたい日本で一番北にあるとこであり、松浦武四郎がそう命名するまでは日本の中で一番遅くまで「蝦夷」と呼ばれた土地であり、現代でも到底人間が住むのに適した土地ではなく、アイヌ以外の人間がそこに住み始めたのは様々な事情で本土で暮らしていけなくなったから、といっても過言ではない。戊辰戦争しかり出稼ぎしかり。
それ以降の世代はクソ大げさに言えば最初に移住した人間どもの被害者である。誰が好き好んでこんな土地住もうと思うかよアホか。マァ道民も他県の例にもれず地元愛めちゃくちゃあるが。閑話休題。
そんなこんなで近年までアイヌ以外の文化がなく、アイヌも口伝の文化であったため記録が残しづらかった土地は、過去二度に渡る戦争で大きく形を変えつつあった。
「歯を食いしばれ杏寿郎。口開けんな。全身の中で筋が弛緩してる場所から冷えて動けなくなるぞ。歯ァ食いしばって全身にバカほど力入れろ。立ってるだけで筋トレできんのが寒冷地の本気だ。ズーズー弁は寒冷地でなるべく口開けねぇで発語できる方に進化してきたからあんななってんだ」
「ほほほほほ炎の呼吸使ってはだめだろうかっ……! 別世界どころか別次元に来た気がするっ……!」
「悪目立ちするからまだだめ。まだ耐えれる」
煉獄と橋本がサインを後悔したのは小樽だった。北の海は荒れがちである。クッソ冷えるしクッソ揺れる船旅であった。二度とやりたくないと思ったが、帰りもあれに揺られて帰るのだなあと下唇を突き出しては、大粒の雪の塊が乗っかる冷たさに引っ込めるのを繰り返している。
北の大地にもある藤の家紋の家までの道中、二人は船中で読んだ報告書の内容を確認しあった。
「奇妙な他殺体が出るのと並行して、奇妙な刺青を入れた人間を探す勢力があるらしい。その少し前、網走監獄で小規模な脱獄があったそうだ」
「あばしりってどこだ」
「この世の果てじゃねえの」
「そうか……。アイヌの文化では刺青をするのだろ。奇妙な刺青はそれとはまた違うらしいが、図面がわからないことにはどれをとって奇妙とするか悩ましいところだな」
「まずァその奇妙な刺青があるやつと接触した方がいいべかな」
「秋田育ちもこれには敵わんか」
「いや質が違えもんよこっちのがアホ寒ぃわ、こんなん頭回るわげね」
思わず方言がこぼれながら、橋本は少々たどたどしく雪道を漕いで歩いた。藤の家紋の家の前までたどり着いてようやく、隣に煉獄がいないことに気付き、振り返って「ああアイツ雪道慣れてねぇんだった」と思った。煉獄はまだ遥か後方で必死に雪道を泳いでいる。
「指がもげる!」
「足袋脱いだら五本ずつ揃ってるか確認しろよ」
「恐ろしいことを言うな!」
「明日はまず冬装備整えるところからやったほうがいいかもな」
「大賛成だ!」
煉獄の足の指はちゃんと揃っていた。普段の倍ゆっくりしっかり湯船で体を温め、夕飯を食ってしまえば二人はすぐさま眠気の波に抗えなくなった。雪道を歩くのはどえらい疲れるもんなのである。
*
「お前もう目立ちすぎるから頭丸めろ。いや待てやめろ絶対許さん俺が解釈違いだ」
「朝から情緒が忙しい男だな」
北のウォール街とも呼ばれた小樽は、ドン引きする規模の鰊漁とそれに伴う金融のやりとり、また本州各地から出稼ぎに来たやん衆の生活を支えるために、札幌なんざ目端にもかからないほど栄えていた街である。マジでアホほど栄えた街であったので、ちょっと歩けば大概のものがあった。二人は冬装備を整えていたが、橋本の情緒が任務と私情の間で安定せず、思っていたより時間をとる形となった。
「中に隊服着るし上っ張りは薄くても案外良かったかもな。動いたら暑くなるやつだ」
「ならんならん絶対ならん、見ろもみあげ凍ってるんだぞ」
「隠せ隠せ目立つから。もみあげは諦めろ。鼻毛よりいいだろが」
「鼻毛って凍るのか!?」
「心配せんでも今晩にでも経験できるぞ。お前の口から鼻毛って単語出てくるのメチャクチャ面白いな」
煉獄はあまりに目立つ蓬髪をまとめて帽子に押し込み、大判の首巻で後頭部から肩のあたりまでをみっちり覆っている。隊服の上に分厚い上着をきっちりと着て、足元は長靴に履き替えた。
橋本は隊服の上に厚手の着流しを一枚足したぐらいで、首巻も特にきつめに巻かれるでもなく普段とちょっと変わったぐらいの風体である。煉獄が信じられないものを見るような顔をするので、「これが雪国育ちじゃい」と額を弾いてやった。
「そうこうしてたら昼じゃないか」
「飯にしよう」
「早くないか? まだ何もしていない気がする」
「お前耳詰まってんのかよ。お前の腹がバカクソ鳴ってんだ」
「北海道特有の地鳴りだと思っていた。俺か!」
「北海道の事なんだと思ってんだよお前はよ」
バカほど栄えた小樽には、言わずもがな飯屋もたくさんある。現代ではカニとかもよく獲れるが、当時はニシンが漁獲の大半を占めていた。住人も人間であるからして、ニシンを使った料理以外も大変豊富な街であるが、新聞にニシン料理のレシピ連載があった程度には消費に困るほど獲れたのかもしれない。
二人は雑な料理屋に入って品書きを睨んだ。初めて来た北海道での外食である。どうせなら美味いものが食いたいが、橋本は味の濃いものが食べたかった。ごり押しされているニシン蕎麦は京都発祥のはずなので、大層上品な味がするに違いない。それもそれでめっちゃ美味いんだろうけど。
橋本が甘露煮か酢締めに悩んでいる間、煉獄もまた品書きを睨んでいたが、ワッと顔を上げて快活な声を出した。
「身欠きニシンってこういう字を書くのか! 磨くほうだとばかり思っていた」
「うっせーバカ喋んな今クッソ悩んでんだ」
地獄の底から出たような声で凄まれ、煉獄はシュンと小さくなったが、すぐに割合小さな声で再びワッと言う。
「るせえなお前脳みそ二秒しかもたねえんか」
「違う違う、今運ばれていったのたぶんニシン蕎麦なんだが、関東風で上に甘露煮が乗っていた」
「ほんとか? 俺それにしよう」
「俺も!」
「せっかくだから違うもん食えよ。んでつまませろ」
「ケチくさい男だな。頼んでしまえばいいものを」
「お前と恋柱様の胃袋がどんだけバカかを教わらなきゃ分からねえらしいな」
軍帽を被った若者のもとへ運ばれていくニシン蕎麦は、確かに濃口醤油っぽい見た目であった。二人は安心して注文を済ませ、空腹を今一度宥めながら椅子に座りなおす。
「どの男だ? 入れ墨のことを探ってるやつは」
自信で自覚するよりも先に、煉獄の右腕を橋本が縫い留めていた。煉獄はとっさのことに抜刀しかけており、橋本の手が柄を押し留めている。
「昼だ」
「鬼ではないだろうが目に余るとは思わんか」
「俺たちは治安装置じゃねえんだよ」
「あれが治安装置と呼べるか!」
そう言う間にも、若者の鬼神のごとき奮戦もむなしく、今は地面に縫い留められ、何度も銃底で顔を殴られている。確かに目に余る。橋本は舌打ちし、煉獄に短く伝える。
「あの兵隊、「入れ墨のことを探ってるやつは」っつった。現状あの軍帽が入れ墨を探ってるやつで、兵隊が入れ墨を探られたくないやつらだ。わかるな」
「わかる。脱獄と軍がどう関わるかはまだ想像できないが、あれが糸口だな」
「いや風穴だ。俺が広げる。風掴んで燃え上がれよ、元炎柱」
気障なセリフを吐いた橋本は、宣言通り風のように席を立った。
*
「そこまで。まだ殺すな」
鶴見は空へ向けて実弾を撃った。足元では若い男が鼻血に溺れかかりながら起き上がっている。一旦無力化するのにここまで必要かと納得も覚えながら、上体を起こした若い男を睥睨して言った。
「私はお前の死神だ。お前の寿命のロウソクは私がいつでも吹き消せるぞ」
「中尉殿ッ!」
部下の鋭い声に目を向ければ、すり減った長靴の底が見えた。首をねじ曲げて避ければ、存外長いらしい足は部下の首元に絡みつき、挙句ヒョイと転がした。
「アジャラカモクレン、テケレッツのパー」
拍手を二回。足の持ち主は余裕のある顔で「あれぇ?」と言いながら鶴見を見た。
「消えねえけど。なんだ人間じゃねえか」
蹴りかかってきた男は、向かってくる軍人の喉元に強すぎず弱すぎずの勢いでテキパキと拳をぶちこみ、その間にも情報を仕入れているようであった。やがて軍人をひととおり無力化した若い男は鶴見を再び見て笑った。
「死神が聞いてあきれるぜ。たかが第七師団の27連隊じゃねえか。軍人が入れ墨探しか? きな臭え」
「ほお面白いな。素性を聞いて教えてくれるものかね?」
「北の果てでオイタしてる奴がいるってんで東京から来たのさ。見てる感じあんたが首魁かな? 話聞かせてもらおうか」
鶴見は笑わないまま若い男を見た。若い男は「ホレ暇じゃねんだからちゃっちゃか動けよ。軍隊はおままごとか?」と両手首を差し出している。
鶴見の予想では、若い男の発言は大半がブラフだ。しかし聞き捨てならない部分も含まれている。お望みどおり連れていき、とっくりと「話を聞いて」から判断しても遅くはあるまい。鶴見は微笑みを顔に戻し、部下を起こして「ご案内しろ」と言った。
「そちらは拘束しろ」
「俺は?」
「お客人に手錠をかけるというのも野蛮ではないかね?」
「マジか。まだ経験したことないから楽しみにしてたのによ」
若い男は手を奇妙にモギモギぷらぷらさせ、ぱたんと下ろす。手持ち無沙汰にしながらおとなしく後をついてきた。北海道の夜は長い。鶴見はこれからのお天道様の下ではできないことに思いをはせながら宿舎への帰路を進む。
多少の寄り道やもしれない。が、今までとこれからを思えば微々たるものであると言い切れた。
***
煉獄は激怒した。必ずや邪知暴虐(仮)の将校を除かねばならぬと決意した。
煉獄には世相がわからぬ。野山に混じりて鬼を狩り、大飯を食らって生きてきた。橋本と深くかかわるようになってやっと日露戦争を意識しはじめたという大バカ野郎である。
とはいえだからこそ、内情を一切知らない人間にしか下せない判断ができる。何より、煉獄がバキギレたのは将校だけでなく、橋本に対してでもあった。
「あの野郎指文字と日英手話全部混ぜて使ったのだな! ちょっと脳みそが間に合わなかったではないか!」
橋本が奇妙にモギモギぷらぷらさせた手振りはすべて日本語手話と英語手話と鬼殺隊独自の指文字を全部まぜこぜにした動作であった。ひどいところは英語手話の身振りをしながら手先だけが指文字になっていた。いくら橋本にとっくりと仕込まれた煉獄であっても、ちょっと追いつかなかった。忘れないうちに同じ身振りを繰り返し、角が生えるかと思うほど強く何度も頭の中で念じながら藤の家紋の屋敷に飛び戻った。
新たな装いになって帰ってきた元柱は、家人の歓待を受けるでもなく借りた部屋に飛び込み、旅道具を全部ひっくり返しては床に這いつくばったまま本と紙を広げた。
小樽までの船旅は端的に言ってクソだった。クッソ揺れるしクッソ冷えたからである。さらに加えて、「小樽って国際港だべ? 俺もお前も英語多少できるけどこっちもできてた方が便利じゃねえの」と渡された英語手話の本を下船までにマスターせよなんて言われれば、クッソ揺れるしクッソ冷える船の中でも必死こいて本を読まねばならなかった。生きていて経験することがないレベルの船酔いと戦いながら暗記をやらされていたので、船旅がクソだったのである。
言われたとおりに煉獄は英語手話を覚えた。ただカンペキではなかった。指文字と日本語手話の一部はわかるし、煉獄がわからない方法で情報を共有するほど橋本の性根が破滅しているわけでもない。
そこまで考えて、煉獄はハタと手を止めた。あいつならやりかねんぞ。
「めげるなしょげるな泣いちゃダメだ。俺を誰だと思っている、煉獄杏寿郎だぞ」
煉獄は自分の頬を平手打ちしてから再び猛然と本にかじりついた。橋本は遺したのなら、俺にできると思ってそうしたのだ。何より、橋本がそうしたのなら、俺にできるということだ。
ドドドと音がするほどの勢いで煉獄は情報を捌く。形容としては間違っていないのだが、実際には煉獄の腹の虫の音であった。部屋にはいつのまにか串団子が置かれていたが、今は食事に割けるリソースがない。煉獄は今頃食べているはずだったニシン蕎麦にすこしだけ思いを馳せながら、ひたすらに手を動かしていた。
*
「兵隊というのは案外なんでもやるものでな」
国際港として開かれて長い函館は、明治の初めごろにいっときか細ったっきり依然として国際港である。しかし北海道はでっかいどう、とはよく言ったもので、いくら函館が一足早く江戸のケツから国際港として栄えていようが、行政の中心は札幌、商売の中心は小樽にあり、渡島半島と呼ばれてはいるものの半島規模に収まらない陸路で往復をするのは時間もコストも手間も危険もそれなりに伴った。
ゆえに小樽は栄えた。海沿いの大きな漁港があり、流通を容易にするための水路があり、国鉄が敷設した手宮鉄道があり、札幌まで多少の山は越えるが約40キロの距離にある。渡島半島を縦断するよりよっぽどマシであるため、経済が集まり、人が集まり、人を支えるための経済がまた生まれた。小樽は特別輸出港として認定もされてしまったため、今や函館にあるのは歴史とイカぐらいである。現代では競馬場と新幹線とラッキーピエロ。小樽には今も昔も大概のものがある。現代ではラウンドワンがない程度である。
鶴見は紅茶を傾けた。団子は先ほど不死身の杉元とともに食べたので今はいい。目の前の若者は「はーキレそ」と言いながら形だけ拘束された手で器用に団子を食べている。お気に召したらしい。
「警邏の真似事のようなこともやっているのだよ。誤解を与えていたらすまない」
「誤解を与えてスマンって詫び俺世界で一番嫌いだぜ。お前が勝手に勘違いしたんだろうがっていってるようなもんだろ。俺のお気持ちは置いといて、さっきの兄ちゃん退役兵だろ? 退役兵殴るのも仕事か。社会不適合者の寄り合いがやるにゃ随分割が良さそうだ」
「随分と頭が切れる! 是非部下に欲しいものだな。出身は?」
「出身地で何がわかんだよ。東京っつったら「やはり」で地方っつったら「傑物」とかしか広げ方ねえだろ」
「頭は切れるが、話は達者でないようだ。惜しいな」
「人を殴る仕事はしたくないもんでね」
若者は語調こそクソヤンキーだが、手つきだけは存外丁寧に団子の串を皿に置いた。口の周りのみたらしを舌先で舐めとりながら「で?」と言う。
「団子分の話は聞かせてもらえるとみていいんだろうな」
「話下手な代わりに面の皮が厚い。いや、人間性がすべて度胸に置き換えられているのか」
「顔面偏差値と人間性と理性が全部理知に回ってる御人に言われてもよ、鶴見中尉」
「どこでその名前を?」
「耳がいいもんで、廊下から。情報将校は異常に狡猾だが部下がガバガバだな」
「貴重なご意見感謝する。さて、君はどこから来たのだったかな?」
若者はニコ! と笑みを作った。
「東京から」
「悪質な占いのような言い方をする。東京のどこかね?」
「中央だよ。予想ついてたんじゃねえの」
「予想はついて.いるとも。我々が思う中央ではないとね」
鶴見は言いながら手遊んでいた団子の串を、おもむろに力強く持った。
「ほお!」
事がすっかり済んでから、鶴見は嬉しそうな声を上げ、手を叩いた。持っていたはずの串は若者の肩のあたりに突き刺さっている。若者の体は先ほどまでより少しだけ傾いでいて、首元を狙うつもりだった串をずらして受けていた。若者は刺さった串を一瞥するでもなく、「あーね」といった顔をしている。
「流石試される大地といったところか、驚きの出会いが多い。いや済まない、先の戦争で前頭葉が吹っ飛んでおる。感情的になりやすいのだよ」
すぐに手当てをさせよう。鶴見が言えば、能面のような男が若者に近づく。若者は手で辞してから、自力で串を引き抜いた。
「お気になさらず。大したケガじゃない」
「困った。ならば大したケガをしてもらうとしよう」
「それは困る。この上着傷つけるわけにはいかねえんだ。何させてえんだよ」
「君を脱がせたい」
「すけべ」
若者は笑いながら首巻を外し、胸元をくつろげて見せた。白い肌の上にはぽつらぽつら薄い傷跡があるが、目立って色濃いものは見当たらない。
「入れ墨を疑っておいでならそりゃ残念。綺麗たぁいかねえがまっちろだぜ」
「いや、目的はそちらではない」
鶴見が言うや否や、能面の男が若者の首を腕で固め、残った手でくつろげていた着物を引っぺがす。若者は「あらら」といった顔立ちであった。真っ黒で奇妙な意匠の詰襟を見て、鶴見は目をぎょろりと剥いた。
「なるほど! 中央と言うのもあながち謀りばかりではないらしい!」
「すけべ」
「この詰襟! 何度か報告を目にしている! 日本刀を引っ提げて野山を飛び回る集団がいるそうではないか!」
「寒い」
「君がそうかね! 素晴らしいな! 驚きの出会いが多い日だ!」
「おたくさん上司大丈夫?」
「……」
能面の男が歯茎に力を入れたのが見えて、若者は見りゃわかること聞くもんじゃなかったなと反省した。そりゃ大丈夫なわけがないのだ。
若者の納得と諦観もそっちのけ、鶴見は歯を剝きだして語る。
「果然部下として迎えたいものだ。何でも「詰襟」は人間離れした身体能力で飛び回るとか。その力、是非我が元で役立ててはくれないかね」
「褒賞は? 誇りとかだけで飯が食えるほど甘くないのはおたくさんらが一番よく知ってるんじゃねえの」
「土地と金、加えて誇りだ。何、諸君らがやっている仕事と大した変わらん」
若者はわずかに下唇に力を入れた。現状「詰襟」の集団は自分たちを秘匿された存在だと思い込んでいるらしいが、中央の金の流れを探れば決して少なくはない金額がどこかへ流れていることなど火を見るより明らかである。
「どうかね?」
「柱になればぁ? 言えば言っただけ褒賞出るって話だぞ。忙しすぎて家に帰らんことが多いから豪邸建てても立ち入ったことすらない部屋のほうが多いそうだが」
「役職があるのかね。しかし些事だ。諸君らの職務よりも危険は少なく、手に入る土地も金も比にならんほど多い」
「国外に飛び出す気か? この時勢で」
「この時勢だからこそだ。我々の目的は戦友の眠る満州を日本国にすることに他ならない」
「フランスあたりが黙ってないんじゃねえの。二度の戦争でクッソ疲弊してるこの国にもう一度戦争させるつもりか?」
「必要とあらば何度でも」
若者は黙った。鶴見の顔を見たまま黙りこくり、一瞬だけ下を見てからニコ、と笑った。
「全員死ねよバカが」
「いい返事だ!」
鶴見もまた笑った。能面の男に目配せすると、目の前に奇妙な機械が置かれた。
腕を固定するベルトとシーソーの先に何かをはめこむような金具がついたそれは、自分で自分の爪を剥がさせる拷問道具であった。若者か「いい趣味!」と笑う。
「しかしちょっと聞き取りづらかったな。これで少々発声練習をするといい。戻ってきたときにもう一度答えを聞こう。ああ、名前もその時に教えてくれたまえ」
言いながら退室しようと席を立った鶴見が言い終わる前に、叩きつける音がした。若者が能面の男の拘束を振り払い、いそいそと次の爪に器具を取り付けている。近くには剥がれた爪がすでに転がっていた。
「全部剥がしゃ追加で話が聴けるってこと?」
「……待てができない悪い子はおあずけだ」
「ひでえ人。すっかりその気にさせておいて」
「つくづく面白い男だな。先に名前を聞いておこうか」
「橋本平蔵」
「噓つきの悪い子もおあずけだ」
鶴見は部屋を出た。ドアの向こうからは着々と爪を剥ぐ音が聞こえる。このままではものの数分で両手分が完了してしまいそうだ。鶴見は「おかわり」の算段を立てながら部屋を後にした。
***
やっと手話が解読できたと思ったら外が真っ暗だった。
北海道は緯度が高いので冬の日没も早い。十五時を過ぎるともうほの暗く、明け方七時まで日が昇らない魔の日照欠乏地域である。煉獄は「こんなはずではなかった」と顔を真っ白にし、いつの間にか山と供えられていた飯を片っ端から腹に収めて街に出た。
橋本からの手話は、「鴉飛ばして本部に「金の流れ全部止めるか全部マジ隠ししろ、さもなきゃ専用通貨作れ」って伝えろ」であった。ぱっと見軍人らしい死神の男は知恵者であるらしく、またそういった人材はこちらが想定しえない断片から核心まで一気通貫したりもする。鬼殺隊が曲がりなりにも政府非公認の組織であるのに、存在を軍人に感知されるのはヤバかろう。まして今回の任務にあって重要かつヤバそうな男にとあれば、橋本が多少時間をかけてでも煉獄にそう伝えたのは頷けた。きっと橋本は今身を賭して時間を稼いでいる。
煉獄は要を呼ぶと「長旅で済まない、途中で中継しながらでいいが爆速で伝えてくれ」と南へ飛ばした。800キロほどの旅路になる。無事を願わずにはいられなかった。あれもこれも。
「俺もただ待つだけではいられんな。あのガ……キというには俺の方が年下だし、ジ……ジイの年でもない、おっさんもまだ早いか……」
思いつく限りの罵倒を呟きながら雪明りを頼りに夜道を歩く。幻想的なガス灯なんぞが整備されていたのは町中ばっかりで、ちょっと奥まったところまで行けばそんな手間も金もかかるもん設置なぞされちゃあいなかった。反して売るほどある積雪はかすかな明かりも反射するので、でかい月ひとつ天にあれば雪国の冬は大体で歩ける。歩けないのは暴風雪の夜くらいなもんである。マジで死ぬからやめた方がいい。歴史がそれを何度も証明している。
月明りと雪明りばかりの小樽で、煉獄の視界の端にちろりと光るものが遠目に見えた。鳥除けのような目玉で見れば、それは大きな白い狼のように見える。橋本が言うには絶滅したとかじゃなかったか。ははー、とか思いながらまじまじ見ていると、狼は翻るようにして消えていった。
「……アイヌは狼を従える文化が?」
返事はなかった。
見間違いでなければ、狼の近くには少女のような影があった。あれは文化なのかたまたまそうなのか、訊けば返してくれる男が隣にいないのがどうにも塩梅が悪くて、煉獄は一度唇をムギュ、と歪めてから再び歩き出した。
目指すはこの街、この時間でもまだ人通りがある場所。歓楽街である。
橋本が残したカギは第七師団、27連隊、情報将校らしい人物が首魁であること。入れ墨を探されたくない勢力、かつ警邏の真似事ができるときた。煉獄は客引きをしている大男に声をかけた。数日前に殴られた跡が顔にあった。
「なんだなんだ、最近やけに人気じゃねえか。入れ墨のヤツか、それを探すやつってんだろ?」
「む。いや、うん。うん?」
存外先を越す勢力がいたらしい。「今日は聞いてねえが、例の店に行ってみっかい」と促されたので、煉獄は大人しく従うことにした。銃を扱う手合いとは柱になる前に一度戦っているし、いくら最強の第七師団とて呼吸の使えない人間であるなら煉獄に分があると思えた。
そうして案内された店のすこし手前で、煉獄は足を止めた。大男にも「ここまででいい」と話をつけて帰らせる。
「今日はなるべく屋内にいたほうがいいだろう」
「そんなヤワに見えるかい」
「ああ」
「そうかい……」
男は心当たりがあったようで、不服そうな顔をしながらもすごすごと帰っていった。
さて、煉獄が男を叩き帰したのには理由がある。人ならざるものの気配がしたからだ。
すっかり日も落ちた小樽の銘酒屋街は薄暗く、鬼にとっても格好の狩場であると言える。しかし、慣れ切った鬼のそれとも違う気配に煉獄は警戒し、気温よりも冷え冷えとした目でキリキリと周囲を見た。ひとまずの安全確保ができてから、高いところへ上がる。高所から見下ろして周囲を確認し、次に別の高所を探して再度索敵を行う。すべて橋本から教わったことだった。
「気配はあちらか……?」
当て勘であったが、これが馬鹿にならない。煉獄は人ならざるものの気配の濃い方へ足を向けた。橋本の救出も急がねばならないが、ただの人間にやられる程度ならそもそも連れ立って北海道まで来てはいなかった。無事を祈りながら、奇怪な殺人の原因が鬼かどうかをまず探らねばならなかった。
煉獄は風のように走った。建物から建物へひらりひらりと飛び移り、足音もしないような速さで駆けた。
そんな煉獄の眼前に、ふと何かが飛び出した。人や生き物ではないのを本能で判断し、反射で斬り落としてしまえば、それは矢であった。
「これは?」
「捕まえてくれッ!」
鋭い声に弾かれて見れば、男がこちらへ駆けてきていた。男は必死の形相で何かから逃げているが、よもや鬼が矢を斬り落とした相手に「捕まえてくれ」と頼むならクソバカにも程がある。向かってくる男が鬼なら斬ればいいし、声をあげた方が鬼ならそれも斬ればいい。結局のところ、いくら仕込まれようが煉獄も大概脳筋であった。
むん、の一声で煉獄は男をふん捕まえ、すぐさま声のした方を見た。
「おお、なるほど!」
そして大体ざっとほとんどのことを理解した。
声のした方、建物の屋根の下にはアイヌの少女がいて、少女の傍らには大きな犬がいた。煉獄が知覚していた「人ならざるものの気配」とは、この規格外の大型犬に他ならなかった。
「これでよかったろうか? あ! すまない日本語は通じるだろうか!? いや先ほど日本語で話しかけられたのだった! 重ねてすまない!」
「シ……シライシー!! ホロケゥカムイの追跡から逃げられると思うな!」
「でっかいワンちゃんさっきビビリ散らかしてたじゃあん!!」
「シライシィーーーッ!」
ボケの渋滞である。比較的のっぴきならない事情があるらしい少女が一足先に我に返った。促されるまま男を抱えたまま煉獄が地に降りると、少女は「ありがとう」と言った。
「シライシ、協力してもらうぞ。杉元を助ける」
「つったって第七師団でしょ? まだ無事かねえ。無事じゃあないと思うけど」
「む、第七師団? 俺の行先も同じだ。連れが捕まっている」
「なんだと?」
互いに詳しいすり合わせをすれば、どうやら昼間しこたま殴られていた若者が少女の探す「杉元」であるらしい。少女には策があるらしく、軍人なんぞ目端にもかからんとはいえあくまで「政府非公認」の鬼殺隊に属する煉獄からすれば、忍び込んで救出する手があるならそれでやるに越したことはなかった。
「協力してはくれないだろうか? 多少の戦力にはなれる」
煉獄が言うと、少女は悩んだようだった。和人の言うことをどこまで信じるべきか。この和人は信じられるか否か。きゅ、と下唇を引き締めて、少女は隣に座る狼を見た。
狼——レタラは、聡明で強いエゾオオカミで、クマどころか猟師にも平然と立ち向かっていく勇敢なホロケゥカムイであった。しかし今は、目の前のぐるぐる目玉の男へビタリと警戒を貼り付け、何かあれば逃げ出せる体勢を崩さない。白石を捕まえたのもこの男だったが、レタラは逃げる白石を見ながら、耳だけを違う方へ向け、そして止まった。
この男、レタラを止まらせるほどの気を持っている。気を持つものは、それだけの戦場を渡ってきた者だ。少女は知っていた。助け出そうとしている杉元がそうだから。
「わかった。杉元を助けるまで協力しよう」
「うむ、よろしく頼む。俺は煉獄杏寿郎だ」
「アシリパ。この子はレタラ、こっちの役立たずは白石だ」
レタラを紹介された煉獄は、手を握りこぶしにしたままレタラの鼻先へ向ける。レタラは慎重ににおいを嗅ぎ、やがて「フン」と息を吐いた。なんとか納得はしてくれたようだった。
***
第七師団の一番長い夜は、今晩ではなかったはずだ。
月島基は鉄面皮を一切崩さず、しかしその中ではひどくゲンナリしながら廊下を進んだ。
二階堂兄弟と杉元はとりあえず引き離した。いくらあの兄弟とて、鶴見中尉の指示なら従うはずである。ここで「間違いなく従う」と言い切れないのが月島の悩みの種であった。
もうひとつの懸念は、ひどく横暴な招かれざる客だ。月島は部屋のドアを開け、すぐに閉めたくなる気持ちを必死にこらえながら中へ入った。
「これダメだぜ、足の爪に金具が噛まねえ」
簡素な机に似合わない拷問器具の周りには、大小さまざまな花びらが落ちている。ふふ風情だな。そんなわけあるか冬の北海道だ、こんな時期に咲く花などあるものか。花弁はすっかり剥がされた爪であった。橋本平蔵を名乗った若者は、ものの数分で両手の爪を剥がし終え、「終わったけどおかわりは?」と言うので「とりあえず足の爪でもやっていろ」と残してしばらく放置したのだった。
「見張りのヤツに釘抜きとかやっとことか持ってきてもらってな、ほら数えろ二十あるぞ」
「手当は受けたのか?」
「受けてねえし、そうなったとして断るよ。手間だろ。手当するなら最初からこんなことやるな」
「生爪ないまま靴履いたのか?」
「そこに関してはちょっと痛い」
月島は溜息を細く鼻から吐いた。ちょっとどころじゃなく規格外の人間をまんまと拾ってしまった。
若者は「やれっていわれたこと全部やったけど?」の顔をしている。月島はこの顔に対して「で?」ができない男であった。溜息の最後を吐ききって言う。
「本名を言うまで何にも応じるなとの指示を受けている」
「何をして本名じゃねえってんだ。こんな拷問器具出されながら名前聞かれて本名以外をぱっと答えられるものかよ」
鏡を持ってきてやろうかと思った。平然と生爪二枚引っぺがして、おねだりまでしてみせてから答えた名前のどこに信ぴょう性などあるものか。
加えて、月島は心当たりがあった。若者が答えた名前は「橋本平蔵」だった。
「橋本平蔵、といったか」
「おう」
「ご子息は元気にしているか? 今であればちょうどお前ほどの歳だろう」
「……ははァ、下手こいたわけだ」
「宗谷沖の後によく聞かされた。お前は誰だ?」
「よかろうよかろう、これは俺がマズったよ。俺の名前は橋本新平だ。橋本平蔵の息子だよ」
「北海道まで来て何をしている?」
「勤め先から辞令が出てよ。北の果てでオイタしてる連中がいるから調べといでってな」
「……わかった」
若者――橋本は、「ちぇ」の顔をしながら、それでもまだ笑っていた。月島は一度部屋を退室し、鶴見に「本名を吐きました」と伝えた。
「やはり偽名でした。息子とのことです」
「橋本平蔵、彼は実に腕のいい狙撃手だったからな。面立ちや気骨が似ていても、ああも若ければ本人ではあるまいよ」
鶴見は楽しそうに笑って、橋本を拘留している部屋へ向かう。劇画のような素振りでドアを開ければ、橋本はやっとこを手遊びながら待っていた。
「いい子で待ってたぜ」
「褒美をやらねばな」
鶴見は橋本の正面に座って足を組み、指を組んだ。橋本も余裕を崩さない。交渉ごとはチキった方の負けである。
「我々の目的は、友の眠る満州を日本国にすることだ。そのために、アイヌの隠した金塊を見つける」
「アイヌの金塊? ……入れ墨か」
「賢い子は好きだ」
鶴見の口から発せられた入れ墨争奪戦の真実は、荒唐無稽かつ非常にロジカルで、伝統と革新の闇鍋であった。味が濃い。橋本は水が欲しくなった。
「また賢い奴がいたな。それ絶対教育入ってるだろ」
「我々もそう睨んでいる」
「で? 教えたってことは俺に何か言わせたいことがあるだろ」
「物覚えが悪い子かな?」
「仲間になれってやつね」
「もう一度答えを聞こうか。御父上を壊した奉天を日本国にできるのだよ」
鶴見は不倶戴天のタラシである。愛と情と手当で仲間にできなかったものはいなかった。鶴見は橋本の眼鏡の下、薄くクマのはりつく瞼を撫ぜようと手を伸ばした。
飛沫は血であった。橋本は未だ乾かない手で瞬きの内に鶴見の手を払い落とし、一財合切情状酌量のない声と顔で言った。
「眼鏡に触るな」
鶴見は額当てに飛んだ血を拭いもせず、こちらも情状酌量のない顔で言う。
「お願いして聞けない子にはそれ相応の態度を取るというものだ」
「おままごとで偉そうにしゃしゃんな」
橋本の言葉はそれまでだった。普段であればあと五倍は続く憎まれ口が続かなかった。鶴見が橋本の左腿を撃ち抜いたからである。
橋本は「ふーん」と口の中だけで言った。特に感慨はない。腰より上じゃなくてよかったなあ、とか、こんだけ言っても腰より上撃たねえんだなあ、とか、そんなもんだった。
「随分と頑なだ。君の属する組織の教育はよほどいいと見える」
「絶対組織を裏切らない奴がいる。そいつ、下手すりゃ組織より俺の事信じてっから、そいつ差し置いて俺が組織を裏切れねえんだよ」
「いいことを聞いた。そのご友人の名前は? 」
「ヒクイドリ。いやクジャクかな。キンケイか。不死鳥かも」
鶴見は右腿にも一発くれてやってから立ち上がる。その様を見た月島がドアの向こうとやり取りをしている間、橋本はクツクツと笑った。おかしくて仕方がないふうである。鶴見は橋本がまだ秘匿まみれなのを今一度知覚し、思考を巡らせる。
「今晩は突風が吹くぜ。火事と江戸っ子には気をつけな」
やけにカラスの鳴く夜であった。
***
「なもみの声だ」
「なんて?」
「なもみ。橋本の烏だ」
夜闇にあってよく利く煉獄のぐるぐる目玉は、闇の中から一羽の烏を見つけた。橋本の鎹烏である。
「入れ墨は人の皮、入れ墨は人の皮。アイヌの隠した埋蔵金の地図」
「なんと」
「喋ったッ!?」
アシリパが飛び上がりながら叫び、すぐさま口を覆って辺りを見回す。白石も「シィーーーッ!」と口の前に指を立てた。今三人と一匹と一羽がいるのはおそらく杉元と橋本が拘留されている建物の前である。煉獄の案でレタラは少し遠い場所で待機させておくことにした。何かあればアシリパが鹿笛を吹く手筈になっている。
「私たちと第七師団が追っているのは、各地のアイヌが集めた金だ。一人の男が各地方の首長をみんな殺して隠してしまった。その一人は網走監獄にいて、囚人たちに入れ墨を彫ってそのありかを外に伝えようとしている」
「俺の背中にもあるんだぜ。おかげで銭湯にも気軽に行けないし、探し回られたら足がついちゃうから遊郭も存分に遊べない」
「ツッコミどころが多いな! 脱獄をしたのか」
「脱獄王たぁ俺のことよ。この俺に抜けられない獄はないぜ」
「だから杉元を助けるのに使うんだ」
アシリパの目は、じゃなきゃ誰が好き好んで、と雄弁だ。
よいしょお、と呑気な声がしたな、と思えば、白石の肩がボコンと外れた。
「ほお!?」
「これ俺の特技ね。なんか石鹸とかなぁい?」
「熊の脂があるぞ」
「くまぁ……」
褌だけになった白石が脂でヌタヌタになっているさまを、煉獄は随分細目で見た。べつに汚いわけではないが、無性に橋本の顔が見たい。褒美になり得ないタイプの肉体であった。
じゃあ行ってくるよー、と呑気な声の後に、寒空のしたには煉獄とアシリパが残された。互いに互いが懸想する人間の無事を祈っているが、お仕着せのヒロイン像でケツを拭く二人である。そも煉獄に至ってはヒロインですらない。二人はヒタリと耳を澄ませて中の状況を探った。
「いや待て俺は待ってる場合ではないのでは?」
「そうだお前は待ってる場合じゃないんじゃないか?」
「全くもってその通りだ、俺も行こう。成功を祈っている」
「作戦はあるのか?」
「特にないが何とかなるだろう。軍人ごときに負けるような鍛え方はしておらん。変装もしているし」
「無事に戻って合流できたら、杉元をストゥで殴るところを見せてやる」
「うむ。一発殴ってやると良い。橋本にも頼む」
再会を約束してアシリパと別れた煉獄のもとに、何かを持ったなもみが戻ってきた。
橋本の眼鏡と生爪であった。
「……ほう?」
熱波のごとき殺気が惜しげもなくばら撒かれ、遠く離れた馬舎にいるだろう馬たちの声が聞こえる。これではいけない、レタラが動けなくなってはアシリパの足がなくなってしまう、そうは思いつつもこれは昼から今まで必死にこらえてきたものであった。ダムの決壊を、いくら柱とて一人では止められなかった。
燃え滾る。ごうごううねり、グツグツと沸く音がする。煉獄は橋本との約束を一つ破った。曰く、「目立つから人のいるところでは呼吸を使わない」と。ごうごう、と感じられるのは脈動が怒りを運ぶ音でもあり、実際に惜しげもなくフル回転で繰り返される炎の呼吸の音でもあった。
真冬の小樽は北海道の中では比較的冷え込まない地域、とはいえ時は真夜中、草木も凍る氷点下である。その只中に、まさしく血の代わりに溶岩でも流しているかと思うほどにぼうぼうと息を吐く男が、最も地表に近い月を手にして立つ。日輪刀の刃は天体としての月の光を受け、また持ち主の意志に応えるように一層赤々と燃えた。
「ああすまないな、お前も心配だろう。辛い役回りをさせてしまった」
どこを見ているかわからない目でぎらりと兵舎を見たまま、煉獄は中空に手を差し出した。なもみは落ち込んだ様子でその腕に停まる。主人の生爪を運ばされたのだ。心境はいかばかりか。
なもみ、とは、秋田の方言で「怠けて火にあたった脛などにできる火だこ」を指す。橋本は「たぶんめちゃくちゃ働かせちまうから、名前だけでもボヤっとしたのにしてやろうかと思って」と申し訳なさそうに由来を話したこともあった。
秋田生まれ秋田育ちの橋本は、地元の奇習に誇りを持っている。本人は山育ちであるので平地や日本海沿岸の奇習は馴染みがないはずだが、それでも「秋田にはこんなのがあってよ」とたまに嬉しそうに話すのが煉獄はわりとかなり好きであった。
「ここを間違うとあいつものすごく怒るものな。行こうか、なもみを剥ぐぞ」
炎の蓬髪を押し込んでいた帽子を脱ぎ捨て、煉獄は踏み出した。昨夜教わった雪道の歩き方ではなく、一歩ごとにガツン、ガツンとかかとの骨を踏み鳴らし、ぐいぐい肩で風を切って歩く。
間違えると橋本がものすごく怒るものはいくつかあるが、ここでは「なまはげは鬼ではない」だった。彼らは大晦日になもみを剥ぎに来るからなまはげなのである。労働基準監督署のチェックみたいなものだ。酒食のもてなしを受けながら「この一年よく働いでらっだか」と目を光らせ、ぐうたらしていた者からはなもみを剥ぎ取る。
ビジュアルと素振りに騙されがちであるが、なまはげは来訪神である。AKBグループが週末合えるアイドルであるならば、なまはげは年末会いに来てくれる神に他ならない。橋本は自身が鬼殺隊員なのも相まって、なまはげって鬼じゃないのかなんて言おう日には刀鍛冶の里に地獄の窯のふたを発注しようかと思うほどに機嫌が悪くなる。
今度は間違えない。煉獄は重ね着でふくれ、蓬髪をなびかせ、刀を手に鬼の形相で歩く。橋本が見れば「やり直せ」と言うだろうが、傍目に見れば十二分に来訪神としてのなまはげの姿であった。炎の呼吸で息を目いっぱい吸い、いざ行かん鬼が島。橋本が言うところの「ホジナシ」どものなもみ、全て剥ぎ取ってくれる。
「悪り子ァ居ねがア!!!」
***
方言を直すというのは非常に骨が折れる作業であり、間違ったときバカにせず正しい標準語を教えてくれる友人か恩師が必要不可欠である。そも標準語とかいう線引きが馬鹿らしいし、生まれついた土地で覚えた言語に勝る使い勝手なんてものはない。橋本はそう思う。
月島の流暢な言葉遣いは、マなんつうか流暢すぎるんだよなあ。橋本は上唇をチロっと舐めて口を開いた。
「おい外に出してる兵士中にしまえ。今日だけでいいぞ」
「……なぜ?」
「鬼が出るかも」
「……居らんだろう、そんなもの」
「見たことない? けっこうありふれてると思ってたけど」
「見たことは、あるな。地元の催し物でだが」
「ははあ。……佐渡か?」
こちらを見ずに話していた月島が振り返る。橋本は「ケケ」と笑った。
「上から全部試していこうと思ったけど案外早かったな」
「秋田にも似たようなのあるだろう」
「あれは鬼じゃねえんだよ」
「佐渡のは鬼だ」
「細かいこと言や違えが、その顔見りゃそうだろうなとは思う」
月島は依然として鉄面皮を崩さなかった。鶴見の手を払いのけた後に両手は椅子の後ろで拘束されている。そろそろ座りつかれたらしく妙な前傾姿勢になったまま、橋本はニコ、と笑った。
「覚えとくといいぜ。烏の鳴く夜は鬼が出るから屋内にいろ。詰襟に手を出したらなまはげが来るから諦めてスネ出しな」
風が窓にぶつかっては流れていく。ごうごう鳴る夜嵐は、招かれざる客をもう一人連れてきた。
外から聞こえた地割れのような大音声に、兵舎全体が厳戒態勢となる。月島が部屋を飛び出していく後ろで、橋本はゲラゲラと笑った。これじゃどちらが鬼だか分りゃしない。
さて残された橋本は、実に耳馴染みのある炎の呼吸音が面白おかしくって仕方なかった。また生えてくるもんであそこまでキレるもんかね。きひひ。橋本はあの現人神が人間に対してああまでバチギレているさまを思ってしばらく笑い、やがて満足したように息を吐いて、難なく後ろ手にかけられた縄を引きちぎった。こちらも腐っても人格がゴミでも階級乙の歴戦の隊士である。隠密が絡みさえしなければこの程度は造作もない。経験と性悪のなせる業である。
「やれやれ、そよ風吹かせたつもりが山火事に竜巻ぶつけちまった。消火してやらんと、小樽にでけえ湖ができちまう」
方々に死ぬほど怒られそうな発言であった。少なくとも裁判は免れまい。橋本はさすがにそこまでのことはできんべ、と杏寿郎ならやってもおかしくないかもしれない、の間で苦悩を楽しみながら、静かな湖面のようにドアの前で息をひそめた。
招かれざる客は、どうやら一人だ。唸り声がここまで聞こえてくる。ならば玄関まではそんなに離れていないかな、と思ってすぐにやめた。アイツ「うまい」の一声でガラス割れる男だった。
折よくドアの前を通りがかる兵士がいる。橋本は恐ろしく長い両腕でこれを捕まえ、無音のまま部屋に引きずり込んだ。カマキリである。
「静かにしろ、抵抗するな。こちとら両手両足の爪がねえんだ。力込めさすなよ」
兵士を引き倒し胸の上に乗り上げ、両膝で二の腕に重しをして動きを止めながら、片手は念のため口と鼻をふさぎ、残った手で首の頸動脈を押さえる。最初こそバコバコ指を押し返していたが、しばらく押し込んでいればトクトク優しい脈拍になった。気を失った兵士から身ぐるみ一式と黒い手袋を横領し、さも「俺も突然のことで何をしていいやらわかりません」の顔で廊下に出る。
煉獄が祭りを引っ掻き回している間に、なるべく多く情報を吞み込まねばならなかった。手ごろな部屋に飛び込み、うっかり兵士がいれば「応援を頼む!」と叫んですぐに逃げるを繰り返す。無人であれば手早く漁り、それらしいものがないかを探し回った。
鶴見から聞かされた入れ墨人皮争奪戦のあらましをまるっと報告してしまえばそれでいいのだが、情報中毒かつ好奇心のバケモノはここじゃあ止まれやしなかった。何とかして鶴見の部屋を探し出し、洗いざらいパクってやりたい。これにはシンプルに私怨も混ざっている。橋本は自分が食えないと思った人間は殊更あんまり好きじゃなかった。
しかし急いで煉獄を連れてここから離れねばならないのもメチャクチャに理解している。いくら最強の第七師団とはいえ小隊程度に奇習をかけて負けるならば鬼殺隊の柱なんてそんなもん程度だが、いくら奇習とはいえ相手は軍人である。標準装備が三十年式歩兵銃だ。煉獄が以前会敵した下弦の弐が使っていたのは五十年ほど前の後装単発銃が主だったが、戊辰戦争から五十年の間に西南戦争も含めればこの国は三度戦争をしていて、兵器の進歩も目覚ましい。なにより下弦の弐との戦闘で後装単発銃相手に結構ボロボロになったとも聞いているので、間違ってもそんな怪我させてやるものかといった気持ちもある。
橋本は一室に飛び込み、書き物机の中を全部床にぶちまけてざっと見た。その中に、目を縫い留められたものがある。周辺の書類とまとめて引っ掴んで胸元に押し込み、今日はこれまで、と部屋を後にした。
「うおッ!?」
「おわ」
曲がり角の先から驚きの声が上がり、橋本は思わず足を止めた。しゃんとしていれば嫌われはしなそうな顔の兵士が、重そうに油を運んでいる。兵士はものすごく焦った顔をして、「杉元佐一はどこにいる?」と訊いてきた。
「杉元佐一がここに? どんな風貌だ」
「尻尾みてえに饒舌なマフラー巻いた、顔にサの字の傷がある男だ」
橋本はあんまりにもびっくりしちまって、しばしキョトンとしてしまった。あの蕎麦屋の前でボコられていた若者が、まさか父から聞いた日露戦争の英雄杉元佐一だとは。橋本はすぐに頭を切り替えて「お前師団の人間じゃねえな」と聞き返した。
「アホ呑気お祭り頭野郎見てねえか? 金と赤の混じった蓬髪でバカなんだが」
「お、お前煉獄ってヤツの仲間?」
「あいつ名乗ったのか……見たんだな?」
「たぶん今下で大暴れしてるのがそうだ。動きやすくて仕方がねえぜ。俺とそいつともう一人、外にアイヌの娘っ子がいる。杉元とアンタを助けるのに手を組んでるんだ」
「随分大所帯だ。助かるが管理が大変だな。火ィつけようってんだろ? 杉元佐一の心配だけしてればいい」
「連れ合い巻き込んで平気なのか?」
「あいつが火で死ぬことがあったら一生笑うさ」
橋本は兵士――白石と話しながらも情報を集める。思っていたより銃声がない。屋内戦に加えて集団戦ならば誤射を恐れて使わないのは理解できるが、訓練された兵士たちがいくら煉獄一人とはいえ組織だった行動をできなくなるものだろうか。橋本は二つばかし仮説を立て、白石に作戦を伝える。
「杉元佐一を探してくる。確保するか、脱出が確認でき次第合図するから、それまで火を放つ用意をしててくれ」
「いざ見つかってダメかもってなったらやっちまうぜ。なんたって俺たちが探してるのは不死身の杉元だ。火事で死ぬなら不死身も大言壮語だったってことさ」
「ハハ、違いねえ。いいぜ」
「ところで合図って?」
「地揺れ」
「ええ〜……?」
マジで? の顔の白石にひらり手を振って、橋本は階下へ急ぐ。その道中にも、まだ建物の構造を把握しきれていないとはいえ、自分ならここに指揮所を置くだろう場所も鶴見の不在を確認しながら。結局火事場に着くまで鶴見どころか月島の姿も見かけなかった。どこか別の場所にいる? ならばそれはどこだ。なぜ行った。煉獄が大暴れしているってのに。
通りがかった部屋の前で、兵士が大急ぎで片づけをしていた。遺体である。橋本は「おい! いったん置いて階下に応援を頼む!」と言いながら死体の顔を見た。
こいつ、蕎麦屋の前にいた双子の片方か。特徴的な鷲鼻を確認し、次いで腹を見た。内臓がない。
「こいつは俺が預かるから行け! すぐに後を追う!」
「わかった!」
兵士から遺体を預かった橋本は、遺体をその場に、なるべく丁寧に寝かせた。開きっぱなしの瞼を閉じてやり、唱える。
「これより後の世に産まれて良い音聞け」
橋本が他人に対して本音の情を見せたのは、今日初にしてこれが最後だった。息を吐き切るといつもの無の顔になり、銃剣を横領して用は済んだと部屋を後にする。
ちょっと寄り道して辿り着いた火事場は、思ったよりもひどい有り様だった。
「俺たちが必死になってお前たちを護ろうと日々日夜年中無休終日稼働で戦っているのに何だこの体たらくは! 内ゲバをするな! 勝手に減るな! 人殺しをしてほしくて護っているわけではないぞ! 人を殺めた人間は助けないなんて真似も誓ってしないが!」
「止まれ! 止まらんぞこの男!」
「サスマタ持ってこい!」
「ぐああ脛が!」
「生きがいが欲しければ鬼殺隊の門を叩くがいい! 埋蔵金!? あるかもわからない物を探して人を傷つけるなら柱になれ! 人を護ってもらった金で飯を食わないか! ああ軍人ってあんまり好きじゃない! 人間を殺すために命を軽々しく捨てるな本当に! 俺たちが何のために戦っていると思っている! お前たちのためだぞ! 捨てさせるために助けた命じゃない!」
「カッハハハハハハハ全開だ!」
思わず吹き出して笑った。煉獄は想像以上にバチギレの顔をしながら、日輪刀と鞘を両手に持ち、鞘と峰で向かってくる兵士の脛という脛を全力でブッ叩いていた。煉獄の足元には足の関節が増えたり増えてなかったりする兵士たちが呻き、時折「邪魔くさい大人しくしていろ!」と怒号が飛ぶ。邪魔も何もそうさせたのはお前だし、説教の内容が全部ブーメランになって帰ってきているのがシュール極まりない。
「おーい杏寿郎、死神見なかったか?」
「橋本!! 無事か! いや見たぞ無事ではないなお前! ほんっ……お前!!」
「バーカバーカ、ありゃ俺の爪じゃねえよ勘違いしやがって脳みそつんつるてん! 死神は!?」
「さっきどっか出て行った!!」
「あっそ!」
せっかくの変装も形無し、爆笑しながら話していれば橋本が師団兵ではないのはすぐにバレた。お前もかと向かってくる兵士をてきぱき捌きながら、じゃあ合図するかと頃合いを見る。
「んぎっ」
短い呻きだった。橋本が弾かれるように見れば、煉獄の足元で呻いていた兵士が腰の銃剣で煉獄に一太刀報いていた。傍目にも経験的にもなんてことはない傷である。実際煉獄はすぐさま鞘で兵士の手の甲を全治半年にしていた。
が、ここにきて橋本はやっと笑いをひっこめた。何にも笑い事じゃない。なぜって煉獄が流血したからである。行き当たりばったりに思いついた策とはいえ、煉獄には本部との情報の仲介のみをさせるつもりであった。自分が見つけてきた情報を鎹烏で煉獄に伝え、それを精査して産屋敷邸に伝えてくれればそれ以上は求めなかったのである。探しにきたなと思ったときは笑ったが、手傷を受けたとなれば話は別である。
獣の喉鳴りのような音であった。恐竜の唸りのような音であった。うねる大海のようであり、天地鳴動の先触れのような音であった。
「おーい杏寿郎」
「何だ! お前許さんぞ! その呼吸は使わない約束だろう!」
「死ぬなよ」
「お前ってどうしてそう短絡的なのだ!」
一瞬の無音があり、すぐさまこの世の果ての音がした。亀裂、爆散、崩落、破損、悲鳴、慄き、その他もろもろ好ましくないとされるこの世の音見本市である。
その夜、決して少なくはない人数が凍てつく間欠泉が噴き出すのを幻視し、その後少し大規模な火事が出るのを見たという。
***
「ぐあ!」
伸びやかな悲鳴であった。煉獄はアシリパから借りたストゥを手に、ここ数日で一番の笑みを浮かべた。
「いい振りだ」
「ありがとう。鍛えているのでな」
「おま……お前その棒なんなんだよ……」
「ストゥというアイヌの制裁棒だそうだ。乱用は許されていない」
「乱用だろ」
「乱用じゃない」
「二発も殴ってそれは面の皮がヤバいぞ」
「乱用じゃない!」
「うるさい! 追手が来てたらどうするんだ!」
小樽から少し離れた山中に一行はいた。あの後無事に兵舎を焼き払い、杉元も無事アシリパから一撃を食らったらしい。杉元が盗んできた馬はすっかり精肉され、意思疎通のミスからすこし気まずい四人を気にも留めず白石が「うまい鍋食って仲直りしようぜ!」と言うので、松葉で作ったクチャ(仮小屋)に五人でぎちぎちに収まって鍋の煮えるのを待っている。
「へえ〜自警団みたいなもん?」
「どっちかっつったら特殊警察みたいなものかな。俺たちは警邏の真似事はしない」
「あの人数相手に手傷ひとつで済んだのか。俺より強いかもしれないな。後で一手試合ってくれねえかい」
「うむ! 手加減は無用だ」
「アシリパちゃん、この機会だよ、珍しい人たちだしなんか気になることとかないの?」
「……」
アシリパの無口は、どこか機嫌以上のものがある気がした。殴られながらすり合わせた時系列では、橋本が兵舎を吹っ飛ばしかけた頃アシリパはすでに杉元を追って街道近くに出ているはずなので、あの様で怯えてしまっていることもないだろうとは思う。橋本はぎこちなく微笑んで言葉を待った。煉獄は自分が怯えられる可能性を何も心配していない。
「……女じゃないワッカウシカムイ……」
杉元が隣で「何?」と訊くが、アシリパは翻訳しなかった。
「……カムイは穢れを嫌うんだよな」
橋本が着けていた手袋を脱いだのを見て、煉獄以外の全員がぎょっと目を剥いた。爪の剥がされた指先にはびっしり血がこびりついていて、食事の前に見るには少々ショッキングである。
「助けられなかった人も大勢いるし、何より俺は親を殺してる。ポクナモシリ行きの身だが、手前でいうのもなんだが人を救ってきた。それじゃ一旦の免罪にはならねえかな」
優しい語り掛けであった。白石と杉元はなんのこっちゃの顔をしていて、煉獄だけが静かな顔で聴いている。この顔は「こいつアイヌのこと全然勉強してないって言っておいてめちゃくちゃ予習してるじゃないか」とかすかな怒りを堪えている顔である。
アシリパは少し考えて、橋本の手を取った。隣で杉元が身じろぐ。
「……橋本の手は冷たいな。杉元の手はあったかいのに」
「おっしゃる通り、女じゃないワッカウシカムイだからかもしれない」
「アイヌにとって川はとても大事な場所だ。カムイコタンでは、事故が絶えないと聞く。生活していくのに欠かせない場所だけど、そこで死ぬ人もいるんだ」
「……うん」
「それに、シサムはみんな状況が難しい。私はおなかが空いた。早く食べよう。手を洗ってこい」
「……うん。ありがとう。イヤイライケレ」
「早く行け」
アシリパはプンとそっぽを向いてしまった。橋本は煉獄に「行ってくる」と呟き、クチャを出る。
「……アシリパ」
「なんだ。お前も怪我をしてるなら血を洗ってこい。ムシオンカミ、礼儀がなってないぞ。杉元は済ませたのに」
「うむ、すまない。俺も行ってくるが、その前に一つだけ。和人の言葉に、「手が冷たい人は心が温かい」というのがある。橋本は手と態度が冷たいが、心は俺の次に温かい」
「お前の次か」
「うむ。俺は心が燃えているから!」
から! と笑って、煉獄もクチャを出た。思っていたより肌寒く、煉獄は二の腕のあたりにギュ……と力を入れた。クチャ、侮れない。松葉だけどは思えない断熱性であった。
「橋本」
「おう」
近くの川辺で橋本は手を洗っていた。雪解け水もまだ流れない真冬の川で洗われている手は、流血や怪我を差し置いても真っ赤だが、橋本は特に気にせずジャバジャバやっていた。
「一番怪しい奴のところに突撃して聞き出す作戦、本当にやめろ。命がいくつあっても足りん」
「もうやめるわ。お前が来ると思ってなかったし」
「行くに決まっているだろう。見くびられたものだ。だが、まさかアイヌについて勉強してきていたとは知らなかった。目を見張ってしまった」
「落っこちそうだから閉じとけ。なに、お前が手話覚えてる間にぱらっとな」
「ぱらっと、でモノにするのだから質が悪い。学生とかに怒られろ」
「やーだね」
水を切って、橋本は息をついた。秋田の山奥育ち、慣れているとはいえ久しぶりにやったので手がむちゃくちゃ冷たい。なんなら骨まで痛い。息で手を温めている横で、煉獄が同じように傷を洗おうとして冷たさに「イ゛ッ……」と呻いていた。
「聞きたいことが二つある。ポクナモシリ、あとワッカウシカムイとは何だ」
「アイヌ語で言うところの冥界と、川の女神。俺は尊属殺人犯だが、死んだら煉獄に行くよ。でもアイヌ語で煉獄って対応語句ねえからとりあえずそれ。ワッカウシカムイは歌と踊りが得意なカムイ。ほかのカムイに「アイヌたちが飢餓で苦しんでるから何とかならないか?」って交渉に行ってくれる昔話とかあるんだとさ」
「……多くは言うまい」
「顔が雄弁だぜ。マ、多めに見てやんな。直接ウェンカムイって言われなかっただけマシだ。ワッカウシカムイはアイヌに優しいカムイだし、それに例えてもらっただけ敵意はねえさ」
「ウェンカムイってなんだ」
「もお面倒くせえなあ。アシリパに聞け」
「お前が手話覚えろというから!」
もだもだとケンカを始めた二人に「早くしろー!」と高い声がかかる。いつだって女傑には敵わない二人である。
「ほら行くぞ。傷しまえ」
「お前戻ったらすぐ手当だからな。ここで夕飯を馳走になってるのがもう半分許せんのだからな」
「はいはい。熱だしたら後の事全部任すから」
「熱を出させんための……もういいや」
二人はクチャに戻り、そこからは白石が入手してきた酒のせいで一つ二つまた悶着があったのだが、それは別の話。
****
「今度はコタンに遊びに来い! 私たちはいないかもしれないが!」
「うむ! 必ず会いに行こう! 俺たちもいつ行けるかわからないが!」
「めちゃくちゃ温度高い友情育んだねえ、あそこ二人は」
「橋本さんは? もう本州に帰るのかい?」
「さん付けはよしてくださいよ。アンタ俺の親父の恩人だぜ。そうなあ、もう少し調べものしてからですかね」
「必ずユクの脳みそ食べさせてやるからな! 約束だからな!」
「脳みそ!? 美味いのか!」
「とてもヒンナだそ! そうだろ杉元! そうだって言え!」
「うんヒンナだよ」
「マジ?」
「加熱なしで食うのか?」
「いや! こうなったら二人に脳みそを食べさせるまで諦められん! 行くぞ煉獄! リス用のくくり罠をつくる!」
「リス食うんだ……」
「食うよ。身は骨ごとチタタプにするんだ。でもアシリパさん、あちらも予定があるから」
「ううー! 必ず脳みそを食えよ! コタンにも遊びに来るんだ! 約束だぞー!」
「酔い残ってんじゃねえのこの子」
随分と温度感の高い別れであった。橋本と煉獄は小樽市内の藤の家紋の家に戻り、今一度手当を受けている。
「随分懐かれてしまった」
「アイヌにとって火は神聖だからかもな。それ差し置いてもお前は子供に好かれる性格してるし」
「そういうものか」
橋本は「いででで」と指先に処置をされている間、煉獄は橋本がかっぱらってきた資料を読んでいた。煉獄の処置はとっくに終わっている。
「なあ橋本。ここに書かれているのは全部本当か?」
「盗まれること前提で嘘の書類置いておけるほど第七師団もヒマじゃないだろ」
「そうか……すごい話になってきたな。土方歳三か」
煉獄の手元にあるのは、網走監獄を脱獄した囚人の一覧であった。五十年ほど昔、歴史にしてみればかなり最近の話だが、すでに市井では英霊扱いされている土方歳三が、まさか生きていようとは。煉獄はドキドキとワクワクで声が大きくなりそうになる。
「にしてもマズったぜ。俺その情報だけすっぱり聞かされねえまま話進んだから、それ知らねえまんまバチバチにケンカ売っちまった」
「俺も聞きかじったのはただ黄金とか埋蔵金とかだった。これは蜂起もするだろうな」
言いながら煉獄が手繰ったもう一枚の資料を見て、橋本が随分大きなため息を吐いた。これを知ってさえいれば、もう少し動き方を変えた。具体的には、第七師団に対して思いっきり敵対行動をしなかった。
煉獄が持つ資料には、推定ながらアイヌが隠した金塊の総重量が記載されている。その量およそ二万貫。大金蠢く鬼殺隊の柱と頭脳でもっても「待ってね……」と指を折りたくなる量である。嘘ですと言われた方が逆に安心する量の金が北海道のどこかに隠されていて、それを巡っていくつかの勢力が殺し殺されしている、というのが北海道で連続する変死の正体であった。
このことは、夜半のうちに産屋敷邸へなもみを飛ばして伝えた。飛ばす前に「これ終わったら一週間働かなくていいから」となもみをモフる橋本に、煉獄はえも言われぬものを感じた。なもみができるような生活をさせてやりたいからなもみなのだなあ、と思う。入れ違いで煉獄が飛ばした烏の返事が届いて、「指示通りに事を成した。追加情報あれば送られたし」とのことであった。返事を持ってきた煉獄の烏、要は今は火鉢のそばでぬくぬく眠っていて、「さすがに超長距離連絡は専用の電話回線とか開発すればあ?」と橋本は基地局と交換局の場所をどこにするか考えた。津軽海峡がネックである。
要を本部に飛ばしたのが昨日の日没後で、なもみを飛ばしたのが今日の夜明け前。要が帰ってきたのがその少し後だとすれば、マァとんでもない速度で情報が行き来している。鎹烏には迷惑かけるが、それが仕事だってんならまあいいか、要のこと考えたら夕方くらいまでは時間があるかな。橋本は先日食べ損ねたニシン蕎麦のリベンジを目論見ながら、いややっぱり東京に早いとこ帰りてえや、と少しうとうとしていた。
「伝令、伝令」
「なもみ! おかえり!」
「え嘘バカ早えじゃん」
「調査は継続、調査は継続。できれば何貫かくすねておいで。国に依らない金策の手段が欲しかったところだ」
なもみは輝哉の言葉をそのまま伝えた。煉獄ま鳥除け目玉をぎょろりと剥いて、橋本も眠りの淵から爆絶復帰して二人そろって顔を見合わせ、たっぷり五回呼吸をしてから橋本が「ごめんもう一回言って」と呻く。
「調査は継続。できれば何貫かくすねておいで。国に依らない金策の手段が欲しかったところだ。全部でもいいよ」
「うわっ……うわァーーー!!!!! 嫌だ!!!!」
「え嫌か!? 北海道中の美味いもの食べながら鬼を狩りながら金塊を探すのだろ!?」
「やだよアホか! お前脳みそ鳥か!? うわあやだあ!!」
「いいじゃないか! またアシリパと飯が食えるのだぞ! わかったら覚悟を決めろ! あと五分まではゴネていいぞ!」
「バカあー! マジかよ……! 本気で言ってんのか……! マジかあ……!」
橋本はきっちり五分間ゴネにゴネにゴネまくり、煉獄が「はい五分」と言うとぴったり静かになって、呻くように「やるか」と言った。
北海道金塊争奪戦、新勢力参戦の瞬間であった。