ひとさし
「こらッッッッッ」

 声ひとつで窓ガラスを割れそうな人間は、ここにはおおよそ一人しかいない。煉獄杏寿郎が張り上げた大声は当人を吹き飛ばしかけながら屋敷中を駆け巡った。

「何やってるんだ危ない! 介助なしに立つんじゃない怪我をするだろう! 呼んでくれればすぐ来るものを!」
「ダァくそーーーーッ! バレやがった! うるせえほっとけ一人にしろ! 呼んでねえのは呼ばねえ理由があるからだろうが!」

 反して、吹き飛ばされかけた当人も声を張り上げた。橋本新平は自由の利かない四肢をなんとか突っ張って屋敷を抜け出そうとしていた。
 ところは炎柱邸、春ものどけき昼下がりのことであった。


「俺個人が誰にも依らずにやりてえことだってあんだよデリカシーねえな!」
「デリカシーが聞いて呆れるぞ! お前厠に行く時だって「便所連れてけ」って言うくせに!」
「だぁもお〜〜!!」

 鬼舞辻無惨の討伐が成ってから何年かが過ぎていた。
 人でありながら人を辞め、たくさんのものを支払って人に帰ってきた橋本新平は、平たく半身不随であった。
 調子のひどい時にはついているだけで動きもしない有り様の四肢に代わって、煉獄はつましく橋本の世話を焼いた。したかったことでもあるし、しなければならなかったことでもあるし、誰に言われるでもなく、果ては望むでもなく今の形になったろうと思う。彼の側が己のある場所だ。そうでなきゃおかしい。
 反して世話を焼かれる側の橋本は、煉獄が折に触れてこの話をするたびに、きゅゥと眉根を寄せ、下唇を吸った。照れているのだと思う。反論は無限に湧いて出るが、それを口外するには歓喜が上回る。結局何も言うこともなくチュンと唇を吸って黙っちまうので、その度に煉獄は「言ってくれなきゃわからない」と意地悪をしてやっていた。
 そうして幼児がしどろもどろ手を繋ぐのと何ら変わらない拙さで二人は時間を紡いでいる。こうなってから煉獄は母よりもガンガンものを言うようになり、反対に橋本は時折襲いくる羞恥と多幸感に口を閉ざすことが多くなった。

「だから言え! 言わないか! 言ってくれれば地獄だろうが行ってやるし蓬莱の玉の枝だろうが持ってこようというものを!」
「お前゛ーーッそういうのやめろ! 悪かったから! ほんと悪かったらほんとやめろ! 恥ずか死ぬるわ!」

 橋本は結局床に戻され、丁寧に布団をかけ直されながら悶えた。昨夜から微熱が続いている。
 普段より少しだけバカになった頭でも、まだ言えないことがあるのか。煉獄は橋本が唇を吸ったぶんだけ突き出してムツリと言う。

「俺にも言えないか」
「お前だから言えない」
「千寿郎を呼ぶか」
「……いや……やっぱ今日はダメだ全部……」
「諦めるな妄執が人の形をしたような生き物のくせして!!」
「いきなり怒りに感情全振りすんのやめてもらっていっすか?!」

 そうしてしばらくバカ二人がバカの言い合いをして、橋本が不意に咽せる。煉獄が泡食った顔で背中をさすってやれば、橋本はケンケン咽せる合間に「わり」「ごめん」「すまん」をランダムに言った。
 拙く終わりの息を吐いて、橋本はすっかり煉獄にもたれかかっていた。背をさするのと逆の手で、これでもかと力を込めて抱かれれば、力のない身体は自然と力の向きに傾く。

「……わり」
「すまなかった」
「これであいこ」
「ああ」

 二人して震えながら、ほとぼりが冷めるのを待っていた。片や鼻先で頭を何度も撫ぜ、かたや投げ出した手のひらをじっと見ている。
 橋本は手のひらを見ながら、観念したように言った。

「花、を」
「なんだと?」
「花を、買いに行こうと思って」
「なぜ」
「お前、誕生日だから」

 槇寿郎殿は出かけてらっしゃるし、千寿郎君は夕餉の支度であちこち走り回ってるから。一人で行こうと思った。
 吹けば飛ぶような声でそう言った。
 春であった。色んな意味で。あらゆるものが息吹き、芽吹いた。
 煉獄はたっぷり三呼吸ぶん固まって、ゆるゆると前髪をかき混ぜて握った。やり場がここしかなかった。未だ支えている橋本の背中は熱かった。熱が上がってるのかもしれない。あれだけギャンギャンやったから。そう思いながら、橋本の髪に跳ね返されてくる自分の息も笑うほど熱かった。

「……少し、……待っていてくれ」

 熟考のすえ、煉獄はそんな物言いができるのかと思うほど歯切れ悪く言って、席を立った。
 幻滅させたろうか。死期を悟ったようなことを言って、傷付けてしまったろうか。しおらしく目元に力が入る。らしくない。頭を振っていると、煉獄が消えた先の廊下がやかましかった。

「橋本! これなら!」
「廊下走んな」
「すまない……」

 やかましさから打って変わってショボくれた煉獄の手には、おそらく家中ありったけの千代紙があった。

「これを、これで花を作ろう」

 禰󠄀豆子に折り紙を教えてやっていたろう。指を動かす練習にもいいはずだ。本心なんだかそうじゃないんだか、よくまぁ折り紙ひとつでそんなに並ぶもんだと理由を並べ立てて煉獄は千代紙を広げた。淡いものから濃いものまで、色とりどり。
 事実一度廊下を走るなと怒られはしたのだが、それ以上に怒られやしないか、気に召すだろうかと上目がちにこちらを伺う煉獄に、橋本は再びチュンと下唇を吸った。
 なんか泣きそうだ。橋本はわずかに残った虚勢で、せめて少しでも震わせないように言う。

「難しいのはお前がやれよ。教えるから」


****


「だッッッッッから谷折りァ!!」
「鯖折りしかわからんが?!?!?!」
「バァーーーーーーーッカ!!!!」
「大きな声を出すな!!!!!!!!!!!!!!」

 結局バカほど大声を出し合って、アホみたいにぶきっちょな、大きな花束を作った。そんな春があった。
prev 7/10 next