環境破壊兵器
 まずラインのメッセージ。いつも「こんにちは」から始まる。予定を確認すれば、見透かされていたようにその日は空いてる。すぐに了承の返事をして、当日の朝、橋本新平は鏡の前でリングを選んでいた。

「どうした? 今度はどこの国傾ける気だ」
「知ってらぁ」
「何も言ってない」
「伊達男だってんだべ? 知ってら」
「言わなければ銀河を統べていてもおかしくなかったのに」
「今は?」
「地球の地下資源は全てお前のものだ」
「フハハ、ハデスかよ。じゃあ地上は全部お前」
「やった。海が俺のものなら地下資源も実質俺のものではないか」
「喜びポインツが一般人ドン引き」

 シンプルなゴールドのリングを選んで、薬指には赤い石のついたものを。ピアスはささやかに、ハイネックの襟元を飾るネックレスはトップも何もない細身のチェーンだけのものを選んだ。香水は玄関を出てからつける。とんぶりに健康被害が及ぶといけないから。
 鏡の前でジャケットを羽織り、ざっと確認する。細かいところは煉獄の前に出れば目ざとく見つけるので、手前でやるのはここまでだ。

「おらよ。傾くか?」
「あー傾く傾く、北半球が全部傾く。強いて言えば、ピアスは前に買っていたものにするといい」
「こっち?」
「ああ、これで南半球も傾く」
「どんくらい?」
「23.4」
「地軸じゃねえかバカタレが」
「じゃあ360」
「元通りになるなら傾けるのもやぶさかじゃねえな」

 カカカ、と笑って橋本はクラッチバッグを持った。玄関へ向かう背中へ煉獄が鍵を投げる。振り向かないままキャッチした背中へ向けて指をさせば、橋本は「ァによ」とガラ悪く振り向いた。

「来週は俺だ」
「おひいさまにお祈りしとけ」

 いつもと違う髪のセットをした橋本は、いつもと違う影の落ち方をする。見慣れきった顔の見慣れない陰影に、煉獄はすこしだけ悔しくなって、返事は手を振るだけに留めた。
 さて、罪な男は玄関を出て首元に香水を振った。その上からマフラーをして、迷いなく駅への道を進む。待ち合わせは一時間後だが、駅構内の珈琲店のキャラメルラテが飲みたかった。
 杏寿郎に土産買っていってやろう。あれは拗ねてた顔だ。携えたクラッチバッグには財布とケータイと胃薬しか入っていないので、多少の買い物は余裕がありそうである。橋本はロングコートの裾をさばいてすれ違う女子高生を避けた。
 罪な男は重罪人である。今のワンアクションで橋本は、自らの知らぬうちに二つのカップルを破局させる運命を知らなかった。


****


 どうしよう。困ったわ困ったわ。
 いい時代になったものだわ、とは思うが、それでも人間は甘露寺蜜璃にとって大半が脆弱すぎるものだった。
 最寄り駅の待ち合わせスポットにて人を待っていた甘露寺は、どうやら地元の人間ではないらしい若い男に数名がかりでナンパをされている。地元の人間はこういったことはまずしない。どれだけ恐ろしい報復が待っているかを知っているからだ。知っていて甘露寺に声をかける地元の大馬鹿は、泣く子も黙る黙る子も泣く井黒小芭内を知らぬ愚か者である。
 甘露寺は大層困り果てていた。やめてくださいと言ってやめてくれる相手ではない(そも何度も「困ります」と言っている)し、万一自分の力で突き飛ばしでもしたら最悪死んでしまうだろう。突き飛ばす以下の選択肢をとっても、どのくらいの力加減でやればいいのかわからない。
 甘露寺蜜璃は見た目に反して特殊建機級の力持ちである。引っ越し業者を頼んだことがないのだ。苦労なく冷蔵庫を一人で持てる女性が言い寄られているさまは、知る人が見れば「ああ(納得)」となり、知らない人が見れば「お前行けよ……彼女困ってんぞ……」「いや俺はいいよ……ヤベェ美人だしぜってー彼氏いるって……!」となる光景であった。

「いいじゃん、彼氏遅れて来てんでしょ? ドタキャンかもじゃん。俺らと遊ぼうよ」
「てかお姉さんめっちゃ美人じゃん。インスタ教えてよ」
「こ……困ります……」
「とりま一枚撮ろ。記念に記念に」

 若者の一人が内カメを構え、「ひええ私インターネットのおもちゃにされちゃうんだわ……!」と甘露寺が細っこい肩を縮こまらせた。
 ぱきっ、とでも言うような。
 突破力のある香りが漂って、蜜璃は目を開けた。眼前には見慣れた顔が見慣れない影を落として、もっと見慣れない表情をしてすぐ近くにあった。

「蜜璃?」

 見慣れた顔は待ち合わせの相手――橋本新平であったが、見慣れない表情は恋人のような、心に決めた相手にしか見せないようなものだった。しかし、女の勘は冴える。これは嘘を吐くときの顔だ。

「新平さん! 会いたかった」
「俺もだよ。迎えに来てくれてありがとう」
「いいえ、長旅ご苦労さま」
「今全部清算されたからいい。彼らは知り合い?」
「ええ、新平さんが来るまでお話してくれたの」
「そうか。礼をしないと」

 橋本は甘露寺と「とっさに思いつくかぎりの単身赴任が終わって再会したカップルらしい嘘芝居」をかまして、余所行きの顔のまま微笑んで若者たちに歩み寄った。若者たちは重心が踵に移り、背中にグ、と力が入る。目の前に、背の高くていい匂いのする美丈夫が来た。一定以上の美貌は畏怖を抱かせるのに機能する。

「俺が来るまで蜜璃を守ってくれてありがとう」
「や……ッス……」

 橋本が「こいつを起点につるんでるんだろうな」と思った青年に手を差し出せば、青年は歯の裏にものが挟まった感じで鳩みたいに首を前後させた。握手をし、フランクに挨拶のハグをしてやりながら、橋本は絶対零度の声で「汚い手で彼女に触るな、命が何個あっても足りねえぞ」と、性格が悪いのでロシア語で言った。
 キョトンとしたままの青年たちにぬけぬけと「ここへは遊びに? いいところだよ。楽しんで」と肩まで叩いてやり、すっかり呆気にぶちこんでやってから甘露寺の隣へ戻って。

「帰ろうか」
「はい」

 慣れた素振りで甘露寺へ肘を差し出し、甘露寺も慣れた素振りで手を通した。こちらを見向きもせずに遠い歩幅で去っていく傾国の美女と魔性の男を見てしばらくポカンとしていた若者たちは、同じように周りで見ていた人間もポカンと目を、一部は心も奪われているのを見て、顔を赤くしながら遠くのマックへ駆けこんだ。

「だからギリギリに来てくださいって言ってるでしょ。ああなるからですよ」
「たまに意趣返しをしようと思ったのよう。いつもいつも声をかけられている橋本さんに「どうしようかしら」って思って伺うの大変なんだから」
「大正の頃の負けん気はどうしたんです」
「年号が変わったから気も変わったの」
「妙なことをおっしゃる。あ、腕、もういいですよ。あいつらもどっか行ったみたいですし」

 足の長い二人がぐんぐん歩くので、ものの数秒で橋本と甘露寺は「ドラマチックな再会を果たした二人」から「ただの寄り添って歩く二人」になっていた。
 橋本には煉獄がいる。甘露寺には井黒がおり、まして甘露寺は大層一途な女性である。一時しのぎの芝居とはいえ井黒に見つかれば命はないような真似を、甘露寺本人も良くは思わなかったかもしれない。言えば、以外にも甘露寺は橋本の方へ頭を寄せた。

「井黒さんね、私よりちょっとだけ背が低いでしょ。他の男の人も、みんな私より低かったり。だからね、私より上背のある殿方に腕を組んでもらって今、ちょっとドキドキしてます」
「旦那様はいまどちらに?」
「ふふ、心配しなくても今日はお留守番よ。それに橋本さん相手に怒ったりしないわ」
「どうかな。田舎侍の細腕でもお気に召していただけたら冥利に尽きますよ」
「うふふふ。でもね、やっぱり一番ときめくのは井黒さん。助けてくだすってありがとう。もう結構よ、堪能しました」

 パッと手を放し、甘露寺はいたずらっぽく笑った。ここに来て橋本は今日初めてまじまじと甘露寺の顔を見て、なるほどと合点がいく。

「リップ、お気に入りと変えたんですね。今日は女優?」
「女性はいつだってそうよ。でも今日は特に。ねえ、新色が出たんです。百貨店に寄っても?」
「荷物持ちが本懐ですからね」
「もう! いじわる言う」

 言いながら、甘露寺はスマホでマップを立ち上げて、ピンの場所を拡大した。そこなら五分も歩かないうちに着く。マップと脳内の地図を照らし合わせて、しかしよくもこんな歩きなれた気がした場所から店をみつけるものだ、と橋本は舌を巻いた。

「今日はこれがメインですよ。コスメは二の次」
「どっちもメインでいいんじゃないです? 来週にでも国ごと井黒さん傾けるのに見るだけ見ちゃえばいいんじゃないですか?」
「いやあ悪魔! そそのかさないで」

 月に数度、週末にある秘密の逢瀬。誰もが振り向く美男美女の目的はいつだってただ一つ。隠れた名店巡りである。


*****


 通い慣れた最寄り駅近くの古民家をリノベーションしたカフェは、年若い女性の多い店だった。橋本は微かに顎を引いて背を伸ばしたが、いや自惚れすぎかと面立ちをいつものに戻した。今更繕ってどうにかなる気骨でもない。
 メニューと冷やが運ばれてきて、橋本と甘露寺は額を突き合わせた。甘露寺はページをめくるたびに身悶えするようなか細い悲鳴を上げ、女の子だなあと橋本は思う。雑な甘いものと、コーヒーが美味ければそれでいいと思ってしまう橋本にしてみれば、いわゆる「映え」を重点に置いた甘味は自分向けでないなァ以上の感想を持ちづらい。それがこうして目の前できゃあきゃあと悲鳴をあげられては、なるほど年ごろのお嬢さんはこういうのを可愛いと思うのか、とインプットの機会を得られている。ここに来てもなおインプットだが、もはや死んでも治らなかった病であった。

「あ、甘露寺さん。撮ります?」
「お願いしていいですか」
「フィルターどれを?」
「これでお願いします」
「わかりました。露光下げます」
「その辺はおまかせで」
「注文決めててください。勝手に撮りますから」

 甘露寺が使っているらしいアプリは思いのほか本格的な設定も弄れて、知識はあったが実際これをいじるとどうなるか、までは理解していなかった橋本も楽しく扱える代物だった。なるほどなるほどと遊んでいるうち、また進んで被写体になってくれる甘露寺といわゆる「映え」るものを撮っているうち、橋本は写真の腕も多少のものになった。褒めれば「スコープを覗いたり狙いを定めたりするのが得意なのかも」とガンフィンガーを撃たれた甘露寺は、その時にカメラを構えていなかったのを今でも後悔している。
 しばらくメニューを眺めて、甘露寺はパフェの候補を四つにまで絞った。今日はもう一軒、こちらはランチプレートがオシャレな店へ行く予定でいる。ここでパフェ四つ食べてもいいだろうか。甘露寺は悩む。胃袋に一切の心配はないが、なんたって今日は女優なのだ。
 ちろ、と上目に伺えば、気づいた橋本は眼鏡をなおして「何個ですか?」と身を乗り出した。

「よっつ……」
「どれと?」
「これとこれとこれとこれ」
「ふぅん。季節のは甘露寺さん食べたらどうです? 俺りんごのソルベのやつ食べたいし。気になるなら好きなだけ持っていってもらって構わないですよ」
「いいんですか? いっぱい食べちゃうかも」
「いっぱい食べちゃってください。俺は食が細いので」

 橋本はニヒルに笑った。甘露寺や煉獄に比べれば、みたいな皮肉のつもりかもしれないが、実際橋本はさほど量を食う方ではない。時たまアホになってアホの量を食うだけで、普段は油ものもあまり食べない修行増みたいな男だ。
 うにゃうにゃ考えてしまっているうちに、橋本はさっさと店員を呼んでいる。甘露寺は橋本が掲げた手の裾をきっと引っ張って、振り返るだろう橋本の顔を待った。

「どうしました?」

 言っておきながら、橋本の顔は「そう来ると思っていた」の顔だ。
 いやだ。悪魔。こんなひととずっと一緒にいて、煉獄さんはきっと誑かされてばかりだわ。無惨に勝てた私たちが、勝てないと思うひとだもの。
 甘露寺は心臓の真ん中がぽっかり怖くなって、その空洞から湧いてくる冷たい湧き水の流れのまま、あれよあれよという間に言った。

「わたし、やっぱりりんごのソルベ食べたいです。私が頼むので、分けっこしませんか」
「ああ、そう? 助かります」

 それは、既知が見れば「こいつにしては結構な破顔」だが、見ず知らずの人間が見れば「詐欺師が釣り針ひっかけた時の顔」であった。
 あっ、やったわ。やってしまったわ。
 甘露寺がまんまと釣られたのに気づいた間に、橋本は「りんごのソルベのパフェ、抹茶と黒ゴマのパフェ、ピスタチオのパフェ、季節のフルーツパフェ。あとガトーショコラひとつ。ああ飲み物……ホットコーヒー、イタリアンで。甘露寺さんは?」と甘露寺の飲み物以外の注文をすべて済ませていた。

「あっ、あ……ブレンドティーでお願いします」
「以上です」

 橋本がサラりとした顔で店員にメニュー表を返している間、甘露寺はクウゥと密かに唇を嚙んだ。今日の甘露寺は女優だが、それ以上のテーマは峰不二子であったのだ。こうなるはずではなかった。

「大変お似合いだし素敵だ。でもまだちょっと早いんじゃないですか。あこがれる気持ちもわかりますけど、ティーンのうちしかできない素振りもありますでしょ」

 振り向きざま、橋本は言った。詐欺師の顔は今はすこし遠ざかって、素直に諭すような面立ちをしている。
 日頃煉獄が「腹が立つんだあの男は」と言っているのが、甘露寺は今はじめて身に染みて理解できた。この男、まさしく鏡のようなのだ。それも、自分を一等格好よく見せる魔法の鏡である。懐を許した人間に対しては、「世界で一番美しいのはあなた」と言うことに一切の躊躇がない、人をダメにする鏡。
 だので、その前に立つとなれば人はしゃきりと立ってしまうし、鏡に合った身振りをしてしまう。そのくせ、「肩ひじ張らなくていい」「自然にやれば」なんて言うから、夢のような心地でいたのに、背伸びをしていたのを自覚させられてしまうのだ。
 甘露寺は今までのどきどきの正体をすっかり理解して、ちょっとへそを曲げた。グッと深く指を組んで頬杖をつく。ここで屈してなるものですか、私は今日、峰不二子だし、キューティーハニーだし、メーテルよ。創作の中しかいないような、強くて美しい女よ。
 しかし甘露寺の最大火力は、正直に気持ちを伝えることであった。

「橋本さん、私ちょっと怒りました。あなたって人をダメにする鏡だわ。あなたを前にして、踵を地面にぺったりつけて歩ける人がいるもんですか。煉獄さんくらいなものよ」
「えッ? すいません」
「いい機会だわ、とっくり覚えてくださいな。あなたって人、本当に立派な鏡よ。あなたのそばに立つだけで、自分がとっても素敵なものに思えるもの。だからヒールだって履いちゃうし、リップだってそれは背伸びしたものを選ぶわ」
「あッ、そ……褒められてます?」
「私ちょっと怒っているわ」
「あスイマセ……」
「それに、今の大層失礼よ。よくて? 女性にそういう素振りをさせたければ、そういう素振りをなさって頂戴な」
「そういう……え何? マジですいません何にもわかんないです」
「あのね橋本さん。年下の女の子に年相応の振る舞いをさせたかったらまずは……」

 甘露寺は一旦言葉を切って、橋本の顔をまじまじと見た。まじまじ見られている橋本の目は、後学のために是非聞きたいとでも思っていそうな顔だ。ええい、ここへきても学習の鬼。甘露寺は組んでいた指を解き、頬を手首に預けて、これでもかとお茶目に言った。

「敬語で話しかけるものじゃないわ。タメ口きいて」

 とびきりのいい女が、とびきりの仕草でブチかますおねだりの威力は、ともすれば街一つ造作もなく焼き払うほどである。橋本を鏡のよう、隣に立つと自分がとびきりいい女になったかと思う、と甘露寺は言うが、それは実際に甘露寺がとびきりいい女である前提がなければ成り立たない。
 つまり、橋本は今とびきりいい女がとびきりの仕草でブチかましたおねだりを、真正面からタゲ取られて食らったのだ。甘露寺は橋本をずるいずるいというが、甘露寺だって大概ずるい。橋本は壮絶なコロニーレーザーが如き光を食らって、自覚しないまま生唾の塊を呑んだ。一定以上の美貌は畏怖を抱かせるのに機能する。気圧されたのである。

「……、……うん。ごめんね」
「いいわ! 許してあげる」

 甘露寺は「いいわ」と言い始める前に橋本の間抜け面を一枚撮って、「許してあげる」と言いながらその写真を煉獄に送った。すっかり機嫌が良くなった。ついにしてやったのだ。あの橋本新平の顔から「ポカン」を引き出し、それを写真に収めてやった!
 後日実際に英雄扱いされるが、甘露寺はすっかり王からの歓待を待つ凱旋の勇者の心持でパフェを待つことにした。女性から真正面に怒られた経験がほとんどないので宇宙猫のままの橋本をすっかりさておいて、一流の女スパイ峰不二子、もとい絶世のゆめかわガール甘露寺蜜璃、本日のミッションを一つクリアした瞬間であった。


***


 それから2人は(主に甘露寺が)パフェ四つを平らげ、オシャンなランチプレートを五つ平らげ、良さげなキッチンカーがいたので飯を食い、百貨店に着くもまず立ち寄ったのは地下の食品街であった。デパコスの階をさんざ冷やかして、今は上階の喫茶にいる。橋本はコーヒーすら頼んでいないが、甘露寺の前にはケーキセットが三つ置かれていた。

「橋本さん本当にありがとう…! 私じゃ決めきれなかったわ…! この色を選ぼうって視点がまずなかったもの」
「髪色と合わせるならそれかなって思った。いやあ取っててよかった色彩検定」
「まだ取ってない検定があるの? 橋本さんに?」
「俺を何だと思ってんの? 花火鑑定士とかまだ取ってないよ」
「そんなのがあるの?」
「そんなのがあるの。あとは旅行ガイドとか薬膳アドバイザーとかかな」
「人と携わる業種に必要な資格が全滅だわ。こんなに人の役に立つことたくさん知ってるのに」
「教員免許はあるよ」
「凶器?」
「ふはは。そう。そうルビ振って読んでる。小生意気なガキを殴るための免許」
「いやあ! 私もそう思われてるのかしら」
「その分学生は学生証って書いて月額制教員クソ困らせ優待券って読む最強のカードがあるからね。好きなだけ困らせたらいいんでしょ」
「殴られちゃうわ。平気だけど」
「小生意気なガキしか殴らんし、殴るの俺くらいだし。殴り返したらいいんだよ学生証で。ヤレ点数取れません単位足りません、図書館にこの本入れてください部費上げてください。それを言うための釘バットが学生証でしょ」
「アハハアハアハ。橋本さんの価値観おもしろいわ」

 甘露寺は目じりに浮いた涙をジェルネイルの先で器用に掬い取った。二人の席は窓に面していて、すっかり日の落ちた街の明かりが時折ぱっと光量を増やして笑いつかれた顔を照らす。近くの席に座るカップルの男は甘露寺に見惚れ、女は橋本に見惚れていた。既知が見れば笑うほど絵になっている。「これがウチの最終兵器なんだよ」と両手を叩いてやんややんや大騒ぎするような二人は、しかし周りに大騒ぎする人間がいないので、ただただ周りに暴力的な美を振りまいていた。ここまで来ると公害である。
 橋本は、暴力的な甘露寺の佇まいを見て、テーブルの上に手を投げ出した。喋りながら甘露寺が気持ちいいほどにテーブルの上を空けていくので、手を出せるスペースができていた。橋本は今生特段つらい経験は人並みにしかしてこなかったが、魂の形が大正と変わらなかったので、こんなふうに年下の女の子と仲良くこんなに長時間話をすることはあまりなかった。人間嫌いが緩和されているからだと思うが、楽しいなあと思う。百聞は一見に如かず。いくら活字で人を学んだとて、実際の人と触れ合って学ぶのが一番早いし、学びのない触れ合いがこうも楽しい。前世めっちゃやったからな、こんくらいのリターンがあってもいいか、と思いながら、テーブルの上の自分の爪を微笑みながら見ていた。
 そんな橋本を、甘露寺はああ愚かだわと思って見ている。ああなんて愚かかしら。なんて不足かしら。なんて愚昧かしら。人が一番成長するのは人とふれあう時であることを甘露寺は知っている。人がいるから人は成長するのだ。甘露寺は一番好きな言葉ランキングをつけるなら上位に「人という字は人と人が支えあってできている」を入れるタイプの人間である。橋本ほどおっかない人が、まさかコミュニケーションに関してここまでヨチヨチだとは思っていなかった。ああ愉快だわ、ああ愛しいわ、甘露寺にとっての女性の幸せはすべて井黒が与えてくれるが、女としての幸せの一部は橋本からしか摂取できなかった。これほど高尚で手の出ないような男を、心の内でころころ手遊ぶ愉悦。これほどの静謐のなかにある幼さを可愛がるサガを、一等満たしてくれるのが橋本であった。人を自分の色に染められる愉悦を、よりによって橋本相手にできるこの週末が、甘露寺の心の奥底で楽しくて楽しくて仕方がない。
 甘露寺は最後のパフェを一度横へよけて、橋本がずっと見ている爪に自分の手を被せた。しとやかで傷のない白い手の甲に見ていたものが隠されて、橋本は黙ったまま目線だけを甘露寺に向けた。上目遣いのような姿勢で、深淵へ切り抜かれた割れ目のような目にまっすぐ見返される。既知ですら絶倒するこの底なし沼の瞳に、甘露寺はたじろぎもしなかった。今日の彼女は峰不二子である。
 根元のささくれた爪を押し隠した白い手は、すこし場所を変えた。先ほどまで橋本が漫然と見ていた爪を、白魚のような指が往復する。夜景に照らされる見つめあった男女は、女性がさらさらと男性の指を撫ぜる仕草は、ここに既知がいれば爆笑しながら警察に通報を入れる光景であった。

「なあに」

 橋本の声は低く、しかし重くはなかった。

「いいえ」
「嘘つき。どこで覚えたの?」
「私よ。なんでも人から教わる女じゃないもの」
「そうだった」
「そうよ。ねえ、違うわ」
「うん。どうしたの」
「ふふふ、橋本さん。この後ご予定ある?」

 グッ、と深く指を絡めて、甘露寺は首を傾けた。問いかけはポーズにすぎない。服従せざれば二度と触れることは許すまじ、この実に二度と触れぬ不遇を受け入れられるならばこの誘いを蹴るがいい。そう言う目である。甘露寺の瞳は大層大きいので、積み込める情報量が多い。
 どう出る。どう来る。どう返す。甘露寺は女優である。呼吸の剣士でもあった甘露寺に、呼吸や脈拍の操作など造作もなかった。指先の震えひとつ起こさず、甘露寺は橋本の言葉を待つ。
 橋本は、十秒だけ黙って固まっていた。十秒きっかり経ってから、ニコ、と微笑んで、甘露寺に絡めとられていた指を解き、空いた手で新しいスプーンを取り、甘露寺が横によけたパフェの残りをあっという間もなく二口で食った。
 どういうことだろう。甘露寺のみならず周囲の客までもがこれから垂れるだろう解説を、固唾を飲んで待った。
 罪な男は大罪人である。雑に食ったので口の端についたクリームを舌先で舐め取って、伝票ボードを手繰り寄せながら言った。

「俺は腹いっぱい。役不足だから、杏寿郎か井黒さん呼んで」

 どういうことだ。周囲の客がさっぱりわからず疑問符まみれになっている中で、甘露寺だけがはっとした。大罪人の横を歩く人間も大概大罪人である。伝票を片手に立ち上がった橋本に向かって、グラスに注がれていた水にさっと指を浸し、爪先を弾いて水をかけた。ツンとした顔のまま。

「いつ見たの」
「案内でマップ見せてくれたときに。ブックマークつけてた食べ放題の店でしょ? マジで三日分食ったからせめて別の日にして。ほら、そろそろ帰らないと井黒さんに怒られるよ」
「別の日ならいいの? 来週はどう?」
「ごめんなあ、先約がいるんだわ」
「どなた。いえ結構だわ、ひどいひと。他の方の名前出すなんて」

言い合いながら二人は驚くほど長い脚でぐんぐん会計へ進んでいき、キャンキャン言っている間に橋本がレジにスマホをガンと叩きつけて電子決済ですべてを払い、さらりと去っていこうとするその背中に、甘露寺が肩にかかった髪を払いながら「ひどいひと」と言ってやっと橋本は振り返った。

「どっちが。他のやつの名前を出さないと傾くとこだったんだよ。ひでえひと。怒られちゃえ」

 振り向きざま、橋本は袈裟懸けに腕を振り下ろした。店にいた客は「すわ殴った」と思ったが、鋭い音もせず、女の顔が腕の振られたほうへ向くでもなく、ただ一瞬の静寂があった。
 甘露寺だけがすべてを理解した。ぱきっ、とでも言うような。突破力のある香りが漂って、甘露寺は瞑りかけた目を開ける。信じられないものを見る顔で橋本を見れば、「やーい」みたいな顔でそこにいた。
 今生つらい目にあっていないとはいえ不倶戴天のクソ人格破綻者は、身持ちのある甘露寺に自分の香水を吹きかけたのである。

「なんてことするの! 井黒さんもさすがに気づくわ!」
「だははははは討ち取ったり討ち取ったり! 身持ちあるのに火遊びするからだ!」
「むきーー! いじわる! 煉獄さんに言いつけてやるんだから!」
「言えば言えば! 俺被害者だし! バカクソ怒られんだからな! やーい背伸びしてやけどしてやんの!」
「ええ大やけどよ! もう誘ってあげない! うそまた遊んで! 今度ヘアアイロン見たいの!」
「いいぜ電気屋ポイント死ぬほどあるからプレゼントしてやるよ」
「やめてーーっ! そういうんじゃないんだから! 本当いじわる! 芽の出たじゃがいも食べちゃえ!」

 さっきまで周囲数メートルにいた人間全員を魂の底まで骨抜きにしていた二人は、ガラガラ笑いながらガチャガチャ上着やバッグを揺らしながら追いかけあって店を後にした。台風一過。すべてを薙ぎ倒すハリケーンが去った店内は、衣擦れの音ひとつなく、ただ店内放送のジャズが流れるばかりの墓地であった。


***


 橋本はゴミの顔をしてコーヒーを吞んでいる。なんたって煉獄モーニングサービスが頼んでもないのにクソ早いのである。契約違反なので早いところ消費者庁に訴え出て解約したいが、世間にしてみれば被害者が橋本しかいないので大した取り扱いもされないまま終わるのが目に見えている。クソかな。
 先日機嫌取りに買ってやったコーヒーは結局主に橋本が飲んでいる。煉獄が「どうせこっちに置いてた方が使うだろう」と言って橋本の家にある。借金取りもかくやというドアドラミングを阻止し、ゴミの顔のままサーブされたコーヒーを呑みながら、煉獄も半分吞みながらいつもの朝が更けていく。
 煉獄はコーヒーの湯気越しに橋本を見た。いつもの顔にいつもと違う影が落ちていて、しかし見慣れた違う影だ。いつもの寝起きのゴミ顔である。これに煉獄はすっかり面白くなってしまって、湯気を細切れに吹き出しながらくふくふ笑った。

「ァによ」
「ん。んふふ……いやなに、面白くて」
「ァにが」
「うむ。いや。今日出勤してみれば全部わかると思うぞ。いやどうだろう、生徒たちまで伝わっているだろうか」
「あ?  あ゛? なんだ? 俺に向かって皮肉をかけやがったのか? 鳥除け目玉が?」
「機嫌が悪いのか。牛乳を足してやろうか」
「俺のコーヒーに手を出すなぶっ殺すぞ」
「俺が淹れたコーヒーだぞ言えたことか」
「クソッタレが」
「悔しかったら早起きをしろ」
「俺に死ねってのか。ははは。いいぜやってみろやお前が。できるよな実績あるもんな」
「本当に機嫌カスじゃないかどうした。今のはちょっと本気でへこむから後で謝ってくれ」
「ごめんね。井黒さんにめっちゃ怒られんだろうなって思ったから。俺悪くないのに」
「ああ、甘露寺から聞いている。ふふふふ」

 とんぶりも目視で様子をうかがうほどの殺気もどこへやら、再び煉獄はマグの隙間からぽんぽん湯気を吐いて笑った。橋本はなんのこっちゃわからないまま残りを呷り、着替えにその場を後にする。
 半日後、橋本はすっかり鬼殺隊が嫌いになって給湯室にいることになる。何って、先日の甘露寺との外出を、それが原因で別れたカップルの片割れたちにさんざ「毒物」「公害」「暴力装置」「二度と見目整えて外出するな」「外に出して俺たちが恥ずかしい」「環境破壊兵器め」となじられたためであった。 橋本が教員免許の更新を心に誓っているのを横目に、井黒を抑えた煉獄がコーヒーを呑みながら「そうだろうそうだろう、顔だけは良いんだ顔だけは。だから仕舞っておくんだ」とゲラゲラ笑っているのが不快で仕方なかった。キメツ学園はこんなんばっかりである。

「悲鳴嶼さん」
「なんだろうか」
「来週空いてますか。いい茶屋知ってます」
「え!? 何故だ!? 来週は俺とクソ映画耐久やる約束だったろう! ナチスオブザデッド借りようって言ったではないか!」
「空いているが、もう一声」
「前に言ったときは知覧茶飲みましたが点てた抹茶もありましたよ。たい焼きが美味くて近くに猫カフェあります」
「乗った。来週だな。楽しみにしている」
「俺もです。日本茶に乗り換えようと思うんでいい茶葉見繕ってください」
「浮気者ぉ! コーヒー派という俺がありながら!」
「悲鳴嶼! 殺せ! 甘露寺にした暴虐の重みをわからせてやらねばならん!」
「外野が賑やかだがいいのか」
「え? なに? なんか聞こえますか?」
「この外道が! 人格値がすべて知能に置換されたバケモノめ! ホムンクルスか貴様!? バラック生まれグランギニョル育ち嗜虐と裏切りは大体友達か!」
「井黒! 煉獄ストップだ! それ以上は俺に一撃入れてからだ!」
「これが聞こえぬようでは教員を続けるのも難しかろう」
「はははは来週あーたと茶ァしばいたら教員辞めて射撃競技に復帰します」

 校外まで響く煉獄の「橋本ォ゛ー!!」を、こちらも大学でもみくちゃにされた苦情を訴えに学園を訪れていた甘露寺が聴いていて、ああなんだ、あのひとももみくちゃにされているのね、でも仕方ないから許してあげましょうとはいかないわ、と来校者名簿に名前を書いているのを大罪人はついぞ知らないままだった。
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