紙一重
 嘴平伊之助は、大層体の丈夫な子であった。どのくらいかと言われれば、一例には下水道を通学路にして健康被害がない程度である。
 そして、体の丈夫さと同じくらい抜きん出ていた才能が、バカであった。紙に必死こいてああでもないこうでもないと書いて5分でやっと二桁の足し算ができる。だのにキメツ学園で進級ができているのは、先述の体の丈夫さにものを言わせた無遅刻無欠席と、バカではあるが話してみれば良い子なので、教科担当教諭たちのお目溢しによるものである。
 嘴平伊之助はそうやって生きてきた。いつだって目の前のことに精一杯頑張ってきた。その姿を見ていろんな人が助けてくれてここまで来ていたので、これからもこうでいいと思った。
 その人生に、箒星のように現れて全てを薙ぎ払った男と出会うまでは。

「おい」
「……」
「おいメガネ」
「……」
「……はしもと」
「先生か様か総帥閣下万歳をつけろ」
「はしもと総帥閣下万歳」
「なんだ」
「ここわかんねえ」

 夕方、職員室。
 伊之助は帰宅部である。体は丈夫だし運動もできたが、協調性が泣くほどなかったためチームスポーツの類が全くできず、かといって文化部に入るようなタチでもなかった。
 本来ならとっくに腐葉土と語らいながら虫でも探すような時間に、嘴平は橋本を訪ねた。いくら考えても宿題がわからないのである。
 橋本の辞書には落丁がある。「情緒」と「容赦」と「愛想」が抜けている。だので橋本は、今まで嘴平を手がけてきた教員の「健やかに生きてくれればそれでいい」という願いで鼻をかんでゴミ箱に捨て、代わりに参考書を山ほど抱かせてこう言った。

「甘えてんなよクソガキが。てめぇいつからそんな腑抜けだ? 力強えだけのガキが大人様に敵うと思ってんならお前とんだザコだな」

 教育者にあるまじき発言であった。
 橋本の辞書には思いやりに関する記述が抜け落ちている代わりに、罵詈雑言が5倍記載されている。人をディスることに関してこの男の右に出るものはいない、とはよりによって煉獄杏寿郎の言であった。なんとなく今までと同じ暮らしが続いていくだろうと思った嘴平は雷に打たれたような衝撃を受け、同時に昔を思い出して嬉しくなった。

「おいメガネ!」
「……」
「はしもと!」
「先生か様かナイトフィーバーをつけろ」
「はしもとナイトフィーバー!」
「ァに」
「宿題できたぞ! 丸つけやがれ!」

 記憶を取り戻した橋本は、あんまり以前と変わらなかった。記憶と人格は違う、らしい。「ヤ、だって今生親元気だし」と言って煉獄を泣かせていたのも記憶に新しい。
 そうして、前に戻って、前とは変わった橋本新平は、嘴平に個別で宿題を出してやってはそれを見る係をしている。

「ん。間違ってたのはここと、ここ。あと問7から後ろ全部」
「合ってたほうだけ言えよ」
「どのくらい間違ったかを感覚的に理解しろ。めちゃくちゃあるだろが。全部読み上げてやってもいいぞ」
「いやだぁ……」
「オラ筆箱出せ、解き直しだ」
「全部合ってると思って持ってきたから手ぶらだ。俺の何が間違ってる? 生き方か? 生き方を否定するのが教師のやることか?」
「バカもここまで来ると気持ちいいなハハハ滅多刺しにしてやろうか」

 橋本はボールペンの先を嘴平に向けて握り、振りかぶった。以前ペン先を出さない状態で肩のあたりを「これが物理だ」と刺されたが、びっくりするくらい痛い。嘴平は泡を食って「忘れました、貸してください」と呻いた。

「化学式は算数だっつっただろ、数字の他に記号が混ざってるからタチ悪いだけだ。お前ひらめきはあるんだから、もうパズルだと思え。加熱はチャンスだ。知らねーけど」

 橋本は、自分の担当している英語以外の宿題も出したが、担当以外の教科の補足に関してはけっこう雑だ。「はしもとにこれで覚えろって言われた」と素直に教師に話して、「そうだけどそうじゃなくて」と頭を抱えられたことも少なくない。けれど、そうじゃないけどそうならば、それでいいじゃねえかと思ってしまうのが嘴平少年であったので、この教え方は厳密な正誤はともかく定着させる方法としては良かった。
 嘴平は、あんなに退屈で分からなくて取りつく島もなかった勉強が、橋本が語れば壮大な歴史叙事冒険譚のように感ぜられるのが不思議で仕方なかった。こいつ頭強えな、と思う。

「おい」
「……」
「おいはしもと」
「先生か様か吸引力の変わらないただ一つの掃除機をつけろ」
「はしもと、吸引力の変わらないただ一つの掃除機」
「うるせえ誰が掃除機だ。ァによ」

 手元の雑紙に解説を書いてやっていた顔が嘴平のほうを向く。

「お前今も強えな」

 すべて聴き終わっても、橋本の顔は変わらなかった。3秒ほどして、ニマ、と人に好かれはしない笑みが浮かぶ。

「お前は今も昔も教えてて1番楽しい」

 それって、と考える前に、嘴平の目の前がふっと暗くなった。眼前ゼロ距離にプリントが突き出されている。特に考えもせず手に取ると、今回間違えた問題と似たような問題がびっちり載っていた。

「んげえ!」
「オラ呻くな、これが討伐できりゃ苦手意識とはおさらばだ」
「もう苦手だ! 勉強そのものが!」
「はぁん?」

 橋本は隣に座る嘴平の足に足をぶつけながら不遜に足を組み、背もたれにグッとよりかかった。煉獄が見れば「だらしない! 」と言いそうなものだが、そういうことがこの男はなにだかどうにもサマになってしまう。
 クッ、と顎を向け、目を伏せる。顎が上がっているので、目を伏せると見下ろす形になる。
 この男は黙っていれば絵になる美丈夫である。その男に挑発的に見降ろされ、嘴平は唇の内側にわずかに力が入った。

「俺に教えを受けててこの程度が苦手だって? ざぁこ♡」
「……あ°゛ーーーー!?!?!?」

 嘴平は条件反射的に吠え、プリントをむしり取って職員室を窓から出た。なんならガラスを突き破って出た。背中の方では阿鼻叫喚であったが、地獄なのはこっちの胸のうちの方だとキレ返したかった。
 あいつ。あいつあいつあいつ! 言うことに欠いて俺に「雑魚」といいやがった!
 嘴平は悔しくなって、上履きに切り傷まみれの体で山にカチこみ、すっかり気が済むまで走り回った。全力疾走で三時間ほどかかった。
 荒れた息をぼかぼか吐いて、嘴平は手に持っていたプリントのことを思い出した。握りしめたり汗だったりでぐちゃぐちゃになったそれをすこしずつ開いて、嘴平はとっぷり日も落ちた山の中、腐葉土の上にぺたりと座って、橋本からパクったままだったペンでちまちま問題を解き始めた。



***


「おい!」
「……」
「おいはしもと!」
「先生か様か大好きをつけろ」
「はしもと大好き!」
「そうかよ。ァに……どうしたお前!?」

 次の朝、嘴平は生来の体の丈夫さにものを言わせて、徹夜に加えて薄着の状態で山から直接登校してきた。教科書の類はもとから全部学校に置いていたし、そもそも持って帰っていない。なので、一応忘れ物もない。
 問題があるとすればその顔だった。バカなので気づいていないが、バチバチに発熱しているのである。りんごみたいに真っ赤になってふうふうハアハア言いながら、嘴平は誇らしげに昨日橋本が渡したプリントを、さも鬼の首であるように掲げた。

「できた! 苦手意識討伐だ! 首だぞ!」
「あ!? なんて!?」
「化学式! たおした!」

 橋本にプリントを見せようと声をかけ、歩き出したところで案外さっくりと限界は来た。体重移動を全く理解していない3D剛体みたいな挙動で嘴平はぶっ倒れ、登校中の生徒が慌てて担いで保健所に連れて行こうとしている。確かに保健所にも一回連れて行った方がいいだろうが、今は一旦保健室でいいとおもう。そんなことをぼんやーりツッコミながら、橋本は足元に流れてきたプリントを拾って、三回じっくり読み返し、こちらも熱に浮かされるように呟いた。

「……全部合ってる」







 嘴平はバカだが同じくらい体が丈夫なので、一時間目だけ寝ちまえば熱も下がっちまった。保健室のベッドの中で、これからの予定を立てる。「二時間目体育だから授業出る」と保健室のドアを破壊して体育館へ飛び出すことにした。なんたってここには保健委員の胡蝶がいる。嫌いではないが、たまにちょっとおっかない。まして、今回嘴平はバカなりに無茶をした自覚があったので、怒られやしないかとちょっぴりビクビクしているのだ。

「伊之助くん、起きましたね?」

 嘴平は口元までかけた布団を両手で握ったまま、背筋だけで2センチ跳んだ。えらいびっくりしたのである。胡蝶はエスパー毒フェアリー虫のわざを覚えるタイプのモンスターなので、考えていることがモロバレしてしまう。バレた以上、隠す方が怒られるので嘴平は素直に「おきた」と言った。
 胡蝶は嘴平の寝ているベットのカーテンを開けないまま応える。

「今回私は怒りません。もう一度熱を測って、6度代なら出ていってください」

 どきどき言葉を待っていた嘴平の額に、天井とカーテンの隙間から投げ込まれた体温計がスコンと刺さる。もぞもぞ脇に挟んでぼんやりしていれば、胡蝶が保健室を出ていく気配がした。
 が、嘴平はビックリ人間である。具体的には触覚がえらい冴える。嘴平はまだ自分以外に1人いるのを知覚して、マ俺滅多に来ねえけど具合悪くなったヤツとか、保健室登校ってののヤツだろうとなんとなく考えて、体温計が鳴るまえにベットのカーテンを開けた。

「うお?!」
「よう」

 保健室にいたのは橋本だった。暇そうにベンチで足を組んでスマホを見ていた。

「下がったか?」
「……まだわかんねえ」
「そうか」

 橋本はスマホを仕舞うとゆっくり立ち上がり、嘴平の眼前にプリントを一枚差し出した。今朝掲げていたものである。でかでかと花丸が描かれているのを見て、嘴平のぼんやりしていた頭は急激にシャッキリと冴えた。

「頑張ったな。これからもその調子」

 プリントを受け取ってハワハワしている嘴平に飴玉をひとつ投げてやり、頭を雑にかき混ぜて、橋本は保健室を去った。

「……へ。えへへ」

 嘴平はぐっちゃぐちゃになった頭もなんのその、花丸が嬉しくて、体温計が鳴ってもぐっちゃぐちゃな顔のままでいた。
 二時間目の体育には遅刻したが、未だ健在の丈夫さにものを言わせた皆勤賞は何とか守られた。なぜって、この花丸を早く炭治郎たちに自慢してやりたくて、小一時間後には人間台風となって校内を駆け回ったためである。
 この報せを聞いて、煉獄は笑ったが橋本は頭を抱えた。やはり容赦はするべきでない。あれは叩いただけ強くなる手合いであった。

「アハハハハハハアハハアハアハ。元気だなぁ」
「まだ熱出てんじゃねえのかあれ……」
「お前の飴が効いたんだろう。つくづく調教がうまいものだ」
「聞こえが悪いから言い方変えろ」
「麻薬みたいな男」
「もっと悪い」
「ご褒美」
「何? マジで」

 ついには校庭に出て砂を巻き上げタイフーンになっている嘴平を遠目に、橋本は頬杖つきながら乾いた笑いを吐いた。あれ怒られるってなったら最終俺んとこ来るんだろうか。理不尽すぎる。
 メガネの奥でキュ、と目を細め、橋本は嘴平を見た。泥まみれ汗まみれの顔は、宝物を自慢するクソガキそのものだ。

「満点がそんなに嬉しいかね。嬉しいもんだが」
「ははは人格破綻者め」
「いきなり全力で殴るじゃん。何?」

 煉獄はカカカと笑って口を閉じた。嘴平が巻き上げた砂埃が口に入ったらしかった。

「猪頭少年が嬉しかったのは、お前からの満点だろうよ」
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