それがクライマックス

白魚のようなその足が、思った以上に絆創膏にまみれて、ああ痛々しいな、と思ったのを、その下の肌と同じだろう髪の色を、よく覚えている。



自転車のスタンドを跳ね上げる。交番の蛍光灯を背に跨ったサドルは先ほどの雨で未だ湿気っていた。
制服警官になって日も浅い。日課のよく言えば自主パトロール、正直言えば点数稼ぎのツーリングだが、思いの外泥酔したサラリーマンや道端で喧嘩しているバカをしょっぴけるのである程度効果を上げている。いつものように電灯がちらつくヨコハマへ繰り出した。

閑静な住宅街を抜け、繁華街を一通り流し、再び交番への道を走る。前輪のライトがガリガリと音を立てる。初夏の油臭い夜霧の先に、違和感を覚える人影を見た。
若いサラリーマンだった。公園の入り口のポールにしゃがんでもたれかかっている。金曜の夜なのもあって、泥酔しているかと思われたが、声をかけるとすぐに青白い顔が向けられた。

「こんばんわ、何されてるんですか?」
「う、あ、こん、こんばんわ。ええと」

若いサラリーマンは私の制服を見て、青白い顔を更に青ざめて、急いで立ち上がろうとしてつんのめった。砂利についた掌をかばってもんどりうつ。

「ああ、大丈夫ですか?どうされました?」
「大丈夫です、ごめんなさい、すぐ帰ります、大丈夫です、すみません、ご苦労様です、では」
「落ち着いてください、なにも取って食おうってわけじゃありませんよ。今ケガされたでしょう、詰め所がすぐそこなので簡単な手当てだけでもされて行きませんか」

そんなに握り締めたらどっちの手も痛むだろうに、パニックらしい若いサラリーマンは掌を指先が白くなるほど握り締め、ぎくぎくと怯えている。手当て、の言葉にわずかに脚をこわばらせ、「絆創膏だけいただけたら」と不器用に答えた。
話がついたと思って、こちらですと自転車のハンドルを切り返すと、おとなしく立ち上がりついてくる。が、歩き方が恐ろしくぎこちない。最初に見たときにヘルプマークの類がないかざっと見たが、目につかないところにあったろうかとも思った。

「足、どうかされました?」
「あっあの、え……」

若いサラリーマンは、むごむごと口ごもったあとに蚊の鳴くような声で「靴擦れ……」と言った。なるほど。靴は真新しく、新卒らしい。慣れない靴で歩いたのだなと思い、「ほんとうはダメですが、後ろ、どうぞ」と荷台を指した。

「野郎ですいませんが、手、回してください」

促すと、おずおずと手が伸びる。正直こんなことに時間をかけてはいられない。イライラが募りつつある。慎ましい腕を毟り取って腹に回す。
自転車を漕ぎだしても、腹に回した手に力は込められなかった。極度の遠慮しいなのか、はたまた潔癖か。イライラする。

「あの、落ちられても困るんで、腕ちゃんとしてもらえますか。一人寄りかかったくらいで転ぶような人間だとでも?」

後ろの若いサラリーマンが息を呑む。「す……」とかなんとか、いろんなことを言っているが、耳元で風が鳴り続けて聞こえやしない。腕は依然としてゆるく回されたままだ。イライラする。転倒しない程度に急ブレーキをかけた。背中に若いサラリーマンの頭がぶつかる。

「すッすみませ……」

サラリーマンは慌てて頭を離す。鼻で深呼吸をして、後ろを振り返る。サラリーマンが飛び上がった。

「ちゃんとしてくださいと言いましたよね?見たところたとえ私がここであなたを叩き落としても苦情を入れるような人じゃないとお見受けします。こちらの指示が聞けないならここで叩き落としても私は構わないんです。わかったら腕、力入れて、ついでに私の背に頭突きでもしててください」

イライラしているとはいえ、思ったより棘のある声が出てしまった。弱い返事の後に腕に力が込められ、背中に頭が預けられる。それでいい。再び自転車を漕ぎだす。


付けっ放しにしていた電灯に迎えられ、自転車を停める。中で簡単に事情聴取をすると、以外にも若いサラリーマンは同い年だった。名前も奇妙奇天烈、観音坂独歩というらしい。人間どんなのがいるかわかったものではないなと思う。自分の名前が言えた話でもないが。

「歓迎会だって、連れてこられて、どうしても一緒には帰りたくなくて、明日は休みだし寝れると思って最悪歩いて帰ろうと思ったら、足、だめで、わりと距離もあって、どうしよって」

先ほど擦りむいた掌に消毒液を吹きかけられながら、観音坂が言う。自宅はシンジュクらしい。ここから歩いて帰ろうとは以外にもガッツがあるなと思った。頓挫しているわけだが。

「ああ、じゃあ足もですね。診せてください」

観音坂がびくびくと靴を脱ぐ。かなり痛めたらしい。恐る恐る靴下を脱ぐ仕草は、苛立ちも怒りも一周回って、哀れみすら覚えた。
晒された足を見て思わず目を剥いた。エグい。最初に靴擦れした箇所を庇いながら歩き続け、別の箇所も痛め、なおも歩いてきたのだろう。小指、甲、かかと、あらゆる場所の皮がべろりと剥がれ、靴擦れではお目にかかれないほどの血を滲ませている。

「これで歩いて帰ろうと!?バカか!?」
「ごごめんなさい、そうですよね、ご迷惑おかけして、すみません、どだい無理な話だったんです、ごめんなさい」
「謝罪だけはスラスラ出てくる口だな!いいからこっち出せ!」

思わず声も張るというものだ。救急箱を食いつぶされると思った。観音坂も観音坂で、ここまでひどいとは思っていなかったらしく、うっ、と口元を押さえた。飲み会だったと言っていたか、いつ吐いてもいいようにゴミ箱をスタンバイさせる。呑むと青ざめるタイプか。

「いっ、い……」
「どこか掴んでろ」

そう言うと観音坂は恐る恐る私の肩に手を置いて、ぎゅうと握った。下唇の裏側を食みながら、青白い顔をしかめる姿に、両手は塞がっているにも関わらず、肩に置かれた手を握ってやりたいと思った。



手当てが終わると、酔いが回ったのか抜けたのか、はたまた脳内麻薬が切れたのかもしれない。ひどくぐったりとして膝を抱えた。当初の歩いて帰るも完遂できそうになく、そうこうしていたら終電も逃してしまっていたので、タクシーを呼ぶ前に飲み物でも出そうと給湯室に立つ。
そうして、自分がさっき何を思ったか思い出した。野郎の手を取ってやりたいだと?しゃんとしろ入間銃兎。頬を軽く叩き、紙コップを両手に戻る。

観音坂は足の甲を指先でやわく引っ掻きながらぼんやりとしていた。紙コップを差し出すと「あ、」と顔を上げ、抱えていた膝を下ろした。
両手で紙コップを持つ観音坂を見て、ふと胸ポッケを弄る。相棒のマルボロはまだ余裕がある。

「吸いますか?」

ボックスを開けて差し出す。観音坂は鳩が豆鉄砲食らったような顔して、「いただきます……」と言って一本引き抜いた。もしかすると観音坂は呑むと青くなるタイプではなく、今のように上司の酒を断れずに青ざめるほど飲まされまくったのかと思った。今目の前にいるのが成人男性ではなく保健所から引き取った傷だらけの子犬のような心地がしてきた。
自分の一本に火をつけて、ライターを差し出す。タバコの吸い方を知っている風だ。見かけによらず喫煙者らしい。自分のデスクの引き出しから灰皿を引っ張り出すと、意外そうな目で観音坂が見ていた。

「どうかしました?」
「いえ、引き出しに入れてるの珍しいなって」
「ここ原則禁煙ですからね」
「えっ」

タバコを挟んだ指をオロオロさせているのが面白い。「いいんですよ、私しかいませんし、引き出しに常備してる時点で普段どうかお察しでしょう」と笑って一息吸うと、観音坂も「はあ……」と一息吸った。普段は違う銘柄なのか、少しぎこちなく紫煙を吐いて、呟く。

「不良警官……」
「は?」
「あっいえ、2ケツするしタバコ吸うし、ちょっと思って、ごめんなさい俺」

そこまでまくし立てて、吐ききっていなかった紫煙で噎せる。忙しい男だな。

「そんな不良警官に職質されてるあなたも大概ですよ」

そう笑うと観音坂は「はは……」と頬を緩ませた。そんな顔も出来るんじゃないか。警察学校の頃同期がやってた恋愛ゲームの相手くらい顔が変わらないから、人間を相手している心地がしなかった。そう思って、足の傷の熱さを思い出す。私は何を思っているんだ?彼も間違いなく人間だ。青白い顔で微笑む観音坂があんまり儚いので、何かと勘違いしているんじゃないか。


たっぷりゆっくり一本吸ったところで、給湯室で呼んだタクシーが交番の前に停まる。ぎくしゃくと靴を履く観音坂に手を貸しながら、顔を盗み見た。
この非日常感にわずかな安寧を見出していたのは自分だけではないらしい。自分を現実に連れ戻す死神でも見るような顔で観音坂はタクシーを見ていた。送り出す直前、観音坂にメモを手渡す。

「私の名前と番号です。何かあれば相談くらい乗りますよ」

入社して間もないだろうに、条件反射的に胸元に手をやる観音坂を見て、死ぬな、と思った。このまま放り出したら取り潰されて死んでしまうだろう。たかが小一時間を共にしただけだったが、死んでほしくないと思った。もはや祈りに近い。頼って欲しい。
受け取った真新しい名刺には、会社専用らしい番号とアドレスがあった。
観音坂を現実に送り返す霊柩車が音もなく走り出す。テールランプの赤を見て、彼の髪も赤かったな、と小学生みたいな感想を抱いた。

それから数度、飲み会の帰りやプチ逃避行らしい彼を職質してはタバコをふかしたが、いつからかぱったりと会わなくなった。死んだかもしれないし、忘れたかもしれない。それならばそれでいいのだと思った。





「あの不良警官さん……!」
「思い出し方がアレですが、覚えていてくれたようで」

数年が経ち、いろいろな経緯を経てMTCに所属する私が観音坂と再会したのは、奇しくもテリトリーバトルの会場だった。目の隈が張り付き、窶れた顔の彼を見て、自分の体を巡る血が温かくなっているのを認識した。
その日の晩、ふと思い立って名刺入れを弄った。物持ちがいいのが自慢だ。最初に会った時に貰った観音坂の名刺を抜き出し、気まぐれに「あれから足の具合はどうですか?」とメールを送った。
数分後、画像が送られてくる。素足の写真だった。「おかげさまでよくなりました」とあるが、大昔絆創膏を貼ったあたりはあれ以降も靴擦れしたのか、色素が沈着している。相変わらず、というか、一層悪化した痛ましい足だった。
何ともいえず目を細めていると、追伸が届く。

「今、俺もマルボロです」

今度こそ目を閉じた。彼は、あの日より儚くなった。

「おかげさま、ね」

ふと、左馬刻への用事を思い出し、メールのアプリを閉じて部屋を出る。ホテルの廊下から見える中王区の街灯りは美しかったが、あの日彼を照らした安い蛍光灯の方が、なぜか好きだった。