腑、健康

 我らが天才様はその明晰な頭脳に全てを捧げたかと思えば、案外俗っぽいところもある男である。

 加藤侍は有川ユンをそう評していた。そういうものにさっぱり興味がないかと思えばラ丼を頼んだりするし、ジュースも飲む。甘いものが好きで、ブラジルに行けば大体飯より先に甘いものを頼むか、飯そっちのけでアホみたいなパフェを食っていたりする。

「かと思えば、絵に描いた天才みたいなこともするんだよなあ」

 時は深夜、ところはオオタキファクトリー事務所。侍は両手に持ったカップ麺をそろりと置いて、目当ての人物に近づいた。

「おーいユン、起きろ。ちゃんと起きなくていいけど、寝床までだけ起きろ」

 ユンが事務机に突っ伏して寝落ちている。おそらくキーボードを避けるためにグニャリと変な姿勢で眠っていて、このまま放っておいても腐っても逃尾男児、翌朝風邪は引かないだろうが、間違いなく背筋とかをやる。そんな寝方だった。

「起きろお〜。今お前に潰れられちゃ困るんだよ〜。お湯入れちまったけどこれはもう俺が食うからちゃんとしたとこで寝ろ〜」
「……んむ……」
「起きたか? 食うか? もう寝るか?」
「……宇宙空間は広辞苑では一般にふつうの航空機が飛べる高度約30キロメートル以上の空間と規定されているが哲学にも同様の語句はあって時空内に秩序をもって存在する事物の総体またそれら全体を包むひろがり、コスモスの語源のギリシャ語は元来秩序とかそういう意味でカオスに対立する概念……」
「あダメかこれ」
「食べる……」
「じゃあシャンとしろ。箸ここだぞ」

 まだ半分以上夢の世界にいるユンになんとか箸を持たせて、侍は自分のカップ麺のふたを開けた。深夜の味噌は罪の味。だからこそ甘露である。

「……人間が全員いなくなったら、宇宙はどうなると思う」

 先ほどまでよりかは少しだけマトモな顔をしたユンが、カップ麺のふたを指先でパチパチ弾きながら呟いた。

「そりゃ、その後もあるんじゃねえの」
「たぶんそうだろう。絶滅した動植物、民族、言語、それ以外のものは今日まで続いてる。宇宙も残るんだと思う」
「じゃあ、宇宙は明日もあるんだろ。食っちまえよ、伸びるぞ」
「でも人間原理では別だ」

 ユンは伏し目がちにカップ麺を見つめ続けていた。伏せてあるだけで、その瞳にすっかり闘志が戻っていることは侍も気づいている。気づいていたが、促す意図で黙って麺をすすっていた。

「宇宙論で用いられる科学思想のひとつ、人間原理。おおまかに言えば、宇宙が存在しているのは人間がそう観測したからだ、という考え方だ」
「認識と物理の順番があべこべじゃねえか?」
「そう。物理を認識するんじゃなく、認識が物理を創ってる。実際色の青が人類史に登場したのは人間が空や海を青だと認識できて以降の話、わりと最近だ。鶏が先か、卵が先か」
「その「わりと」、なん百年単位だろ」
「ルネサンス以降だから、14世紀とか」
「大昔だな。ラーメンが容器ごと風化しちまいそうだ」

 言っている間にも、侍はすでに麺をあらかた平らげてしまったのに対して、ユンはやっとふたを剥がした。まだ衰えていない湯気がユンの眼鏡を曇らせる。

「で、そんな大昔の話だの、宇宙の話だのがどうしたって」

 促され、しかしユンは押し黙った。黙ったままふたを剥がし切って、眼鏡を真っ白にしている。大層見づらそうだなあ、と思ったのもつかの間、ユンは真っ白な眼鏡を乗せたまま侍を見た。

「侍が見えない」
「そうだろうな。拭けよ」
「見えないってことは、今俺は加藤侍を観測できてない。俺が視覚で認識できる世界に、加藤侍が存在しなくなっている」

 ゆっくりと透明度を取り戻していく眼鏡の奥で光るユンの瞳は、至極真剣そのものだった。天才様が本気で狂言をやっている。しかし、侍はこの天才様が存外ロマンチストなことももう知っていたので、容器に残ったスープを飲み干して向き直った。

「……何してた?」
「……ジェットジャガーの、最強プロトコルの見直しと、カミムシからのチャットを読み返してた。MD5ハッシュ、不可逆の暗号。姿勢制御ジャイロの遺伝子学習」
「数字の世界にいたんだな」
「……たまに、本当にたまにだが、プログラミングに没頭しすぎてるとき、自分が計算の中に溶けていくような感じがある。その時、俺は肉体ごと電子の世界に行くだろうか? 精神だけ? 精神だけなら、現実に残された有川ユンの肉体は有川ユンと言えるか? そんなことを考えて、その、少し……怖くなった」

 およそひと月前、幽霊屋敷で謎の歌を聞いたあの日から、ユンは世界の存亡をかけた謎解きに巻き込まれている。実際無傷で済んでいるのが奇跡みたいな事件事故にも巻き込まれ続けていて、ユンを「相棒」と信じる侍も内心気が気ではなかった。
 ユンの眼鏡はもう曇っていなかったが、ユンと侍の間には、未だなお微かに上る湯気がある。
 侍は湯気ごしにユンの顔を見て、唇を押し曲げながら黙って席を立った。湯気の向こうで無言で残されたユンが微かに視線を上げても、見えるのは暗がりに消えていく見慣れた大きな背中だった。
 気分を悪くさせただろう。ユンは上げた視線を再び落とす。湯が注がれてから時間が経ってしまったカップ麺は伸びてしまっていて、疲れから気落ちしてしまったメンタルに追加で爪を立てる。寝るでも起きるでもなく、相棒を傷つけて、カップ麺すら伸びきらないうちに食べきれない。ユンの内にはじわじわと無力感が満ちていた。眼鏡も再び湯気を受けてすっかり曇っている。今までの人生に対して裸眼だったころのほうが短いユンは、これを封じられてしまうともう何も見えなかった。

「もんだァい」

 不意に。場違いなほど朗らかな声とともに、眼前になにかが投げ込まれた。ユンは驚いて固まったまま次の情報を待った。

「今お前のラーメンにチョイ足しした、味噌ラーメンに超合うトッピングと言えば」

 侍の声だった。ユンは突然、しかも珍しく侍から始まったクイズに困惑しながら手がかりを探す。独特の臭気、曇ったレンズ越しに見えた色味は黄色っぽい。いや白? 明るいベージュ? 侍がよくラーメンに足すトッピング。あらゆる推理から、不本意ながら超現場主義探偵有川ユンは答える。

「……バター?」
「でーすーがー、それを持ってきたのは?」
「侍」
「せいかーい」

 再び朗らかな声とともに、ユンの視界は乳白色から一気に色彩を取り戻した。色彩は戻ってきたが、ピントが少しも仕事をしない。肌感覚から推理すると、侍がユンの眼鏡を取り上げたらしかった。

「おい!」
「なーにカップ麺ひとつで難しく考えてんだ。お前疲れてんだって。それに、お前が消えたって俺が残ればお前を覚えてる人間がかならず一人いるし、逆もそうだ。そうだろ。俺がお前を、お前が俺を、そのー人間原理? とやらで存在してるってのの証左にしちまえばいい。考えがいちいち壮大なんだよ、だから不安になるんだろ」

 だから、ほい、と侍はユンによく拭かれた眼鏡を返し、再び箸を握らせた。明瞭な視界で見たカップ麺は侍のと同じ味噌味で、先ほど乗せられたバターがとろりと融解して、なんとも暴力的な見た目になっている。ユンはすっかり忘れかけていた空腹が頭をもたげたのを感じた。

「そりゃお前とカミムシが謎を解かなきゃ世界は滅ぶのかもしんねえさ。でも飯んときくらいはいいんじゃねえの? ハベルスペシャル食って、ゆっくり寝て、難しいことはまた明日考えりゃいいさ」
「……そうかな」
「そうだよ。ほら溶けきっちまうぞ」
「そうか。じゃあ、そうする」

 そうして、さっきまでのしおらしさもどこへやら、ものの数分で具を食べきったユンがキョロキョロ見回すので、侍は「冷や飯も持ってきてる」と悪い笑みを浮かべた。

「ハ、相棒、お前最高だ」

 ユンは笑った。その笑い方がなんだか雪解けみたいで、侍は胸中で「今日は夢見がよさそうだ」と思い、少しだけ不健康な夜は更けていった。