不健、光

 かぐや姫は五人の男に求婚を迫られ、それぞれに無理難題を突き付けて叩き帰しました。
 仏の御石の鉢。火鼠の皮衣。龍の首の玉。燕の子安貝。
 そして、蓬莱の玉の枝。
 男たちはみな一様に宝物を探しに繰り出し、失敗したり命を落としたりしましたが、蓬莱の玉の枝だけはかぐや姫のもとへ届けられました。
 贋作としての蓬莱の玉の枝は、いみじくも美しい出来であったそうです。


***


 きっと大丈夫、きっと大丈夫。
 俺たちは同じくらいの苦難を、ほぼ無傷で生き延びたから。

 侍は野次馬に一時おやっさんを預け、走った。それはもう奔った。はしらなければならなかった。

 きっと大丈夫、きっと大丈夫。
 あいつなんかきっと、殺しても死にやしないから。

 ゴルフ場の駐車場は普段閑古鳥が鳴いているくせにだだっ広くて、そのくせ今日ばかりは眠る車たちでにぎわっている。まっすぐ走れない。直線距離を通れない。煩わしかった。

 きっと大丈夫、きっと大丈夫。
 あの晴天を切り抜いたふたつの窓が、なんともなかったみたいに俺を見るから。

「――ユン!」

 駐車場の一番奥、巨大な怪獣の陰にそのひとはあった。「ああ今度こそは」とは、きっと気を違えても思わなかった。ここ最近は悪い予想だけがぴたりと当たる。思えば最後、現実として襲い来るのを、侍は無意識に惧れていた。

 きっと大丈夫、きっと大丈夫。
 あの青は、だってあいつの色だ。あの白は、だってあいつの色だ。

 怪獣がつくった血だまりを飛び越えれば、そのひとはきれいなかたちで横になっていた。無意識に避け、しかし避けきれなかった最悪の想像よりは、ずっときれいだ。

「ユン! おい!」

 侍のなかに大きな希望の灯が燃えた。ユンは思っていたよりずっときれいだ。何も損なっていないし、何も失っていない。きっと今回も大丈夫だったのだ。

「ぇふ」

 侍がユンの肩を揺さぶった瞬間、ユンは細く鳴いた。泣き声に後れをとって、薄い唇からどろりと汚泥が零れる。
 泥? なんで泥なんか吐くんだ。ちょっとよくわからない。ここはひとつ、天才様の意見を聞かなければ。

「ユン、ユンなんだこれ。どうした。大丈夫か」
「ひゅ、ふひゅ。ごろろ」

 侍がどれだけ呼びかけても、ユンから明瞭な日本語が返ってくることはなかった。どうしてだ。ユンはきれいなかたちなのに、もしや中身だけシェイクされちまったんだろうか。
 ユンは胸の中からごろろ、ごろろ、と雷鳴のような音を立てて、細く開いた口からたらたらと泥を吐いた。
 よくわからないことが起きている。あの青が見たい。ユンの目が見たい。あの青が不安を何もかも晴らしてくれるはずなのだ。
 侍はユンの目が見たかった。ユンの頬に手をやって、顔をこちらに向けさせようとして、ユンの吐いた泥に触れる。
 血だった。



*****


 ありとあらゆる骨を折ったらしい。特に肩甲骨と肋骨をいっぺんにやったのと、折れた肋骨が肺に刺さったのがよくなかったらしい。
 かつて大滝吾郎がそうしたように、ユンが看護師や病院の制止を振り切ってオオタキファクトリーに顔を出す、なんてことはなかった。
 さらに言えば、背中から落ちたせいで頸椎圧迫がなんとか、第なん腰椎がどうとか、侍には荒唐無稽すぎてよくわからないが(これをユンの前で漏らすと怒涛の解説が飛び出る)、ユンは一人で立って歩くのが難しくなったそうだ。

(とはいっても、あいつ大体外出るっつったら俺の運転で2ケツするし、工場でもほとんど座ってパチパチそろばん弾いてるしなあ)

 あんまり変わらないんじゃないか、今までも、これからも。そうして容体が安定したので面会がオッケーになったとかで、侍は逃尾の大きな病院を訪ねていた。
 火薬入り捕鯨砲の炸裂をあの距離で浴びて落っこちたわりにはケガが少ない、というのが、担当医の言であった。侍もそこだけはなんとなく覚えている。
 だってほんとうに失われてしまうかと思った。
 思わず足を止めてしまい、はっとして頭を振る。これも何度目だかわからない。ふとした拍子にそんなことを考えて、病室へ向かう足が止まる。侍が必死こいて考えまいとしている「最悪」は、ニアリーイコールで「現実」であったのかもしれなかった。

「あら、オオタキファクトリーさんの!」
「はい? あ、えーと……副町長さん」

 声をかけられて振り向けば、あの日ユンの隣で「かっ飛ばせ」と声を上げていた妙年の女性がいた。手には切り花と果物の入ったカゴがある。彼女もまた見舞いに訪れたらしかった。
 副町長は「これ幸い」と「心苦しいけれど」の間の顔をして、侍に見舞いの品を差し出した。

「申し訳ないんですけれど、これお願いできるかしら?」
「え? いいですけど、行かないんですか」
「やっぱりその、同じお勤め先の方が見えられた方が喜ばれると思うから」

 副町長はすっかり空いた手を頬にやった。高齢者も少なくない逃尾で、侍はそのしぐさに覚えがあった。これは「フリ」だ。

「あー、じゃあ、代わりに持っていきますよ。わざわざご足労いただいちゃってすいません。あいつ甘いもの好きなんで、喜ぶと思います」
「そう? 本当ごめんなさいね。困ったことがあったら言ってちょうだいね、力になりますから」
「助かります」

 こんな時代にもなってこんなこと思う自分もどうかしてると思うが、やはり女性は芝居がうまいな。侍はかんかん照らす太陽の光に呑まれていく副町長を自動ドアごしに見送って、外と比べればわずかに暗いロビーに立ち尽くしていた。





 とはいえ、ユンは功労者であった。侍は生まれてこのかた大病をしたことないので詳しいことは知らんが、それでも「いい個室もらってんなあ」と名札を見ながら思った。

「有川さーん、有川ユンさーん、面会の方がいらっしゃってまーす」

 案内をしてくれた看護師は疲れた声で言った。ラドンの襲来から、この町で儲かっている業種はと言えば病院、保険屋、住宅関連、あとは葬儀会社であった。侍は割増しで丁寧に礼をして看護師を見送る。

「……ユン?」
「はべる。来たのか」

 そういう魔性かと思った。以外にも白一色ではない部屋で、天蓋みたいにカーテンが揺れる。隅々まで整えられた寝台の上に、そのひとはいた。
 大仰な機械を従者のようにいくつも連れて、その全てから伸びるチューブを御者のように一身に繋いでいる。正しくは繋がれているのはユンのほうで、これがなきゃ死んじまうんだろうが、何を差し置いてもすべてを支配しているように見えた。真夜中だけに咲く砂漠の白い花とか、掃き溜めに鶴とか、いろんな言葉が侍のなかで浮かんでは消えていく。どれも今の有川ユンをあわらすには不適だった。

「ここはヒマなんだ。やることがない。なにかてきとうにクイズでも出してくれ」

 ユンはガッサガサの声で言う。もとから大声で喋る性質でなかったとはいえ、輪をかけて小さな声で喋る。幻聴かと思って黙っていると、ユンがしびれを切らしたようにもう一度言う。

「棒立ちしにきたんじゃないだろ。なにか喋ってくれ。なにもなくてヒマなんだ」
「……あ? あえーと、じゃあ、これ入り口で副町長がくれたやつ、これがさとみさんが持たせてくれたやつな。これはおやっさんからで、これがみつよのおかみさんが」
「待ってくれ、今腕一本しか使えない」

 あっけに取られていたのを気づかれるのがなにだか気恥ずかしくて捲し立ててしまったが、ユンは吊られていないほうの腕で「待て」をする。再度はっとして、侍は振られた腕の細さに絶望した。
 自分と比べれば世の中の大半は細腕なのだが、それでも機械仕事だ何だでうっすらと筋肉のついていた白い腕が、あまりに細くなっていた。

「……腕、細くなったなあ」

 ぽつ、と呟く。ああフォローしないと、もう戻らないみたいな言い方をしてしまった。退院したら戻さなきゃな、とか、忙しくなるから放っといてもまたつく、とか、なにか、なにか言わなければ。

「脚はもっと細くなるぞ」

 ユンは微笑んで言った。その笑い方があんまりにも花みたいで、侍は何も言えなくなってしまった。
 侍が一人で絶望しているうちに、ユンは片腕でたくましく見舞いの品を検分している。侍の混乱をなだめるように増えた口数が、逆につらかった。

「……お前さ」

 俯いてどこも見ないまま、侍は口を開いた。なにか言わなければどうにかなりそうだった。それも、嘘っぱちでも希望にあふれているような。ユンは普段こんなに喋らない。推理や理論は止めても流れ続けるが、こんな与太話や世間話だけを滔々と喋るなんてことはなかった。きっとユンも同じなのだ、なんとか同じ方向性で話をしたかった。

「お前、なんか食いたいもんとかないの。みんなお前甘いもの好きだろーって色々持たせてくれたんだ。言ってくれりゃ俺が剥くし」
「意外だ。パイナップルとかも剥けるのか?」
「できるできる。お前アレだよな、だいぶ昔だけど剝いてない状態のパイナップル見せたらびっくりしてなかったっけ」
「知ってはいたが、あれが缶詰とかで見るあの形になるのにわかに信じがたかったんだ。思ってたより可食部が少なくて」
「びっくりポイントがそこかぁ〜。切り身が海泳いでると思ってる子供かよ」
「これから逃尾じゃそういう子供も増えるかもな」
「ハハ。世も末か」
「実際末法だ。逆に新時代のスタンダードになったり? 細胞片の再生技術を応用した部位のみの養殖、というか培養産業が発展したりして」
「お前が言うと洒落に聞こえねんだよ」
「わりと本気で言ってるからな」

 しばし、結局世間話だったが、ユンの口から快活な言葉が聞けて、侍は自分でも驚くくらいほっとした。あの日の不明瞭な言葉が思いのほか深い傷になっていたらしい。思わず楽しくなりかけて、しかし再び「でお前なんか食いたいもんないの」と問えば、ユンはしばし凪のように黙って、ぽつりと呟いた。

「……ハベルスペシャルが食べたい」

 そのあと、どうやって帰ってきたか、侍に一切の記憶がない。帰ってきてからすこし泣いたことだけは、涙の跡が証明していた。
 玉体とか、柳の枝とか、人を何かに例えて言うのは古今東西よくあることだったが、有川ユンを評するなら、蓬莱の玉の枝だと、暮れなずむ夏空の下でそんなことを思う。
 砂漠の花でも掃き溜めの鶴でもない。有川ユンは加藤侍にとっての蓬莱の玉の枝であった。怪獣の見た目をした商人が代金を請求に来るまでは。
 肺に穴の開いた人間が、カップ麺なんか啜れようものか。あの夜は、宝物は、帰ってこないのだ。侍は西日の差し込む給湯室で湯を沸かしながら、今ひとたび泣いた。