10.宵越しの愛は持てない
 ツケ、というのは、いつどんな時でも、どんな相手にもいずれ回ってくるもんである。
 犬岡は昨年海にもらったテーブルゲームの手札を手遊びながら思った。通貨の発明。それまで物々交換で済まされていた物流に登場した概念。
 何かを得るには何かを失わなければいけない。差し出さなければいけない。得るとは、何者かから差し出される、ないし「買い取る」ことだ。

「ごめんな、面倒なこと遺していくけど」

 ゴミ捨て場の決戦が終わった。音駒高校は3回戦で烏野高校とぶつかり、世界にはなんの影響もない、しかして待ち望んだものにはこれ以上ない名勝負として記憶される試合が、終わった。三年生は引退し、年度内最後の期末テストも終わった。世界史はちょびっとだけ成績が上がった。あとは次の春を迎えるまでの消化試合みたいな日々の中で、犬岡は海から"美化委員会"の席を託されていた。
 あれから少しずつ理屈や使い勝手を覚えている、このよく分からない体質や特性は、その道のものには随分と重宝されるものであるらしい。その割に海は以前と変わらずスパルタだ。
 引き継ぎ、というのを支度していると海は言った。額面通り受け取ればそれは、ただしく「引退」のための準備であるのだと思う。音駒を去るために、残される者のために、さまざまなノウハウを残しているのだと思う。
 犬岡は、どうしようもなく引っかかっていた。海の口ぶりは正しくただの引き継ぎなのだが、どうにも気にかかる。
 手札を裏返す。通貨が開発されたのは、紀元前のことらしい。途方もなく昔の話だ。
 結局まんじりともしなくなってしまって、犬岡はカードを選り分けて片付けた。いくら賢くなっても、こればかりは本人に訊いてみなければわからない。訊いても教えてもらえるかわからない。
 海がああなるまでに支払ったものは何なのか。これから支払うものは何なのか。


*****


「研磨ァ! 色紙はよ書け」
「声がでかい。自分から言うのどうなの?」
「黒尾さん黒尾さん黒尾さーん! お久しぶりです! 夜久さんいないんすか?!」
「いないよー。いたら飛び蹴りが炸裂してる」
「あれ、無くなったら無くなったで寂しいもんですよ」
「本人に言ってやれよ。喜ぶぞ」

 たかが、されど。三年生が来なくなった部室は、それでもたかが三人が来なくなっただけとは思えないくらい閑散とした気がする。いつも側にあった、自分より少し低い存在感を思う。
 一年たちがなんか寂しいですってさ。そんな話を研磨から聞いてはいてもたってもいられず、黒尾は久々に男子バレー部の部室に顔を出した。
 現役の頃はテスト期間で立ち入り出来なかっただけでずいぶん長くお預けされたような心地だったのに、引退や卒業ともなれば文字通り永遠の別れに等しい。中学で一度経験したとはいえ、なんだかモニャモニャした心地がするもんである。たぶんエモとかいう。
 おセンチはさておき、黒尾はある目的のためも兼ねて部室をひとりで訪れていた。

「なー黒尾ー、身内信じるっていいもんだよ。お前には今更かもしんないけど」

 春高が終わり、部活も引退した矢先になんとなく出かけた際に出くわしたデカい赤子、木兎の言である。
 こいつ変わったなと思う。人を試さなくなった。
 策士で名を馳せる黒尾は、木兎の変化を「充足」と読み解いた。満ち足りた。そんなことしなくてもいいと気がついた。
 同時に、木兎が、なにか「力のようなもの」を失っていることにも気付いていた。
 あいつが充足を得るために差し出したのか、差し出した末に充足を得たかまでは知らない。ただ、その「力みたいなもの」に、黒尾は心当たりがあった。

「まーったく。蚊帳の外とか寂しいんだから」

 部室を出て、ひとりごちる。黒尾の背後には、昨年新しくなった部室のドアがある。長らく建て付けが悪く、苦労したものだった。

「コツがいるんだ」
「真新しいドアにかよ」

 初夏。海が幾度となくついてきた嘘のひとつ。音駒高校の七不思議のひとつだったドア。木兎が失い、海が隠し通したいもののヒントがここにある。
 木兎の言う身内とは、文字通り肉親などを指すのではなく、仲間とかそういうものを指すと思う。
 身内を信じろだ? 吐かせ、クソクソ信じとるわ。信じてるから、俺たちの間に秘密があることを良くは思えない。
 黒尾のケータイが震える。メールの差出人を見て、黒尾は人を選ぶ笑みを浮かべた。


「 北信介 : 件名 : 去ねや 」


*****


 黒尾鉄朗と北信介の奇妙な繋がりは、春高の直前まで遡る。
 とことんスペックの高い男、何をしても平均以上を出す男である。黒尾は受験勉強しながら春高で戦う練習に精を出し、あまつさえ海と夜久が己に何を隠しているかを密偵していた。綿密に計画を織り上げ、かつ本人たちには気付かれないよう最新の注意を払って事に望んでいた黒尾の前に現れたイレギュラーが、北信介である。

「嗅ぎ回っとる奴がいるいうから来てみたら、何や。猫やないかい」
「おたくさんは……稲荷崎? 最強の挑戦者さんじゃないですか」

 雑誌や遠目で見た感じだと無の顔が多い印象の北は、黒尾の前に現れた際には辞書で引いたら判例で書かれるほどの渋面であった。

「なんでそんなクソカス見る顔してるんデスか」
「自覚してないんやな。わかった」
「日本語通じてる? 兵庫って一応日本でしょ?」
「積雪数センチでインフラ崩壊する地域が偉そうに吠えんな」
「南から目線って斬新」
「真面目に聞かんか」
「真面目に喋ってくれる?」

 互いが持ち合う情報の表層だけをやんわり含んだジャブ、みたいなしゃらくさい会話は、策士といえどもシンプルに面倒くさい。黒尾が促せば、北は渋面をさらに歪めた。

「……嗅ぎ回るのをやめろ。まだ死にたないやろ?」
「何を嗅ぎ回ってるって? あ待って今のかっこいいな。さっきのもう一回言って、暗殺者みたい」
「…………夜久の若いのと坊主をや」
「坊主、あ海のこと?」

 黒尾が海の名前を出した途端、北はついに歪めきっていた顔の上で目を閉じた。遮断するみたいな素振りだった。
 たしかにあいつは少し、いやだいぶ、いやかなり不思議なやつだけど、そんな会って五分くらいの奴にそこまで毛嫌いされるほど悪いやつじゃない。音駒で繋いできた三年間が、十二分にその証左たり得る。黒尾は少し不機嫌になって、意地悪に聞き返した。

「海の名前聞いてンな顔するってことは、おたくさんあいつのこと知ってんね」
「嫌っちゅうほどな」
「俺にも教えてよ。あいつら、俺らの仲なのになんか秘密にしてんのね。教えてくれたら、嗅ぎ回るのをやめる」
「そら絶対あかん。脅されても無理や」
「嗅ぎ回るのをやめろっつっといて教えもしないのはちょっと不義理なんじゃない?」
「そも義理があらへんやろ。会って五分も経っとらん」
「でも海と縁がある同士デショ」
「縁。ハ、縁な」

 北は吐き捨てるように笑った。

「何がおかしいんデスか」
「いや、悪い、縁な。まぁええわ。教えて踏みとどまるんやったら、教えたってもええ」

 縁、の一言だけで力関係が逆転したような気がする。実際黒尾は北がここまで海を嫌悪する理由も、あの海がここまで嫌悪される理由も何一つ知らなかったので、正しい立ち位置を認識したとも言える。今度はこちらが辞書で引いたら画像でその顔が出るほどの渋面を作りながら、黒尾はひたりと聞く。

「朱に交われば赤くなる、や。あんなバケモンと周波数合わせたらあかんで。フリやないからな」

 ほな、とえんじ色のジャージは背中を向けて去って行った。
 頻繁に魔と縁付けられる東京、魔物が潜むと言われる春高の会場で、赤いジャージだけがぽつりと残されていた。


*****


 あんなケンカ売られて黙ってられっかよクソクソ腹立つなオイ!
 北との邂逅以来、黒尾は一層あれもこれも嗅ぎ回るようになった。幸いなことに三年生は残すところ卒業式の登校のみを残す自宅待機期間で、噂じゃ同じクラスのアイザワが「もう卒業間近だし」と夜中までカラオケで遊ぼうとして補導されたらしい。受付で成人と身分詐称したそうだ。アホだ。卒業式やっても成人式はまだだろうが。
 警察用語で「身柄引き受け」を「ガラ受け」と言うらしく、「ガラ受けできる人いる?」と訊かれて「下手でもいいすか?」と言ったらしい。「ガラ受け」を「カラオケ」と勘違いしたそうだ。割増でアホバーゲンだ。もうここまで来ると単位が足りてても人間的に卒業が危うい。教育の完全敗北だ。
 しかし黒尾がアホに構っている暇はなかった。今までと比べれば時間はあるが、卒業まで時間がない。
 調べられることは限りなく調べた。調べるうちに、どうやら海を説明するにはオカルトめいた文脈に傾倒する必要があることもわかった。検索エンジンの履歴が怪しくなってきた頃、北から件名に「去ねや」とだけ記されたメールが届いて、黒尾は一層「この路線で間違ってないのだ」と確信する。
 夜久は、海は、"何"なのか。部活動としてのバレーボールを取り上げられた黒尾は、それだけに熱中していて、そこに関して聡明さは遺憾なく発揮されたのだが、それ以外に関してはとんと気が利かなくなっていた。

「そりゃ無茶でしょ、あれジャンプの煽り文より煽り力高かったし」
「わかった、策士で鳴らしとる男が紙ゴミより煽り耐性ないとは思っとらんかった俺が悪かったんや」
「ハハ、煽りよる〜」

 結局北とは直接電話をする仲になった。内容はほとんど貶し合いであった。

「ほんまに言うこと聞かれんアホやな。やめろ言うとるのがなんでわからんねん」
「理由を教わってないからですねー」
「ほんまに音駒高校大丈夫なんか? これを卒業させて大丈夫や思とるんか」
「策士の他にも親切で通ってるんで」
「末法や」

 北は、接触のたびに「やめろ」としか言わなかった。ひどく疲れたような、げんなり、が似合う声で「ええ加減にせえよ」だけを繰り返した。

「だからなんでって訊いてんのよこっちは。せめて納得のいく説明を頂戴な。納得したら引き下がるってずっと言ってんの」
「教えられへんことがあるって逆に俺の耳にタコできるくらい言っとるやろうが。ほんまにそこで止めとき。いくら好奇心は猫も殺す言うても、止めろ言った手前死なれたんじゃ一生寝覚め悪いねん」
「だからぁ〜〜もうグルグル回ってんだって話が」

 煽る、というのは非常に気力も体力も使う。暖簾に腕押し。やってもやっても効果のない煽りはキツい。粘着なアンチが顔を真っ赤にして捲し立てるのは、それだけパワーが必要だからだ。
 まして黒尾はここ数日、手がかり探しに県を跨いであちこち移動していた。シンプルに気力と体力と資金力を擦り減らしている状態でこの会話は堪えた。
 煽りまくれば逆上して何か吐きやしないか、と頑なに余裕な態度を崩さなかった黒尾だったが、ここにきて息が切れた。苛立ちを隠す精神のリソースがない。
 刺々しい声を聞いた北が、いつもよりも長い呻きを溢して、ため息で綴じる。
 スピーカーから、何かを擦る音がする。おそらく、何度も額を擦る音だ。前髪が轢かれるさりさりとした音の果てに、スピーカーは囁きを吐いた。

「わかった。あいつらが何なのか、は教えられへん」
「わかってないじゃんよ」
「けど、お前が何をしとるのかは教えたる」

 目の色を変えた黒尾に、北は「最近どこを嗅ぎ回ったか、その際どこを通ったか」を訊いた。黒尾が覚えている限りの行き先とルートを伝えると、通話は切られた。
 ほどなくして、北から続けてメールが送られた。内容は全てURLで、黒尾は思わず「詐欺か?」と訝しむ。
 最後に送られてきたメールにだけ、文章が添えられていた。

「兵庫に来るなら来る前に殺す。しばらく引きこもっとれ」

 続けて送られてきたメールのURLは、落ち着いて見てみればWEBニュースや新聞の電子版ページのリンクだった。
 リンクを開いて、黒尾は全身が膨らむのを確かに知覚した。


 東名高速道路 通行止め
 秋田新幹線 運休情報
 秋田県湯沢市 不審火
 北陸新幹線 運休情報
 石川県白山市 不審火

 どれも黒尾が調べ物旅行で利用した交通機関や訪れた場所で、どれも黒尾が関わって数日の記事だった。手が冷え切って、冷や汗が止まらなくて、息が乱れっぱなしで、思考がまとまらなくて、背中が冷たくて、目が物を物として見てなくて、黒尾はスマホを持ったままただパニックになっていた。


 ここまで来て負けちゃあいられやしねえ。柄にもなくパニックなんぞになっちまった。
 黒尾は一層やけっぱちになって、しかし北から送られてきたニュースのリンクを無視もできなくて、ひたすらインターネットを徘徊していた。
 研磨が見たらどんな顔するだろ。今俺ユーチューブの「あなたへのおすすめ」が全部未解決事件のゆっくり解説になってる。ハハ。黒尾のイヤホンにはマイクがついていないので、乾いた笑いはどこにも拾われなかった。
 そうこうして日をニートみたいに消費していた黒尾に、母から声がかかった。

「あんた、買い物とかいいの?」
「何の?」
「新生活。大学生なんだから、今までみたいに制服とジャージだけじゃやってけないわよ。服買い足したら」

 あーね、とモソモソ支度をして、ハタと気づいた。

「俺、あいつらがどこ行くか知らなくね」


*****


 ユニクロは偉大だ。大きめのショッパーをガサガサ下げて、黒尾は大通りを歩いていた。結局わりと量買った。夏前に夏物を買い足せば冬物の時期まで買い足さんでもやっていけるくらい。
 存在感を主張するショッパーを見やって、黒尾はヘニャと笑った。持ち手の奥に、薄手の赤いニットが見える。結局赤いもん買っちまった。

「ハー、さみし」

 音駒の赤。血液の赤。黒尾はヘニャっとした顔をヘニョに変えた。ちょっと情けない顔である。
 出かける前に、夜久と海に「そういえばお前ら進学どこだっけ」とラインを送ってから、まだ返事が来ていなかった。一生もんの絆だと思っていたのははてさて俺だけか。少なくとも秋口まで赤を纏うのが確定している黒尾に反して、あの二人はもう音駒を忘れて次のどこかへ行っちまうんだろうか。卒業もまだなのに急に独りぼっちになっちまった感覚が痛くて、黒尾は激しい寝癖のついた頭を振る。

「なぁ、火事ってマジかな」
「電車止まんのかなー」

 見たところ中学生くらいの少年たちがそんなことを喋りながらすれ違っていった。
 そういえば、今日はやたらパトカーやら救急車を見かける。午前はそんなことなかったような気がするけど。なんだろなー。乾燥してるわけでもなし、火の気の立つ時期でもなし。名探偵黒尾の明晰な頭脳は、今時期で起こり得そうな火事の原因をあれこれ並び立てて遊ぶ。
 横断歩道の信号が赤だった。立ち止まる。黒尾はのんびりと低い空を見ていた。信号が青になる。歩き出して、横断歩道も半ばを過ぎた頃だった。

「危ない危ない危ない!」

 そんな声がいくつも聞こえてきて、驚いて周りを見る。
 いくつもの「危ない」が差したものを理解する前に、大きな音が響いた。悲鳴。どよめき。
 乗用車が歩道に突っ込んでいた。さっきまで黒尾が立っていた場所だった。

「……ッぶなぁ……」

 辺りはすぐに騒然となって、道行く勇敢なひとたちによってすぐにパトカーや救急車が呼ばれる。乗用車の中から運転手を助け出している人もいる。黒尾はとりあえず横断歩道を渡りきっちまって、あんまり大きく跳ねたせいでちょっと痛くなってる心臓を押さえながら顛末を見ていた。
 早いとこ帰った方がいいかな、胸に当てていた手を撫で下ろしかけたとき、尻ポケットの中でケータイが震えた。着信。

「 北信介 : 件名 : やりやがったな 」
「海信行 : 着信履歴」

 すわ、と思って、条件反射的に海にかけ直した。ドキドキしていた。連絡を待っていたのもそうだし、なんだか最近人肌恋しかったのもそうだし、まだ驚きのバクバクが治らなかった。
 海は一コールで着信に出た。

「もしもし? 海?」
「黒尾?」

 一週間かそこら聞いてなかっただけの、でも正直マジで親の声ほど聞いた声だった。安心して、センチメンタルが極まっちまって、ベロっと泣きそうになった黒尾に、海は言い放った。

「家から出たな」

 なに? 頭が回らなかった。俺今何を言われた? 家から出たなって何? そりゃ人間だから出ますけど。なんで知ってんの? なに?
 混乱した頭は、海の声の奥でサイレンが鳴っているのだけを聴き取った。サイレンが鳴っている、今俺の目の前と同じように。黒尾は再び冷たい汗で全身を膨らませて、息まみれの情けない声を吐いた。

「け、海怪我、怪我してねえ?」
「それはこっちの台詞、今何があった?」
「車が、あ車突っ込んできて。無事だけど」
「今日どこに行った?」

 なんだか前にも似たようなことを、どこかで訊かれた気がする。黒尾は回線遅延ぎみの脳みそで馬鹿正直に答えた。

「ああ、わかった。今どこだ?」
「家ン近くの大通りの脇のとこ。コンビニの斜め前らへん」
「あそこか。今行く。そのままそこにいて。動くなよ」

 通話は一方的に断ち切られ、久方ぶりに人の熱を与えられたかと思った黒尾は再び独りぼっちになったような心地だった。なんで。さみしい。
 かと思えば、センチに浸る間も無く再び携帯が震えた。今度は北だった。

「はい」
「もしもし」
「も、モシモシ」
「お前か?」
「何が?」
「お前やりよったな」
「だから何を」
「家から出よったな言うとるんや」

 どいつもこいつも俺に何をさせたいんだ。家から出ただけでなんでこんなに怒られなきゃいけねえんだ。黒尾は寂しさが苛立ちに置換されたのを理解できないまま声を荒げる。

「俺が家から出たらなんかマズいのかよ」
「マズいどころの騒ぎで済んだらよかったんやけどな。自覚はあるんやろ」
「血液型占いみたいなフワッとした言い方で詰ってくんのやめてもらっていい? 俺が何したんだよ」
「やから止めろ言うたんや。俺からは言えん。坊がそっち行くんやろ、会うな。早よそこから逃げ」
「どこに」
「家しかないやろ。引きこもっとれ」
「だからァ!」

 不条理だった。どいつもこいつも俺が外に出ただけでなんでこんな言うの? 日光よりブルーライト浴びてろって? バカじゃないの。クソ喰らえだった。

「はァもう知らん。勝手にしてよどいつもこいつも」
「おい逆ギレか」
「正面ギレだわ!」

 怒鳴りつけた勢いのまま通話を切って、黒尾は怒りを吐息にこれでもかと含ませながら辺りを見回した。海はまだ来ていない。なんかもう全てが信じられなくなっちまって、むしゃくしゃに任せて黒尾はその場を離れた。


 しばらく歩いて、ふと気づけば通学路にいた。綻びはじめた桜並木の下を、歯ぎしりしながら歩いていた。
 この道を歩くのは、あとは卒業式だけなんだなぁ。突然そんなことを思いついて、黒尾はさっきまでの怒りが全て寂寥に置き換わったのを感じた。まだ海からも夜久からも返事は来ておらず、黒尾は一人ぼっちのまま残り少ない登校の一回を浪費している。虚しかった。悔しかった。寂しかった。無力だった。結局俺は大した事など何もできず、できる気になったまま今日まで来てしまった。
 後悔はないとはいえ、バレーもまた。
 黒尾は忘我のままバレー部の部室の前に立っていた。通い慣れた部室のドアは去年交換されたばかりで、もう卒業も間近だというのにどこか余所余所しい。唇の内側を嚙みながらノブを捻ると、意外にも鍵はかかっていなかった。

「……俺、なにがしたかったんだろうなあ」

 通い慣れた、しかし見慣れた備品が既に片付けられている部室は、どこか異界のように感じられる。こんなに落ち着かない場所だったっけ。黒尾の寂寥は留まるところを知らず、ついに「何でも人並み以上にできる男」は膝をついた。
 俺は何がしたかったんだっけ。何をしようとしていたんだっけ。なんかひどく疲れた。どろどろに溶けて、この部室と混ざり合って消えてしまってもいいのかな。眠りに落ちる前のようなとろみに身を任せてしまいそうになる。すこし寂しいけど、きっと誰よりも愛した音駒高校バレー部のなかで溶けて消えてしまえたら、きっといい。顔を合わせる人間誰しもからも怒られて、なんかもう全部がどうでもよくなりそうだった。
 しかしてその泥濘は、あまりにもけたたましい音で一旦打ち切られた。
 どう急いだらそんな音が出るのか、と思うほどの爆音で開けられた部室のドアの先に、求めて止まなかった背丈の影がある。

「海……?」
「動くな、って、言っただろ」

 今までのどんな泥沼試合よりも憔悴した様子だった。膝をついたままボンヤリしている黒尾のもとに駆け寄って、海は手に持っていたものを渡しながら、大急ぎで言う。

「いい? しばらくしたら夜久が来る。それまで誰に話しかけられてもここを開けちゃダメだ。夜久が来るまで俺は声をかけないし、親御さんもここには来ない。いいね」
「な、何。突然」
「黒尾ごめん、本当にごめん。でも、みんなそうだと思うけど、きっと俺が一番」

 海はそこで一度言葉を切り、否、続けられなくなって、バネ仕掛けよりも素早く扉を睨んだ。

「なに、ほんと。海?」

 海ははっと息を吸って、駆け寄ってきた時よりも早く黒尾の傍を離れ、外へ駆けて行こうとする。引き留めようと腕を間抜けに伸ばした黒尾を一度振り返って、ゴミ捨て場の決戦が終わった時でさえ見せなかった、今までしたこともない顔で海は笑った。

「きっと俺が一番黒尾を愛してたから」

 は、とも、へ、とも言えなかった。言おうと息を吸う前に部室のドアは閉ざされ、吸い始めた息が思わず止まった。

「黒尾! 俺だ、ここを開けろ!」
「クロ、開けて。ねえクロ、俺だよ、開けてよ」
「鉄朗、開けなさい。話したいことがあるの」
「黒尾さーん! 開けてくださーい!」
「黒尾ー! 開けろー!」
「黒尾くーん、黒尾くーん」
「キャプテン! いますかー?」
「ねえ開けてー、ねえー、開けて―」
「いるんだろ黒尾鉄朗ー、開けろー」

 ありとあらゆる知人の声と、いつぞや海がブッ叩いたのと同じくらいの威力のドアノックがバケツをひっくり返したように降った。音声の大瀑布は一瞬で鳴りやみ、しかし永遠に響いていた。どちらか分からなかった。黒尾はすっかり気骨ごとへし折れてしまって、先ほど海に手渡されていたもの――音駒高校バレーボール部の指定ジャージを握りしめながら小さくなっていた。
 どうしてこんなことに、早く終わってくれ、そんなことを思いながら、大きな体を小さく丸めていた。
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