「じゃあここからは先生の自論の話するね。世界って何でできてると思う? 先生は一人だけで出来てると思う」
アタマ使うのが苦手。だから、あんまり覚えることなさそうな倫理を選んだのを覚えてる。結局社会って暗記だ。地図記号とかキョウビ使う? 使わねーじゃん。シソーカなんかもっと使わないのに覚えさせられた。誰ソクラテスって。しらねー。
でも、倫理のオオハタ先生の話は面白いから、倫理の授業は好きだ。
「例えば先生がここでポンって死んだとするでしょ。ちょっとした事件にはなるよね。でも世界は変わんないでしょ。悪い意味じゃないんだけど、みんなもそうじゃない? 自分が消えて国とか世界が消えると思う?」
「いいのそういう話して?」
「せんせー教育委員会に電凸していい?」
「やめて職がなくなる」
「やってみねーとわかんなくね?」
「それなー」
「そうだね。でもやってみたら世界が滅ぶかもしれないよ」
オオハタ先生が言うと、みんな黙った。
俺は思ったこともないけど、みんなすぐ「死にたい」っていう。今は宗教の単元をやってる。キリスト教ってのだと、自殺ってタイザイなんだって。なんでタイザイなのかって先生なりの解釈の説明をされてる。
「もし勝手に自分が死んでみんなも巻き添えにしちゃったら申し訳ないじゃん。だから、なんか道徳みたいなこと言うけど、自分のも他人のも、命は大切にしようねってこと。でも生きてるとどうしても辛いことはある。その時に支えになったりならなかったりするのが宗教。あちこちでいろんな教義はあるけど、死んだ後幸せになる為に、生きてる間に出来ることをやりましょうってのが宗教」
「ふうん」
「先生板書書いてよ」
「どうせテストに出ない話じゃん」
「まあ出さないね。宗教の本で霊とかあの世とかの話が多いのは、いわばグーグルマップだから。こういうところがあって、行くにはこうしてくださいってのを書いて広めたのね」
「急に親近感湧く」
「生きてる間に良い行いをたくさんしておいてください、って大体どれも書いてるんだけど、何が良い行いかを考えられるようになるために勉強ってすんの。だから他の教科もがんばってね皆」
教室中から「やだあ」みたいな声。俺も言った。やだ。二次方程式とか人生で使う機会ないじゃん。言いながら、心臓の上がムニャムニャする。
「世界は一人だけで出来てるのかもしれない。自分がゼロかその一人かは死ぬまでわからない、なんなら死んだらわからない。だから、自分も自分じゃない人も少しでも長く幸せに生きていけるように善行を積んで、大往生しましょうってこと」
心臓のムニャムニャは、きっとワクワクとかそういう音が似合う。ワクワクしてた。オオハタ先生が言ったのは例えの話、あくまで自分はこー思うって話だけど、なぜか俺はワクワクした。確信があった。
俺がその一人だ。
*****
< 9 さるくい
さるくい : あかあしが持ってかれた
*****
「久しぶり。急に呼び出してごめん。髪型違うから誰かと思った」
「寝癖です」
そこそこ背が高いことを除けば、一風変わったところは何もない若者が二人、駅前の雑踏で待ち合わせていた。
「こんな時期に酷なこと頼んじゃったかな」
「いえ、春高来年は俺たちが行くんで別に今年はもうどうでもいいです」
「そうか」
「今年行く人の前でこんなこと言うのアレですけど」
「それは前置きで言うべきだったかな」
「すいません」
「いいよ」
比較的背の低いほうが気まぐれに歩み出し、比較的背の高いほうが追随する。行き先は自販機だった。比較的背の低いほう暖かい飲み物を二つ買って、手渡す。
「ずいぶん熱心に勉強したみたいだから大丈夫だと思うけど」
「しましたね、ずいぶん熱心に。先輩たちが俺も行くって言って聞かなくて大変でした」
「目に浮かぶな。詳しい説明はお茶でも飲みながら。無理そうなら断ってくれていい」
「いえ」
比較的背の高いほうは、渡されたお茶をひと息で飲み干して、並んで立っていた比較的背の低いほうに向き直る。
顔つきは、初めて会った頃と違う。
「まだおでん食べてないんで、縁は括られたままです。果たしてすぐ解くものでもないし、海さんにも赤葦さんにもあれから世話になってるので」
「そうだ、ウチのおでんご馳走する約束だったね、潜」
比較的背の高い寝癖頭ーー潜は、勢いよく煽ったはいいが所在のない、まだ温かいペットボトルを握ったまま頷いた。
*****
猿杙から海のもとへ連絡が来たのは深夜で、気づいたのは明け方だった。すぐに菅原にも連絡入れたが、菅原はまだ起きていないようで既読はしばらくつかなかった。急遽猿杙を"美化委員会"のトークに参加させて情報交換ができたのは、昼休みになってからだった。
人の来ない階段の踊り場で、海は通話ボタンをタップした。
「もしもし?」
「全員聞こえてる?」
「おっけおっけ。やーごめん起きんの遅くて」
「これはほんとにアイツが悪いから」
「そ? ありがと」
「じゃあ報告会始めまーす。議題は猿杙からー」
「はーいがんばりまーす」
事態の重さに反して軽薄に始まった報告会は、しかし事態の重さゆえに軽薄だった。沈鬱に喋り出してしまうとつられてどんどん気落ちしてしまう。穢れは「気枯れ」の転成語である。一番やってはならなかった。
「結論から言うと、現実改変されましたー」
「あ?! なんて?!」
「初手ぶっこんできたな……」
「その反応ってことは多分範囲は梟谷だけか、二人は弾いてる感じだねー。木兎と赤葦がいた記録がないんだよ。ウチ今主将が木葉で副主将が鷲尾ってことになってる。アイツらを覚えてるのが今んとこウチだと俺と鷲尾」
「やっば、えやぁば、そんなんありなの?」
「無しよりの無し。絶対無し。無いから大事件なんだよ。赤葦だったらあってたまるかって大声出すとこだ」
「そりゃそうだよな、いやなんか木兎なら出来そうだなって思っちゃって。ごめん続けて」
「ほーい。でねー、誰が赤葦を持ってったのか確証は何もないんだけど、木兎バリアーが消えてんの。だからたぶん木兎かなーってところ」
「木兎バリアーって?」
「夏の"委員会"でゴンさん出たときに、梟谷の部屋までダッシュしたのは覚えてる?」
「ゴ……あー覚えてる覚えてる。角曲がったとこから追って来なくなったやつだべ?」
「木兎、たぶんそういう素質みたいなものと性格が相まって、アイツを中心に半径いくらかは絶対近寄って来ないんだよねー。あの時はとりあえず赤葦と菅原を安全圏まで行かせてから何とかしよーって感じだったんでしょ?」
「昼間より範囲が広くてびっくりしたけどな。木兎バリアー、本人が寝ると範囲広まるっぽい」
「まーあん時の話は置いといて、今日はそれがなくて、木兎ごと書き変わってるから、たぶん木兎がやったんだと思う」
海は顎の下を親指で擦りながら黙った。猿杙は「たぶん」の形を崩さないが、おそらく間違いない。
木兎が赤葦を持っていった。「連れて行った」ではないのは、木兎が限りなく人間に近い「あちら側」か、はたまたその逆であるからだ。
あまりに力の差がありすぎる場合、「連れて行く」より「持って行く」の方が適切だ。木兎はたぶん赤葦を人だとは思っていない。面白い「現象」だと思っていて、だからこそ今回の事件を愛着さえあれば人間でなくても用いる「連れて行く」で表現するのはあまりに希望的観測が過ぎる。
「猿杙には申し訳ないけど、俺は木兎で間違いないと思う。ごめんな」
「いいよ気にしないで。俺と鷲尾もそう思ってるよ。ポーズとってただけだしね」
「あれか、デカすぎて気付かなかっただけで、木兎じつはメチャクチャ強かったやつか。地球みたいな」
「あーまぁそうかな。そうだね。カラクリは後でにしよう。解決しさえすれば赤葦が釘を刺すだろうし」
「今はどうやって連れ戻すかだよねー。なんか策ある? 俺"猿真似"しかできないけど、木兎を真似るのは無理だよ」
「ある、には、ある」
「ありよりの無し?」
「大体そんなところ。今回は菅原くんにご助力願おうかな」
「おっけー、任して。赤葦に頼れよって言ったしね。じゃあ俺今日練習終わったらそっち行くわ」
「えメッチャ気軽に新幹線乗ろうとするじゃん」
「乗らないよ新幹線なんか。高いし遅いし」
「その勝負受けて立とうか? どのくらい早いか説明しようか?」
「菅原、謝ったほうがいいよー。海すげー新幹線好きだから」
「あマジ? ごめんなんだろ、そういう意味じゃなくて」
「いいよ冗談だよ。新幹線より早い手段あるの? 飛行機とか?」
「いや徒歩」
「は?」
「えバカなの?」
宮城東京間を徒歩で行った方が早いとほざいた菅原は、「ほらアレ、夏に大地が説明したやつ」と言った。菅原の「あちら側」を使ったチートワープを知らない猿杙がひたすら「ごめんバカなの?」を繰り返すので、二人は必死こいてこれを説明しなければならなかった。
「へえ〜ヤバ、宇宙船のワープ航法の理屈とかじゃんそれ。菅原のこと今度会ったらエンタープライズって呼ぶから」
「なにそれ?」
「スター・トレックの船」
「へー知らね!」
「素直でよろしい」
「でもこんな距離やったことないから、着地の目印みたいなもんだけ用意して貰いたい。こっち側にちょっと足突っ込んで「ここだよー」くらいでいいから」
「今口滑らせたね?」
「アッうそ! 「あっち」側!」
「ふふ。じゃあ、菅原くんは放課後までに澤村くん口説き落として。持ち物は貴重品だけでいい。俺と猿杙も放課後落ち合おうか。どこがいい?」
「渋谷ー。なんかやっておくことある?」
「そうだな、流石にこれは夜久にも共有するから、夜久の方から連絡してもらう」
「わかったー、夜久に「待ってるからねダーリン♡」って伝えといて」
「夜久そういう冗談嫌いだから黙っとくな」
「夜久そういう冗談嫌いだから言ってんじゃん」
「レフェリー! レフェリーストップです! カンカンカン! そのケンカやめ! 協力しよって言ってるべや!」
「レフェリーからストップが来ちゃったー。じゃあまた放課後なー、なんか続報あったらここに投げるから」
「夕方までに大地口説き落とさないと」
「とりあえず来なよ。言い訳はこっちで考えよう。三人寄ればなんとやらだ」
「かしましくなって終わりそうだけどねー。ほんじゃまた〜」
猿杙が一足先に通話を切り、海は菅原に「貴重品はまぁ持ってきて、電車賃は貸さないので」と伝えて通話を切った。切り際に聞こえた悲鳴は聞かなかったふりをする。
「さて。どこに頼もうかな」
海は人気のない階段の踊り場で、考えるふりをした。腹の中は決まっていた。
*****
夕暮れを逢魔が時と呼ぶようになる変遷には、その間に「たそがれ時」を挟むらしい。日が落ちきらず、しかし夕陽だけでは人の顔を判別しきれない夕暮れ、かつて人は、人をそう認識しづらかった。たそがれとは「誰そ彼」であり、その彼が魔ではない保証はなかった。故に、逢魔が時。だそうだ。
赤葦は何度目かの坂を歩きながら、ひたすら情報を蒐集し続ける頭の端っこでそんなことを思った。
住宅街、公園横の坂道。向かう先はゆるくカーブしていて、坂の頂上からは街が見下ろせる。赤葦はこの場所に覚えがあった。かつて木兎が自宅に招いてくれた時に寄り道で通った。
ふと、赤葦の顔に影が落ちる。落日ではなかった。時計は止まり、スマホも動かないが、ここにぶち込まれてからなんとなくだが必死こいて秒数を数え続けている。ジャンプ漫画の主人公でそんなのいたな。それはさておき、赤葦の脳がパニックを起こし続けていない限り、また「ここ」と「外」の時間経過が同じだった場合、まだ世間は昼下がりくらいのはずである。
落ちた影は、人だった。
赤葦と夕日の間を、顔が塗り潰された人が、時折落ちていく。背丈は大体が小学校高学年から中学生くらいで、たまに大人も落ちてくる。皆等しく顔は幼児の落書きみたいに黒塗りで良く見えず、地面にぶつかる瞬間に、川面に落ちる雪みたいにふっと溶けて消える。
最初こそバカクソパニック散らかしていた赤葦の頭も、無限に住宅街の1ルートだけを無限周回していれば醒めた。というより飽きた。他に考えることがほしい赤葦の脳みそは、落ちてくる人、特に子どもが着ているシャツが同じことに気づいていた。
暮れない夕日の街に、降りしきる顔がないチームメイト。触れれば溶けるチームメイトを横目に、いつ来るかわからない赦しのときまで外周を走り続ける。
赤葦は立ち止まって、足元に長く伸びる影を見ながら呟いた。
「……木兎さん、今はそうじゃなくないですか。俺たちじゃ足りませんでしたか」
木兎が時折言う、「楽より楽しいを考えて」。木兎はこれを「クラブチームのコーチが言ってた」と赤葦に教えた。それ以外に、木兎の口からクラブチームの話題が出たのは、記憶に間違いがなければ一度もない。
つまり、他にいい思い出がないのだ。「クラブチームのコーチが言ってた」だって、いい思い出ではないのだ。木兎はきっと、この道をただ独りで走った。
どんなに寂しかったろう。どんなに悔しかったろう。
赤葦は聡い。今のところ現代文で漢字の凡ミス以外に失点をしたことがない。読むことにひたすら長けた赤葦は、この神隠しめいた空間を木兎の心のうちだと読み解いた。
ゲームなんかの定石でいけば、無限周回の果てにきっとヒントがある。赤葦は唇を引き結んで再び走り始めた。
ここにきっと木兎はいる。
*****
「あれぇ〜?! 誰それ」
「戸美の一年の子。予選決勝のあと会ったろ」
「会ってないよお〜、俺夜久背負ってみんなのこと回収したじゃん」
「そうだっけ?」
「そうですね。初めまして。潜です」
「よろしくー、俺猿杙」
「ああ、猿真似ができる3番さん」
「アイツそんな紹介の仕方したの?」
「名前出せなくて。怒るなら本人にしてやって」
「望むところだねー。んで、これから何やんの?」
猿杙は呑気に肉まん片手に待ち合わせに現れた。夜久は下準備や諸々の手配でここにはいない。肉まんは猿杙の分しかなかった。別にどうってこともないのだが、こちとら部活上がりの男子高校生なので、食えるものは全部食いたい。ついさっきペットボトルを飲み干したとはいえまだ余剰のある胃が「これ見よがしに食ってんじゃねえ」と訴えるのを、海は笑顔で、潜は真顔でなんとなく知覚した。
海の先導で人気のない公園に来た。海はつま先で砂場を掘って何やら図面を書き、なんだあれとポカンしている潜の横で猿杙が「マぁジ?」と声を上げた。
「それやんの? できんの?」
「やるんだよ」
「パワー理論じゃんも〜。ほんとなんでもありじゃんお前」
「何が何だかわかりません」
「銀の鍵っつってわかる?」
「さっぱり」
「有名な小説に出てくるアイテムなんだけど、MP消費でどこにでも行けるみたいな。今回はこれ使って「あっち」にカチコミすんでしょー?」
「ちょっと違うな。菅原くんをお迎えする用だね。菅原くんさえいれば「あちら側」までほぼ顔パスのはずだから」
「だからってこんなん使うかよー。ほんと認知さえあれば何でもありの極論主義者」
「強いだろ極論」
「強いから極論なんでしょうが」
図面らしいものを引き終えた海が靴の踵を叩いて砂を落とす。依然ポカンを通り越してスペースキャット顔の潜に微笑み、「じゃあ作戦説明しまーす」と朗らかに手を叩いた。
「まずこれを使って菅原くんをお迎えします。菅原くんと俺で、つい昨日までやりとりしてた俺と菅原くんのスマホをよすがに赤葦のとこまで飛びます。あとは成り行き。潜には俺たちをこっちに"括"ってて欲しくて、猿杙はそれの補佐と補強をお願いしたい」
「オカルト案件にスマホって使えるんですか?」
「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない、とは言うけど、ケータイの中身隅から隅まで理解してる人はそう多くはないよな? じゃあスマホの中身や仕組みって魔法の領域なんだ。それに幽霊ってイオンがどうたらで、機械と水と相性がいい。だから電子的な霊障って物理より顕著に実例が出るんだ。なんなら一番相性がいいまであるのかも」
「本読んでてページにいきなり文字が出たりめくられたりってあんまり聞かないけど、スカイプ百物語でメンバー1人多いとか、夜中にテレビにいきなりオンリョウって出てびっくりしたー! みたいな話はたまに見るよねー」
「それは音量なんじゃ」
「笑うとこだよー」
潜はちょっとだけ申し訳なさそうな顔をして、諸々に「わかりました」と答えた。
「なにで括りますか?」
「俺は用意してある。これ」
海はエナメルバッグからサポーターを片方だけ出して潜に渡した。なんで片方なのか。潜がぽて、と首を傾げたのを見て、海は笑う。
「それ黒尾が使ってるサポーター。勝手に片方だけ持ってきた」
「窃盗じゃん。音駒、部内荒れてない?」
「さっき「俺のニーサポ知らん?」って連絡来たよ。ごめーん間違って持って帰ったみたいだって返事した」
「つまり、海さんはこれを返さなきゃいけないんですね」
「そう。それも明日の朝一で」
「わかりました。その約束で、"括り"ます」
潜が言った矢先、猿杙は凄い勢いで海とニーサポを二度見した。口もきけないまま静かに潜を指差して、声もなく「なに?」と言う。
「ヒント、石川県にお婆ちゃんがいらっしゃる」
「バケモンじゃん!」
「ナチュラルボーンの無自覚が一番怖いね、今回は」
「はーなるほど、潜と縁結びかぁ。やべーのばっかり見つけてくんね」
「やべーのに言われたところで、宮城のやべーのをお迎えしようか。待ってたら大変だ」
海は潜との待ち合わせの時に買ったミルクティーを砂場にぶちまけ、「菅原くーん」と呑気に言った。潜の横でまた猿杙が声にならない悲鳴をあげている。
「海のそういうのちゃんと見るの初めてだけど、ほんっと屁理屈で殴るのな!」
「あれ何したんですか?」
「本当は血とか使うところをミルクティーの牛乳成分で代用しやがったよ。乳って血からできるし、いろんな神話でも乳ってけっこうファクターだから。いやにしても酷い、本職が見たら助走つけて殴られそう」
「できればいいんだできれば、それで本職にできないことやってるんだから」
「そういうところ赤葦が真似するんじゃん〜! やめてよ〜!」
猿杙が「やだやだ」と悲鳴をあげている間に、間抜けな悲鳴がもう一つ増えていた。三者三様に砂場を見遣ると、菅原が砂場に頭を突っ込んで四つん這いになっていて、ちょうどミルクティーをぶちまけた辺りから顔を上げて砂の混じった唾を吐いていた。
「ぶぁあ〜何?! 砂利! 何これ! ここどこ?!」
「お疲れ様。東京だよ」
「よかったー! この辺かな? って一回降りたら栃木だったから焦ってた! やっぱ長距離は慣れねえわ、遅刻しそうな時以外やらんとこ! 餃子食って来ればよかった」
「そも遅刻すんなって話じゃん?! うわマジか本当に来たよ」
「はじめまして潜です」
「あ?! え?! あはじめまして菅原です! うわこの子やべーな!」
「わかるんですか?」
「わはははははもうわかんねー何これ〜、何これ頭おかしくなりそう。規格外にも程がある」
猿杙はついに笑い出した。おかしくなっていた。色んな意味で。もう笑うしかないとはこのことである。
「規格外のとこカチコミするからな」
「そんな装備で大丈夫かって? いや余裕でしょもー、これで歯ァ立たなかったらもう木兎のことわかんない」
「わからなくても隣にいることはできる」
「それしかできなくて本当って感じ」
「それが一番難しくて、だから一番救われるんだべ? なんとでもなるべや梟谷だもん」
潜の手を借りて立った菅原が砂を払い落としながら言う。さっきまでの雰囲気に釣られて口調こそひどく楽しげだが、面持ちは真剣そのものだ。その顔に猿杙はなんだか少し救われて、なんとなく抱いていた責任や焦燥から解放された。
「おもてなしもできなくて申し訳ないけど」
言いながら、海が菅原の肩を払う。砂埃の落とされた菅原の学ランはまさしく烏の濡れ羽色、これから来る闇夜の色であった。
四者四様に顔を引き締める。向かうは「あちら側」。生者の拠らぬ隔世である。
「さっそくカチコミといこうか」
「ワンパンキメてやんべ」
「これから春高あるから全治二日とかにしてね」
「流血沙汰はちょっと」
*****
神業、とは、熟達したものが限りなく整えられた空間でのみ確率で引き起こせる御業である。反して、裏ワザは、仕組みに慣れちまえば案外いつでも使える超法規的なだけのもんである。
体感で丸三日くらい走っていた。72時間ぶっ続けで走るなど人間には到底できない。マラソンの由来になった古事ではマラトンからアテナイまで走った兵士はわりとすぐ死んでるし、気が狂った飛脚でもそんなことしない。それでも微塵の疲れも感じられないのは、やはりここが「あちら側」だからか、自分が人間だと思い込んでいるだけでもう違うものになってしまったのか、果たして両方か。赤葦は、しかし涼しい顔で夕陽を背に受けて立っていた。
前方に影が落ちている。東を向いて立っている。外周ルートのなかで一番スタートから遠ざかる地点の少し外れた場所に、赤葦と、赤葦の影にすっぽり収まるようにして座る影があった。
影は、決して小さくはない体を必死に小さくして、三角座りの膝の間に頭を必死に隠して、声もなく泣いていた。時折聞こえる息継ぎの合間に漏れ聞こえる嗚咽は、ともすれば世界すべてを呪うような響きだった。
赤葦は膝に埋まる後頭部をしばらく忘我のまま見つめて、やがて下唇に力を入れる。生唾をがぶりと呑んで、やっとの思いで口を開いた。
「……木兎さん」
呼びかけられた影ーー木兎は、しかし驚きも震えもしなかった。
二の句が継げない。すべてを呪って泣いていた、今も泣いているこの人にかけるべき言葉を、俺はまだ探しあぐねている。赤葦は服の上から心臓を押さえた。昨夜心臓の上に突然現れた目玉は、思い返してみれば木兎のそれと同じ色をしていた。
「……おれさぁ」
木兎は小さくなったまま呟く。
「おれさぁ、おれさあ。言うほどバカじゃないんだよね。わかってやってんのね、あれもこれも」
「はい」
「おれ皆が言うほどバカじゃないんだよ。だからね、ほんとは食べちゃいたいんだけど、食べちゃったらおまえが死ぬのもわかってんのね」
「……はい」
「だからね、食べないことにした。大事にしまっておくことにした」
木兎はまだ顔を上げない。頼んでもないのに太陽さんさん赤道直下バカやかまし鬼デシベル乱痴気トンチキカーニバルみたいな素振りがないだけで、この人はこんなにもしずかになるのか。赤葦は驚きとともに納得もしていた。これがきっと、この人の一番奥深くだ。
「おれだって色々考えてんの。おれだってたまにしんどくなんの。全部楽しくなりたい。楽より楽しいを考えたい。でも、たまに何も考えたくなくなんの」
木兎が呻いている間に、赤葦はすっかり膝を折って、しゃがんで木兎のつむじを見ながら相槌を打った。この人のつむじ初めて見た。
何もかもが狂った木兎の心象世界のなかで、そんな間抜けたことが考えられることも異常だとは、これっぽっちも気づいちゃいなかった。
「もっと強い奴と戦いたい。おれより強い奴ぜんぶブッ倒したい。でも、おれ梟谷でやるバレーほんとに楽しい。たまに何も考えたくなくなんの。ずっとここがいいってなんの。だから、赤葦をしまっちゃうことにした。……嫌いになった?」
呟きながら、木兎は顔を上げた。異常だった。すっかり泣き腫らして目元も鼻も頬も真っ赤にしているが、それだけじゃなかった。
両眉の上、頬、額に目がある。赤葦の心臓の上に現れたものと同じだった。異形の、神性の目を随分と拡張した木兎は、しかしおおよその人間が備え持つ両目だけから滂沱のごとく涙を流している。
驚きはした。けれど、「まぁ」程度だった。常の赤葦からは考えられないほど恐慌しなかった。赤葦は今まで抱いてきた色々なものが腑に落ちる音を遠くで聴きながら、こちらも魘されるように呟く。
「あの、俺木兎さんにずっと黙ってたことがあって。墓まで持っていくもんだとばかり思ってたんですけど。初めてコートで暴れる木兎さんを見たときに、俺あなたをスターだと思ったんです。入部してからは、あー神さまなんじゃないかな、って思ってました」 「……」
「世界を支えるアトラスかと。はたまた日食かと。俺もまだただの高校生ですけど、でも、知る限りの言葉を尽くしてあなたを定義しようとしました」
「……ん」
「んで気付きました。全部無駄だ。あなたはえげつない努力の末に咲いた天才で、俺一人難なくこんなとこに持ち込める神様で、でも、あなたを言い表す言葉は「木兎光太郎」しかない」
木兎は三角座りのまま聞いている。語っている間どこにも向けられず、何も見ていなかった赤葦の目が木兎を見据えた。膝はすっかり伸びきって、立った赤葦が木兎を見下ろすかたちになっている。それがどうにも気持ち悪くて、赤葦は妙にやけくそになりながら続けた。
「あなたってどうしてそう詰めが甘いんですか。優しいんですか。こんなにしてしまうなら、あなたの望む俺をここに作ってしまえばよかったのに。俺があなたの望む通りに「わかりました、今日からここに住みます」って言うなんて、そう思いました?」
「思わない」
「どう思ってました?」
「……絶対、元の場所に帰らせろって言うと思った」
「そうです。帰らせてください」
「……」
「なに地獄みたいな顔してるんですか。木兎さんも一緒にですよ」
木兎はまた俯きかけた顔をばっと上げた。信じられない、みたいな木兎の顔を見て、赤葦は「仕方ないんだから」みたいな顔をする。
「梟谷のバレーが好きなのは木兎さんだけじゃないですよ。俺も、ずっとこうがいいと思ってます。考えたことありますか、俺みんなに置いていかれるんですよ」
「置いてくなんてしねーよ」
「置いていくんですよあなたは。俺を置いて卒業します」
「それはぁ……」
「俺は高校でバレーを辞めます」
「……」
「先輩たちが卒業したら、次のバレー部主将はたぶん俺です。手を抜くつもりはもちろんないですけど、それでも、それまでのバレー人生でたどり着いた一番高い場所は、木兎さんに連れて行ってもらった場所であって欲しいんです。あなたが「ここだ」と思う最高の景色を、俺にも見せて欲しい。だから、俺が主将の来年度梟谷バレー部が行けるよりも高いところに、あなたが率いてください。今の、あなたが何よりも愛してる梟谷バレー部を」
言い切った。赤葦は目頭が痛いほど熱いのをぼんやり遠くの方で知覚するしかできなくて、自分が泣いているのに気づいていなかった。
西日を背に立つ赤葦のささやかな涙は、しかし照り返しで光って、木兎の目にきらめいて映った。木兎は少しだけ下唇を吸って、三角座りを崩す。
「…………俺弱虫だし」
「知ってます」
「卑怯だし、卑屈になるし」
「知ってます」
「ずるくて、すぐ人のこと頼って、頼るくせにすぐ拗ねて」
「知ってます。今更言わなくても。木兎さんのことですから」
四つ足をついて泣き濡れる木兎の顔を、赤葦は立ったまま膝先で上げさせた。上がった顔は、これだけ苦労させられた神さまの顔とは思えない、クッソ情けない顔だった。
「知ってますから、言わなくていいですよ。自分から傷つかなくていいです」
「そうなの?」
「そうです。知ってて、でも知らないふりしてますから。だから神様はもっと自信たっぷりな顔しててください」
「……わかった」
そうして生まれたての子鹿よりも覚束ない素振りで立ち上がるまで、木兎は一切涙を拭かなかった。自分の足で立ち上がるので精一杯だった。
ボロクソでベチョベチョな顔同士が、やっと向かい合う。西日を背に受ける赤葦の頬に涙の跡があるのを見て、木兎は顔を癇癪みたいに拭いてから言った。
「俺、赤葦の神さまになるよ。俺が行ける一番高いとこまで連れて行く。だから、ずっと見てて。バレー辞めても俺のこと見てて。赤葦がバレー辞めても、俺はバレーの強いやつ全員ブッ倒す」
夕陽をまっすぐに受けて輝くきんいろの瞳は、落日の光が混ざって橙色に見えた。きっともうこの色を見ることはないのだなと赤葦は思う。
いくら疲れることがないとはいえ、およそ丸三日も異空間で走りまくっていれば多少なりとも頭はおかしくなるもんで、赤葦は自分がしたことの規模を理解し損ねていた。間違いではないのだが、赤葦はこれをただの仲直りだと思っていて、これだけ心臓が跳ねるのは、ただ木兎をこの世の何よりも信仰している先輩だからだとしか思っていなかった。
バクバク暴れる心臓に、夕陽に輝く瞳の強さに、待ち望んだ力強さにクラクラして、赤葦は思考の一切を放り投げた。あなたとならどこへだって、どこまでだって。きっと地獄だって楽しい。赤葦は木兎の誓いに微笑みで応える。
「じゃあ、まずは」
「うん。ネックレス出して」
着けたままだった例のネックレスを渡せば、ネックレスを引きちぎって打ち捨て、地に落ちたそれだったものには見向きもせずに言う。
「帰って練習! ここボールもコートもねーし!」
「詰めが甘いのそういうとこなんですよ」
あなたとならどこへだって、どこまでだって。地獄だって楽しめる。ボールと、コートと仲間と、血湧き肉躍るライバルさえあれば。
みんなが待ってます、と手を引く赤葦に誘われて、木兎は生まれて初めてみたいに歩き出した。徐々に歩幅は広がり、足取りは速くなり、やがて爆烈的なダッシュへと変わる。
胸の内だからこそ用意できない宝物を迎えにいく。あばよノスタルジー、またそのうち会うこともあるだろう。でも今はお別れだ。何故って俺たちはいま、アオハルで忙しい。心の中で木兎は唱えた。この走行は決別で、逃避行で、ハネムーンで、かつ通過儀礼であった。
*****
果てしなく遠い、地平線みたいなものの際に、夕日が落ちていくのが見える。海と菅原はいつ果てるとも知れない闇夜のなかを夕日に向かって走っていた。
字面だけ見れば青春のようであったが、フルマラソンよりも長い距離を100メートル走と同じペースで走り続けなければならないし、そもそも走っているのはほぼ死出の道だ。余裕なんかミリもない。
「なぁこれせめてチャリごと来れなかった?!」
「どうだろう! やったことない!」
「帰りも同じだけ走らされんだべかこれ! 無理なんだけど!」
「帰りはもう命綱引いてもらおう! 俺も往復はやだ!」
「新幹線ってすげーな!」
「わかってもらえて嬉しいよ!」
ヤケクソだった。走るときに大声を出してはいけない。息が荒れるから。
そもそももう荒れ散らかしてムチャクチャになっていたので、これ以上なんか知るかよと二人は大声で「もう無理しんどい」を言い合いながら走った。
「海! あれ!」
「赤葦! 木兎! こっち!」
現代日本人がぎりぎり視認できるくらいの距離に、ぽつりと影が見えた。
赤葦と木兎だった。全力全開全身全霊の5セット目よりも疲れ果て切羽詰まった顔で、あちらも必死こいて爆走している。
二人の姿が見えてほっと速度をゆるめた菅原の横を、ぐんと更にスピードを上げた海が追い抜いた。走るのに必死で顔なんかろくに見ちゃいなかったが、それでもその焦った表情は今までよりも一段と度合いを増したもののように見える。
「菅原くん、合流したら即反転して来た道戻って!」
「ありがてえけど海は?!」
「俺は括られてるから大丈夫! 二人、ただ来てるんじゃない!」
言われて、赤葦たちが駆けてくるほうに向き直って気づいた。
赤葦たちのずっと奥、地平の果てに、濡れた半紙に墨でも落としたようにじわじわと黒いものが広がっている。止めどなく広がる黒は、沈みかけている太陽にも手を伸ばし、その光を呑み込む。
人の世と隔世にいくら差がないと言えど、しかし決定的な差はある。こちらと「あちら側」を隔てる不可逆にして絶対の帳が下ろされようとしていた。
「はァアーッ! なにあれ!」
「逃げてきてるんだ! すぐ離脱して!」
「海さん! 菅原さん!」
「音駒と烏野の副キャプテーーン!! やべーあれやべーマジで!! 俺なんかしたかな?!」
「やったよ!!!」
「したべや!!!」
「アンタって奴ァ本当によぉ!!!」
「ウアァごめんごめんごめーん!!!」
声が届く距離になってすぐこれだ。赤葦の秘術が効いたか、木兎は今回の事件の張本人とは思えないいつも通り加減で爆走してきた。
海はその乱痴気トンチキカーニバルの裏に、確かに木兎の焦りがあるのを理解していた。木兎はバカだが馬鹿じゃない。自分がしたこと、しようとしていること、したら何が起きるのかをたぶん理解している。だからこそあれだけシャカリキになって走っていて、赤葦が怖がりなことも理解しているからトンチキなフリをしている。やっと顔が見える距離になって、海は木兎のきんいろの目と視線が合った。
その領域。裏ワザは、仕組みに慣れちまえば案外いつでも使える超法規的なだけのもんなのに対して、神業、とは、熟達したものが限りなく整えられた空間でのみ確率で引き起こせる御業である。海と木兎は一瞬のうちに互いの考えをすべて理解して、そのために何をしたらいいのかを弾き出した。
「出るぞ! 掴まれ!」
この速度のままいけば一秒もせずに合流できるタイミングで、菅原だけが方向を反転した。気力だけで走っている赤葦の手を掴んで、夕日に背を向けて走り出す菅原の横で、海は一瞬だけ木兎の全身を抱き留めた。
「貸す! 春高で返せ!」
「決勝で返す!」
なんのことだ、思う間に木兎はもう菅原と赤葦よりも先を走っていた。
あれ、なんで海さんがいないんだっけ。いやいるんだけど、なんで戻んないんだっけ。赤々と燃える夕陽の街で疲れないとはいえ一生分走ったのに、追加で来世分も走っている赤葦が、あまりのことにすっかり沈黙している脳みそでぼんやり気づく。据わらない首をぐるりと巡らせると、もう広い背中しか見えなくなっている海から鋭い声が届く。
「行け!!」
「ッはい!!」
一も二もなく返事をしてしまった。返事をしてしまったのに気づいたのは、いつ縺れてしまうか秒読みだった両足がしっかりと地を蹴りはじめてからだった。
夜が来る。
*****
したたかにスネをぶつけた。折れたかと思った。あんまりにも痛くて、「ほぁ!」とか悲鳴をあげてしまった。
何かと思って見やれば、膝の下にブランコの柱が見える。何かに体を掴まれている。逃げなければ。なぜって、今さっきまで必死こいて逃げていたから。逃げなければ逃げなければ。今一度バラバラになりそうな脚に力を入れて、シャカリキに暴れた。
「あー! 赤葦! 赤葦! もう大丈夫だから! 帰ってきてるから!」
「お前この木兎このバカ! 赤葦パニックじゃん! 知能指数がミジンコより無い」
「ごめんてば! あかーし! あかーし止まって! 止まっ……そこ! スマホ構えてないで! 後で俺にもちょーだいね!」
「バレちゃった……」
なんのこっちゃ。赤葦はジワジワと我に帰って、ジワジワと死にたくなった。自分を取り囲む手や声は木兎や猿杙、菅原に潜のもので、どうやら自分はこちらに帰ってきてからも「帰ってきた」と自覚しておらず、横に倒れたまま走る素振りだけはずっとしていたらしい。猿杙に脇の下を持ち上げられて、宙ぶらりんのまま脚だけがシャカシャカ走っていた。はっず。死ぬか。いや死なんけど。赤葦は徐々にクソ間抜けにバタつかせていた脚を落ち着かせ、持ち上げられて長くなってる猫みたいな体勢で「帰ってきました」と呻いた。
「おかえりー、早かったなー。よかったよかった」
「測ってました。二分です」
「んなわげあるがッ! めちゃくちゃ走ったのに!」
「丸三日走ったんですけど」
「丸三日待ってたんだけど」
「お前は自分から出ろよ」
「それは、ほんとうに、そう……」
がちゃがちゃと喧しく赤葦の帰還を言祝ぐ声の中に、ひとつ異質なものが混ざった。
全員が、赤葦が抱え上げられたまま声の方に首をぶん回すと、ブランコにぐったりと座る海がいた。ブランコを吊る鎖にだらりともたれ掛かって、今にもずり落ちてしまいそうなほど憔悴した姿に、潜が飛び出して介助する。
「海さん! あ猿杙さんもういいです降ろしてください」
「うん降りて。重いんだよ」
「海さん、おかえりなさい、大丈夫ですか。大丈夫じゃないですね」
「はいただいま……大丈夫じゃないです……誰か飲むものある……?」
「ポカリ」
「コーヒー!」
「デカビタ!」
「苦渋!」
「潜のだけもらう……」
ポカリを挙げた潜だけがエナメルを弄った。夏の合宿でも見たことがないような勢いで飲み干し、再びげっそりと俯いた海に、皆一様になんと声をかけていいかわからなかった。何をしてきたのかわからないからだ。しばらく再起動中だった海が再びゆるゆると顔を上げる頃には、帰ってきた頃にはまだギリギリのぞいていた夕日もすっかり沈んで、あたりには闇夜が満ちている。
「か、海……あの」
「はい」
「あー、木兎んち泊まる?」
「俺んち?!」
「泊まる。帰る気力ない」
「いいよ! びっくりしたけど多分だいじょぶ!」
「はい! 今日はとりあえず解散にすんべ! なんかもう何?! 菅原さん疲れた! 帰るべ!」
「帰路どうするんですか?」
「帰巣本能でなんとかする!」
「なんとかなりそうなのがまた……」
「終わり終わりーッ! 報告はまた後日! そうしよう。帰って来れたんだから、急ぐこともないべや」
海が死にかけている間ずっと息止めてました、みたいな素振りで菅原が「ほれ解散解散!」と手を叩いた。急遽集まった特攻野郎寄せ合わせチームは、言わなきゃいけないことも教えてほしいことも今だけは飲み込んで、ぱらぱらと帰路についた。
別れ際、海が菅原に「サワタリさんにお礼をしておいて」と呟く。菅原は「別にいーってさ」と笑って隙間に消えていった。
*****
世界は何によってできていると思う?
今でも俺だと思う。俺の世界の中心は間違いなく俺だ。俺の知らないことは世界に存在していない。新しく知ることは、俺に新しく知られるために生まれてきたものだと思う。
木兎は来客用の布団を出しながらそんなことを考えた。結局木兎の家には赤葦も泊まりに来た。駅まで来たあたりでいろんなものが切れたらしい赤葦がフラフラし始めて、猿杙の介助も借りながら、あの公園から一番近い木兎の家に運び込まれた。赤葦は木兎の家の風呂を借りて、木兎のスウェットを着て居間に出た瞬間電池が切れた。
「手伝う……家主……一宿一飯……」
「や、いーって。家主だし、俺のせいだし」
後ろから呻き声をかけられた。疲れ果てて言語野までダメになっている海だ。一番ズタボロなのに、執念で手伝いを申し出ている。木兎は「せめて布団敷くスペースだけ残して部屋で落ちてていいよ」と言うが、海は唇の先でムニャムニャ唱えながらも従おうとはしない。
「木兎、わかってるだろ」
「なに?」
「もう神様じゃない」
海は木兎が抱えた寝具一式の中から枕だけを持って言った。ほぼ寝落ちかけの顔のなかで、眉間だけが険しく物語る。木兎が何をしたのか。
木兎は海に枕を持たせたまま「手塞がってるから自分で歩いて」と先を促して歩く。
「ゴンさんも、ザイゴートも、全部おまえが赤葦の、なんかその、とりあえず全部おまえだ」
「そう。俺ほんっとに梟谷のこと好き。だから、誰かどっか行っちゃわないか不安で、ずっと見てた」
「木兎」
「わかってるよ。もうしない。できねーし。俺がそんなのやんなくても、みんなも赤葦もちゃんと梟谷のことめちゃくちゃ好きなんだなって分かった」
「それ、赤葦にもちゃんと言えよ」
「言うよ。一生」
木兎の部屋に戻ると、半乾きのまま落ちたせいで早くも芸術的な寝癖をつけている赤葦が転がっている。その間抜けさときたら、単身で木兎をあそこから引きずり出した人間とは思えないほどだった。
「野沢菜……」
「ふ、うへへ。あかーし寝言言ってら」
「詫びも言えよ」
「言うよ。それは明日だけ」
「それで十分」
二組布団を敷いて、片方に赤葦を設置し終えるのを見届けて、海もモゾモゾと横になる。電気消していい、と訊くまえに、海は呟いた。
「ほんと、どいつもこいつも、人間を舐めすぎなんだから、手に負えない……」
なんて? と聞き返す間もなく、海も寝落ちた。枕を抱いたまま猫でいうところの「ごめん寝」みたいな体制で寝息を立て始めた海の背に毛布をかけてやってから、木兎は部屋の電気を消した。
世界は俺によってできている。今もそう思っている。変わったことがあるとすれば、俺だけによってできているのではなく、俺を取り巻くいろんな人の世界も混ぜこぜになって俺の世界ができていたのだった。自分はその真ん中に居るのにすぎなかった。
赤葦をあそこに喚んだのは、俺の世界を一緒に作って欲しかったから。でもそんなことしなくても、もう俺の世界は俺だけのものじゃなかった。
手放した夜であり、繋いだ夜であった。木兎は「今度黒尾にも教えてやろ」と思いながら、二人を踏まないように自分の寝床を目指した。
*****
ツケはいつだって回ってくるものである。