それが、みんなも見えているわけじゃないと知ったのは、わりと早いころだったと思う。
夏。おじいちゃんとおばあちゃんにめいっぱい可愛がってもらって、野山をこれでもかと駆けまわって、泥みたいに寝て、ひどい虫刺されにちょっと泣いたり。
五才の夏休み、いつもみたいにおじいちゃんとおばあちゃんは俺を迎えてくれて、猫のコロもいた。コロは具合が悪くて、お座布団のうえでずっと寝ていた。物心つく前からそうだったので、てっきり俺は猫ってそういうものだと思っていた。
いつもと違ったのは、帰る日の前の晩だった。いつも客間で寝ているコロがめずらしく食卓に出てきて、ひとりひとりにおでこを丁寧にスリスリしていた。
「コロ! かわいいね」
「あらまあ、珍しいこともあったもんだ」
コロはその晩俺に添い寝までしてくれて、すごく嬉しかったのを覚えている。ふわふわで、奥の方に骨があって、熱があって、すこーしだけ油っぽい、生き物の感じを抱いて布団に入った。
いつもと違ったのは、そのあと、夜明け前のことだった。
近くで大きな何かが動いていた。目を開けると、大きな黒いものがコロを連れ去っていくところだった。
大きな黒いものは壁をずるうりと抜けて、コロも一緒になって壁を抜けていく。最初はびっくりして、でもすぐに俺は怒って、大きな黒いものを追いかけた。だってどろぼうだ。コロを勝手に連れて行くなんて。はじめて俺の隣で寝てくれたのに。次の冬休みか、秋の連休に遊びに来たらまたやってねって、寝る前に約束したんだ。
許せなかった。悲しかった。嫌だった。コロが俺のもとからいなくなってしまうことが。
大きな黒いものは、農道をすすんで山のほうへ入っていく。夜明け前の砂利道は危なかったけど、それでもひと夏遊びつくした庭だった。なぜかアレは川に出ると、そう思って、待ち伏せた。すると、大きな黒いものはちょうど目の前にやってきた。
「コロを返して!」
俺は今まで出したこともないような大声で、今まで出したこともないような力で、黒いものを殴りつけた。黒いものはベチャっと潰れて、ああなんだか随分あっけなかったな、と思う。
実を言うと、そこまで全力で殴りつけたのが初めてだっただけで、こういうことは初めてじゃなかった。大きくない黒いものは普段から身近にあったし、叩いてきたり噛んできたりするものは、「やだ」と叩けば同じように消えた。
コロは黒いものの中から見つかった。急いで抱き上げたけど、固くて、骨と皮だけで、冷たくて、どろっとした、生き物じゃない感じになってた。幼いながらにそれがどういうことなのか分かって、俺は泣きながらコロを抱いて、来た道をとぼとぼ帰った。
帰ると、寝ている間に俺がどこかへ消えたものだから、親子二世帯総出で俺のことを探していて、大層怒られた。
一番怒ったのは、意外にも物静かなおじいちゃんだった。
「いいかい、絶対にやっちゃいけないことがあるんだ、この世にはいくつか。今回、ボンちゃんはやっちゃいけないことを二つした。わかるかい?」
「わがんないぃ」
「一つ目はね、「あちら側」に大変失礼なことをしてしまったよ。神様を殺してしまったよ。大変なことだ。二つ目は、コロを「あちら側」から連れて帰って来ちゃったことだ。可哀そうに、コロはちゃんと「あちら側」へ行こうとしてたのを、ボンちゃんが止めちゃったんだ。やっちゃいけないんだ。わかるね」
「わがんなぁい」
わんわん泣く俺に、おじいちゃんは懇々とお説教を繰り返して、その後ろでおばあちゃんは心底心配そうにずっと両手を揉んでいた。お父さんとお母さんは、とりあえず俺が帰ってきて、これだけ泣いているのだから、もういいんじゃないか、みたいな顔をしていた。でも、おじいちゃんがあまりの剣幕で言うもんだから、口が出せなくなっていたらしい。
「コロが「あちら側」に行ってしまうのは仕方がないことなんだよ、でも神様を殺してしまうのはダメだ。わかるかい。「あちら側」のものが隠れようとしたとき、それは「こちら側」になるからだよ」
「ごべんなさいい」
「おじいちゃんに謝ってもしょうがないんだ」
「コロごめんなじゃい、かみさまごめんなざい」
「ほんとうに?」
「ほんとうにいいい」
いよいよ炎より激しく泣く俺を見かねて、お父さんとお母さんがおじいちゃんを止めた。おじいちゃんは「仕方ない」とかなんとか言って、そこでおひらきになった。
帰り際におじいちゃんは、欲しかったおもちゃやお土産をたくさん、たっくさん、もうありったけ持たせてくれた。朝怒られたばっかりなのに、こんなに物をもらえるのがよくわからなくて、ちゃんと喜ぶことができないまま受け取った。
おじいちゃんは泣きながら謝っていた。
「ごめんね、ボンちゃん。ごめんなあ。おじいちゃんが何とかするからね。ボンちゃんは大丈夫だよ。神様もう怒ってないよ、おじいちゃんも謝りに行くから」
人間こんなに涙が出るのか、と思った。なんだかつられてしまって、結局また俺もボロボロ泣きながら「ごめんなさい」を繰り返していた。
一生分、ほんとうに一生分泣いた。家に帰る車の中で、俺はすっかり泣きつかれてしまって、ちょっとも行かないうちに寝ていた。
ほんとうに、一生分泣いたんだ。だから、すっごい寝た。起きたころには辺りはちょっと夕暮れになってきていて、うーん今日のぶんの夏休みの宿題をやらなきゃーとか、そんなことを考えていた気がする。
でも起きてみて、おかしかった。着いたのは家じゃなかった。景色が変わっていない。俺が寝ているうちに、車はおじいちゃんの家から動いていなかった。あとから聞いたことだけど、途中で引き返したんだそうだ。
「ボンちゃん、ごめんねえ、ごめんねえ」
黒い服を着たおばあちゃんが泣きながら言う。俺も知らない間に黒い服に着替えさせられて、お父さんもお母さんも泣きながらあちこち走り回っていた。
しばらくして、お父さんが来て言った。
「信行、おじいちゃんにバイバイして」
おじいちゃんは、俺が帰ったそのすぐ後に亡くなった。原因はわからなかったらしい。
俺が「あちら側」と「こちら」を、おじいちゃんがあれだけ怒った理由を理解できたのは、その時やっとだった。
*****
揺すられて顔を上げてみれば、夜久がいた。黒尾は涙も鼻水も流しっぱなしで顔を上げ、同じく涙も鼻水も流しっぱなしの夜久の顔を「なんでだろう」とか思いながら、気絶するように寝た。実質気絶だった。
次に目覚めて最初に目にしたのは、かなりいい旅館みたいな木張りの天井だった。黒尾は色々なことが起こりすぎて、普段なら「いつもと天井が違う」と気づいて起きるところを、半身を起こしてやっと「いつもと布団が違う」と気づいて、何か事態に巻き込まれたのをぼんやり知った。
窓のない部屋だった。畳の床に、やけに広い空間。四方はすべて襖で、こんなん血迷っても引っかいたりできねえと思うような絵が描かれている。黒尾は美術選択が書道だったので、なんとなくしか価値がわからなかった。たぶんとんでもねえ所に俺いまいる。ひええ。黒尾は徐々に普段の明晰さを取り戻していく頭脳で、すべては判らないなりに、巻き込まれている事態の規模を認識し始めていた。
「……北の言うとおりだったのかも」
なんかすごいヤクザの屋敷とかってきっとこんな感じなんだと思う。暗躍する悪徳政治家の屋敷とか。黒尾は思いつく限りの「ここが誰の屋敷か」と「ここは何のための屋敷か」を考えようとして、選択肢がヤクザと政治家とジブリしかなくて泣いた。千と千尋でしかみたことねえよこんなの。こんなところに連れ去られる理由がまったくもって判らないが、それでも北の諫言に従っていればここに来ることはなかったのだろうなとは思う。
「だから……山のほう…………ってのに……」
「あの……せっかく……したんに……」
襖の向こうから、ぼそぼそと話し声が聞こえた。
だだっ広い部屋の真ん中に敷かれた布団に座ったままですら聞こえるので、近づけばもっと明瞭に聞こえるはずだ。黒尾は(正気で見ればこれもまた随分と高そうな)掛け布団を蹴っ飛ばして襖へ近寄った。
「いや、きっと山なんだ。あいつが最初に殺したのはそこだったから。派遣した奴から連絡はまだねえけど、そんなすぐ見つかるなら元々こんな家なかった」
「一番最初の神格が山だっただけで、「あちら側」荒らして回った最初も山とは限らへんやろ。まして最近指導とか言うて随分約束違いのこともやっとったみたいやし」
「じゃあ水源から探せってか? 京都だったらシャレにならねえ」
「山でも街でも洒落にならんやろ。青木ヶ原樹海とか梅田駅とか死んでも行かへんからな」
「背は黒尾のほうがでけえくせに、なんでやることなすこと規模がでけえんだよお……」
「そういう生きモンやからとしか。ああ、泣くな泣くな」
襖の外には二人いる。黒尾はその両方に聞き覚えがあった。
「夜久!? と、稲荷崎の?」
一番そのツラを拝んでやりたかった人間と、同率一位で今どうしようもなく会いたい人間の声だった。嬉しさと憤慨となんかもういろいろ、とりあえず顔を見ようと襖に指をかけ思いっきり引こうとして、バヂンとはじける音がした直後、なにだか懐かしい痛みが指先に走った。
襖にかけた指先の爪が剥がれかかっていた。かろうじて引っ剥げはしなかったぐらいの状態で、根本や脇からは血が宝石のようにぶくぶく沸いた。
いッッッた。何? 俺が何したんですか。襖開けようとしただけですけど。あまりの痛みにキレかけながら、しかし明晰さを取り戻している黒尾の頭脳は答えをはじき出す。開かないようになっている襖を全力で開けようとしたから爪をやったのだ。
「い゛ーーーーーーッだァ!!」
「おい黒尾起きたか!? 遅ぇんだよ!!」
結局黒尾は悲鳴を上げちまって、襖の向こうから泣きたくなるほど懐かしい温度感で夜久に怒鳴られた。泣きそう、の意味が変わりきらないうちに、黒尾は痛みを堪えて声を張る。
「夜久、北サンもそこで聞いてんデショ? ちょっと話したいことがあんだけど。あと聞きたいことも」
「う、えと、とりあえず話は聞く。でもどこまでこっちから話せるかは」
「もう諦め、夜久。ここまで来て部外者扱いできるほど余裕ない」
「でも、でもあんなの俺言えねえよ!」
「ほなら俺が言う。それで文句はあらへんな?」
「ウゥ……」
襖の向こうで、再び夜久が鼻をすする。まさか泣いている? 何してくれやがってんだろう、と指先をかばいながらどうにか開かないか試していると、「ちょっとはジッとできへんのか」と向こう側から襖を殴られた。襖ドンって新しいな、と思った後に、たぶん北がこのバカ高そうな襖を殴ったことに気付いて黒尾は肝を冷やす。
それほどまでに言えないような話に巻き込まれているときた。可能性はどれだ。
回り始めた黒尾の思考に、無慈悲な断頭の刃はあっけなく落とされた。
「おい、聞いとるか。さんざ忠告無視してくれよってからに。おかげでアイツが隠された」
「隠された? アイツって誰」
「海信行が死んだ」
***
「にィ〜〜〜〜〜しのやにしのやにしのや! 西谷! あ〜西谷一旦落ち着こうな! あ〜西谷だなあ! なあ西谷! やめるんだぞー! おいやめろって言ってるんだよ! 止まれ! 俺がムツゴロウさんみたいじゃないか!」
「お……おチビ! やーいチビちゃん! チ……聞けよバカ! ねえってば! 聞けよチビ! もお! バーカ! お弁当についてる醤油さしより脳みそ少ないな! ああもう何言ってんだかわかんないじゃん! 止まれよ!」
「どうした今日荒れてるな」
烏野高校男子バレー部にはバカと陽キャとお祭り男、もしくはその属性すべてをカバーしている爆竹みてえな部員がいるため、たまに何かの拍子で着火すると体育館はすぐさま花火事故みてえな大騒ぎになる。
今日は西谷と日向が火種であるようだった。普段は何かきっかけがあるものだが、今日ばかりはマジで何の前触れもなしに気が狂っているので、専属の飼育員たちも手を余している様子である。言語って偉大だ。意思疎通ができる。
専属の飼育員、縁下と月島は正直もう泣きそうだった。なんだって突然こんなに暴れだしてるんだ。そんなことを思いつつも、それぞれの頭の奥底では何が起きているかを理解していた。
なにか「あちら側」に関わることが起きているだろうと思った。
同時に、ああこんなとき、菅原さんがいたらどうしていただろう、とも。
***
北信介、あの男、あんな素振りでけっこう面倒見がいいのだな。黒尾はだだっ広い部屋の真ん中、敷布団の上に蹲ってそんなことを考えた。
北はあの後、案の定パニックになった自分を宥め、オウム返しできるようになるまで全てをとっくり説教し、たぶん隣で泣いてただろう夜久も宥めながら、最終的に「お前は悪くない」みたいなことを言って去っていった。
「見たからや」
「見るなのタブーを破ったから」
「鶴の恩返しは分かるな?」
「見てしまえば一生、死後も失われる。その線を越えたらあかんのや。失われるのは自分の命やないんやから」
ひどく丁寧な口ぶりだった。今まであれだけ教えなかったのが何だったのか、と思うほど、北は丁寧に事のきっかけと顛末を語り聞かせた。
「アイツはもともと人間の枠組みに入れるのも憚られるくらいのバケモンや。「こちら」のモンが正しく「あちら側」に行く道案内だの、「あちら側」のモンが必要以上に「こちら」に流入するのを叩き帰すだのやっとった。そこにお前がズンズンガシガシ「あちら側」に踏み込んでいこうとするもんやから、道ができかけてたんや」
「道ってなに、霊道みたいな」
「大体そう。墓場だの廃墟だの、人が「出そう」と思う場所には「あちら側」からの通り道ができる。だから、その道を通って「あちら側」のモンが出るんや。対策のひとつもせんで、着の身着のまま身ィ一つで遠足気分で行っていい場所でも、そも行こうとしていい場所でもない。しかも、追っとるネタがネタだけに、「あちら側」もウキウキで「こちら」来ようとしよるからな」
「海が、その、「あちら側」に対しての厄ネタってこと? アンタみたいなのがいたり、知らねえけど夜久もなんかそういう立ち位置なんだろ。なんで海だけが厄ネタなんだ」
「アイツは昔、神を一柱弑した」
「しい……なんて?」
「アイツの祖父さんの土地に古くからおる土地神をな、一柱、殺した。出雲は烈火すらも生ぬるい大激怒やったが、アイツの祖父さんが贄になって、条件付きで赦免されとった」
条件。いったいなんの条件で。
その一言がいつまでたっても継げず、黒尾は黙り込んでしまった。北は襖の向こうから、変わらず温度感のない声で話す。
「高校卒業まで、できる限りの境目の維持に勤めること、自発的に境目を超えたらあかんこと。卒業し次第、「あちら側」に召し抱えられること。それが条件やった」
「待っ……て、じゃあ海、卒業したら死ぬってわかってて、そんなんミリも見せない顔して俺らといたってこと?」
北は何も言わなかった。その沈黙が何よりの肯定で、黒尾は絶句する。
どんな思いでいたんだろう。俺の隣で、みんなの中でいつも笑っていた海は、なにを考えていたんだろう。
何も知らなかった。すっかり対等だと思っていたのに、完全に護られていた。どんな試合に負けたよりも悔しかった。
「なん、なんで今まで黙ってたんだそんなこと。俺だって力になりたかった」
「力になれるほどの力があるんか?」
「ない、けど、修行みたいなもので成育されていったりとかって」
「ない。見える聞こえるができるようになる術は古今東西いろいろあるけど、対抗までできるほどのモンはほぼ完全に生まれつきや」
「なんで海はできた、いやできてたのか?」
「できてた。途中まではな」
「途中まで。できなくなってた?」
「ああ。音駒に入学してから、随分危ない橋渡っとったよ。内緒にせなって頭悩まして、あれが危ないこれが危ないって気ィ揉んで、何かある度どうしようどうしようって連絡して来よる。……あとは、バレーが楽しくてしゃあない、音駒が好きでしゃあない、夜久と、お前のことが大事で大事でしゃあない、こればっっっかり言うとった」
ばっかり、を大層溜めて言った。その口ぶりから、海がどれだけそれを言ったか、北がどれほど聞かされてきたかが伺えた。
襖の向こうで、再び夜久が泣き崩れる声がする。その慟哭にかき消されそうなくらいささやかな声で北は言った。
「アイツの考えてることなんか俺にはわからへん。でも、言わなかった理由はわかる。自分の命よりも大事やったから、教えなかったんや」
そんなことを言われたのが、よくわからないが何時間か前のことだった。この部屋には窓も時計もないので、今が何時か、昼なのか夜なのかすらわからない。
黒尾は相変わらず布団の上で丸くなっていた。
たかが主将だからってだけで、護った気になっていた。その実まるっきり護られていた。想像もできないような事情を抱えながら浮かべるあの笑顔に、いつだって俺こそが救われていた。
「……クッソ」
何度目かもわからない悪態をついて、わからないことばっかりなことに気付いて、また悔しくなった。俺には何もできない。何も知らなかった。なんでもできるようになった気になって、世界にあやされていただけだ。無知の知、とは言うが、どれだけ愚かだろうと知らない方がよっぽど楽なのを、今知った。
「……い、おい、黒尾……」
「……」
「……おいアスタキサンチン!」
「DHAですぅ!」
かすかに聞こえた声に条件反射みたいに答えて、黒尾はばっと顔を上げた。襖の向こうからかけられた茶化しは夜久の声で、黒尾はめちゃくちゃに声のするほうへ駆けた。
「……やっくんも悪い奴だよねえ。俺ずっと寂しかったんだから! 何もできないにしても」
「……俺も全部は知らなかったよ。そういう家系だけど、俺そっちに関してはほんとに何も持って生まれなかったから、ちゃんと関わったことほとんどねえんだ。悔しい」
襖を隔てて、夜久は再び湿っぽい声で喋った。黒尾はだんだんこの見るからに高級そうな襖が大嫌いになりつつあった。これを隔てて会話するとき、いっつも夜久が泣いている気がする。どうしてやろうかこの重要文化財(仮)、と襖の前で両手をモギモギしていると、以外にも襖は向こうから開けられた。
「うわグッロ!」
「うわヤッバ!」
互いが互いの顔を指を評した悲鳴だった。夜久はほんとうに泣き通していたらしく顔中ばんばんにむくんで腫れて、黒尾の指先は剥がれかかった爪の周りに固まりかけた血がベロベロついている。
状況に反してとっさに出た本音がむず痒くて、何より会いたかった人間とやっと対面できて、二人は小さく笑った。夜久は鼻をすすって、「こんな笑いながら言うつもりじゃなかったけど」と前置きしてから話す。
「……海、あいつさ、俺とお前がローテでコート立ってないときも、ずっとコートにいるじゃんか。後輩のこと信じてないわけじゃ一切ねえんだけど、でも俺、三年三人でコート入ってるときが一番なんか、安心したんだよ。俺、たぶん海に任せすぎてたんだよな、いろいろ」
「……うん」
「庶務ってーの? テーピング用意したりとかも海がやってくれてたじゃん、うちマネージャーいねーし。でもアイツ嫌な顔ひとつしなかった、いや嬉しかったんだろうな」
「うん」
「悔しいよ。春高予選で足やった時の何十倍も」
「俺も。あんときやった爪の五百倍痛い」
「言われてみりゃ、俺らどっちもあの時ケガでコート抜けてたのな」
「あんとき、コートも、帰ってくるとこも守ってくれてたんだよな、海は」
「それな」
どちらともなく、少しだけ笑った。しかし笑い声は驚くほど渇ききっていて、双方みじんも納得していないのがありありとわかる。
知ってたからいいでも、知らなかったから仕方ないでもない。ただみすみすと、ちょっと自分たちより早く海と出会っただけの何かが、海を「あちら側」へ連れて行ったこと、何より海がそれを受け入れていたことを納得できるわけもなかった。
「おい、これ」
夜久は黒尾のケータイを差し出して言った。
「ほんとは北に止められてる。でもここまで来て、海ひとりだけあっちにくれてやれるか。アイツが行くなら俺らもだろ」
「か……かぁっこいい〜〜、マジでリベロって男前しかやれないポジションなの?」
口調こそ茶化したが、黒尾は力強くケータイを受け取る。夜久は「おう、生涯現役貫いてやるぜ。こっちでも何かできることないか探してみる。出してやれなくて悪いけど」と歯を見せて笑い、襖を閉めた。クソかっこよかった。
さて再び独りである。黒尾はダメ元で襖に手をかけたが、やはり開かなかった。
「え良くないか? うちの横断幕」
「なんかもっと無ぇのかよって思わん? 当たり前すぎんじゃん今日びバレーで「繋げ」て。繋がないと始まらないんだわ」
「繋がないと始まらないから、「繋げ」なんだろ」
「そういうもん?」
「そういうことにしておいたら。ほら、俺が好きってのに免じて、今は黒尾も好きになってよ横断幕。三年これを背負ってコートに立つんだよ」
「放っといたら金言しか出てこねえ口だなマジで。わかったよ。繋げ、繋げね」
あの時すでに、海は三年後の死を見越して言っていたのか。ふとよぎった回顧にそんなことを思う。
黒尾は手渡されたケータイのロック画面を見て、噛みしめるように笑う。
画面には、不在着信が何件かあった。
やはり間違っていなかった。どんな無力の中にいたって、いつか最後に咲うのが俺たちのやり方だ。
繋げ。血液のごとく。
***
さて、黒尾は電話帳の中から、一番連絡したくない人物を探し始めた。黒尾は電話帳を斜め読みして、ウッと目に留まった人物の名前をしばし睨み、「ええい!」と通話ボタンを押す。
随分長く感じた4コールは、罵声で途切れた。
「るっせえな! 今忙しいんだよ! ネコちゃんはヒマか!?」
「あ大将くん元気そうでコッチも元気出た」
戸美学園高校男子バレー部元主将、大将優である。ぼちぼち遅い時間のはずだが、電話口の向こうはにわかにガヤガヤとしていた。
「ネコちゃんヒマじゃないんですよ。ちょっと相談あんだけど乗ってくんない?」
「こっちもヒマじゃねえんだよ! 乗ってられっかバーカバーカ……あ何? 喋んの? 何喋んの?」
「え誰? てか誰近くにいんの?」
「いるいる、いるから忙し……ちょい!」
「もしもしッ!?」
黒尾は驚いてケータイを思わず耳から離した。運動部員のバカでっけえ声がゼロ距離で来たらそりゃ鼓膜も死ぬってもんである。人目をはばかる必要もないのでスピーカーに切り替え、胡坐をかいて膝の上に置いた。
声は聞き覚えがなかった。年明け前に一度試合しただけの声を全部覚えてるわけでもないが、今の声で今みたいにでっかく喋る戸美の選手がいた気がしないし、バレー部じゃない戸美に友人なんぞ一人もおらんので、黒尾は一応「どなた?」と訊いた。
「戸美バレー部一年の潜です! 12番でした」
「あーあの打ち分けが巧……え!? そんな声出るタイプだった!?」
「潜! 貸せ! スピーカーにすっから! ヌマ、一旦捕まえてろ!」
「よォ〜しゃよしゃよしゃよしゃよしゃ潜ちょっと待とうな! ほら沼井さんだぞ!」
「電話ぁ゛ーっ!」
「赤ちゃんじゃん!」
「だから忙しいっつってんだろァ゛!」
そうこうしているうちに向こうも体勢が整ったようで、「潜いいぞ、ゆっくりな」と促され、潜は喋りだした。
「ネコチャンってことは、音駒ですよねっ、音駒のキャプテンの人ですよねっ」
「ぇうん、そ、そうだけど」
「海さんの大事な人ですよねっ!?」
思わぬ人物から思わぬ名前が飛び出して、黒尾は膝からケータイを落とした。拾い上げる余裕もなく、片膝を立てて前のめりになる。
「なんで君からその名前が出んの?」
「ごめんなさい、キャプテンも沼井さんも黙っててすいません、俺、春高予選のとき海さんに助けてもらいました。神隠しみたいなものだったそうです」
「……」
「あの、海さん、隠されましたよね。隠れさせられましたよね。ごめんなさい、あの時迷惑かけたからっ、あれからまだ強くなれてないからぁ、俺助けに行けなくて。たぶん海さんがいるだろうって辺りまで”潜れ”ないんです。ごめんなさい」
へぐ、と呻いて潜は黙った。スピーカーからはかすかな衣擦れの音がして、ああ肩を抱いてくれる人が彼の傍にいてくれてよかった、と黒尾は思う。
「……ネコチャン、悔しい?」
「……大将くんは性格悪いね。いいや? 悔しかない。海のことこんなに慕ってくれてる後輩、他校にもいたんだなって」
「アッソ。俺は悔しいよ」
大将の声はいつもの何割増しで冷え冷えとしている。試合中でもこんなにはしない。マジギレしているときの声だった。
「俺は悔しい。泣きそうなぐらい悔しい。マジでバカみてえに悔しい。何もかもが悔しい。でも特に腹立つのが二つある。わかる?」
「……わかんないけど」
「潜がこんなに泣くまで悔しがってんのに俺たちが何にもできやしねえのと、お前がもう諦めてんのが一番腹立つわ」
「あ!? 聞き捨てなんねえわ誰が諦めたって!? あのさ一個言わしてもらっていい!?」
「粘りの音駒が諦めてんじゃねえよクソがぁ!」
「諦めてたらお前に連絡よこしてねえんだよバァーカ!」
「声音がもうメソこいてんだ説得力ねえわお前ホントにキャプテンか!?」
「メソこいてねーーーーッし! メソこいてんのはどっちですかァー!?」
「泣いてっ……泣いてねえわバカ! あれだし! 花粉症だし!」
「聞いたことないですけどおーっ! ぐず、そんなん知ってたらもっとイジってっし!」
怒りが諸々を追い越すと人は無になるが、諸々が怒りに追いつくと人は泣いてしまう。黒尾は高級そうな布団で遠慮なく鼻水を拭って泣いた。悔しさがやっと襲いかかってきた。
高校生たちはそのまましばし言い合いながらベロベロ泣いた。何もできない。悔しい。こんなに悔しいのに、まだ全貌を理解できていないのが信じられない。こんなに苦しいのに、きっとまだ全てを知り得ていない。
ただ、悔しかった。
「おれさぁ」
そうして、互いに息も切れてしばし鼻を啜る音しかしなくなった頃、大将はガビガビになった声で呟いた。
「俺は戸美で戸美のバレーができてよかったよ。でも、戸美のバレーをあそこで終わらせたくなかった」
「主審は神でも機械でもない、点を取るために手を尽くせ。コイツよく言ってたんだよ。俺もその通りだと思う。ミスを誘って、その隙に俺たちが全部かっさらう。できることを全部やりもしないで「まだやれたのに」って泣いてるヤツらが俺たちは大嫌いだ」
大将の言葉を継いだのは沼井だった。春高予選では利き手の親指を脱臼していて、試合ではリリーフサーバーとして音駒を苦しめた。とはいえエースであった。そのローテの間しかコートに居られなかったのは、悔しかったろうなと黒尾は思う。
黒尾はしばし黙った。この胸の悔しさは、どこから湧いて出ているんだろう。この悔しさは高校生にはちょっと強大すぎて、どこから来ているのかわからなかった。沼井たちの言葉を噛みしめながら、しかし熱に浮かされたように呟く。
「……なんでこんなに悔しいんだっけ」
「悔ちいでちゅかネコチャン! 俺もだよバァーカ!」
「まだめっちゃ元気じゃん」
「元気ねえわ。でも負けちゃいらんねえんだよ。俺たちは確かにお前ら音駒に負けて終わったかもしれないけど、戸美のバレーは潜が繋いでくれるし、俺はまだバレー続けるし。そこはもう解決してんだわ俺は。俺が負けてらんねえのはこの状況なんだよ。潜には悪いけど、俺たちはお前がそういうのに巻き込まれてたの知ってたわ。何回でも言うぞ、俺たちの大ッ事な後輩がこんな泣くほど、こんな泣くほど大事に思ってた人間を俺たちだけじゃ助けてやれねえのが腹立ってんの。お前も同じ状況なんじゃねえの? なのにすっかり諦めきって「落としどころ見つけようとしてる俺クレバー」みたいなスカした顔しようとしてんのも腹立ってんの」
「……」
「足掻けよ! 心当たりとかツテとかねえの!? 全部やり切ってからベソこけや!」
黒尾は携帯を前に押し黙り、きつく目を閉じて何度も眉間を撫ぜた。やっぱり一番最初に連絡したのが大将で良かった。大将が明晰な男で良かった。彼が率いた戸美と戦えていてよかった。
この判断がどう転ぶかわからない。黒尾は一つのアイデアを反駁しまくり、しまくった末に、彼らなら大丈夫だとも思う。最後の確認だけはして、あとは祈るしかない。そう思って、なんだ今までと大した状況が変わるわけじゃないんじゃないか、と皮肉気に笑った。
「……ねー大将くん、エースと後輩くんも」
「はい」
「ンだよ」
「俺たちはバレーオタクなわけですけどさ」
「言い返してえけどその通りなんだよな。それが何」
「バレーってチームスポーツよね」
スピーカーの向こうではっと息をのむ音がした。戸美は私立だったか。話が早くて助かる。黒尾は目を閉じて眉間をゴシゴシこすったまま言葉を続ける。
「ツテ、というか、わかんねえ。わかんねえけど、一個連絡先教えるから。そこ架けてみて」
「誰」
「梟谷の主将」
「赤葦さんのとこの!」
「ン、わかった送れ。お前は何やんの」
「黒尾さんこれでも人望があるんでね、ツテは一個じゃないんだよ」
「全部終わったらお前と円陣組んでやろうと思ってたけど今やめたわ」
沼井が心底、といったふうに言う。その気兼ねなさが今はなんだかありがたかった。じゃあ送るから切るな、と息を吸う直前、どうしてもと潜が口をはさむ。
「俺がちゃんと言いたいこと言えるようになったの、海さんのおかげなんです。でも、その時、海さんおでんご馳走してくれるって約束したんですけど、まだご馳走になってないんです。海さんちのおでん、根曲竹が入るそうなので、絶対食べたいんです。できること全部協力します、変なこと言ってると思うでしょうけど、俺に海さんちのおでん食べさせてください」
泣きはらしてベロベロになった声で潜は言った。以前黒尾も相伴に預かったことのある海のおでんは、マァ大層美味い。
「言われなくても。俺はんぺんね」
「俺がんも」
「俺もち巾着がいい」
ベッロベロでガッサガサの声のまま誓い合って、通話はいったんお開きとなった。笑いたければ笑うがいい。高校生にとって最も大切なものは三つある。それは楽しいこと、仲間、飯であった。
***
何やってるんだか。すごい疲れた。
月島は三月の夜空に白い息を吐いた。北国の三月なんぞまだ冬だ。それでも北海道なんかは五月まで雪が残るらしい。つくづく人の住むとこじゃないよな、観光以外で行きたくはないかな、定住はしたくないよな。そんなどうでもいいことを思いながら、月島は所在なさげにケータイを持った手をプラプラやっていた。
何やってるんだか。画面には通話終了の表示が出ている。何度か架電したが通じず、さてどうしようと突っ立っていた。
「……どうにかできるわけないデショ。どうかしてるんだよ、僕」
言い聞かせるような声だった。
結局今日の練習は西谷と日向がいつまでもソワソワバタバタしてまともな形にはならなかった。新体制へ移行して間もないことを差し引いても、あの落ち着きのなさはきっと何か原因があって、月島はそれを超自然的なものだと推察していた。天変地異の前触れで野生動物とかが落ち着かなくなるやつ。そう評している時点で、大概月島も該当二名を人間扱いしていないのだが。
以前までなら、菅原がチョチョイとうまく鎮めていた。菅原は卒業式の登校を残すのみの自宅待機期間中で、当然部活に顔を出したりなどしない。これからはずっとそうだ。三年生のおおきな背中を失ったまま、二年生の背中を支えて追いついて、どれだけ来るかはわからない新一年生を抱えて、今年もインターハイと春高を戦わなければいけない。
できるかよそんなことが、僕に。
何度目かの溜息は不透明度を増して広がる。冷え込んできた。いつまでもこんなところに突っ立っていたって仕方ないのに、わかっているのに、なにだか足が踏み出せないでいた。
菅原さんに拉致られたときみたいだ。あの時も、なんでか踏み出すのを怖がっていたっけ。あの時は菅原さんに無理やりつれていかれたけど、そうして「菅原がいない」という結論に何度も道順を変えてたどり着いていた。僕案外甘えんぼちゃんなんだな。弟気質ってやつ? ここで発揮されないでほしかった。
北国の三月はまだ冬だ。外側から刺すような冷たさは、いずれ内側の熱も奪っていく。そうなれば長くはもたずに人は死ぬんだろう。宮城生まれ宮城育ち、ウィットと皮肉は大体友達の月島だったが、どうにも寒さに弱くなっている気がした。
「ウヮ」
すっかりドロドロと暗い方へ沈み込んでいた思考にエイリアンが襲来した。エイリアンはケータイをけたたましく響かせる。画面には「黒尾鉄朗」とあった。
「えっ、あ、もしもし」
「あホントにツッキー!? うわツッキーだ。久しぶりだね」
「なんかめちゃくちゃ電波悪くないですか?」
「ちょっと事情があってね」
黒尾の声は随分とノイズが混じっている。地下にでもいるか、近くで電子レンジでも動いてるのかと思うほど電波状況が良くない。それでもカラッとした声は、なにか元気なふりをして結論を急ぎたいときのような響きだった。
「で、どうしたの急に。こんなに連絡くれちゃって」
「いえ、別に……」
「そ?」
連絡しておいて、促されると切り出せなかった。月島は今までの友好関係を振り返る。ウィットと皮肉は大体友達だったが、こうなってみると愛と勇気だけが友達のほうがよっぽど楽だったろうなと思った。
それでも黒尾はみじんも嫌がる気配を滲ませなかった。合宿でものを訪ねたときもそうだった。大きいひとだなあと思う。二年後自分がこうなれているビジョンがない。まるっきり全部こうなりたくはないが。
「んじゃさ、俺の方の相談ちょっと聞いてもらっていい?」
「あ、ハイ」
「今俺ねー、ハイパー無力」
「は? あスイマセン」
「いいよー」
大きいひとだと思った矢先にこれか? 月島は電話口で唇を諫めて続きを待った。
「なーんもできない。勝てっこない。何やったってあいつには勝てない、そもそもの土俵が違うんだ。そんな時、ツッキーならどうする?」
いつか聞いたような言葉だった。どこで聞いたっけ、と思って、月島は自分の口から出たのを自分で聞いたのだったと思い出す。
自分と日向はそもそもの土俵が違うから、争ったって無駄なのだ。無駄なものをどうして精一杯やらなきゃいけないのか。そんなことを言って、木兎と黒尾に大層煽り散らかされた、もとい、発破をかけられたのだった。
あれから、自分なりになぜバレーをやるのか考えた。今でも明確な答えは出ていない。きっと一生、何かの折に考え続けるだろう。それでも、ひとつきっかけを掴んでいる。そのきっかけの、さらにきっかけをくれたのが山口と、他でもない黒尾だった。
声にするために、息を吸う。息を吸うために、息を吐く。息はぼうぼうと白く燃えている。冷え込み以上に体が熱くなっていた。
「僕なら、『それでも』って言います。仮に黒尾さんも同じだとして、僕らみたいなのは『それでも』って言い続けるしかないんだと思います。『それでも』の先は人それぞれでしょうけど」
「……それでも、か。ツッキーは? その先は何にしたの」
「僕ですか? 負けてられるかにしました」
随分殊勝な言い方をしたが、すっかり自分に言い聞かせるようだった。できないで終わるな。諦めたらそれ以上はない。諦めてそこで終われるようなら、こんなに苦しんじゃいやしねえ。何度も何度も噛みしめた答えを今一度口に含んで、吐き出した。
「ツッキーは、強いねえ。折れそうになったりしないの」
黒尾の声は普段通りなふうをして、風に折られる寸前の枝のようであった。何があなたをそうさせたんだ、気色悪い。月島はあの時ケツを叩かれたのと同じか、それ以上の威力で言葉を振りかぶった。
「黒尾さんがなにに悩んでるのか知らないのでバレーの話をしますけど、僕らが選んだリードブロックは最後に咲うブロックでショ。ましてこちとら火力と空中戦でぶん殴る脳筋集団烏野ですよ、粘るのは慣れてるんです」
「うぇへへへうへへへ、かっこよ。最近身の回りの男前度が青天井でどうしよう」
「笑い方気ッ色悪」
「切れ味キレキレでいつもどうも!」
「こちらこそ殴りやすい隙を作ってくださって」
応酬はあくまで比較的、だったが、健やかだった。受話器の前で唇がかすかに上弦を描く。互いにただの人間であるので、知っている部分だけがその人のすべてではないのは重々承知だが、それでもあの余裕が服を着てベラベラ喋っているような黒尾がしんなりと力をなくしているのは、どうにも具合が悪かったのだ。
「お力になれたかわかりませんけど」
「かと思えば殊勝なこと言うじゃん。かわいいなツッキー。スガちゃんもかわいくて仕方なかったろうね」
「ずいぶん手を焼かせたと思いますよ。ほら僕ってカワイイですから」
「ニュアンスが違いそうな言い方してるゥ〜。……あー、もういっこ相談していい?」
「いいですよ」
「ありがと。例えば、例えばよ? 山口くんが、ツッキーも知らないような小さいときにした何がしかの約束で、誰にも何も言わないで、高校出たらすごい遠くに行っちゃうってなってたら、ツッキーどうする?」
月島は黒尾の口から出たたとえ話に、数パターンの違和感を感じて眉頭を寄せた。このパターン告白とかでよく聞くやつだ。そういう例え持ち出して相談するとき、大体もう身に起こってるタイプのヤツだ。「例えば月島君のこと好きな友達がいてさ」みたいな。月島は黙っていれば月も傾く美男子なので、多少の覚えがあった。
こちらも黒尾に負けず劣らず、名実ともに頭脳明晰な月島はいくつかの仮説を同時に走らせ、一番早く腑に落ちたものを採択する。
「殴りますね」
「誰を?」
「その約束をした人を一発、山口を二発くらい」
「ええ〜意外とバイオレンスじゃん。その心は?」
「話してくれてもよかったデショ、と」
「おお。やっぱそうなるよね。でもさ、ほんとに手出しできないくらい遠くだったらどう?」
「手出しできない、ほど」
「そう。例えばヤクザとか」
また随分物騒な例えが出てきたものだ。月島は黒尾からの問と同時進行で黒尾が巻き込まれている事件? がどういったものかを推理する。ものすごく遠いところ? ヤクザ? 手出しができない? めっきり冷え切った夜のなかで月島の体はこれ以上なく滾っていたが、頭だけはこれ以上なくクールだった。最高の状態じゃないか。
「人を集めます。ヤクザがどうやって捕まるか知ってます?」
「知らない。音駒クリーンだし」
「ウチが黒いみたいに言うのやめてもらえます?」
「黒いじゃん」
「ジャージだけですから。……ええと、一概に言えた話ではないですけど、もちろん警察なんかの捜査から悪事の足がつくパターンもあります。でも、ヤクザも拠点があって、家があって、人です。警察任せではなく、公民館とかに「暴力団追放」のポスターが張られるのは、結局大衆で後ろ指さして出てけコールして石投げれば街を出ていくからだと思うんですよ。イヤでしょ、この街の全員に嫌われてるなってわかったまま同じ街にいるの」
「腰折ってごめん、性格ワッル!」
「変わらぬご愛顧いつもどうも。同じことやってみるのはどうですか? 人を集めて、集団で」
「なァるほどね。じゃあこれ本当に最後なんだけどさ、ツッキーは人集められる?」
「それは頼まれてるんですか? 例えの話ですか?」
「んー、どっちも」
どっちも、ときた。ならば、黒尾は人を集めてほしいのだ。ヤクザを街から追い出すために。
「例えの話なら日向にだろうが頭下げますよ。ていうか、烏野のみんなは僕から山口とったらダメになるの知ってるので、山口いなくなりましたって言ったらもう方々にダッシュしてくれます。頼まれごとに関しては、僕にはちょっと荷が勝ちます。ほら僕ってカワイイので、僕が頼むとみんな萎縮しちゃうんですよ」
「言いよるわぁ」
「なので、僕からそういうの得意そうな人に声かけてみます」
「助かる。詳しい説明とかしなくていいの?」
「大体予想ついてるので。声かけようと思ってる人も、たぶん言ったら「あーね」って言ってくれるんじゃないですか」
「俺今ハイパー無力。どんだけ井の中だけで生きてきたか思い知ってる」
「ゼロでさえなきゃ累積した数によっては強いデショ。個の力なんかたかが知れてますよ。リードブロックはそういうブロックですし」
「頼もしくなっちゃってまあ。……どう、繋ぐか、ね。わかった。ありがとネ」
「僕らも新学期までヒマですから、なんかあったら連絡ください」
「ほんと頼もしくなっちゃってまあ!」
最後にもう一度ありがとネと言い残して通話は切れた。ケータイの画面はすっかり履歴が表示されるのみで、それでも通話時間の表示が、いまのが夢でなかったことを証明している。北国の三月はまだ真冬である。月島はごは、と真っ白な息を吐く。いくら身の内が燃え滾っていても、これ以上夜中の野外に立ちんぼしているのはよろしくなかった。
「……そういうことですんで、協力してもらえますね。サワタリさん」
闇の中を、ぞろりと影が動く。一人のようであり、大勢のようであり、たおやかであり、雄々しくあり、若々しくて枯れ木のようなその影は、これまた何だかよくわからない声で笑った。
*****
もってくれよ、俺の体……!
黒尾のスマホに自我があれば、そんなことを思っただろう。ほんとにちょっとドキドキするくらいアツアツになっているスマホにちょっとだけ手を合わせて、黒尾は内カメの前に座る。
「もしもし?」
「あもしもーし」
「はーい」
「うェい久しぶりい〜!」
「お前ちょい馬のマスク被ってんの誰だよ!」
「完全にはじめましての人がいるんじゃん」
「こんにちわ……」
「うわうるっせ」
大音声である。黒尾は素早く出力をイヤホンに切り替えて音量を絞った。
画面には通話媒体が起動されている。招かれた各人がめちゃくちゃに喋り散らかしていて、場は人類有史以来最も踊る会議場となっていた。
「はーいはーい自己紹介はちょっと置いといてもらってー、ホストの黒尾でーす」
「知らん!誰だ」
「岩ちゃんちょいちょいちょい」
「八さんに命令するちいい度胸やんか!?!?」
「話通じてない人はあとで通訳を依頼してくださーい、じゃあ会議はじめまーす」
「はあーい!!」
バカクソ大声で返事をしたのは菅原だった。
「海が神隠しにあった。助け出したい」
「あー何、人っ子ひとりあっちから連れてくればいいってこと?」
「画面越しだけど、何人かできそうなやついるんじゃん。さらっと行ってさらっと帰ってこれば?」
「どこまでもって行かれたかによるべや」
「俺わりとどこでも行けるよ」
「すげえ! バケモンかな?」
「えヤバ、お前誰? 名前聞きたい」
対「あっち」の碩学たちは「ああそのくらい」の姿勢でいたが、赤葦の一言に、およそ8割ほどの参加者が襟を正すことになる。
「隠されたのは経島です」
なんだ経島って。黒尾はここが自宅でないのを悔やんだ。自室にあるPCは研磨に選ばせたボチボチのスペックのもので多少の2窓くらいどうってことないのだが、今ケータイからそれをやると通話媒体がオチそうで怖い。
「なんで経島が高校生やってんだよ」
「ていうかうわ、そういう視点で見たらここバケモンみたいなやつしかいないね? スガちゃんそれ何? 特異点か何かなの?」
「何の話してるか全くわからん」
「ほら花巻カプリコあげるから静かにしてようね」
「いやマジでなんでそんな奴がふつーにふつーの高校生しちょん? アホすぎやんか。誰も気づかんかったんやろ?」
「地上に立ったまま地球観測すんの難しいっちゃろ、経島レベルやけん、そういう理屈ち思っちょるけど」
「八さん天才やない?!」
「どこでも行けるよとか言ったけど訂正していい? 行けるにゃ行けるけど経島連れて来いってのは無理だわ」
碩学たちにしてみれば、何やらとんでもないことが起きているらしい。黒尾は海の正体がわかりそうでわからないもどかしさと、大事なのはそっちなのか? の複雑さに内カメの前で下唇の右側を噛む。
「どうでもいいべや」
議論を切り裂いたのは菅原の声だった。声には不服がにじみてている。
「なんで経島が高校生やってっか? 高校生だからで今はいいべや。俺たちが考えなきゃなんないのは、なんで経島が「あっち」隠されたって話に俺たちが集められてっかだべ?」
「縁もゆかりもないとお思いの方もいると思いますが、この顔ぶれを見れば十分じゃありませんか。バケモンとか妖怪とか以前に、全員バレーボールやってた、もしくはやってる。それで良くないですか?」
菅原の言葉を継いだのは赤葦だった。思えばこの二人、合宿の間は暇さえあれば海も交えて額をつき合わせていたな、と過ぎ去った夏を思う。
窓も時計もない文化遺産みたいな軟禁部屋は、季節感がない。画面の中の見知った顔がすこし垢抜けていて、ああ春になるのだ、と黒尾は胸元が辛くなる。
建てつけの悪い部室のドア、借りっぱなしのコーパス、貸しっぱなしのシャーペンの替え芯、いつの間にか用意されているテーピング、チャリキーにつけてたキーホルダー、放課後分け合った中華まん、ブレザー、廊下。あらゆる青い春の思い出が、場所を変えてこれからも続いていくのだとばかり思っていた。
「俺さぁ、美術選択書道にしたんよ」
「は? 何?」
「花巻パピコあるから静かにしてて」
黒尾が呻くように呟く。
「ほんとは音楽取りたかった。ギター弾けるようになりたかったけど、海が俺書道だよって言うからそっちにした」
黒男の声音は痛々しいほどで、一同は思わず押し黙る。身に覚えがある者もいた。
「あいつからコーパス借りっぱなしだし、あいつ俺のニーサポ勝手にパクったまま返してない」
「返してないんだ……」
「潜ベビーせんべい食べな。静かにしてな」
「卒業って断絶なんか? 違うと思ってた。これがそうならそれで納得するしかないのかもしれないけど、生憎俺も高校とかいうクソ狭い世界ん中だけど、二年とかいうクソ短い期間だけど先輩やってきて、いろんなこと教えたしいろんなこと教わった」
黒尾はちらりと画面の中の月島を見た。月島の目も如実に語っている。
それでも、と言い続けろ。
「手を伸ばして届くなら諦めたくない。バレーボールは繋ぐ、上を見上げるスポーツだ。俺は高校でバレー終わりだけど、それでも、上を見上げて生きていけるの分かったから、これからもやめるつもりないよ。そんで、クソ短かったかもしんないけど三年一緒こいて上見上げてきた友達をさ、手を伸ばさんで諦めろってのも無理なわけよ」
それでも。もうすぐ黒尾は使う権利を失う言葉かもしれなかった。老いも若きも使える言葉ではある。けれど、最大火力で使えるのは今しかない、そう思う瞬間が一番の使い時であった。
「一生分の「それでも」をここで使ってやる。到底できることじゃねえのはもう思い知った。それでも、海を助けたい。すんげえ大事な仲間だから。でも俺だけじゃできない。だから助けてくれ」
***
高校生なんつうのは、相手と自分に共通項が二つ以上あればもう友達になっちまうもんである。少年たちはバレー、「あちら」に多少の理解がある、友情を愛しているの三項目も共通していて、もう他人になど戻りようがなかった。
「木兎さん、あかーしの頼みでも聞けませんか? 」
「いくらカワイイあかーしの頼みでもそれはやべえよ!?」
「ネコ被ることあるんだな赤葦」
「サウナスーツ並みに着込んでたじゃんコイツ、いやー俺常人ですの顔した狂人じゃんコイツ」
あごの下にゆるく握った拳をあてた赤葦が、上目遣いで木兎にねだっている。鷲尾と猿杭は久々の会合に色めき立っていたのもつかの間、久々に見る後輩の面の皮の厚さにちょっと歯を噛みしめたりなどしていた。
時は早くも通話会議の翌日、ところは梟谷学園高校男子バレーボール部の部室である。新生活準備も大体終わって暇を持て余しているだろう先輩どもを召喚し、赤葦は懸命の説得を試みていた。
そりゃもう懸命である。じゃなけりゃこんなぶりっこポーズなんぞしない。
「どうしてもだめなんですか? こんなにかわいい俺が頼んでるのに?」
「赤葦それあとで辛くなるぞ」
「今もう辛いですよ」
「あかーしの頼みでもできないもんはできないの〜! 」
木兎はあの境界みたいな場所から帰ってきて春高を迎え、その最中になにか憑き物を落とした。ように見えて、今またこうして随分板についたガチ赤子駄々こねを披露している。ほんとにただのエースになったのか。
無理だよお嫌だよおできないよおとウダウダやりだした木兎を前に、専属ベビーシッターは先ほどまでの可愛げを顔面から払い落し、至極真面目な顔をしてのたうつ木兎の前にしゃがんだ。
「木兎さん、俺のこと好きですか?」
「えッうわッ鷲尾! 逃げよう!」
「どうした猿杭」
「隠しちゃうくらい好きだけど」
「お前今何が起こってるかわかってる!?」
「作りかけのマスターグレードを乾燥させている」
「脳みそのリソースもうちょい現実に割いてよ!」
「バカを言うなプラモは現実だ、でなければ俺の居住スペースがあんなに狭いわけが」
「いいからいいからいいからいいからその話はあとでちゃんと聞くから一旦出よう! 頼むよお!」
猿杭はひと噛みで脳が固まるレベルの梅干しを食べたような顔をしながら鷲尾を連れ立って部室を飛び出した。やってらんねえ。いきなりなんだってんだ。
それも気にせず赤葦は続ける。一世一代の大博打、すべてをかけた籠絡大作戦である。これが叶わないなら、今までの生に意味はなかったと思うほどに。
「俺も、木兎さんのことが大好きです。信仰しています。俺が信じている木兎さんは、俺ひとりポンと隠せちゃう神様の木兎さんは、俺の望みを叶えてくださらないんですか?」
「俺あかーしのためなら世界もどうでもいいけど、本当にごめん。できないものはできないの」
「それでも俺の神様でしょう。格好いいとこ見せてください」
木兎はそれでも押し黙る。赤葦は伏しがちな木兎の目を見ながら、その奥の、魂のようなものを射抜いて言う。
「俺の神様。海さんを取り戻すのを手伝って、なんて言いません。ただの木兎光太郎として、俺の傍にいてくれませんか。海さんを取り戻すのは黒尾さんがやります。俺はその手助けがしたい。死出の旅路なのはわかってます。だから、そこを歩くならあなたとがいい。根の国には俺が行きます、あなたはただついてきてください」
赤葦の目は光に透ける若紅葉のような、鮮やかななかに深みを孕む緑色である。青々としているはずの赤葦の目は、木兎から見て、煌々と黄色く輝いていた。
たいへんだ。これを見て、木兎は内臓がどこかにすっと落ちたかと思うほど愛の奈落に落ち、同時に絶望した。俺が食べちゃいたいくらい大事にしてる後輩の目が、自分のそれと同じ色になってしまった。これは木兎特有の世界解釈に基づけば、一番起こしたくなかったことである。
人間が意思だけでこちらと「あちら側」の垣根を超えかけているのだ。それも、彼さえいれば世界すらも棄てていいと思った、赤葦が。
木兎は理性を総動員して平静を保ち、愛の海溝に落ちたふりをして言った。
「最近身の回りの俺よりタッパない奴らがみんなかっこよくてどうしようかと思っちゃう。まさかあかーしもクソクソかっこよくなっちゃうのかよ」
「俺はもともとかっこいいですよ」
「俺の方がかっこいいもん!」
「じゃあかっこいいとこ見せてくださいね」
「ウ」
赤葦はいま、意思のみで垣根を超えようとしている。一歩間違えば木兎のように混ざりものになってしまったり、こちらに戻ってこられなくなってしまうこともあるかもしれない。そんな人間を死出の旅に向かわせるなど、理性があれば到底できることではない。
しかし、木兎はついさっき、平静を保つのに理性を使い切った。もう微塵も残っちゃいないのだ。本能だけになった木兎は一度唸ったが、ニコ! と笑った。
「いいよ! じゃあ新婚旅行は地獄だ。約束ね」
「はい。てか、木兎さんと行くならどこでも遊園地ですよ」
「そうなの? あかーしが言うならそっか」
春高を経てただのエースとなった木兎は今ひとたびクソデカ赤子となり、「イエーイ!」と叫びながら部室のドアを蹴破った。すぐ外で聞き耳を立てていた猿杭と鷲尾が吹っ飛ばされているのを見て、ウオオと驚き、しかしすぐにニパ! と笑う。その後ろで赤葦もピースサインを掲げていた。
「鷲尾! さる! 俺あかーしと新婚旅行にあの世行くことにした」
「成功です。そういうことになりました。鷲尾さんには足を用意していただきたいのと、猿杭さんにはそのバフと補佐を、改めてお願いします」
「了解した。おおよそは出来ている」
「いやお前さ〜マジでやり方考えた方がいいよ。いくらコイツがあん時迷惑かけたって言っても、仮にも妖怪みたいなもんだからね〜」
「ははは。いえ大丈夫です、愛妻家ですよ。わかります。隠されたことありますから」
「お前ほんとそういうとこ……」
木兎が鷲尾へ「出来てるってなにが?」と絡みに行っている間、猿杭は強く額を揉みながら一度言葉を切り、、誓いのように続けた。
「ほぉんとそういうとこ、海に似たんだからあ」
赤葦はニコ、と笑った。唇の端の上げ方が、誰とは言わずともそっくり似ていた。
「これからはまた変わると思いますよ、似る先が」
切れ長の瞳が、その奥の緑と黄色が、すらりと長い首が、猿杭にはどうにも花器に見えて仕方なかった。なるほど、こりゃ木兎も焦るわけだ。最後に一度だけアヒル口をぐにゅりと押し曲げ、「わかった」と覚悟を決めた。自分とて海には世話になった身であるし、どこまでが冗談かわからないにせよ、カワイイ後輩と親愛なるバカの結婚式が喪中なのはいただけなかった。
*
「ねェ゛もお充電落ちるから!」
「充電機も持たんで誘拐されよったんが悪かったっちゃろ! 反省し! 次から靴下の中とかに入れとけば良か!」
「無茶いうなって靴擦れが次元超えるじゃん!」
「うるせえな! 探せ探せ! この世のすべてをそこに置いてきた!」
「まぁ実際一部ではこの世のすべてなのが笑えないんだよなあ」
会議が踊っている。黒尾の一世一代の啖呵から半日、”臨時委員会”と名のつけられた通話ルームが建てられていた。”臨時委員会”ではもっぱら作戦立案がされており、どうやって「あちら側」へカチコミするか、その人員や方法は、思いついた端から共有する場であったり、資料の中からめぼしいものが見つかり次第大声で叫ぶような場であった。
「にしても方向性は決めようよ。じゃないとキリがないよ? 再現するったっていつのを再現すりゃいいのさ、どこのを再現すりゃいいのさ。まずはそこを決めようよ」
「現状一番やべえやつに言われたらそりゃ本当にそうなんよ。えーと何だっけ名前」
「忘れてんじゃん。諏訪だよ」
「ああー鴎台の! 烏野戦見てたよ」
「えーほんとお? ありがとー」
「充電落ちるからァ!!」
実際、それが黒尾の最後の一声になった。なけなしの充電を使い果たしたスマホはふっつりと沈黙し、黒尾はついに外界との連絡手段を失った。
「だからァ!」
黒尾は胡坐をかいたまま背中を伸び縮みさせて唸った。だから言ったじゃん充電切れるから通話落ちるって。俺グッピーじゃなくてよかった、決意と失意の温度差で死ぬところだった。死ぬほどしんどいけど。外界との連絡手段を失った黒尾はそりゃもう無力であった。
さて、”臨時委員会”が策を練っている間に黒尾はやることが二つ増えた。充電の確保、そしてそのための外部接触である。飯を運んでくれる人もいるにはいるが、基本的に襖が一瞬開いて膳がサッと出されればすぐに閉まってしまう。刑務所の飯の出され方だった。やったことを思えば妥当かと思う自分もいれば、ざけんなアホかせめて判決文読み上げろ刑法に則ったやつをよと思う自分もいる。
前回引っぺがしかけた爪はまだジワジワと痛む。これをもう一度やる度量は今の黒尾にはなかった。なんてったって痛いのである。
どうしたものかと考えているうちに、襖の外に人の気配がした。朱に交われば赤くなるともいうべきか、ここに誘拐されてから黒尾は気配の察知に長けてきている。
「おいアホ」
「ご挨拶どうも」
北の声であった。
今まで聞いたどんな声よりも不機嫌であった。今のが録音されていれば、ウィキペディアの「いらだち」のページに例として掲載されてもいいくらいの声音である。
「どしたの。随分不機嫌じゃないすか」
「よくもまあそんな白々しくものが言えるな。海の遺言見つかったから見せたろ思て持って来たんに」
バチン、と音がして、指先が燃えた。実際には燃えちゃいなかったのだが、「え!?」と思って見てみれば、自分は自分が気づかないほどの速さで襖に駆け寄り、爪や何やのことなどさっぱり忘れて再び襖を開こうとしたらしい。右手の爪の何枚かは本格的に半分ほど折れてめくれている。見るだけで痛い。見なくても痛い。
しかし黒尾は左手で襖に挑んだ。右手の爪に対して「痛いなあ」とか「折れちまったなあ」とか思ったのは思考の2%ぐらいなもんで、残りのすべてが海の遺言にむけて注がれていた。
なんでだ。そんなもん遺したのか。何が書いてある。なんて書いてある。俺の名前はあるか。
「きっとみんなそうだと思うけど、きっと俺が一番黒尾を愛していたから」
あの言葉の続きはあるか。
それだけしか頭になかった。わずかに残っていた2%ぽっちの傷のことも忘れ両手で必死になって襖に指をかける。世界中で一番会いたい人の符号がこの向こうにあるのだ。爪の二、三枚構っていられなかった。
そうして、しばらく黒尾は襖をガリガリやっていた。どれだけ金具を血だらけにしようが、豪奢な障壁画をベロベロにしようが、襖は未だ開かない。黒尾は声もなく拳をたたきつけ、ボロボロになっているせいで握り込めもしなくなっている指先がビタリと弱弱しく襖を叩くのに苛立った。無力かよ。
しかし、黒尾も腐っても青年である。愚直な青年が信念を抱いたとき、それはこの世の何よりも固いものになる。
ここで諦めてたまるかクソッタレ。黒尾の武器はいつだって「それでも」だったが、それだけでここまで来た。まだ先へ行けるはずである。一生分の「それでも」をここで使い切ると宣言した黒尾は、大きく息を吸って体当たりの姿勢をとった。
「やめぇや、安いもんやあらへんぞ」
「開くんかーい!」
叫びながら黒尾は廊下へとぶっ倒れた。襖を突き破らんとタックルをかました瞬間、無情にも北の手によって襖はサラリと開けられたのである。標的を失った黒尾は北とコンマ数秒見つめあって、その驚いた顔を見ながらすっ飛んでいった。
「いった……もう全部が痛い……え? 肩いった……」
「えらい音しとると思ったらお前、ええ……指どないなってん。ぐっろ」
「気づいてたんなら早く開けてよね……え指いった、えヤッバ! 前からだけど箸より重いもの持てない!」
「今までどうやってバレーやっとったん」
「支えてくれる素敵な背の君がいたんだやい!」
痛みと驚きとその他もろもろ、ありとあらゆる刺激がありったけのドーパミンを出している。黒尾は妙にハイになってヒーヒー笑いながら喋った。北が溜息をつきながら二歩下がるのを見て笑い、北の後ろにあったものを見て殊更でかい声で笑った。
「アハーッ! なにそれ!?」
台車である。わりと大きめのもので、ドラム型の延長コードが何台も置かれ、タコ足がいくつか、ACアダプタや充電器も見える。窓も時計もないこの空間に、文明がもたらされようとしていた。
「どういう風の吹き回しなんですか!?」
ひとしきり笑って冷静になった黒尾は思わず敬語で訊いた。最初こそヤクザの屋敷で済むはずがないと思っていた場所だが、こうまでなってくると逆にヤクザの屋敷であってくれと願わずにはおれない。俺はマジで何に巻き込まれているんだろう。教えてくれるんなら全部終わってからにしてもらいたいが。
黒尾の長い脚をつま先で除けながら北は台車を搬入する。「手伝いや」と言いながら押し進められる台車からはすでにコードが伸びていて、黒尾はふと「今これ辿っていったら電源のあるところまで出られるんだろうなァ」と思った。
「アイツ、一発殴らな気が済まん。一発殴ったら「あちら側」に叩き帰すから、殴るまではお前らに協力することにした」
北の顔はサラリとして見えて、その実マジでバッチバチにキレた人間の顔だった。キレが何週もしてもはや無の顔になっているアレである。誰が殴らせるもんかよ、と思いながら、そういえば月島もそんなことを言っていたので、威力六割減でならいいかと思う自分もいた。
「ほんとに助かる。ありがとう」
「アホなん。殴ったらまた死なす言うてるヤツに」
「殴るまでは味方してくれるんデショ。お前が海を殴る前に俺が殴って二人で逃げるから良い」
「口だけはよう回る」
「頭もよう回ります〜」
仲がバカクソ悪いということは、ケンカできるほど仲がいい証左である。二人は「アホ」「アホっつったほうがもっとアホ」とか言いあいながら台車から荷物を下ろす。黒尾は爪がベロベロなので重いものが持てず、「クーン」と鳴きながらケーブル類を運んだ。
***
うわあ、今武田先生いなくてよかった、そんな思いが縁下の頭をよぎるほど教育現場にそぐわない罵倒が響いた。
「日向ゴラァ! てめえボケナスが! 西谷と田中もだァ! 年度末だか何だか知らねえがフワフワふわふわ浮ついてんじゃねェぞォ!」
烏養の大音声は文字通り体育館を震え上がらせた。何日も練習に身の入らない日が続いていて、怒鳴られた本人たちも「このままじゃダメだ」とわかっているなりに止められないらしい。ついに雷は落ちてしまったわけだが、それもわかっていたように三人は肩を落として謝った。
「あー、……すまんかった。縁下」
「はい。ちょっと気合入れてきます」
「追い撃ちは勘弁してくれよ。フォローでいい」
「大丈夫です」
烏養もまた「こんなはずじゃなかった」みたいな顔で、苦々しく縁下にフォローを頼んだ。特に気にしていない風で頷き、トボトボ水を飲みに行った三人の後を追う。
その道中。
「月島」
「はい」
「スガさんに連絡とってくれる」
「もうしました」
「体育館にケータイ持ち込んで。悪いんだ」
「手も付けられなくなってからじゃ遅いデショ。実質付けられませんけど」
「言えてる」
体育館の外でドリンクを飲んでいた月島に声をかけ、二人は話し合いをするふりをして体育館から少し離れた。縁下の言葉に月島はさりげなく答えた。こいつ、つくづく頭いいな、と思う。傍目に見れば本当にただの業務連絡にしか見えないだろう。実際業務連絡ではあるんだけれど。
黒尾との電話から向こう、縁下と月島は秘密を共有した。烏野高校を取り巻く怪異と、自分がどういう立場にあるのかを。互いにそれなりの決心を伴った告白であったが、双方「ああいや、なんとなくそうじゃないかとは思っていて」みたいな受け止め方をしたのをよく覚えている。
「サワタリさんは?」
「縁下さんのとこいたんじゃないんですか?」
「やっぱりいないか……」
サワタリはすっかり二人を気に入り、「こうしくんにまかされたからね」と世話役を買って出ていた。めでたく月島と縁下は烏野の治安装置となり、目下二重生活に身をやつしている。その指導兼目付け役のサワタリが、先日から姿を見せない。日向たちが騒がしくなったのも同じころからで、月島は「実はこういうコミュニティがありまして」と”臨時委員会”を縁下に紹介するに至っていた。が、”臨時委員会”にもサワタリの存在は伏せているし、何なら縁下はまだ挨拶すらしていない。どこかの野良にサクっと祓われるようなもんでもない謎のやべーやつの不在は、知ってしまって以降は実在よりも落ち着かないものになっていた。
かといって、俺たちが不安定になってちゃいけない。穢れは気枯れの転成語であり、烏野は俺たちが守っていかなきゃいけない。そう思って奥歯を噛むたび、いつもよぎる人がいた。
「お疲れー! 今部室でチーズ作ったりしてないべな? いや、差し入れに納豆巻き持って来たんだけどさ」
そうそう、こんな空気の読めない人で、突拍子もないことばっかり言うくせに、いつだって俺たちを守ってくれた人が……。
「すげー美味い食い方見つけたんよ。納豆巻きとコーヒー牛乳交互に飲み食いすんの。マズいと思うべ? お茶の方がいいと思うべ? どっこいこれが一番うめえのよ。え無視?」
「そういうのよくないとおもうよ。こうしくんうたれよわいし」
「弱かねーわ! でも泣いちゃいそう!」
縁下と月島はすっかり口元に手をやって俯いて黙りこくっていたが、弾かれたように顔を上げた。
「すっ……」
「はーい、スガさんですよ!」
「サワタリさん!」
「心配したんですよサワタリさん! 勝手にどこ行ってたんですか!」
「んんんそっちー! 」
のけ反りながら菅原が吠えた。しかし言わなくても言われずともわかっている。待っていた人が来てくれた喜びは、どれだけ隠そうとも態度に現れてしまうものだ。
「遅くなってごめんごめん! でもヒーローって遅れてくるもんだべ」
「遅刻じゃないすか!」
「社会人失格!」
「まだモラトリアムだもん!」
「大学生失格ー!」
「まだギリ高校生だもーん!」
言いあいながら、月島と縁下は、この短い間になにかが変わっているのを感じた。あえて言葉にすれば、「ああ、いつものだ」といった感覚。思わず破顔すれば、菅原は倍笑った。
「感動の再開だけどごめん、今ちょっと時間ある? こんなんいつでもできるべ」
言っていることは少々冷酷に聞こえるが、菅原の語調は優しい。言われて、二人は一瞬顎を引いた。
こんなことはいつでもできる。今は、いつでも「気兼ねなく」できるようになるために行動しなくてはならない。
縁下は来た道を一瞥した。体育館の方は少し賑やかになっていて、でも嫌な雰囲気はない。フォローせずとも不和は解消されたようであった。
向き直った縁下が頷いたのに少し遅れて月島も応える。二人の口元には微笑みが乗っていた。
「オッケ。さっき、っつっても昼だけど。”臨時委員会”で作戦が決まった。その下準備の手伝い頼みたいのと、本番の日予定空けててもらいたくて」
「決まったんですか」
「内容は」
烏野の理性と烏野の碇が揃って身を乗り出す。烏野のママにしてその実一番の問題児は、二人の熱量に応えて笑みを深くし、つくづく直せと言われている悪癖を最大限発揮しながら答えた。
曰く、オチから話すのをやめろ。
「うん。葬式やる」
***
「あ黒尾帰って来……どえぇ!」
幽閉部屋に文明が持ち込まれて間もなく、黒尾は”臨時委員会”のグループ通話に復帰した。その際の歓迎の一言目がこれである。
「おま……お前マジ!? そいつ味方なの!?」
「えらい挨拶やな。御父上にはいつも世話になっとります」
「ギ……え……いやすいません……こちらこそ……いやマジ!? うわどっかで見たなと思ったら稲荷崎の主将じゃん! うわーマジかよ!」
「実は有名人なの?」
「実はそやねん。何も知らんで引っ掻き回すドラ猫は知らんやろうけど」
黒尾の隣で画面をのぞき込みながら北は言った。画面の中では諏訪と松川が爆速で居住まいを正している。そんな世界もあったのか、マジで知らんことばっかりだったんだな。この有り様を見ても黒尾の感想としてはそんなもんだった。
「敬語とかいらん。今はただの男子バレー部の集まりみたいなもんや。家もなんも関係ない」
「あス!」
「……でも部活関係あらへんし部活のノリでしていい話でもない」
「しゃス!」
「……」
「もう喋んのやめたら?」
「そうする」
北はムツりと唇を尖らせて黙ったが、言うて黒尾が通話に出戻ったのは重大告知があったからである。促されて北はむすくれながら口を開いた。
「坊主の遺書が見つかった」
「誰?」
「海さんです」
「ああ経島の」
「呼び方統一しろよ」
「海でいいじゃん。なんで海って呼ばねえの」
「それはさあ……経島は経島だし」
「じゃあ俺が海と結婚したら俺も経島って呼べよ」
「お前は経島やないやろ」
「じゃあ海も経島じゃねえよ。なんだよ経島って」
黒尾が言うと画面の向こうには沈黙だけが残り、北が横で「ググれ」と呟いた。どいつもこいつも何だ経島って。あいつは海信行で、それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけであってほしいのだ。実際そうではなかったからあれこれ呼び名がついているんだろうけど。
「こっちで一回開けて読んではいる。けど、いや。だからこそ、ここに共有した方がええと思った」
「その心は?」
「アイツ絶対一回マジ殴りせんと気が済まん」
「させねーーーーっつってんの」
「話が進まんからお前一旦黙っとれ」
ぴしゃりと言いつけた後、一度咳払いをしてから北は改めて協力する旨を伝え、件の遺書を取り出した。
百均で買えるもののなかでも、特に茶目っ気も洒落っ気もない、ただのペラペラな茶封筒であった。中からは一筆箋がこれまたペラリと一枚だけで、黒尾はその言葉少なさに心臓が重くなるのを感じる。北が息を吸う。薄くて小さな唇が、遺書を読み上げた。
「君は今、駒形あたり、ほととぎす。忘れねばこそ、思い出ださず候。この文をご覧に相なりそうろう上には、即刻のお越しこれ無き節には、今生にてお目にかかれまじくそろ。かしく」
画面の向こうから、ガツンと何かがぶつかる音がした。誰かが急いで立ち上がったらしいことはわかったが、それどころじゃなかった。黒尾は、先ほど鉛になった心臓が、今度はびっしり棘を生やしたかと思った。痛い、あまりにも。
最後の方はなんのこっちゃわからんが、最初のはわかる。吉原の花魁、二代目高尾太夫が呼んだとされる句だった。なんでそんなん覚えてるかって、最後の定期試験の前にやった勉強会で、海が嬉しそうに便覧を見せてきたからだった。
「わあ、見て黒尾。俺これ好きだ」
「俺古典そのものが嫌いだからちょっと置いといて」
「日本語話者だろ。それに普段ちゃんとやらないからだろ」
「言うじゃん……」
「ほら数学置いて。一旦これ見て」
そうして見せられたのがその句だった。海はいつものニコニコ、というよりは、トロリと笑っていたのを覚えている。
「ほととぎすが鳴いていますが、あなたは今駒形あたりで船を待っているんでしょうか。あなたを忘れたことがないので、思い出すってしたことがありません。だってさ。素敵だ」
「どういう意味?」
「今言った」
「ごめん積分がアタシのこと置いてかないでって」
「今は置いてって言った」
黒尾のノートの上に便覧をガツンと置いて、海は言った。
「花魁って今でいうパフォーマーみたいなものだから、俺たちが想像してる何倍も教養があるんだ。高尾太夫は個人名じゃなくて役職とか位みたいなもので、吉原で一番いい花魁が代々襲名したそうだよ。そんな人からこんな素敵な歌が送られてくる人生ってどんなだろう」
「どうだろなあ。さぞロマンチックでしょうよ」
「色々あって二代目の高尾太夫は吊るし切りにあったとか、船の中で惨殺されたとか」
「ロマンもクソもねえな!」
「あはは。なあ黒尾、黒尾はこんな歌もらったらどうする? この歌は、結局送られずじまいだったそうだけど」
「俺ぇ? んー、まあ、行っちゃうでしょうね」
「行ったことないとこでも?」
「試合のときとか海がルート下調べしてくれんじゃん。同じ感じで」
「俺に恋路を手伝わせるなよ!」
あはは! と海は健やかに笑って、結局黒尾は数学がいつもより点数低かった。が、古典でよりにもよってその句が出たので古典の点数がちょっと上がり、後日海にアイスを奢ったのを、痛いほど覚えている。「ダッツ」と言ってきかなかったのを、死に物狂いで説得してパピコにしてもらったことも。
黒尾は額を押さえながらすっかり俯いた。誰も何も言わなかった。黒尾だけがただ一人最初に発言を許されていたが、その黒尾が黙りこくって何も言えなくなっていた。
「すん」
泣いたわけじゃなかったが、黒尾は鼻を鳴らした。静けさがあんまり痛くて、何か音がないとつらかった。こんな時「何ヘコんでるんだ、頭はツンツンしてるのに」と言ってくれる人はここにはいない。
「ありました! あり……葬式?」
先ほど立ち上がっていたらしい赤葦が、これまたドカンドカン言いながら戻ってきた。戻ってきて、画面内の空気を葬式と形容する。その声にまた一人が席を立った。
「空気読めてなくてすいません、ありました。あったんです。これだ」
「赤葦ちょっと落ち着いて、なした?」
「反魂香ですッ」
赤葦が叫ぶと、さらに三人くらいがガツンと席を立った。黒尾の隣で北も親指の夢をバチンと弾き、でっかい舌打ちをした。
「黒尾さんもっと嬉しそうにしてくださいよ、なに死んだような顔してるんですか。反魂香ですよ、これしかない」
「なにそれ」
「落語やアホ! 知恵もない東京モンは役立たんけん静かにしちょれ!」
「うすりー」
「あい八さんすいません!」
「落語だけじゃないよー。そっかあメチャクチャ簡単じゃん」
「ごめん知恵もない役立たずの東京モンだから誰か解説して」
「ごめん俺にも! スガさんそこんとこ肌感覚だけでやってきたから全然わかんない!」
「じゃあ思い当たる節があるやつは今のうちに資料だの算段だの出しちょれ。わからん奴は赤葦の解説聞いちょれ」
「はい。まず、この手紙は上下構成です。前半部分が高尾太夫の詠んだとされる歌で、後半は上方落語のたちぎれ線香の一節です。詳細は省きますが、どちらも反魂香と関りがあります」
「どういう字書くの?」
「反る魂のお香です」
「アッ、あーっ。字面がもう」
「もとは中国の古い詩歌に出てきた香ですが、主に落語の世界ではキーアイテムです。その香が焚かれている間だけ、死者に会えるというものです」
赤葦の言葉に、それまで合点がいっていなかったメンバーもハッとした顔をする。まさか。
「ただいまー青葉城西の松川ー。場所押さえれそうだけどいつがいい?」
「早ければ早いほどいい!」
「オッケー、遠方から来る勢はどうする?北は宮城なのはいいとして南はどこ? 熊本? 沖縄?」
「大分」
「北の名義で領収書切ったらええ」
「エ何? 宮城に集まる話になってんの?」
「解説役ー」
「はい……」
先ほど席を立ったのは松川だった。有識者の間で爆速で情報が共有され、有識でない者たちはすっかり置いてけぼりになっている。赤葦はこちらも爆速で理論を立て、嚙み砕いた説明を用意した。
「潜。潜いる?」
「はい、います」
「俺たちが海さんと神隠しに遭ったとき、どこから帰ってきたか覚えてる?」
「墨田区総合体育館……の一階男子トイレの鏡からです」
「細ッか」
「その時言ったこと覚えてる?」
「……鏡は蛇目の転成語、鏡も蛇も水と関りがあって、おあつらえ向き……?」
「そう。水鏡、とか言うみたいに、水面は大きい鏡として扱えて、鏡は「あちら側」との限定的な通り道として扱える。大きければ大きいほど、その信仰と効力は増す。海洋信仰とか、海に向かって建てられてる鳥居なんかがそういうもの」
「松川でーすちょっと口挟むよー。俺んち葬儀会社やっててさ。寺社仏閣はいったん置いとくとして、墓が「あちら側」への一番手軽な窓、葬儀場は一番身近な入国審査みたいな感じかな。クソ失礼に言っちまえば「あちら側」に向かってレッドカーペット敷くようなもんなんだよ。レッドカーペット歩かせたるから成仏してね、みたいな話。で、日程が決まってウチの会場が押さえられたらお前らにレッカペ敷けるから、みんな揃って宮城までおいでって話」
「じゃあ宮城まで行かないでも長野で良くない?」
「長野って海あんの?」
「木兎さんはちょっと黙っててください。マジで卒業できるんですかアンタ」
諏訪の疑問ももっともである。黒尾はさっぱりわからないが、ここしばらくの会話を聞いている限り春高長野県代表鴎台高校の諏訪という男は指折りの「やべーやつ」であるらしく、ならそいつの地元でやっちゃえばいいんじゃないかと思えた。が、松川は「ちっちっち」と芝居ったらしく指を振る。
「赤葦だっけ? が鏡の話したのが繋がんねえじゃん。こちとら根の国ひっくり返そうってんだから、この国で一番デカい水面でブチかまそうってこと」
「琵琶湖?」
「まさか。太平洋側の経済水域だろ」
画面越しの月島が顔を強張らせた。無理もない。一部にとっては「けいざいすいいきって聞いたことあるけど何?」だが、悲しくも聡明な月島にとって「経済水域」と明確な単語で言われると、規模のデカさにビビっちまったのである。太平洋って。僕たち何しようとしてるんだろう。とんでもないことしようとしてるんじゃないか。まさかここで降りるなんてしないけど。
「だから宮城に来いってのさ。今ならうんこ野郎とバケモンと俺と月島と菅原と縁下と壁が宿提供できる」
「ちょっと勝手に決めないでくださいよ」
「母ちゃーん! 何日か後に友達泊まりに来てもいいー!?」
「でっけえな声が! マイク切れやアホ!」
「壁って俺?」
「花巻以外に誰がいんの」
「それ蔑称? 俺ら行くの松川んちじゃなくて裁判所になるけど?」
「良いべや。最高裁って実質結婚式場だろ? どっちも誓約文とか読み上げるし」
「裁判所に対する感想がバカ雑なんだよ」
「バケモンって俺か?」
「岩ちゃんがバケモンじゃなかったらこの世はでっかい宝島だよ。俺がうんこ野郎なのマジ許せないけど」
「お前が言ったんだろうが、うんこ野郎とクソ野郎ならうんこ野郎がいいって」
とんとん拍子で話が進んでいる。黒尾はこれをさっぱりわからないままただ聞いていた。猫ながら馬耳東風である。なんでそんな話になってんだか全くわからん。
借りてきた猫だった。何のためにここにいるんだったか、ちょっとわかんなくなってきた。黒尾はプロフェッショナルたちの中ででかい体を小さく縮め、ぽつねんと手持無沙汰になる。なんだっけ。何もわからん。俺は無力だ。
「……尾さん、黒尾さん! この性格わるわる陰湿ネチネチブロック!」
泥濘に沈んでいく黒尾の意識に突き刺さったのは、いわれもない悪口であった。画面を見遣れば、どうやら月島が言ったらしい。周囲、特に菅原がとびきり驚いて黙り込み、月島の次の言葉を待っていた。
「……それでもって言え!」
「……」
「それでもって言えよ! 僕らはそれしかできないんだから! 何にもできないんだよ僕らは、今はまだ! でもこのままじゃ嫌だから行動起こしてよくわかんないとこまで来たんでしょ!? 忘れたんなら僕が何べんでも言ってあげますよ、それでもって言えって! ほんっと脳みそ容量ないな!」
「月島月島ー、いいこと言ってるとこ悪いけど最初と最後の一言シンプルに暴言だぞやめなー」
「ほあっ!?」
悲鳴を上げたのは北であった。菅原の朗らかな諫言はなぜか背後から聞こえて、機械的に振り返った黒尾は何も言う間もなく胸倉を引っ掴まれ、何も言えなくなってしまった。菅原がここに来ていた。
「俺も言ってやるよ。それでもって言え。俺だって何もできねえよ、海がどこに連れてかれたかなんて何もわかんない。でも助ける。助けたい。この夏からの長い付き合いだから」
「それは長いって言うの?」
「三年一緒にやってきたお前よりは短いべな。オラ、ワンシーズンの俺がこんだけ助けたいんだ。なんもできなくても協力してもらうぞ」
「……何もできないのではなく、役割が付与されてないんじゃないですか」
菅原の言葉を継いだのは赤葦だ。黄緑色の瞳を伏せ、筋肉の付きづらい首がひょろりとして見える。
「そういうのの専門は専門家に任せましょう。黒尾さんにしかできないことがありますよ。そうでしょう、音駒高校男子バレーボール部主将。海さんはあなたの何ですか」
「大事な……」
「訊いといてなんですけど、なんでもいいです。他人でさえなければ。海さんの手紙の内容を聞いて、黒尾さんひっどい顔してましたよね。何か心当たりがあるんじゃないですか。ならあの手紙はあなた宛てです。自惚れて下さい、これだけであなたは立派に中心人物です」
「そうなのかな。俺マジでなにもできねえけど」
「これから大役が待ってるんですから今は何もしなくていいんですよ」
「大役?」
「海さんを一番に迎える役です」
「あと、卒業生代表の旅立ちの言葉な」
声はふたたび背後から聞こえた。夜久である。方々支度を済ませに走り、戻ってきたらしかった。
ここで黒尾の頭は一気に現実に引き戻される。俺そういえば卒業生代表でバカクソ冗長なゴミ文章読み上げさせられんだった。卒業式ぜってえ休めないんだった。
そして、その大役を一番に喜んだのが海だったことも思い出した。
「俺たちは勝手に「あちら側」だの何だのやってるから、お前はバカみてえな卒業スピーチを一番喜んだヤツに聞かせることだけ考えろ。理由なんてそんなもんでいいんだ」
「んだんだ。俺だって「あちら側テレポート」やんの理由なんか大したねえよ。できるからやってるし、できたら楽できるし」
「マジ海さん帰ってきたらバチボコ怒られろ」
「えっ内緒にしてくれるって? 赤葦は優しいなあ。今年のセンターの問題全部教えてやるからな」
「きったねえ先輩……」
赤葦と菅原と夜久がワチャワチャやりはじめたのをぼんやりと見ながら、黒尾はじわじわと実感した。
学校行かなきゃいけない。別に行くのは構いやしねえが、その時、慣れ切った高さの肩が隣にないのがバカみてえに嫌だ。アホほどやりたくなかったうえに結局かなり修正されちまったスピーチの下書きだって、海が喜んだからちょっとだけ頑張ったのだ。ぜってえ泣かすと思って書いたスピーチを、ぜってえ泣かしたい人間が聴かないでどうする。
黒尾は、なんだかわかった気がした。経済水域とか柱とか根の国とか、そういう面倒くせえ単語が出てくるから良くなかったのだ。
卒業式に夜久と海と一緒に出て、いつもにこにこ笑顔の海がブチ泣きするところが見てえ。それだけでよかったのだ。
「……ごめん。世話かけた。なあ北」
「なんや」
「俺も海ブチ泣かすわ」
「ブチかましたれ」
喧噪の最中に二人、元主将がひそかに笑う。覚悟が決まりゃあとは迷うことなんざねえ。迷っているヒマなどありゃしねえ。
俺たちの春が終わる前に、俺たちの春を取り戻すのだ。