2.小蛇ちゃんビカムアヒーロー
「すいませーん」
「はい」



*****


「……あれっ」

 潜は気づいた。全然気づかなかった。
 春の高校バレー東京都代表決定戦が終わった。戸美学園高校は4位で全国行きを逃し、閉会式を終えて学校へ戻ろうというその時だった。
 呼びかけられたと記憶している。選手のみならず関係者や観客のひしめく体育館は、施設中に間違いなく人がたくさんいたはずなのに、今ロビーには潜ひとりしかいない。うっかりイヤホンを抜いたように無音になった体育館で、しかし潜はその変化からしばらく経って事態に気が付いた。

「沼井さん? キャプテン?」

 応える声はない。そもそも人がいない。薄暗い。夜間ほどではないにせよ、明りがついているらしい感じはするのに、厚い雨雲が立ち込める日に照明を一つも付けていないような薄暗さで隅から隅まで埋め尽くされていた
 敗戦の悔しさを流した瞳は普段より割増しで腫れぼったいが、それでも視界を塞ぐほどではない。見渡す会場は、先ほどまでと同じ視界で見ているにもかかわらず様変わりしていた。
 知らない間にはぐれたかな。閉会式終わったし皆もう帰ったのかな。こういう時はキャプテンから連絡が来るもんだけど、と取り出したスマホの画面には、「ネットワークに接続していません」の表示が出ている。
 まじか。大会終わってから回収しようと思ってたモンストのログボどうしよう。切らすと先島さんが怒るんだよなあ。

「……まあ、なんとかなるか」

 なるのだろうか。ポヤポヤと歩き出した潜の背中に視線が突き刺さっていることに、悲しいかなポヤポヤの潜が気付く余地はなかった。


*****


「ヘゥグ……!」

 赤葦は呻いた。ちょっと身構えていなかった。
 春の高校バレー東京都代表決定戦、梟谷学園高校は準優勝、第二候補として全国行きの切符を掴んだ。帰りのバスで主将が暴れないようにいくつか策を案じているその時だった。
 呼びかけられたと記憶している。選手のみならず関係者や観客のひしめく体育館は、施設中に間違いなく人がたくさんいたはずなのに、今ロビーには赤葦と影しかいない。ブレーカーが落ちたように鮮烈な変化を遂げた体育館で、赤葦は鼻の横のあたりをひくつかせた。

「マジか……マジか! クソ……」

 人前にはめったに出すことのない悪態に応える声はない。そもそも通じる言語ではなかった。赤葦以外に動くものは影しかなかった。平時であれば間違いなく床に落ちる形の影が、なぜか縦になって赤葦の横を通り過ぎる。単にシルエットではなく、実際の影が照明に照らされて形が変わるように歩くごとに伸び縮みしている。ふざけんな、地面に張り付いてろ。
 優勝こそ逃したが、それでも全国行きを決めた試合の後とは思えない心の塞ぎようだった。ドブみたいな溜息があとからあとから湧いて出る。口の中で何度も「クソ、クソ」と呟きながらも赤葦は周囲を確認した。人影(物理)と奇妙な薄暗さを除けば、先ほどまでいた現実の体育館と差異はない。
 何かのトリガーで「あっち」、もしくは「あちら側」へ持ってこられたのか。一縷の望みをかけて取り出したスマホの画面には、「ネットワークに接続していません」の表示が出ている。ロックを解除し、グーグルを立ち上げようとしてもダメだった。チクショウ、こういう時「メールも電話もダメだったけど、なぜかちゃんねるだけはアクセスできた」のやつあるだろう。怒りは未だ収まるどころか一層沸き立つようだった。ちゃんねるにアクセスできたところで、ネット内弁慶の赤葦はデュエルリンクスの野良試合のマッチングすら気が引けて、日頃木葉をボコボコにする以外にマルチプレイをしない性質であったのだが。

「……とりあえず、探索……かな」

 赤葦はジャージのポケットに入れていたお守りを握りしめながら、般若心経を自分に言い聞かせるように唱えた。
 影にしか見えない本来なら不可視のそれたちが皆一様に赤葦を注視していることには、ほんとに気づいていなかった。精神の安寧を思えば不幸中の幸いであるが、無理もない。赤葦には影がただ黒一色のパースが狂った人型にしか見えていなかった。


*****


「へえ」

 海は感嘆の声を漏らした。珍しいものを見た。
 春の高校バレー東京都代表決定戦、以下略。烏野との因縁の戦いに胸躍らせ、三年間の結実にちょっと早い涙を流したりなんかしているその時だった。
 呼びかけられた。うっかり応えてしまった。多くの人であふれかえるはずの体育館は相変わらずガヤガヤと混みあっているが、ごった返しているのは人ではなかった。
 海はその光景を「進撃の巨人で見たことあるなあ」と思った。バランスの狂った人型のなにかが絶えず行き来している。目だけがやたら大きいもの、腕を引きずりながら歩くもの、口が開きっぱなしの見るからに近寄りたくないタイプ、首から直に足首が生えてる二頭身からモデルが見たら嫉妬しそうな背の高いものまで。幸いなのは、二頭身以外は巨人と違ってすべてが着衣していることだった。全裸で歩かれたら流石にかなわん。その服だって血だが泥だかわからない黒ずんだ汚れでいっぱいなのだけど。

「SAN値に永続スリップダメージ入りそうだなあ。慣れたもんだからいいけど、こうも集まると壮観だ。見本市かなにかなのか? なわけないか」

 ほけほけと海は笑った。状況とミリも噛み合わない呑気さだった。応える声はないが、喧騒は先ほどまでいた現実のロビーとは打って変わって、含有成分のほぼ9割が呻き声になっていた。野戦病院かよ。道行く異形たちの負傷具合を考えるとあながち冗談では済まないのがなんとも皮肉たらしい。体育館が建つまえに何かあった土地だったのかな、と考えて、無意味だったことに気付き海はすぐに考えるのをやめた。クッソ狭い日本の中で何も起こってない場所なんかきっともうない。どこへ行こうが、きっと過去誰かがそこへ伏して死んだ土の上を今歩いている。

「まあいいか。大体のことはどうにかなる」

 依然としてのんびりとした口調で誰に言うでもなく言い、海は探索を始めた。本人のリラックスぶりから見れば「散策」のほうが適切な語であったかもしれないが、時折肩に伸びてくる手を払い落としたり、向かってくる異形に踵落としなどをお見舞いするのを散策とは呼べない。そんなバイオレンスな散策があってたまるか。世紀末にでもなれば話は別だが。
 こちらでの時間経過があちら、正しくはここが「あちら」なのだが細かいことを言い出せばきりがない。ともかく、おそらく黒尾たちがいるであろう世界線と今自分がいる世界線の時間の流れが同一であった場合、こちらで過ごした分だけあちらで行方不明だったことになる。早めに戻らなければ。
 「あちら側」旅行のパイオニア菅原の周辺がどうであるかは知らないが、海自身は身の回りの人間は大体こういうことに不慣れであると認識している。下手を打てば捜索届、警察沙汰、全国報道、せっかく掴んだ春高全国への切符がどうにかなってしまうかもしれない。それだけはマジで勘弁だった。
 それにしても。
 生者の気配がする。動くものは等しく死者であったり、純然たる生者ではない何かであったが、ふと残り香のように感じられる生者の気配がある。
 どうしようか。
 感じ取れる気配はおそらく二人分。どちらもついさっきまでネットを挟んで向こう側にいたような気がする。となれば、二つのうち片方はかなりの確率で赤葦だ。
 赤葦を、おそらく居るだろうもうひとりをここに喚んで、果たして大丈夫だろうか。

「こころは、なあ」

 海はちょっと息を吐いて、諦観のようにほの暗い天井を見上げて立ち止まった。悩みは尽きないが、大抵のことはどうにかなると思って生きている。そのうえでどうしようもないのは他人の心と死の概念がツートップであった。
 汚泥。悲鳴。突き刺すような視線と怨嗟。重苦しく横たわる臭気は色すら含むようだ。生臭くて鉄臭い。生き物の裏側の匂いが満ち、実際に「それはもうあきらめて裏返った方が楽なのでは?」みたいな形姿の異形と幾度すれ違ったか。こうしてまじまじと観察してみると、それにしたって自身のSAN値に大したダメージが出てないのは逆になんでだろう、と海はちょっと訝しんで、どうでもいいやとすぐに思考を戻す。
 味覚以外の全てがバグって、吐いちゃって味覚もバグるかな。そうなったら身体も弱ってしまうから、一層持っていかれちゃうなあ。
 思考が沈みかけるたび、背後から手を伸ばされるたび、海は両手を打った。思考を、可能性を繋ぐ柏手は、副産物的に海をも救った。手の鳴るたびに周囲ではよくわからない形の異形がのたうったり、はじけ飛んだりしている。ちょっと汚い。引っ被った血反吐も払えば塵になって落ちるのだが、音駒のジャージはこういう時のために赤いわけじゃない。デッドプール理論やめろ、と思いながら、海は結論、と呼ぶには弱い指針を決めた。

「待とう」

 ふたりが戻るまで自分は戻らない。ふたりがここに来るまで、自分では喚ばない。一人では帰れない。帰らない。
 海は事態が動くのを待つことにした。幸い先ほど認識できた生者の気配は逞しく、呑まれるのを拒むように遠くの方で燦然ときらめいている。あれを見失いさえしなければ、万が一何かあればこちらから何とかして動く。駆け付ける。それまでは、動かない。
 こちらとあちらの時間の流れが同一だった場合、なるべく早く戻らなければ春高が危ない。一通り施設を見廻ってわかったが、ここに海以外の生者は居なかった。となれば、おそらく赤葦だろう気配ともう一人がいる場所は、ここではない同じ場所になる。

(位相ずらし、というべきか、段階というべきか)

 目の前を横切った「地雷でも食らったのか?」と思うような異形を視界の端で見ながら、海は仮説を立てた。
 ジャンプを表紙が上になるように寝かせて置く。表紙が戻るべきあちらで、裏表紙が「あちら側」の一番深いところだとする。自分も含めた三人は、表紙から順に適当に開いたページの中にいる。同じジャンプという雑誌の中にいても、載っているページが違うので探索しても互いを見つけることはできない。そして、自分はきっと三人の中で一番背表紙に近いセンターカラーページにいるだろう、と仮定した。なぜカラーページかと言われれば、そろそろ赤で目が痛いからだった。目に悪い。草木とか見たい。
 一番最初に「あちら側」から干渉を受けるとすれば、自分よりも表紙に近い二人のうちどちらかだろうとも仮定した。特に読みたい連載だけが目当てでもない場合、もしくは読みたい連載が複数ある場合、だいたいは表紙に近い方から読む。これは半分と少々、希望的観測ではある。別に真ん中から読んだっていいし、世の中にはミステリーをオチから読む人もいるらしい。
 しかし呼び込まれた当初と比べて、異形がこちらに立ち向かってくる回数が格段に減っている。おそらく「敵わない」と思わせた。海の知る中で、決死を喜ぶ生き物は鎌倉武士しか思い当たらない。勝てない相手と戦うことにワクワクできるのは命の危機が一切ない状況のみで、闘争を余儀なくされたとき敗北すなわち自己の喪失が成り立てば、真っ先に狙われるのは「勝てる相手」だ。つまり、たぶん赤葦ともう一人のほうに矛先が向く。
 矛先が二人、もしくはどちらかに向いた瞬間、『繋ぐ』。理由は何でもいい。難癖でも屁理屈でもいい。なにがしかの縁を辿って二人のいるページにカチコミし、ついでに自分も表紙に近いページに戻る。デッドプール理論やめろ、と思っておきながら、やろうとしていることが限りなく近かった。ブロックアウト感覚で第四の壁を越えようというのだからさもありなん。
 そう決めてしまえば、海の前にあらわれたのはいつ尽きるとも分からない待ち時間であった。気が短い方ではないが、ただ待つだけなのももったいない。完全に一人の時間というのもなんだか久しぶりだし何かないかな、と思ったところで、ふとここが先ほどまで全国への切符を争った体育館であったことを思い出した。

「コート行ったらボールとかないかな……」

 諸々のプランが決まった。海はそう遠くないだろうその時まで、自主練して待つことにした。


****


 言葉ってあんまり好きじゃない。
 どれを使えばいいのかわからない。どれが正しいのかわからない。どれを使っても疑われる。どれも正しく伝わった試しがない。どれだけ「そっちはよくない」、「それは危ない」と言ったって、誰もちゃんと聞いてくれたりなんかしなかった。
 いつからか、「無口」「やる気がない」って言われるようになった。小さい頃はそんなことなかった。誰もちゃんと聞き届けてくれないから、なんか、諦めただけ。大声を出すことだけが部活なら、みんな合唱でもやってればいい。大地讃頌でも歌えばいい。俺は歌った。この間授業でやった。その時も声が小さいって怒られたけど。
 ……ああ、でも、先輩たちはちゃんと聞いてくれたな。「お前って信心深いタイプ?」とか、「なんかガチっぽくて怖えから従うわ」とか言って、おかげで最近は変なのもあんまり近寄ってこない。
 言葉がいらない瞬間がある。言葉にしなくても伝わるものも、伝えたくても言葉にできないものもあるのを、ついさっき知った。
 呼ばれるままに飛び上がる。同じボールを見上げて、エンドラインまでの距離を肌で感じる。ブロッカーの位置、レシーバーの位置を気配で見る。潜り抜けられそうなコースへ黙って打つ。ボールの叩きつけられる音。得点盤の表示が変わる。
 俺はただ粛々と仕事をする。それに皆が喜んで、口々に言ってくれる「潜ナイス!」が、あんなに嬉しいなんて知らなかった。
 試合のあと沼井さんが頭を撫でてくれて、その指先が震えてたのがわかった。怪我のせいだけじゃないと思う。くやしいとか、ごめんなさいとか、いろんな気持ちがぐちゃぐちゃになって、しばらく涙が止まらなかった。人間言いたいことがたくさんあると逆になにも言えなくなるのを初めて知った。
 このチームが好きだ。無口でも使ってもらえる。俺の言葉もちゃんと聞き届けてくれる。
 バレーがしたくて部活してた。でも今は、先輩たちとバレーがしたくて仕方ない。


 潜は何度目かのサーブを外し、わずかに上がった息を吐いた。ジャンプサーブ難しいから今までやってこなかったけど、沼井さんみたいにできるようになりたいと思った潜は事態が事態ながらも「なんとかなるか」と妙な楽天家ぶりを発揮し、無人のコートで自主練に精を出していた。
 自分が頭が良い方ではない自覚はあるが、それにしたって春高予選の決勝やる体育館が一瞬で無人になって、勝手にボールもネットも使って怒られないなんてありえない、と次のボールを手に取りながら潜は考えた。
 いわゆる「オバケ」みたいなものを、潜は見たことがない。ただ、限りなく近いだろうものを感じることはある。心霊番組なんかでいう「よくない場所」みたいなものも、なんとなくわかる。ここは「よくない場所」を煮詰めたような感じがして息苦しい。まだ数本しかサーブ練してないのに、もう息が上がる。高山でバレーやったらこんな感じなのかな。どうでもいいか、思い直してサーブトス。助走、跳躍、あミートしない。大幅に逸れたボールが空中でなにかにぶつかって落ちる。溜息。新しいボールを手に取る。
 サーブ練を始めたころより空気が変質してきているのを理解しつつも、潜はどうすることもできなかった。「そういうもの」をなんとなく「あるな」と感知できはするものの、実際に見えたり聞こえたりするわけでもなく、またそういった事象への対策などを学ぶ機会もなかった。そういうものから逃げたいときはシンプルにその場を離れる、逃げられないなら息を殺して潜む以外の方法を潜は知らなかった。
 そしてその「潜み癖」のようなものは、「そういうもの」以外にも遠慮なく発揮された。黙って組織の構成員になり、必要最低限の発語のみをする。エネルギーを常に持て余している同輩たちからは次第に興味を失われ、教師や大人には「活発でない子」と烙印を押された。

「……わっかんない」

 あんなにどうでもよかった「あちら」に、今はこんなにも戻りたい。伝えたいことが山ほどある。言いたいことがたくさんある。先輩たちは今まで出会ってきた人とは違って、伝え方がわからなければ「大体こういうニュアンスの話?」と一緒になって気持ちを形にしてくれる。戸美学園高校男子バレー部のみんなに、ああ会いたい。でもその方法がわからない。
 潜にとって、今日はいろんな意味で忘れられなくなるだろう。敗戦の悔しさ。今まで持たずに生まれて来たかと思っていた感情の爆発。人間は言いたいことを一気に言うことができないこと。言いたいことがわからないうちに涙が湧いて出てしまって、結局何も言えなくなってしまうこと。その涙を見て安心してくれる人がいること。今日一日だけでいろいろなことを知った。
 それでもなお、潜には元の世界への戻り方と、行き場のない怒りの解消法がわからなかった。もどかしい。不甲斐ない。どうしたらいいのかわからない。普段はすぐに「まあいいか」と燻ってしまう炎のようなものが、胸骨の内側で潜を舐めるように焼く。ぢりぢりと痛んで、煙に巻かれたみたいに息苦しい。「あちら」への対処だって知らないのに、「あちら」じゃない目に見えないものの対処なんかこれ以上知りやしなかった。新しく取ったボールを抱えてうずくまる。

「潜、背中丸めんな。どうしてもダメだあ〜ってなったら、でかい声出しゃいいんだよ。気合入れてけ」

 いつだったか、練習で全然ダメだった時に同じようにしゃがんでいて、沼井にかけられた言葉を思い出した。
 その時は「はあ」とか答えてしまって、「でかい声出せっつってんだろ!」と沼井が噴火してしまい、レギュラーにどうどうよしよしいい子だからこっちでサーブ練しような、と手綱を引かれていくのをぼんやり見ていた気がするけど。
 ちょっと乱暴で、声が大きくて、でもかっこいい人。ああなりたい。ああなれたらきっと、いい。だから早く戻って、色んなことを教わりたい。
 慣れないことをしようとしている。いっぺんに全部できないことなんかわかってる、それでも。潜は立ち上がり、サーブトスを上げる直前に、張り裂けるほど肺を膨らませた。

「……一本ナイッサァー!」


*****


「「サッコォーイ!」」



*****


 レシーブ職人の朝は別に早くはない。けれど、海は自分に向かってきたボールがあればAパスで上げてしまう生き物であった。
 不意にどこか遠くから響いた、気迫マシマシの「ナイッサー」に条件反射的に「来い」と応えてしまい、はっとしてみれば眼前にボールが迫っていた。咄嗟にアンダーで上げ、しかしわずかに流れる。

「フォロー!」

 これも条件反射だった。さっきまで自分ひとりしかいなかったコートのどこにフォローする人間がいようものか。そう思いながらボールの落ちる先を見やって、海はびっくりして両眼を見開いてしまった。

 セッターの朝も別に早くない。が、赤葦はボールが上がれば、一番「俺だ」と存在感を放つ生き物へ向けてトスを上げてしまう生き物であった。

「オーライ!」

 Aからわずかに流れたレセプションの真下に滑り込む。ひときわ「俺だ」と主張する気配の方へ、肌感覚を信じてオープントスを上げた。上げてから気づいた。どこからサーブが来て誰が上げたんだ?
 思うや否や、赤葦の表情に影が落ちる。比喩ではなく物理でだった。さっきまでいたコートよりも明るい照明と赤葦の間に割って入ったスパイカーが、気配に導かれるまま反射で上げたらネットを超えてセッティングされていたトスを打ち落とす。戸美の12番。潜だった。

「ナイスセット」
「なに!?!?!?」
「ナイッサー、ナイスキー。いや上げといてなんだけど、二人ともどうやってここに?」
「なになになに、ああここで名前読んだらダメだ、えっと先輩、なに?」
「はーい落ち着いて。吸って。吐いて。酸素回してね」
「……あの……誰ですか」
「待って、その訊き方は良くない。えっと、戸美の12番だったよね」

 海はパニックになりそうな赤葦の背中を必死に宥めすかしている間に、潜にいくつか質問をした。重たげな目蓋と伏しがちな目、浮世離れした儚い雰囲気がどうにも彼をミステリアスに見せるが、少ない問答のうちに「この子ポヤポヤしてるだけだ」と海に悟らせる。合流できたのは良かったが、SAN値がピンチ気味の後輩と迷子ひもが必要な幼児みたいな後輩を、果たして元の世界まで無事に引率しきれるだろうか。海はリエーフと犬岡に思いを馳せた。あの二人は言えば聞くので便利っちゃ便利なのだ。

「声かけられて」
「誰かに声をかけられて?」
「はいっつって」
「返事したんだね」
「そしたらここ」
「六文字以上喋れない縛り? ポケモンのニックネームじゃないんだから」
「……?」
「伝わってないよ」
「ぐう……」

 訊いてみれば、どうやら赤葦も別ページの体育館で自主練していたそうだ。魂と矜持を賭けた試合を二回もやって、まだボールを追おうというのだから強い奴らはどこかの何かが外れている。
 三人で対人パスをしながら状況を整理する。三人ともきっかけは共通しており、差異はバラバラの時点で見えていた風景のみであった。今はほの暗いが異形も影もない。いるにはいるが、海は気にしないし潜には見えていないので、それに身を固くするのは赤葦だけだった。

「じゃあ、ここがたぶん三人の中で一番元の場所に近いんだろうね」
「ならもう出ましょうこんなところ。ウチの末っ子エースの世話があるので帰ります」
「ああ、あの……うるさい人」
「言うじゃないか。来年のインターハイ楽しみだな」
「こらこら。早く出たいのはみんなそうだと思うんだけど、ちょっと手が足りないかなあ」
「と言いますと」
「あか……えっと、うーんポジションで呼んでいいかな? 『セッター』は、「あっち」「あちら側」への対処で使えるのは予防がほとんどだよね。いざ直面した時の対応にまだ不安がある」
「不安があるというか、不安しかありませんね。見える聞こえるばっかりで、まだちゃんと祓えないですから。ところで、その呼び方で行くと『ウイングスパイカー』がカブりますよ」
「俺は別に……『一年』とかでいいんじゃないですか」
「俺が呼ぶときに高圧的な感じがして嫌だなあ」
「好きな食べ物にでもしますか。菜の花の辛子和えです」
「海ぶどう」
「山菜そば」

 君たち本当にティーンかと思うような好物が挙げられ、一同は帰るまでの間ひとまず互いの好物で呼び合うことになった。言い出しっぺですけど流石にそれは、と赤葦が言ったので「じゃあ趣味?」と海が続け、潜が「お見合いみたい」とこぼしたのを最後に呼び方に関する議論が打ち切られたためだ。互いを嫌っているわけではミリもないが、そう言われるとちょっと考えちまうもんである。

「方法はいくつか思いついてるけど、まあどれもうまくいく保証はできないかな」
「例えばどんなのがありますか?」
「七つまでは神の子、とか、お前は橋の下から拾ってきたんだよ、って言うでしょ。その理屈でいくと、たぶんみんな「あちら側」から生まれてきて人間に定着して、死んで「あちら側」に戻るシステムなんだ。だから、一回「あちら側」のどん底まで行って、突き抜ける形で戻る」
「ああ、川や水の境は昔から「あちら側」との境界線として信仰されてましたね。加えて橋の下なら、いっそう異界なのか」
「……行方不明エンド、転生エンド」
「そう。山菜くん正解。俺たちがそのまま戻れる保証がない」
「ほ、他には」
「声をかけて来た元凶を殴る。でも、手掛かりがなさすぎるんだ。最初に声かけられたっきり、誰も二回目呼ばれてないよな?」
「ないです」
「じゃあ、あれは本当にただのトリガーだったということですか? たかがトリガーが、気を抜いてたとはいえ三人同時に別レイヤーに引き込めることになりませんか」
「なる。だから、トリガーを引いてる存在は俺たちじゃ手に負えないかもしれない」
「せめてサイコロ振りませんか」
「間違いなくファンブル出ると思うよ」

 苦い顔をした赤葦がオーバーで上げる。潜が「もずくさん」と言いながら弱めに打った。海が拾いながら言う。

「海ぶどうですー。あとはまぁ、人が通れるくらいの鏡と、向こう側に運よく俺たちを知る人でもいたら」
「ああ、鏡、おあつらえ向きと言うか、最適でしょうね。向こう側にはまあウチとそちらの主将以外で、「こういうこと」に耐性のある人が望ましいですが、高望みしてる余裕もないでしょうし……」
「……鏡、ですか?」
「わらび、何か心当たりある?」
「根曲がり竹が一番好きです」
「もうおでん食べなよ」
「おでんに根曲り竹入ります? 珍しくないですか。うわあ言ってたら腹減ってきましたね」
「えウチ入る。姉が好きで。それはいいや、おでんは戻ってからの楽しみにしよう。コンビニの奢るよ。で、心当たり」
「はい。トイレの鏡、手洗い場ひとつにつき一枚のタイプじゃなくて、全部繋がってるタイプでしたよね」

 潜が上げたボールは誰も繋がなかった。繋げなかった。海と赤葦は二人そろって目からウロコをポロポロ落としながら潜をガン見している。潜は床で跳ねるボールから目を離すとパチパチ瞬きして、ちょっと頭を下げた。

「ああ〜やめて頭下げないで、いや流石よく見てる」
「うわあ……なんで気づかなかったんだろ……」

 そうと決まれば行動は早い。三人とも早くここから出たかった。早く無事になって仲間の無事を確かめたかった。たっぷり二試合分の汗を流したかった。飯が食いたかった。

「すいませーんんん」

 ジャージを拾い上げて「じゃあ案内します」とコートを出ようとする潜の後ろで、”委員会”の二人がビリ、と表情を硬くする。手を伸ばすも虚しく、潜はドアを重そうに開けた。

「二人とも目を閉じろ!」
「いぇう」
「?」

 赤葦と潜が咄嗟に目を瞑る。よくわからない返事と訝しげな声の終わりを、呻きの大合唱がかき消した。潜のふわふわした寝ぐせの奥、開きかけのドアの向こうに、それはいた。

 人の手がある。腕がある。足がある。大木の幹のような短い胴からヤケクソみたいに生えたそれらでもって虫のように進む体の上の方に、ありえない位置から生える数本の腕に支えられた、ぼこりと膨らむ頭部のようなものがある。目だった。いくつもの眼球を備えた頭部は、もう逆に目じゃない部位が見当たらない。きっと腕や足の隙間にこれもまた大量にあるだろう口から吐き出される「すいません」や呻き声や嗚咽が空気を震わせる。毛が全部人間の手足でできた毛虫の上に逆スーモが載っているような大型の異形が、そこにいた。

 ああ、仮説があたった。海は微かな後悔を覚えながら、手よりもリーチの長い足で潜が開けかけていたドアを蹴り飛ばして締めた。潜と入れ替わってドアの前に立ち、押さえるようにドアに両手をつく。幸いにも「あれ」に気取られた様子はないが、ほんとうに仮定の通りなら見つかるのも時間の問題だった。海は厚ぼったい下唇の内側をやわく噛みながら赤葦と潜に「目を開けても大丈夫」と言った。

「……一瞬だけ見えたんですけど」
「俺も、初めて見えました」
「ゴアが過ぎるから十八歳以下はダメだと思ったけど、ちょっと間に合わなかったかな。辛かったら言わなくていいけど、擦り合わせしようか。ザイゴートだったね?」
「人体パーツでできてるシアエガでしたね」
「遊星からの物体Xのクリーチャーが集まったみたいな」
「めちゃくちゃなヤツがいるって共通認識だけはわかったよ」

 どっしりと重い溜息が全員の口から出た。このまま吐ききってしまうと、暴れ散らかしている心臓まで一緒になって吐いてしまいそうだった。ちょっと手に負えない。それなりにやってきたつもりでも、時折「身の程分からせタイプ」のヤツはどうしても現れる。それはそれでいいのだが、今に限っては出てきてほしくなかった。
 赤葦はぎらぎらと目を見開いて思考を走らせる。目を瞑ると「あれ」が瞼の裏に出てきそうで怖かったが、それ以上に思考が本能を上回り、瞬きを忘れていた。

(海さんの言っていた仮説通りなら、例えなにかの方法で『ページ』を変えてもたぶん追ってくる。最悪なのは俺たちを追って『ページ』ごとにスポーンするパターン、もっと最悪なのはスポーンした今までの個体がさらに合体するパターン……最善は、今この『ページ』にいる一体をなんとか避けて鏡までたどり着き、元居た体育館へ戻る)

 先ほど鏡と聞いて、赤葦は「そりゃそうだよな」と思った。鏡とは「あちら」と「こちら」の境。魔術的な解釈では鏡の中は「あちら」らしい。何とかして鏡を超えれば戻れるのはロジカルだ。
 だが、その方法が無い。人間は鏡を通って異世界旅行なんてできやしない。仮面ライダーならまだしも、赤葦はライダーバトルに招待された覚えはない。戦わなければ生き残れないのはバレーだけで十分だ。
 しかし、ここにきて超高速で演算する赤葦の思考は、ひとつの言葉にたどり着いた。

「……戸美の12番、ちょっと無茶を頼まれてくれる?」

 赤葦は、見えるタイプである。聞こえもする。だが祓うのだけはあまり上手くできなかった。力不足にくじけそうになるたび、赤葦はヤケクソみたいに筋トレをしながら、技術の代わりに知識を蒐集した。
 受験と同じ。傾向と対策。それが分かれば、予防ができる。赤葦最大の力は感知でも除霊でもなく、知識と思考であった。

「俺と海ぶどうさんが何とかして鏡まで連れて行くから、あっちに戻ったらウチの3番さんか海ぶどうさんのとこの6番を連れてきて。もし自分のチームにできそうな人がいるなら、その人でもいい」
「人選の理由、なんとなく予想つくけど聞いてもいい?」
「ウチの3番さんは”猿真似”ができます」
「ああ、なるほど。ウチの6番も”物真似”が得意だ」
「何もわかんないですけど、わかりました。でも、いいんですか?」
「何が?」
「……俺、たぶん、アレの前抜けられます」
「ん?」
「は??????? あゴメン」
「いえ」

 詳しく聞いてみれば、潜が言うには「昔からどうしてもダメだってヤツ、なるべく息を殺して潜んでたら目の前を通られても気づかれなかったので、潜みさえすればこっちから前を通ってもイケるかと思って。最近試してませんけど」とのことだった。

「ぶっつけ本番なので、失敗したら俺にはどうしようもないんですけど」
「それに関しては大丈夫、先輩ってそういうときのためにいるから」
「最悪コロコロコミックの文脈に持ち込めれば俺たち勝てるから」
「体育館をこんなにするなんて許せない、俺たちとバレーで勝負だ?」
「あいつめっちゃ手ありましたよ」
「ブロック鉄壁そう」
「あれだけあったら絶対ドリブル取られるよ。そもそも「あれ」一人って考えたらディグ一発でこっちに返すかブロックフォローで返すかだな。それ以外は全部ドリブルだ」

 真面目なんだかそうじゃないんだか。「どうすれば「あれ」相手にバレーで勝てるか」なんて与太話をして、三人は頬に柔らかさを取り戻した。赤葦のジャージのポケットに入っていたテーピングテープで潜を中心に小指の指先だけを繋ぐ。がっちり手を繋いでも良かったのだが、何かあった時のための保険に9本指を残した。人間の指先には魂が宿るらしい。爪の垢を煎じて飲めとはそういう意味だ。
 念のため、と赤葦がさらにポケットから小さいジップロックに入った塩を、ドアからなるべく離れた場所に向けて投げる。目配せし合うと海は「合図で」とドアに手をかけ、潜は頷き、赤葦はせっかく隠れても悲鳴が上がっては元も子もない、と鼻までガッチリ口元を覆った。
 潜が鼻から深く息を吸った。

「……”潜り”ます」



*****


 ドウドウと音を立ててなだれ込んだ異形は、赤葦が投げた塩の方へ一心不乱に向かっていった。拍子抜けなほどに難なくコートを出た三人は、そうは言いつつ目当ての鏡の前に来てもしっかり息を詰めていた。
 塩が霊に効くのは様々な理由があるが、一説によれば塩は霊を吸着するらしい。消臭剤みたいなものだ。消失したわけではなく凝縮されているだけなので、庭に埋めて処分するとダメらしい。先人曰く水に流して処分すべし、と。閑話休題。

「……たぶんしばらくは持ちこたえるから、菜の花、次の策よろしく」
「はい」

 久々に喋った気がする。喉がからからしていた。悲しいかなここはまだ「あちら側」なので、ここでの飲食はご法度だ。
 赤葦は潜と繋がっていたテーピングを剥がし、「もう”潜”んでなくて大丈夫」と肩を叩いた。極度の集中の中にいた潜はちょっとびっくりして赤葦を振り返り、ほっと息を吐く。

「結局全員でここまで来れたけど、最初に山菜に一人で行ってって言ったのは、山菜が『戸美』だからなんだ。節分の豆まき、あれは「魔を滅する」の言葉遊びから豆をまくようになったって説がある。蛇の古い呼び名はカガチ、鏡は蛇目の転成語。かつ、どっちも水に関わりが深い。理屈なんてゴネたもん勝ちだけど、理論武装しないで来るかもわからない希望を待つよりずっといい。ゴネてゴネてゴネまくって、すこしでも強い縁を結べば、より確実に戻れるはず」
「強い、縁」
「そう」
「……俺よりも、お二人のほうが必要です。俺が『戸美』なら、あっちには『戸美』のキャプテンもエースも、チーム全員がいます。戻れないほど弱い縁じゃない」
「……驚いた」
「ね。案外言えるんじゃないか」

 海と赤葦はちょっとびっくりしてから、心底優しそうに笑った。潜には意味が分からない。何かまた伝え間違えただろうか。前歯の裏で舌先をモゴモゴさせていると海が「いいんだよ、ちゃんと伝わった」と潜のフワフワの頭を撫でた。
 伝えるって難しい。でも、伝えきれなくても、汲み取ってくれる人がいる。潜はまたひとつ学んだ。微睡むようにゆるりと微笑んで、海と赤葦の手を握る。

「……俺たちは、好きな食べ物クソ渋い同盟です」
「待って? それでいいの?」
「他になかったの?」
「トンチキあだ名ブラザーズの方がよかったですか?」
「あ待ってダメだ、すっごい声出して笑いそう」
「ダメ、持ちこたえるって言ったって静かにしてなきゃどうなるかわかんない」
「……とにかく、ここを出て、おでん食べる約束で、俺たちを括ります。俺たちの縁はおでんと、年寄り舌です」
「へぶっ!」
「ああ先を越された!」

 赤葦が必死に笑わないように唇を噛んでいたのに、海が突然湧いて出た「年寄り舌」に笑い袋をズタズタにされて決壊した。潜が「そんなに変なこと言ったかな」と首を傾げている間にも、遠くから「アレ」の動き出す音がする。猛然と、おそらく一直線にこちらへ向かってくる足(?)音と呻き声を聞きながら、三人は「やばいやばいやばい」「行け行けとりあえずもう行け行くしかない」と結局爆笑しながら鏡に体当たりした。



*****



「いたか?」
「いねえ、電話も繋がんねえ」
「クソ、帰るぞっつってんのにどこ行ったんだ」
「ところでおたくさん、木兎は?」
「ああ、五歳児? 決勝負けたのが悔しくて先にバスでふて寝してる」
「男の子は手がかかって大変ねえ猿杙さん」
「そうなのよお夜久さん。そのくせ起きて赤葦がいなかったらまたグズるんだから。大将さんちはど〜お?」
「主婦の井戸端会議ごっこに俺を巻き込むな!」
「駄弁ってねえで探せ!」

 大会が終わりすでに人気もまばらな体育館のロビーで、色とりどりのジャージが集まっていた。海、赤葦、潜の捜索に来た各校保護者たち、ないし”美化委員会”の準メンバーたちである。
 勝手がわからないなりにとりあえず物理で捜索を続ける戸美の大将と沼井をからかう口調こそふざけているが、猿杙と夜久の胸中はこれっぽっちも正気じゃなかった。あの二人がいっぺんに「持っていかれた」となれば、相手はかなりマズいやつだ。自分たちにできることはなにもない。だが、だからこそ、ふざけて遊んでからかって、すこしでも胸中の不安や焦りを鎮めなければならなかった。猿杙と夜久が「あいつ」相手にできることは一つもないが、「あちら側」に拉致られた仲間のために、確固とした帰る場所でいなければならなかった。
 遅々として静まらない焦燥にぼちぼち業を煮やし始めるころ、先ほどの試合で足をひねった夜久を支えていた福永が口を開く。

「ショートコント、行方不明」
「え? なに? なんて?」
「面接とか緊張する場面の前に「ショートコント」って言えば気がまぎれるってどっかで聞いたんで」
「はえ〜かしこい。俺も模試んときとかにやろっかな」
「模試で大喜利できる心臓ヤベェな」
「だから探せよお前ら! 漫才してないで!」
「ツッコミ、神の恵み」
「ああ°〜〜〜〜〜ッ!」

 ついに大将が頭を掻きむしり始め、沼井も脱臼した指が痛むだろうに両手をワキワキし始める。夜久が「俺たちがパニックになる権利ねえよ、一番パニックになりてえのは多分あっちだ。俺たちはあいつらが帰って来て「遅かったな」って言うときに、いかに声震わせねえかだけ気にしてりゃ良い」と少しだけ面持ちを固くして言えば大将は溜飲が下がったようだったが、沼井はそうもいかない様子だった。

「クソ、神頼みなんかガラじゃねえが、クソ!」
「やめろヌマ、お守りに八つ当たりすんな。罰当たり」
「ん、待て、そのお守り何だ?」

 沼井がポケットから出したのは、わりとどこの神社でも売っていそうなお守りだった。マジでなんの変哲もない。夜久が声をかけると、沼井は祈りをねじ込むように両手でがっちりとお守りを握りしめ、額に押し当てながら応える。

「潜、あいつ、祖母ちゃんちが石川にあるとかで、そこのでかい神社のですって春高前にくれたんだよ」
「そう。わざわざレギュラー全員分」
「夜久」
「おう。これワンチャンどころじゃねえな。福永やれ!」
「あいあいさ」

 夜久に号令をかけられた福永が、器用に大将と沼井をそれぞれ左右の肩に担ぎあげてサッサと歩き始めた。夜久の介助は猿杙が代わっている。

「何、何すんっ」
「何もしねえ! 何もしなくていい。ただ、お守り持って「俺たちは蛇だ」って思ってるか、後輩の事めちゃくちゃ考えてろ」
「二年の面白い方くん、たぶんトイレの方だと思うから連れてったげて。俺たち後から追う」
「らじゃ」

 福永は短く答えるとついに走り出してしまった。跳ねるように走るもんだから、胴を肩に乗せられていわゆる「俵抱き」をされている大将と沼井は、福永が一歩進むごとに重力で福永の肩が腹のやわいところや肋骨あたりにガッスガス入っていた。こちらが色んな意味で顔を歪めても知らん顔、涼しい顔で福永はトイレを目指す。あそこには、おおきな鏡があるのだ。

「おいお前ッ、おいこの、クソッ、なんだってんだよ!」
「何しようってんだ下ろせやコラッ! あ痛ぇわき腹入った! 肩が!」

 どこにそんな力があるのか、試合中どっちかといえばテクニック派のプレーを見せていた選手にワシワシと運搬されながら、それでも戸美の二人は、いろいろ諦めていなかった。
 潜。いなくなった後輩。スパイクのフォームがほんとうに綺麗で、言葉なく相手を惑わせる天才。普段の無口さはやる気がないのではなく、ガムシャラにやるだけが本気ではないと理解しているから。試合後に「すみません」と、はじめて泣いた後輩。
 今までだって十分目をかけてきたが、よりによって「負ければこのチームは終わり」という今日この日に、大将たちは潜をより深く知り、「ああもっと教えてやりたかったな、もっと守ってやれたのに」と目を細めた。その矢先に、潜は消えた。
 ざっけんなってマジで。
 俺たちからこれ以上何を奪おうってんだよこの体育館はよ。
 夜久と猿杙の慣れ方を見るに、音駒と梟谷にとって珍しい話ではないらしい。俺たちなんかいつ糸が切れてパニックになるか秒読みって感じなのに。それならそれでいいのだが、いつまでもゲスト扱いなのが気に入らなかった。巻き込まれているのは俺たちの可愛い後輩なのだから、俺たちもそのことをちゃんと解っていたい。大将たちが時折短く叫ぶ「はなせ」は「放せ」と「(諸々の説明を)話せ」の意であった。

「あいつ、潜、なんなんだよ。なあ教えろよ、俺たちの大事な後輩なんだよ。あいつなんなんだ。ちゃんと解ってたい」

 俺たちは負けた。潜は「すみません」と泣いた。仕方ない、逆にブロックに捕まらずに打ち切ったことを沼井は心底すごいと思う。あいつはもっと強くなる。バレーは6人でやるスポーツだ。これから潜と同じコートには立てないにしても、戦うときは一人じゃない。困っているなら手を差し伸べ、観客席から一番大きい声を出してやりたい。
 でもきっと、今潜は「ひとりで」戦っている。バレーではないから。同じく行方不明らしい音駒と梟谷の選手が何をしてるか知らないが、こちらにいる夜久や猿杙がするように潜のために手を尽くすことができないのが悔しかった。
 どうしたらいい。何をしてやれる。何をしていれば潜は助かる。何をすれば潜の助けになれる。どうすれば潜を助けてやれる。
 結局のところ一番の望みは自分たちこそが潜を助け出してやりたかったのだが、ほぼ完全ゲスト扱いされている現状を戸美の二人はパニックながらもわりと正しく理解していた。俺たちには何もない。この状況でできることなんて何も知らない。何もできないことを理解していた。

「なんもなくない。です」

 福永はグンと走る速度を上げて言った。再び腹の柔いところに福永の肩がめり込みながら、二人は続きの言葉を待つ。

「おばけ、そう思うから見えることもある。宗教を信じていても救われないこともある。でも救われることもある。なんかあった時に「救われた」と思うから。ます」
「慣れねえなら無理に敬語使うな、逆に文脈がバグる」
「なんもなくないです。なんかあると思ってたら、なんかある」
「……なんかあるって、何があるんだよ」
「見ればわかる、エアリアルドライブ」
「ほんとマジ突然ぶっこむの何!?」

 福永の語り口は大層独特で、慣れている音駒のメンバーですら時折発言の突飛さにぎょっとしてしまうのだが、大将と沼井はほぼ初対面のわりにあまり驚かなかった。潜の語り口と似ていたからだ。「俺たちは連想ゲームでも強いられてんのか」と思うようなたどたどしい言葉を、半年ちょい程だが紐解いてきていたからだ。
 大将と沼井は福永の言葉を、「お前たちはただ後輩を信じていろ」と解釈した。
 何も行動していない。何の知識もない。が、信じて待つことだけはできる。悔しいが、今はそれで十分だった。シャンと立てば高いところにあるフワフワの寝ぐせは、ちゃんと俺たちのもとに帰ってくる。あの頭を撫で掻き回してやることだけ、行方不明になる前に、珍しく泣いたせいで腫らしたあの眠そうな目蓋を冷やしてやることだけ考えろ。
 大将と沼井は、福永に担がれたまま互いを見合わせた。それぞれの目にひとつ芯が通った色を浮かべている。福永が急ブレーキをかけ、二人の頭がみっともなく揺れた。頷いたみたいになっていた。
 福永は二人を今までの扱いから考えれば存外丁寧に降ろすと、黙ってチョンとトイレのドアを指さした。またひとつ、俺たちにできることがある。二人は今度こそ自分の意思で頷きあって、ドアに手をかけた。


*****


「どわあい高っ、ッだ、痛あ!」
「ちょちょちょちょちょ! ぐあ!」
「へぇあ。あだっ」

 三者三様の悲鳴が床に叩きつけられた。人気のない男子トイレの手洗い場の床にうずくまって呻く3人は、海、赤葦、潜だった。
 ぶつかって跳ね返った感じはしなかった。ということは、嘘みたいな本当の話、自分たちは鏡を通り抜けて「あちら側」から移動したことになる。手を繋いでいたのが幸いしたのか災いしたのか、赤葦の体の下には海が「いてて」と呻き、上では潜が「いてて」と顔をしかめていた。なんとか首を巡らせて自分たちがついさっき出て来た鏡を見ると、水の中に暗い色のインクをぶちまけたような黒いものが漂っているのが見える。「あちら側」では追いつかれた。この鏡を超えられてはたまらない。自分に力がないにしても、対策は取らなければ。あちらとこちらを分ける手立てをありったけ思い出しながら、しかし赤葦は身体が動かなかった。高校生とはいえ都大会準決勝を戦うバレー部員に挟まれては咄嗟には動けない。揺蕩う影がぼんやりと形を結び始める。赤葦は海を呼ぼうと息を吸い、喉を震わせる直前にぴたりと止まった。

「潜か!?」

 男子トイレのドアが力任せに開けられた。先ほどまでいた体育館よりは明るかったとはいえ、さらに健康的な明るさに溢れる通路から差し込む光で逆光になって、赤葦は誰がドアを開けたのかすぐには分からなかった。

「潜!」
「……キャプテン、沼井さん」

 力強い腕が赤葦の上から潜を救い上げる。物理的な重圧から解放された赤葦はしばしポカンとして、海に「ごめん重い」と肩を叩かれてようやく我に返った。飛び退るようにして海の上から身体をどける。指先に剥がれかけたテーピングテープがひっついてるのが見えて、弾かれたように鏡に貼った。

「潜、お前、言いたいことはたくさんあるけど怪我してないな!?」
「ちょっとSAN値が減りました」
「オイ音駒の2番ン! ウチの後輩に何しやがった! こんな、トイレで!? ナニか!?」
「いつも黒尾が迷惑かけてるとはいえ、そういう冗談は良くないと思うぞ」
「本気で言ってんだよこっちは!」
「いやあ〜、まさかまさか。ちょっと友好を深めてただけ。ね、潜くん」
「はい。関係ができました」
「二人ともそれわりと致命的な選択肢ミスです」

 さっきまでの体育館とは決定的に違った。色がある。音がある。温度がある。水を打ったように、とは言うが、水を打つ音すら大きく聞こえたさっきまでと違って、ここはどちゃどちゃと騒がしい。海は騒ぎに紛れて赤葦の貼ったテーピングテープをちょっとなぞり、赤葦に頷いてみせた。赤葦がほうと息を吐く背後で、主に沼井の大音声が今も響いている。

「オイ潜! 言いづらいことでも言えよ、俺たちが何とかしてやっから!」
「俺たちにできることなんかたかが知れてるかもしれねえけど、俺たちは潜の味方だからな! おい音駒覚えておけよ、次会うときは裁判所だぞ!」
「ぜひ最高裁まで縺れこみたいね」
「ノるとこじゃないです、ていうか海さんこういうのノるんですね」
「いやあ何だろうね。騒がしいって安心するな」
「発言には気を遣えよ、どんどん不利になるぞ!」
「もう大丈夫だからな潜、よく頑張ったな」
「ほら、選択肢ミスったからもうガチ裁判ルートですよ。巻き込まないでくださいね」
「ええー、せめてアイテム確認させて。見落としてるかもしれない」
「証拠品も異議ありコマンドも出ません」
「出ないかあ」

 戸美の保護者会があることないこと捲し立てている間に、赤葦は貼っていたテープを剥がし、海が鏡を指先だけでツツと撫ぜた。鏡は正しくただの鏡で、映っているのはただの男子トイレとただの自分たちだけだった。
 すっかりヒートアップしている戸美の二人に導かれるようにトイレを出ると、正しくここが現実の世界線である実感が三人の胸を打つ。ああ、帰ってきた。
 沼井にしっかと肩を抱き込まれた潜が、不意に顔を俯かせた。抱き込まれている肩は小刻みに震え、吐息も不規則で早い。何事かと全員で潜を覗き込み、”委員会”は顔を綻ばせ、戸美の二人は目玉が零れ落ちそうなほどぎょっとした。
 潜が、笑いながら泣いていた。

「く、潜?」
「……そうだ。一番頑張ったな。ほら、一番”括り”たかった人たちだ。もう大丈夫。……大将」
「な、なんだよ」
「わかるな?」

 海はニコリと笑って、赤葦を連れて離れていった。
 大将の目の前には、背中を丸めてポトポト泣いている潜と、その顔を必死で覗き込んでいる沼井がいる。大将は一度唾を呑み込んでから、沼井の隣で背を屈めた。

「……潜、……おかえり。なんて言ったらいいかわかんねえけど、俺たちちゃんといるから。聞いてるから。聞かせて」
「…………言いづらいことも言っていいんですか? 先輩たちが何とかしてくれるんですか? 先輩たちは、俺の味方なんですか?」
「ッたりめーだろうが!」

 沼井が吠える。何を言い出すのかこの子は、みたいな声音だった。

「俺らが学校で一緒にいてやれるのは三月までかもしんねえけど、卒業してもお前が困ってたら絶対お前のこと助けにいくから」
「俺、頑張れてましたか? もう大丈夫なんですか?」
「頑張った。ほんとによく頑張った。俺ら、なんかそういうことよくわかんねえけど、それでも、お前がメチャクチャ頑張ったのはわかる。よく帰ってきてくれたな」
「……言いづらいこと、言ってもいいですか」
「いいぞ」
「もちろん」
「もっとバレー教えてください」

 潜はまだポトポト泣いている。それでも、口の端はわずかに上がっていて、長くはない付き合いながらもこれは「嬉しい」がマックスを振り切った時の顔だと二人は理解した。
 さっき二人が言ったことを、潜は確かめるように訊いた。本当に伝えてもいいのか。頼ってもいいのか。味方なのか。小さくはない身体をこれだけか弱く思わせるほど、それらは潜に突き刺さっていた呪いみたいなものだったのだ。積極的に喋らないのは、喋ってもいいのかわからないから。喋ったら怒られるかもしれないから。嫌われるかもしれないから。ものの数秒の会話で、大将と沼井は潜の半生を垣間見た。
 バレーを教えてほしい。労いでも歓待でもなく潜が願ったのはそれだけだった。

「キャプテンと、沼井さんと、他の皆も、もっとずっと繋がっていたいです。ほんとは置いて行かれたくない。でも、戸美のバレーは正しく強いって、証明したいんです。このチームのやり方が好きだから。みんな、好きだから」
「潜。お前。そんなこと」
「先輩たちがいない戸美で、俺は戦います。もう負けません。だから、戦った後に、また頑張ったなって言ってください」

 潜はまだ泣いていた。が、涙は門出を祝う桜のようにはらはらと頬を伝っていた。その頬には、ほんのりと笑みが乗せられている。大将と沼井は、三年間積み上げて来た「ヒール」のバレーが報われた瞬間に泣きそうになり、それよりも何よりも潜が笑ってくれたのが嬉しくて、青臭い笑いを浮かべながら、「おう」とフワフワの寝ぐせをかき混ぜた。
 ああ、これがしたかった。そんで、きっとこれから何度でもしてやれる。
 戸美学園高校男子バレー部の春高が終わった。今日からは、ただの俺たちの春が始まる。





「……括らなかった」
「括るまでもないように見えたけど。締めくくり的には最高なんじゃないかな。素敵だね」

 海と赤葦は福永を回収し、夜久と猿杙に回収された。猿杙と彼に背負われた夜久は「背が高いヤツって足なげーから一歩がでけえのな。腹立つわ」「聞いてよ、これ移動中もずっと言っててさあ〜、途中で落っことしてやろうかと思った」と物騒なことを言い合いながら、海と赤葦に”おつとめ”をした。

「で、どうだったよ?」
「SAN値がピンチです、早く帰りたい。もう今日は何もしたくない。木兎さんの世話もしません。しばらくはバイオハザードも観るのキツいです」
「グロい系だったんだ、大変だねえ。あでも木兎の世話はして」
「末っ子どころかペットみたいに言う。いや、すごかったよ本当」
「お前、毎回しれっと言うからあんまり実感湧かねえんだよな」

 けけ、と夜久は笑ったが、すぐに引っ込めた。いつも「あちら側」での苦労もこちら側での心労も互いに語らなかった。が、珍しく夜久が海のジャージの裾をツンと引く。「なに?」と振り返れば、夜久はちょっとだけ下唇を噛んでいた。

「毎度のことだけど、大したことできなくてすまねえな。遅くなったけど、おかえり」
「本気で言ってるのか? いつも助けられてるよ。いつも待っててくれてありがとう。それだけでいいんだ」
「ほんとかよ」
「ほんと。こんなの、良いことなんか一つもないんだから。いつも通りでいて」
「……そうか。そうなんだろうな、海が言うなら」
「そうだよ。俺が言うんだから」

 じゃあ次はオレンジコートで、と梟谷と別れ、海はやっと音駒のなかに帰ってきた。黒尾が眉尻をゆるく下げながら言う。

「海。おかえり」
「黒尾。うん。ただいま」

 海も微笑んで答えた。海の眉尻もわずかに下がっていることは、夜久だけが知っていた。海はというと、黒尾の歓待を受けて自身のSAN値減少をやっと自覚した。けっこうキツかった。が、今回もちゃんと帰って来られた。海は想像の中で盛大に安堵の息を吐き、仲間の無事に胸を撫でおろした。

「海さぁん! 心配しました、俺がブロックへぼへぼだったから怒ってどっか行っちゃったのかと思って」
「お前はマジで腕ブン回すのやめろ! 取りづらいったらねえんだよ!」
「あああ夜久さん、夜久さん! 無茶しないでください! 足!」
「クロがずっとソワソワしてて、ちょっとウザかったから、どっか行くときは声かけて」
「フツーに傷つくから止めましょうねそういうこと言うのはね! で、どこ行ってたんよ」
「妊婦さんが産気づいちゃって、ちょっと手伝いに」
「遅刻の言い訳にもならねえやつ!」

 ぶひゃ、と笑う黒尾の声は健やかで、海はその笑い声がどうにも好きで仕方なかった。響きが野蛮っぽいこと以外は。
 奇妙なものを持って生まれる人間は少なくない。それがきっかけで破滅する人も少なくない。潜はもう大丈夫だろう。きっと突き放そうがしがみついて離さない人たちに囲まれて、たまに苦労したりしながら、これからも繋がっていくだろうと思う。
 さて、俺はどうだろう。海は思う。
 俺たちはもう繋がっている。というか、依存しているというか、ただ信じている。信じてくれている。
 どこに行こうが何に触れようが、帰れば「ここ」はちゃんとあって、かならず「おかえり」と言ってくれる。
 力添えはいらない。しなくていい。むしろしないでほしい。朱に交われば赤くなるように、触れることで周波数が近づくなんてこと、そう思うだけで海はいつも静かな胸の内が狂うようだった。こんなに愛している音駒のみんなに、絶対してほしくない。
 ただ待っていてほしい。俺はかならずここへ帰るから。いつまでも繋がっているから。
 折り返しにも満たないだろう人生のなかで、きっと今日のことは何度か思い出すだろうと海は思った。口にしたが最後、「おっも」とでも言われそうな決意を、改めて誓った日だった。






*****





うまくいかないもんだなあ。ああいうのもいるのか
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