8.モラトリアム、あるいは


今回、作中に独自の自論を爆烈展開させております。
自論の中に確証は一つもなく、ほぼ100%妄想と偏見と経験則と極論で書かれた文章ですので、間違いなく事実と異なります。""設定""であることをご理解ください。
万が一本文中の記載を信じた末に何かの事故が発生しても、当方は一切責任を負いません。負いようがありません。ご了承ください。
以上を踏まえて納得頂けた方は本文をお楽しみください。アカンなって方はまた次の機会や過去作品をどうぞ。






 風がずいぶん冷たくなってきた。東京にもそろそろうっかり雪が降ったりするかもしれない。
 そうなったら電車止まるかな。学校はサボれるけど朝練出なきゃなんねーし、朝練出て授業サボんのなんかちげーんだよな。
 ムニャムニャ考えながら木葉はカイロがわりにココアの缶を抱いて縮まる。暖をとるのに買ったので、冷めるまで飲まない。

「はよ飲めよ、ココアに冥利尽きさせてやれよ」
「やーだよー、このココアには俺をさんざん温めるために生まれてきてもらったんだ、俺がぬくぬくしないうちはまだ使命があるんだよ」
「クッソ安い使命だな」
「んだと小見やん」
「俺たちがいんだろが」
「すげえ〜、女子だったらイチコロだー。でも俺男だからときめかない」
「ときめけやサル! メモリアルだろうが! オラッ木葉も来い! ときめき作るぞ!」
「やだよむさ苦しい……」
「んだとーッ!」
「オラー巻き添えだー!」
「俺も俺もー!」
「ああああ寄るな寄るなむさ苦しい〜!!」

 梟谷学園高校の屋上にはちらほらとグループが固まって座り、それぞれ昼食を摂っている。その中でも一際騒がしいのが男子バレー部のグループだ。なんでただ飯を食うだけで絞め技が繰り出されるのか。男子高校生にはそこでしか伝わらない言語ロジックがある。
 悲鳴と野次に彩られる昼食会場に、一陣の風が如くカチこむ影があった。

「わーーーー混ぜろ混ぜろ混ぜてください」
「いいとこ来た! 木兎をなんとかしろ! クリームメロンパンやるから!」
「やでーす俺今日水餃子なんで暴れたら溢れまーす、食べ合わせも良くないんで、暖は取らせてもらいますけど参戦はしませーん」
「このクソ後輩ァ!」

 やけにテンションの高い赤葦だった。
 赤葦は颯爽と物静かな鷲尾の隣に陣取り、いそいそとスープジャーに箸をつっこんで飯を食い始める。クソやかまし肉団子のなかで木葉の悲鳴が高らかに響くが、「あったかさがしみる」とほくほく胃を満たしていた。

「赤葦、最近機嫌がいいな」
「鷲尾さん気づきましたか。ええメチャクチャ機嫌いいです。悪くなることがないので」
「あれを見てもか?」
「そうですね。動物園行かなくても檻の中観れるって便利だなって思います」
「あいつら! あいつら今俺たちのこと動物園って!」
「誰が猿じゃい!」
「猿杙じゃん」
「木兎に言われたくないけど!」
「にゃにをぉ?!」
「あー木兎木兎木兎光太郎くん! あのね! 人間は首絞まると死ぬのね! 人間じゃなくても首取れると死ぬのね!」
「そういえば木兎こないだ貸した漫画返せよ、そろそろ読んだろ」
「ねーちゃんがポカリ溢した!」
「てめえ!」
「いけ小見やん! やったれ!」
「やるな!!!! 木兎にキメられてる俺が死ぬから!!!!」
「ほら動物園」
「おかしい、俺はバレーボール部に入部して三年やってきたはずなのに。本当のバレー部はどこだ」
「ここですよ」
「そうだった」

 屋上ランチといえば学生のみならず老いも若きも憧れるものだが、梟谷学園高校にあっては二年ちょいほど前からあまり羨望されるものではなかった。バレー部がやかましすぎるためである。クソ大音声に耐えかねて屋上を後にするグループに会釈で詫びながら、赤葦は箸をスプーンに持ち替えた。

「あの人たち、一定のデシベル以上出したら爆発する首輪とかつけたら死にそうですよね」
「科学と物理と工業ってところか。赤葦理科選択は?」
「ばけがくです」
「ダメか」
「鷲尾さんプラモやるじゃないですか。うまいこといきませんか?」
「俺のニッパーで人を傷つけるつもりはない」
「かっこよ……」
「やるか? マスターグレード」
「なんで初心者殺しを最初にチョイスするんですか。仮面ライダーの装動シリーズが限界ですよ」
「赤子でもできる」
「赤子はパーツ食べますよ」
「それは危ない」
「ねえなんの話ししてんの! 俺がこんだけ助けてっつってんの聞こえてる?!」
「聞こえないフリしてるんですよ」
「皆まで言わせるな恥ずかしい」
「まだ余裕あんのか木葉! これも食らえ!」
「もぉやだァーーーー!!!!!」

 毒にも薬にもならない、否、わりと周囲には害のある昼休みはけたたましく過ぎていく。雲が流れるのが早い。なんとなーく雲を眺めて視線を戻せば、クソクソやかまし肉団子はすっかり解けて睦まじくケータイを覗きあっていた。アハ体験とこの世で一番縁遠いな。赤葦はスープジャーの中ですっかり粉々になった餃子を汁ごと煽った。

「木兎そのキーホルダーまだつけてんのかよ。もうボロボロじゃん」
「一生つけるね! あかーしがくれたやつだもん」

 先ほどよりわずかにデシベルの下がった会話が聞こえる。木兎のケータイに括り付けられたキーホルダーは、会話のとおり赤葦が送ったものだった。

「そのくらいでよければまた差し上げますよ」
「やだこれがいい! あかーし修理してよ、ここポロっといっちゃいそうでさ」
「そこは鷲尾じゃね?」
「今あいにくパテを切らしている。普段はカバンにあるんだが」
「学校でパテ盛るな家でやれ」
「今何組んでんの?」
「伏見城」
「城かよ! ガンダム組めよ。なんか光ってモードチェンジできるやつ出たんだろ?」
「俺に死ねと?」
「鷲尾さんさっき俺にマスターグレード組めっつったじゃないですか」
「フレンドリーファイアが強すぎる」
「ねーこれ直して〜! これがいい〜!」
「ああクソでけえ赤子!」
「ランナーごと食べ始める前になんとかしなきゃですね……鷲尾さん、パテ無くていいんで瞬着ありませんか?」
「ある。ほら」
「カバンどころかポケットから出てきた!」
「四次元ポケットかな?」
「鷲尾鷲尾それあかーしに貸して! あかーしが直して! ねー!」
「ああクソデカ幼児〜!」
「オムツ取れてんのかお前?」
「オツムは足りてないだろうな」
「ねえ〜〜!!!」
「はいはい」

 鷲尾に瞬間接着剤を借りて、木兎の手からケータイを借りて、赤葦は糸を紡ぐ娘のような手つきでキーホルダーを修理した。なんのことはない、脆い箇所に接着剤を塗布して、支えたまま固まるのを待つ。それだけのことを木兎は、目が落ちてしまうんじゃないかってほどじっと見て、「はい」と返せば世界が拓いたそのときのように笑った。
 こんな平和がずっと続いていけばいい。きっと続いていくんだろうと思う。何も間違ってなかった。赤葦はさっきまで眺めていた雲なんかすっかり忘れて、きらきら輝く木兎の顔を見ていた。


*****


 突然だが、ここで霊障について、独自の解釈を交えながら説明する。
 霊障。霊的な障害。「あっち」や「あちら側」から受ける影響を指す言葉である。
 まず第一に、人生において避けるべきはこの霊障と、あとは連帯保証人にならないとかそんなもん。何につけても、受けないなら受けないでそれより至上のものはない。いいことがほぼないから。
 「あっち」ないし「あちら側」とこちらには、非常に脆い隔たりしかない。なんなら隔たりはない。「あっち」はいつでも隣にあり、シャンプー流してるときに背中が薄ら寒ければ、そこにはもしかしたら「あっち」があるのかも知れない。
 しかし勢いよく振り返っても、何もない。何もいない。見えず、聞こえず、変わらぬ風景がそこにはある。大体そうだ。ていうかそれが正常だ。
 「あっち」ないし「あちら側」を感知できるものは、一部例外はあれど等しく霊障を受けた経験のある者であると思う。なぜかって、霊障とはチューニングであるからだ。
 ラジオが分かりやすい。その周波数に合わせなければ、クリアな音質で番組を受け取ることができない。「あちら側」とこちらは常に同じ場所にある。それでいてこちらの存在が「あちら側」を感知できないのは、受信する電波の周波数が違うからである。
 朱に交われば赤くなる。触れ続ければ、自然とそういったものに近づいていく。やがて「あちら側」を感知できるまでにチューニングされる。これが霊障による霊視の発達であると思う。
 全てがこれに該当するわけではない。「なんか嫌だなぁ」程度で終わるのが大半である。受けないに越したことはないが、受けても「ハァーやったわもう人生終わりや一生これと付き合っていくんや」と落胆することもない。
 二十歳より前に霊を見ると一生見えると言われるが、これには誤解がある。
 唯一絶対に避けるべきは、今後一生見えるようになってしまうレベルの霊障を避けることである。


*****


「あかーし! はいこれ! こないだのお礼ね」
「え? ああキーホルダーのですか。別にいいのに」
「俺があげたいの」
「そういうことなら、まあ。ありがとうございます」

 朝のホームルームに滑り込むべく支度ができた者からダッシュで飛び出していくバレー部の部室で、木兎が赤葦を呼び止めた。全国5本指のスパイクを放つ手には不似合いに華奢なネックレスが乗っていて、赤葦は「さてはお姉さんの入れ知恵なんだろうな」と思いながら受け取ろうと手を出す。

「あ待って待って、付けさして」
「今ですか?」
「そう! インナーの下に隠しといてよ」
「めんどくさい彼女みたいなこと言う」
「ん゛ぃ〜〜〜!!!」

 最近の木兎は思い通りに行かないとすぐこれだ。精神年齢が一桁になる。一桁でももう少しまともな駄々のこね方をするだろうが赤子かよ。赤葦が「はいはい」とシャツの襟をひろげて木兎に背を向けると、木兎は「はいは一回!」と言った。ブン殴ってやろうかと思ったマジ。

「よっしゃー、できた。似合うよ」

 半透明で爪一枚くらいの大きさの丸いプラスチックが揺れる。木兎は赤葦の背後から手を伸ばして、ちいさなトップをインナーの下に丁寧にしまった。

「レジンですか?」
「ン。姉ちゃんに道具貸してもらった。お守り入りだから大事にしてね」
「それは効きそうですね」
「あのキーホルダーくれた時にあげたミサンガと一緒にしてて。ご利益バイバインだから」
「それ時間経過で倍になる秘密道具ですよね? そのうち地球滅びませんか?」
「うはは、滅ぶかも!」

 会話はクソ物騒なのに、木兎の笑顔はサンサンと照る太陽みたいだった。
 まぁ、滅ぶなら滅ぶで良いか。赤葦はぼんやりそんなことを考えて、予鈴が鳴った。さっきまでの甘酸っぱいような空気はどこへやら、二人はクソ絶望した顔を見合わせて、赤子には到底できない走り方でそれぞれの教室へ駆け出した。


*****


<6 美化委員会(3)

赤葦: こんにちは ご相談があってきました
すが☆ : 何?遺産相続?刑事裁判?
赤葦 : めっちゃ弁護士案件じゃないですか そんなんなったら流石にここに相談に来ませんよ
すが☆ : なんで俺が弁護士にならないみたいに言うのォ?
赤葦 : なるんですか?
すが☆ : ならないよ
赤葦 : 茶番やないか
海信行 : やったか?!(話の腰)
赤葦 : 腰も話も折るな
すが☆ : それはほんとにそう 反省してる
海信行 : 赤葦どうぞ
赤葦 : どうも
赤葦 : え?なんか不服だな まあいいか
赤葦 : 霊視が弱体化することってありますか?
すが☆ : アカペディアに載ってなかったら知らないな…
赤葦 : なんですかそれ もしかして俺ですか
すが☆ : そうだけど
すが☆ : 最近見えづらい?
赤葦 : そうですね 慣れとか以前にそもそも目につかないというか
海信行 : 情報の取捨選択ができるようになったとかでもなく?
赤葦 : なくですね 「ムムムン!」ってしてやっと見えてキレる感じが最近続いてます
海信行 : キレるまでセットか
海信行 : 弱体化、多分ないことはないけど、再現性がないんだよな
すが☆ : 再現性って?
赤葦 : 例えば日向が「ルービックキューブ四面まで揃いました!」って持ってきたのをグチャグチャにして「もう一回やって」って言ってもたぶんできませんよね
すが☆ : たまに日向がバカの比喩で使われるのママ的にはちょっと腹に据えかねるけど、分かりやすいのが一層悔しい
赤葦 : すいません…個人名を使うべきでなかったです
すが☆ : いいよ気にしないで! バカなのは本当なので バカな子ほど可愛いってマジだし
すが☆ : うちの子が高校バレー界で一番可愛いわ
海信行 : ちょっと黙ってらんないね
海信行 : まあその通りにやって同じようになる確率が低いってこと
海信行 : 若いときは見えてたけど、年取るうちに見えなくなったなーって話を聞いたことがある
海信行 : その事件の間しか見えなくて、事が終わったら見えなくなったーって話とかね
赤葦 : その話はどちらで?
海信行 : ちょっと企業秘密が関わるので知人とだけ
すが☆ : なにそれかっこよ 俺も言ってみたい
海信行 : 俺たちはたまたまわりと見えるタイプの人間なので「そういうもの」があるのを知ってるけど、そもそも「そういうもの」に対して断定を使うのはナンセンスだから、あるとも無いとも言い切れない
赤葦 : ああ コトリバコとか
海信行 : 懐かしい名前が出たなぁ
すが : なんそれ
赤葦 : ああ寂しくなっちゃってる
海信行 : ごめんね 言う機会あるよ そのときはかっこよくキメて言ってね
赤葦 : そのときのために一眼レフ買ったんで今 週明け届きます
すが : え買ったの?
赤葦 : はい プライム会員なので早いですよ 雄姿収めますからね
すが☆☆☆☆☆☆ : 赤葦理性とか大丈夫?破産手続き手伝う?
赤葦 : 草よりゲンキンだなこの人
すが☆ : 誰が雑草じゃい
赤葦 : 言ってませんよ
赤葦 : なんの話でしたっけ
海信行 : ほんとに話の腰折れたな
海信行 : ネット掲示板発祥の怖い話があるんだけど、マァそれが本当か嘘かは一旦置いといて、それが結構有名なのがネックという話
赤葦 : 語られるまでは創作だったのかもしれないですけど、それを「実在するかもしれない」と不特定多数が思うことで、本当にそれらしい呪いが誂えられてしまったかもしれない
赤葦 : 愉快犯的にそれを実際に作った人がいないとも言い切れない 今となっては存在してしまったかもしれない なので在るとも無いとも言い切れないんです
赤葦 : 実際に目にしていない怪異に対する不在の断定は諦めと同義だと思います。叩くなら折れるまで叩け
すが☆ : 月島みたいなこという…
海信行 : 以上を踏まえたうえでこれは個人の意見だけど、不可逆だけど衰退はすると思う
海信行 : 赤葦が見えなくなったのか、何かのきっかけで梟谷にいるのが減ったのかの判断は現状出来ないかな
すが☆ : それは俺も思った
すが☆ : だって赤葦サワタリさん見えてたべ?
赤葦 : 菅さんの後ろにいたやべーやつですか
海信行 : あの人本当に「あちら側」の人だから当時はほんとに「何してんの?」って感じだったな なんで合宿ついてきたんですか?
すが☆ : 今聞いたら遠出したかったんだってさ
すが☆ : サワタリさん滅多なことじゃ見えないようにしてるらしいから赤葦にいるのバレてびっくりしたってよ
赤葦 : スーーーーッ
赤葦 : ちょっと聞きたくなかったな…
すが☆ : 海もだけど
すが☆ : そんくらい見えてたのがいきなり見えなくなることある?ってのがあって、でも無いとは言い切れないって感じだべな
海信行 : 様子見だね 熱覚ましと痛み止め出しておくから安静にしてくださいね
赤葦 : ウワー縁起でもない 謎の高熱出した時と同じ対応じゃないですか
赤葦 : これから春高だっつってんのに
すが☆ : そういえばそっちどんな感じで全国行き出揃ったん?
赤葦 : 第一候補から順に井闥山、梟谷、音駒です
すが☆ : んあー森然と生川はコートで会えないのか ちょっとさびし
海信行 : 獲物を前に舌なめずりする暗殺者みたいだな
赤葦 : 食育が不十分な暗殺者ですね なってねえな「いただきます」が
すが☆ : 食育が充実してたら暗殺者になってないだろうし、そもそも俺暗殺者じゃないし!
すが☆ : なんの話だよ
海信行 : 話の腰が死んだ…
海信行 : 霊視の衰退に関して、事例はあるけど再現性がないので該当するかの判断は据え置きにして、ちょっと様子を見てもらう 今回の結論です
海信行 : でも、なにかあったら頼ってね
すが☆ : 俺地理的には離れてるけど絶対力になるからな!
赤葦 : ココロ……コレガ……
海信行 : 初めて感情に触れたアンドロイドか
赤葦 :ありがとうございます 涙出てきました 今のスクショしたんで木兎さんに写経させます
すが☆ : チリテキってなに?とか言いそう
赤葦 : それがね 言うんですよ ワハハ
すが☆ : 笑えない


*****


「木兎、なんだよその絆創膏」
「なーんか時期外れの虫に食われたみたい。引っかいたらちょっと血ィ出ちゃったから貼ってる」
「ハー? 解散解散、木兎の口からノロケとか聞きたくねえよ」
「なんでぇ? 俺今めっちゃリア充なんだけど」
「うるせーな、二度と口開くなよ」
「んぃ〜なんで〜!? なんで突然俺こんな怒られてんの〜?!」
「るせーッ!」
「ギャア! 突然剥がすなよ痛えな!」
「え何だマジかよ」
「キスマークじゃねーんじゃん、解散解散。ムヒ塗っとけバカ」
「ねーなんで〜?! あかあし〜!! こいつらひでーんだけど!!」
「なんだろう、漠然と不安だ、こいつ最近幼児ムーブが板につきすぎている」
「赤葦んとこ「ママ」に変えたらガチもんじゃねえか」
「うわエグ、スネ夫じゃん。金もらっても見たくねえよ」

 なんだか体がふわふわしている。疲れや眠気は生理的にしっかりと来るが、かつてであれば理由のない、正体が分かってからは「あっち」のせいだった倦怠感みたいなものが全くない。広義でのダルさみたいなのと知らない間に無縁になっている。
 ネックレスは今も密かに胸の上にある。昔木兎からもらったミサンガは、なんかチクチクするのでケータイにくくり付けた。赤葦はミサンガのついたケータイをモソモソしまいながら「はいはいどうしたのスネちゃま」と木兎に応え、小見の笑い袋をズタズタにした。

「あいつらひどくない? てかあかーし背ぇ伸びた? 肉食ってる? 帰りコンビニ寄らね?」
「やめろお前喋んな、脈絡がバカ丸出しなんだよ他所でやんなよ」
「えマジすか? わーマジだ、木兎さん抜かしましたね」
「クッソ爪先立ちしてんじゃん」
「えーあかーしに負けんのなんかシャクだ! 鷲尾どやったら背ぇ伸びんの?」
「よく食べてよく寝る」
「ジジイみてえなこと言うけど金言なんだよな」
「それめっちゃ運動したらセットで来るやつじゃん! クソー俺も卒業までにあと5センチ伸ばすんだよ! 行くぞ木兎!」
「俺が一番乗りすんの!」
「小見やん、あと3ヶ月で5センチ伸ばすってよ」
「成長痛ヤバそ〜」

 精神的末っ子と身長的末っ子が「ぎゃーん!」と部室を出ていき、「あれは保護者同伴してないと怪我しそう」と木葉と鷲尾も後を追う。感慨なさそうな顔で見送った赤葦に猿杙が声をかけた。

「赤葦さー、最近がんばってる?」
「何をですか?」
「やーね、なんかポヤポヤしてるじゃん最近。"おつとめ"にも来ないから、なんかでかい手でも打ったのかと思って」
「何もしてませんよ。何もしなくても減ってませんか?」
「は?」
「え?」

 赤葦の頭は、途端にしゃっきりと冴えたような感じだった。ふわふわしていたのは、さも何かにそう暗示をかけられていたような。しゃっきりした頭で見る猿杙の顔は、「こいつマジで言ってんの?」の顔だった。
 なんで。だって本当にいない。そんなはずない。
 本当に見えなくなってるなんてことが。

「前より遠巻きだけど、減ってはないよ」





 本来ならば反復して反省点を見つけ、もっと欲を言えば個人でも日誌にまとめるなどして次への課題を見つけるべきなのだが、赤葦はその日の練習をなんにも覚えていなかった。
 もうパニックだった。普段の倍疲れた。バカみたいなところでバカみたいなミスをするし、なんかもうまともにできたことなんか息以外あんのか? みたいな散々さだった。
 夕飯もそこそこ、明日の予習もそこそこに「早よ寝よ…」と寝床に潜るも、赤葦の目は変な動悸に冴えたままだった。

「たしかに前よりかは寄って来なくなったけどねー。それも赤葦がなんかしたんだと思ってたけど違うの?」
「最近マジで何もしてません」
「うぇーそっか。なんだろね。外かな、中かな?」
「なに……あ、変化したのがですか?」
「そう。今までと何かが変わったんだとは思う。例の木兎バリアーがめっちゃ強くなったのか、あっちに何かがあったのか。"フクロウさん"から向こう、それっぽいのってなかったよね?」
「俺の知る限りでは、何もないはずですが……」
「うーんまだ分かんないね、とりあえず練習行こ。そろそろスネ夫のテーマが流れる」

 猿杙が赤葦を宥めて部室を後にする。その背中に「ドリフじゃなければまだ手がつけられます」と冗談を返す余裕が赤葦にはなかった。
 減ったのではなく、見えなくなっていた。いつから。どうして。近寄ってこないならいいのか、でもいつまでも取り巻かれてるのも嫌だ、どうしたら、何が原因で。冴えを増す思考はもはや暴走状態で、こんなんじゃ寝付けないのは明白だった。赤葦は一度目をぎゅっと瞑ってから開き、水を飲みに起きる。
 鏡の前に自分しか立ってない光景、なんか久々だ。明かりも点けずに立つ洗面台は、明るくないけど怖くない。後ろに何もいないから。
 蛇口から出る水は普段と変わらない。うまくもなければ不味くもない。ただ冷たい。
 しばらくぼんやりと水が排水溝に消えていくのを眺めて、ついでに顔も洗って、誰も見てないしと寝巻きの裾から手を突っ込んで腹をバリバリ引っかいて、気づいた。

「あれ」

 いつも木兎からもらったペンダントが揺れるので気にならなかった、というか、紛れていたというか、心臓の上のあたりにちょっとでかいニキビみたいなのがある。
 いつの間にできたんだこんなもん。赤葦は寝巻きの裾を捲り上げ、洗面台に身を乗り出して目を凝らす。まじまじと見る。
 目があった。

「う」

 それ以上の悲鳴が出なかった。目があった。鏡越しに目が合った。胸の真ん中にあったニキビみたいなできものの真ん中に、爪で潰したような線が入って、開いた。皮膚の下にあった目と、赤葦は鏡越しに目が合った。
 洗面台に手をついたまま固まった。無理もない。心臓の上に爪より少し小さい目ができていた。
 そんなわけあるか。なんだこれ。何か起きてんだ。普段有り余るほど明晰な頭脳が今はクソも働かない。働かせようがない。ニキビみたいなのの中に目玉がありましたって医者にかかる気か? 精神科に案内状書かれて終わりだ。そもそも何科にかかれってんだ。皮膚科? アホか。やかましいわ。それどころじゃねえんだわ。
 頭に血は巡っているのに何も考えられなくて、裾を捲り上げているはずの手は何も触れてないみたいに感覚がなくて、目は見開かれているのに何も写していなかった。いっそ哀れなほどのパニックである。赤葦は疑問符しか浮かべられず、疑問符しか浮かべられなくなっていることを認識する余裕すらなかった。走ってもないのに息が上がる。何も聞こえない。耳鳴りがひどい。

「きづいた?」

 耳鳴りを引き裂いた一声を最後に、赤葦にその後の記憶がない。



******


 おれさあ。
 言うほどバカじゃないんだよね。
 わかってやってんのね、あれもこれも。
 おれ皆が言うほどバカじゃないんだよ。
 だからね、ほんとは食べちゃいたいんだけど、食べちゃったらおまえが死ぬのもわかってんのね。
 だからね、食べないことにした。
 大事にしまっておくことにした。
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