3 山中幽人と対酌す
「じゃあ指紋が窓枠にないのは何故なんです?」

 一条の光明。玄沢龍仁のひと声で、諸伏高明の脳内に電流が奔る。シナプスが暴れ、思考が瀑布となって道筋を暴き出す。

「玄沢くん」
「え? いやわかりません。わかんないから訊きました」
「あと一歩が足りないところまで蜀しなくてよろしい」
「劉備って三国統一ほぼ王手だったんじゃないんですか!?」
「言いたいことが山ほどありますが今はいいです関係者を全員集めてください。走って!」

 窓枠に指紋がなかったのは、被害者の血があの場所で途切れていたのは、壁に書かれたあの文字は、すべてが繋がる。すべての真実に辿り着いた諸伏高明は、集められた関係者の前で静かに、しかし重々しく真相を語った。

「であるからして、昨晩のうちに被害者と接触できたのは貴方以外にいません」

 トリックを暴かれた犯人は力なく床に頽れて呻いた。なにやら動機のような恨みを語っている。哀しい話ではあるが、人を殺して良い理由にはならなかった。
 さて、ひと仕事を終えた諸伏高明は、あとは他の人手に任せようと玄沢龍仁を振り返った。

「……?」

 いない。
 玄沢龍仁はそこにいるのだが、知らない顔をしている。別人のような顔をしている。何かが抜け落ちたような顔をしている。
 無の顔だった。しかし、すべての情動を犯人の泣哭に向ける顔だった。
 何の顔だ? 話しかけていい顔か? 諸伏高明もしばし黙り、けっこう勇気を持って玄沢龍仁の肩を叩いた。

「どうしました?」
「え何がですか?」
「心ここに在らずな様子でしたので」

 我を取り戻したように向き直る玄沢龍仁は、いつもの顔をしていた。一度諸伏高明を視界に認めてから、目線が右上を向く。何かを思い出そうとするときの視線。

「あの〜、何でしたっけ、故事成語でこんなのあったよなと思ってまして」
「ほう。国破れて?」
「それです! 国破れてホント無理」
「山河あり。城春にして草木深し」
「それです〜」

 いまひとつが足りない、朗らかな男。
 てへ、と笑う姿は、ただしく諸伏高明の知る玄沢龍仁そのものであった。



 玄沢龍仁のチューニング、推理者としての教育はつつがなく進んでいる。時には諸伏高明が見落としかけていたヒントに気づき、しかしそれを真相まで導く力はないので「これって……」と耳打ちに来て、諸伏高明のほうが「あっ!」となることが増えた。
 正直言って助かる。優秀な助手を得たような心地である。玄沢龍仁が成育されてからの諸伏高明の検挙数は新野署の検挙数とほぼ並ぶ勢いだ。フットワークが軽い玄沢龍仁が現場で拾った気がかりを、半ば安楽椅子探偵と化している諸伏高明が繋ぎ合わせるのがお決まりの流れになりつつあった。

「はい警部お土産です。お饅頭です」
「毎度毎度、構いませんのに」
「そうもいきません、いつもお知恵借りてますから。糖分くらい献上させてください」
「じゃあ甘納豆を」
「お饅頭でーす!」

 出先から資料と土産を抱えた玄沢龍仁は、大きな息の塊を吐きながら緑色の石がはまったネクタイピンを放り投げた。首元をゆるめ、落っこちるみたいに諸伏高明のデスクの隣にドカンと座る。随分とお疲れの様子であるが、まず饅頭のひとつを諸伏高明のデスクに置いた。
 今回は随分遠出をさせたので、労をねぎらうならば諸伏高明のほうである。「今日の報告書は私がやりましょう」と言えば、玄沢龍仁は素直に「ウワ〜すいません正直助かります」と答えた。
 さて、諸伏高明が代わりにキーボードを叩いている間、玄沢龍仁はと言えば、疲れ切って天井を見ているでもなく、既知と連絡を取り合っているでもなく。手元で小ぶりな本をぱらぱらめくっていた。

「何を読んでいるんです?」

 玄沢龍仁は本の表紙を諸伏高明に見せながら「辞書です」と答えた。表題には「慣用句・故事成語辞典」とある。

「警部たまに何言ってるかわかんないので」

 わかるようになんないとと思って、ぼそぼそ続ける隣で諸伏高明はちょっとショックを受けた。何言ってるか伝わっていなかったのか。
 県警本部へ戻るロードマップの最中にあって、もはや今玄沢龍仁を失うのは手痛い。コミュニケーションを改めねばなるまいか、と上唇を噛む隣で、言った本人はすこし笑った。

「すいません、言い方が悪かったですね。同じくらい出来るようにならないとダメだと思ったんで勉強してます。してこなかったんで」
「謙遜を。警察官を全うできる程度には君も勉強してきたでしょう。気づいていますか、君、いま新野署では上澄みですよ」
「一番搾りが何をおっしゃいますか」

 辞書を手遊びなおした玄沢龍仁の面持ちは存外真剣で、辞書にはところどころ付箋も見えた。
 面と向かえばショックこそ受けるが、それでも諸伏高明は自分のとっつきにくさを十二分に自覚している。だからこそ無二の友人を取り返さねばならなかったのだが、それをしてなお、新しい友人がこれほど自分に心を砕いてくれている事実も自覚した。
 うれしいな。おぼこくて、得意の古事成語なんかひとつもかすらない、プリミティブな気持ち。嬉しかった。
 同時に、玄沢龍仁が自分に対して何故これほどまでに手や心配りを尽くすのか、そのワケがわからず諸伏高明は少々不安にもなった。
 長野が誇る頭脳である。策士である。諸葛孔明の名をほしいままにする男である。ほどほど気心も知れた玄沢龍仁のオリジン、未だ隠すその本心を知りたいと思うにあたり、暴くことを何よりも得意とする男の答えは早かった。
 酒である。


 仁をもって世を敷く、仁徳のひと。玄沢龍仁は元来凄まじいコミュ強であり、諸伏高明と出会って間もない頃に活用していた頭脳は他人のそれである。知恵を貸すのをためらわない友人を作るのが恐ろしく巧みで、さてそれをどこで築いてきたかと言われれば、主に酒場であった。

「め〜〜っちゃくちゃ嬉しい! 警部と呑み行けるのマジで嬉しい! サイコー! えいついついついついつ行きます!? そのうち行こうねのやつ絶対やめましょう大体絶対行かないから!」

 誘えば、玄沢龍仁は主人の帰還を喜ぶ犬になって暴れた。あっちで手をパタパタ、こっちで体をワサワサ。この感情出力500%ぶりが人に好かれるのだろうなと思いながら日取りを提案すれば、玄沢龍仁は「今リマインダー入れてください! 今! もう貸して!」と諸伏高明から携帯を奪い取ってポチポチやった。見れば、リマインダーどころかカレンダーとタイマーにも時間と場所を書き添えた予定がセットされている。喜びようが凄まじい。
 諸伏高明は呟きかけた「そんなに?」を胸のうちにしまって微笑むに留めた。言えば最後、こちらは4文字しか言わなかったのに500文字くらいになって帰ってきそうだったから。

「この場所、バー? は、君の馴染みですか。失礼を承知で、君にしてはずいぶん趣味がいい」
「マスターと友達なんです。アテがめちゃくちゃ美味しくて」
「もちろんお酒も?」
「ワインが超めちゃくちゃハイパー美味いです」
「良すぎる……いい店をご存知で。私が君に到底勝てないところです」
「飲み屋なら任せてくださいよ! ……いや、言っててカッコ悪いな」
「ふふ、楽しみにしています」
「自分もです〜〜」

 きゃきゃ、ふふ、笑う二人の間で、予定を塗りつぶして招集要請が入電する。事件性の高い孤独死とのことであった。

「これ終わったら酒!」
「気が早い」

 飼い犬のリードを引くような心地で、今日ばかりは諸伏高明も現場へ出る。
 玄沢龍仁の愛馬的盧にはさんざ世話になったうえ、これから心算を丸裸にしようというのである。こちらも手札を明かさねばイーブンでないというもの。諸伏高明は、愛車シトロエンのカードをまずいま切ることにした。




 いま、玄沢龍仁を失うのは手痛い。
 友人として、も十二分にある。が、諸伏高明にはまず為さねばならない宿願がある。
 あの比翼を取り戻す。あの男が、大和勘助が十全に戻るようにならねばならない。あの男が望むべくをすべて叶えられているその隣で、自分がヤイヤイ言う。これが、あらねばならない。
 大和勘助は、ひとまず5体満足で発見した。あれは放っておいても県警へ戻る。では次なるは、自分が彼のいる本部へ戻らねばならない。
 これを為すために、また友として、玄沢龍仁は手放せない。
 そう今一度強く感じて向かった不審孤独死の現場で、諸伏高明は猫を見た。
 からだの大きくて、毛が長くて、左目を怪我した猫であった。彼は被害者の飼い猫で、ひとまずは近隣の保護団体が管理することになった。
 事件自体はひどくつまらなかった。

「……日を改めます?」

 約束の日であった。紹介されたバーで、諸伏高明はワインを回すだけ回して呑んではいない。カウンターには二人のほかに誰もおらず、マスターもキッチンに引っ込んでしまって、薄暗い店内には二人しかいなかった。
 頭が痛かった。何も考えられなかった。ひどいストレスの最中にいるときに出る微熱のような、何かに打ち据えられたせいで脳みそが腫れているような心地だった。
 体温がすっかり移ったグラスを置いて、諸伏高明は黙った。
 楽しみにしていた呑みであるし、楽しくないわけでもない。が、まともに物を言える気もしない。日を改めたほうがいいだろう、それだけは理解はしている。そうしよう、と判断するまでの気力が今はない。
 どうしたらいい。
 どうすればいいか、あんまりにわからない。
 すっかり黙りこくった諸伏高明の前で、玄沢龍仁は二杯目のグラスを置いて時計を見た。こうまでされては、今日はもうやめにしたほうがいいのだろう。諸伏高明は何かを言おうとして息を吸う。

「まだ五時半じゃん。いけますね」

 玄沢龍仁が嬉しそうに言う。何を? 諸伏高明はすっかり遅延した頭で頑張って考えて、しかし言葉も考えも何ひとつ出てこなかった。

「すいません、今日お車でお越しですか?」
「……ええ、教えていただいたパーキングに停めてあります。明日回収に来ようかと」
「じゃあちょっと、呑みは一旦ここまでにして」

 ぐさり。わかっていたギロチンが落ちて、理解していたはずの痛みが諸伏高明を襲う。
 無力だ。ここで安穏と暮らしていてはいけないのだ、と痛感したその日に、何も出来ないことを思い知っている。じん、と脳がしびれたまま、置いたグラスに爪があたったことしか知覚できない。
 さみしい。ひどく叱られた小さい頃みたい。諸伏高明は忘我と悔恨の只中でひとりぼっちだった。

「警部? すいません、お車出してもらってもいいですか。行きましょう」

 グラスの隣に放り出されたままだった手を、玄沢龍仁がワシ、と引っ掴んだ。

「はっ?」
「いえ、今ならまだホームセンター開いてるんで、とりあえず行きましょう。先方に電話は道中かけます」

 なんでまたホームセンターに? 軋む頭で必死に考えている間にも、玄沢龍仁はキッチンに「ごめん用事できちゃった! また来ます!」とか吠えたてて、みるみるうちにパーキングまで諸伏高明を連れてきた。

「ヨシャ! すいませんお願いします!」
「待っ……待って、待ちなさい。説明を」

 やっとそれだけを吐き出して、諸伏高明は自分の前髪をかき混ぜた。マジで意味がわからない。自分があんまりに乗り気でないとか、煮え切らないとか、そういった素振りばかりなことに玄沢龍仁が腹を立てたならまだわかる。自身が悪いのだから、それならばまだ今の諸伏高明にも理解できる。
 それを何故今からホームセンターなどに。こんなにもわくわくしながら。
 玄沢龍仁はずっと行きたかった店に行くような素振りでシートベルトを装着していて、シトロエンの運転席ドアを開けたまま立ち尽くす諸伏高明には、これがさっぱりわからない。
 困る。わからなければ、自分は自分の願うところを成せないのに。
 そんなことを考えて、すっかり迷子になって困り果てた子供みたいな顔をしている諸伏高明に、助手席から身を乗り出した玄沢龍仁が言う。

「警部、あの事件の猫ちゃん、会いに行きましょう。あの子見てからお元気ないじゃないですか」

 んで、何ならお迎えしちゃいましょうよ、そしたらケージとかお皿とかいるでしょう。だからホームセンターも行っちゃいましょうよ。猫ちゃん飼う腹が決まるまで、設備はウチに置いといていいので。
 玄沢龍仁の顔は、風が高きから低きに流れるように、太陽が東から登るように当然、といった面持ちだ。

「……君は」
「はい」
「それでいいんですか?」
「自分はいいと思ってます。警部が嫌でしたら飲みなおしても解散しても、お好きな方で大丈夫ですよ。でも警部が悩んでらっしゃるなら、一旦、顔見に行くだけでもいかがですか?」
「君が運転してくれるわけではないのに?」
「一言余計か!」

 母の腕の中、とか。新品の枕、とか。そういったもののように玄沢龍仁は笑った。
 なんだかな。諸伏高明は軋む頭を一旦止めて、シトロエンに乗り込む。どうせ答えは出ず、どうせ何も出来ず、どうせ誘いをかけているのが玄沢龍仁であるなら、なんか、悪いことなんて起こりようもないだろう。そう思った。


 道すがら、電話をしていた玄沢龍仁がいたく感謝をして通話を終えた。

「警部! 保護団体さん、今から来ていいとのことです! トライアルはまた後日になるから、もし飼うならその時いろいろ揃えてもらうけど、会うだけならいいよって。ホームセンターはまた後日ですね」

 やった、と携帯を仕舞う隣で、諸伏高明はただ「そうですか」と薄めに応えた。
 そうですか、彼に会えますか。彼? 諸伏高明は強めに瞬きをしてハンドルを握り直す。ケージやらが後日でいいなら、行き先は保護団体に変更だ。
 しずかに行き先を変えた諸伏高明の隣で、しかし玄沢龍仁の大喜びは続かなかった。静かな走行音だけが続く。
 ざらざらと車の駆ける音だけが響く。未だぼんやり靄を帯びた頭で、諸伏高明は不意に口を開いた。

「……きみは、訊かないんですね。今の私はどう見ても様子がおかしいでしょうに」

 玄沢龍仁は二度息を吐いてから、そうですね、と静かに応えた。

「でも、人間言いたくないこととか。わかんないけど譲れないとこ、あるもんだと思ってて」
「はい」
「どうしていいかわかんなくなっちゃった時って、譲れないと思ってたはずの事も、これ正しいっけ? とか考えちゃうと思うんです」
「はい」
「そんな時に何があったの? って訊いても、苦しくないですか」

 玄沢龍仁が言葉を切ったタイミングと、赤信号が重なった。車がしっかり止まってから諸伏高明が盗み見れば、玄沢龍仁はただまっすぐ前を向いている。歩道から照らす歩行者信号の緑が輪郭を照らしていた。

「だから、警部が話したいと思うまで俺からは訊きません。警部から聞き出すんじゃなく、警部が話してくれたことが全部です」

 こちらが盗み見ていたのに気づいていたようにパッと、玄沢龍仁は諸伏高明を向いて微笑む。
 横から眺めた顔とこちらを向いた顔のいろが違う、目の前が眩くなったような。先ほどよりも血色のある輪郭に驚いている間に、当の玄沢龍仁はどんどん不安そうな顔になってゆく。どうしたことだろうと思っていれば、玄沢龍仁は心配そうにフロントガラスを指差した。

「警部、信号、青ですよ」

 気づかなかった。目の前が眩く感じたのは、こちらに青信号が照っていたからだった。
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