半ば空き家となっていた部屋に諸伏高明と猫を迎えてからの玄沢龍仁はひどいもんで、自分の家にちゃんと帰るようになったのは喜ばしいが、先日見せたあの刃は何だったかと思うほどふにゃふにゃだ。
諸伏高明はなんだか複雑な心地だった。自分が脳を焼かれて迎えた猫だが、自分以上にめちゃくちゃになっている奴がすぐ近くにいると、なんか冷静になっちまうもんである。マァかわいいし、いずれ本部へ戻らねばと思う気持ちを自分の外に置いておけるのは、言ってはなんだが楽だ。
思えば。臥薪嘗胆といえば聞こえはいいが、自分は毎度自らの内臓を引き摺り出して嘗めていたようなことをしていたのだな、と反省する心地すらある。身が持たないのだ。忘れねばこそ思い出さず候、忘れることもないのだからわざわざ自らの腹を裂いて思い出すこともない。
あすこへ戻る前に死んでは元も子もない。玄沢龍仁が危惧していた折れ刃の心配とは、きっとこのことだろな。諸伏高明は猫の顎下を撫でてやりながら、どこかのんびりとそんなことを考えた。自らを追い詰めながら懇々と念じていた頃から見れば、玄沢龍仁同様自分もずいぶん健全になったような心地がする。
「阿斗」
呼んでやれば猫は理解したように返事をする。
この猫が「阿斗」と名前が決まるまで、えらい口喧嘩が続いたものだった。
玄沢龍仁は「大総統がいい」と随分ごねて、諸伏高明は「名義上の飼い主が自分になるなら動物病院で「諸伏大総統」と呼ばれることになる」と猛反発した。
「じゃあカッケェ名前考えてみろってんですよ! カッケェじゃないですかこの子! ブラッドレイみたいじゃん! 負けず劣らずの名前、大総統のほかにありますか!?」
「ブラッドレイとはどこの御仁で!? そもそも人名!? 嫌です、嫌です嫌です嫌です本当に嫌です、動物病院で諸伏大総統と呼ばれる私の気持ちを考えたことがありますか!? 生き物の名前で大喜利するべきではないです!」
「その名前で呼ばれんのは警部じゃなくて大総統じゃないですか! てかハガレン読んでないんですか! 故事成語オタクも大概にしてくださいよ!」
「もう大総統と呼びはじめている! これこれを観ていないのは人生損してるとかいう厄介オタクムーブもおやめなさい!」
結論から言えば、結局玄沢龍仁の愛馬に「的盧」と名をつけた諸伏高明に軍配が上がった。
劉備玄徳の実子、二代目蜀皇帝の幼名から阿斗と名付けた。
玄沢龍仁は意外にもこれをいたく気に入り、語尾にめろめろのハートをつけて猫を阿斗と呼んだ。軍配が上がってよかった、諸伏高明はひっそり胸を撫で下ろしたものだった。自身の身の回りが思えば蜀らしくなってきていることにやっと気づいた玄沢龍仁が、時折諸伏高明を「ヘイDJ」と呼ぶのだけは理解できない。何がかませイェイイェイイェイなものか。
あとになって聞いてみれば、パリピ孔明とかいう漫画があるらしい。また厄介オタクムーブをされるかと身構えていれば、「え自分も全然観てないです、漫画は無料になってたとこだけ読みました」だののたまう始末。諸伏高明は、あんまりちゃんとコイツに付き合っていると身がもたないかもしれない、と思った。こちらも今更である。
「阿っ斗〜〜〜〜〜♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
こいつがすっかりこの有様なもので、玄沢龍仁の部屋にはものが増えた。阿斗を見に家に来て、そのまま泊まっていく諸伏高明のための物も増え、そこにいるだけで腑をぞろりと撫でるようだった部屋は随分明るくなったような心地すらある。
「カリカリ用意するよ♡♡♡♡♡♡♡♡おいで♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」
「やかまし…………」
玄沢は阿斗にフードを与えている間、皿のすぐ横で地べたにゴロリとなってまで阿斗が食べている様を見ている。これに関してはいまだに慣れない。シンプルに邪魔だし。猫撫で声にはそろそろ慣れた。
「警部、すいません仕事の話なんですけど。今さらなんですけどね、大張の捜査資料もう一回見返そうと思って、あと警部にも見てもらいたいと思って資料請求してるんです」
地べたで阿斗にスマホを構えたまま、玄沢龍仁は言った。声色は穏やかに聞こえる。付き合いきらないように適宜関心をゼロにしていた諸伏高明は、おや、と玄沢龍仁のほうを向いた。声音が穏やかなのもさもありなん、面立ちも柔らかで、微笑んだままスマホを見ながら言う始末だ。
「随分と健全になって」
そのさまが何だか感慨深くって、諸伏高明は素直にそう言った。
玄沢龍仁を取り巻き構成する「緑」は、本人の気骨もあれど、大張の事件に端を発した自罰によってできた色であると諸伏高明は思う。
あたたかみのある焼物の蓋を開けてみれば、中身は笹紅だった、みたいな男だ。紅を極限まで練りあげてできた緑、もとは紅なのでひとたび水を含めばクラクラするような赤がまみえる。
玄沢龍仁の、こうあらねばならないと研ぎ澄まされてきた緑のメッキが今はすこし剥げて、青々とした緑になったように思う。よかったな、諸伏高明は近頃以前より注意して玄沢龍仁を見ていない。
これなら大丈夫だな、と思えるようになったから。
「猫を見るのに床にごろ寝すんのが健全って。悪徳警官だ」
「ほかにも根拠が?」
「こしあんしか食べないし」
「多様性の時代だというのに、おはぎが出ると肩身が狭いですよ」
「車貸してくれないし」
「傷をつけられたくないもので」
「飯行きましょうって言ったら微妙に遠いパスタ屋行きたいって言うし」
「何がだめなんです何が」
「いつも一言多いし」
「事実を訂正しているだけです」
言い募るごとに玄沢龍仁の顔はむにゃむにゃ解けて、ついに破顔する。何が楽しいやら、諸伏高明は口髭をゆがめて促す。
「いやね、1人じゃないっていいですねと思って」
へにゃけた玄沢龍仁の横っ面に、食事を終えた阿斗が横っ面をすりつける。
いへへ、と笑って仰向けになった玄沢龍仁を見て、諸伏高明は自分の頬を張り倒してやりたい気持ちになった。
もういいか、と思いかけた。
いくら健やかになったとて、それだけはならなかった。
それだけは考えてはならなかった。ここでいいかと思ってしまうのは、諦めることだった。許してしまうことだった。揺らいでしまうことだった。
諸伏高明は、ただ応えずに玄沢龍仁を見ていた。
別にここに留まるつもりなんか元からないのに、そんなことを考えた自分にひどく驚いた。