ある晩、諸伏高明と玄沢龍仁は帰るなり阿斗を引っ捕まえて、変わるがわる吸った。
「ずるい警部、タイマー切れてます、代わって。阿斗はいこっち、はい、ほら!」
「頭脳労働担当の私がまだだと言うんですまだです、あと5分、5分じゃ足りない」
「肉体労働現場担当ほぼ機捜の自分のほうがシンプル駆けずり回って疲れてることはお気づきでない?」
「リターンが足りてないんです、いえ糖分はこれ以上は結構、水まんじゅうは美味しいですが手が塞がる」
「警部があの水まんじゅう美味い美味いって言うから帰りに寄り道して買ってんじゃんすか」
「敬語。頼む態度がなってない。減点、1分延長」
「こなくそぉ〜〜〜〜」
大の大人2人が猫を奪い合いながら、床でうだうだゴロゴロぐだぐだ言い合っている。
なぜかと言われれば、事は玄沢龍仁が大張の調書を再請求した頃に端を発した。
「ダメ?」
「ダメらしいです」
新野署のデスクに上体を放り投げながら玄沢龍仁は言った。
請求が棄却された。
新米教育にあたり活用されることもあるような調書の再請求がである。そう起こり得ないイレギュラーに2人は出鼻をくじかれ、もっと言えば事はこれだけに収まっていなかった。
「いま抱えてるの何件ありましたっけ」
「殺人が三件、強盗過失致死が二件、ほか、といったところです。君は?」
「殺人と事故が一件ずつ、少年課と地域安全課の手伝い、機捜と組対のヘルプでミッチミチです。……仕事やけに多くないですか?」
「機動捜査隊がヘルプに来てくれるならまだしも、こちらからヘルプに行くとなると。恣意的かと」
「ですよねえ」
ぐだ、となったまま押しやられた水まんじゅうの箱を、諸伏高明はそっと辞して息を吐く。
仕事量がやけにバカだ。
現に同僚たちはのんびり茶をしばいている。あいつら大変そうだけど、あいつらが担当してるからなあ。そんな様子である。回想終了。
「まあ署内政治はわからないでもないですが」
茶ぁしばいてる余裕あんなら手ぇ貸してくれないもんですかね。玄沢龍仁は阿斗のフワフワにそう呻く。
「そもそもなんで人を殺そうと思うんだよ。みんな友達になったほうが絶対いいだろ。ねえ阿斗」
王様の耳はロバの耳ぃ。阿斗のたしかに毛足が長いが、べつに掘った穴でも深淵でもない。玄沢龍仁もわかっているだろうが、それでも言わずには、と毛皮をフガフガやった。
大言壮語のように思えるが、これが玄沢龍仁であるのだ。仁徳もここまで来ると笑えるものだ。諸伏高明は阿斗のフワフワに包まれてうっすら赤づいている玄沢龍仁の耳元を見て思う。あれだけ緑に思えるのに、ちゃんと赤いのがなんだか面白かった。
「どうしましょうこれから、どうやりましょう?」
「目立たないよう心がけながら、なぜ情報が止められてるかを探ったほうがよろしいかと。止める理由と、誰が止めたいのか」
「止めたい……犯罪組織? 大張の相手の?」
「機捜のヘルプで何も学んでいないんですか? ひろく見なさい。まだ結論を出すには早計です」
「ふふ、ふへへへ。警部」
「はい」
玄沢龍仁は阿斗を抱き上げ、諸伏高明に背を向けた。
「一言余計、五分延長です」
「むごすぎる、赤壁の戦いくらいむごい。撤回します、水まんじゅうもちゃんと食べますから阿斗を」
「孔明が言い出したのに赤壁がむごい自覚あるんだ。でもだめ〜」
「ならば君の話しから降ります。今日までご苦労、今後はただの同僚としてよろしく。書類上私が飼い主ですから阿斗をこちらに」
「ダメ〜!」
「なにが?」
「全部〜!」
猫を取りあって大の大人、しかも警察がギャイギャイ騒いでいる。
平和だった。
所轄、機捜にかぎらず、刑事の謎は足で解くものである。諸伏高明ほどの頭脳を誇ってなお、見なければわからないものは見なければならない。
「キーは?」
「警部二輪免許ありましたっけ?」
「いえシトロエンの。的盧は君でなければ乗れません」
「警部も二輪取ったら乗れますよ」
「この稼働状況で教習所へ行けと?」
「なんか逆転時計とか持ってそうじゃないですか」
「なに……もういい、キー」
「はいシトロエンの。今日直帰ですよね? どっち?」
「阿斗」
「はいはい、俺現場です。お気をつけて」
「君も努努」
「なにて?」
「いいです行きなさいもう」
陰ながら「あいつら何の話をしてるんだ?」と言われるくらい主語のない、略しまくり、符牒ばかりの会話を手短に済ませ、新野署を出る。
諸伏高明はシトロエンのドアを開けようと手をかけたところでふと、しかし鮮烈に異変に気づく。
閉めたはずのドアが、開いていやしないか。
「……」
最悪の答えに辿り着いた。
大張真角の調書を差し止めているのは公安だ。
彼らは大張の秘匿を破ろうとしている諸伏高明と玄沢龍仁を探ろうとしている。探るために、シトロエンの鍵を開け、おそらく中に盗聴器のひとつやふたつを仕掛けた。
車体のカーブで歪んで判別できないが、このシトロエンにも監視員の一人や二人、影が映り込んでいるだろうと諸伏高明は推察する。
「……参りましたね」
ついに車にすら手を出されるならば、諸伏高明と玄沢龍仁が阿斗をかすがいに半同棲状態にあることも掴まれているだろう。そして、阿斗のいるあの部屋にも既になにか仕込まれているだろう、ここまでを導き出すのに長野の軍師たる頭脳は時間を要さなかった。
潜まねば、となるにあたり所々決めておいた符牒? とも呼べない暗号が、早速役に立つとは。諸伏高明は生活の素振りで玄沢龍仁に電話をかける。まだバイクに跨っていないなら、間に合うなら、伝えられるはずだ。
「はい玄沢です」
「竹田刑事? 玄沢くんの件ですが、移行書類をデスクに置いてありますので、以降はそちらを参照ください」
「は? なにて?」
「あと、本人に電話を一本入れるように伝えてください。いえ事件の話ではなく、買い出しの話をしたんですが、何を買って帰るのだったかを忘れてしまいまして」
「何マジで? これアレですか? 今メモないんですけど自宅に置いてるから」
「最悪」
「こっちのセリフなんですけど本気で。説明してもらえます?」
「では後ほど、電話で。私は一服してきます」
「あーもう出た本当に……警部そういうとこ本当に」
玄沢龍仁の悲鳴を聞き遂げるまえに電話を切り、諸伏高明はため息混じりにシトロエンへ乗り込むのをやめた。
新野署屋舎の屋上への階段を登りながら考える。
取り急ぎ、仕掛けがないだろうところへ移動しなければならない。ことを伝えなくてはならない。あれこれ決めた符牒のなかで、「買い出しの話」は密談を意味した。玄沢龍仁はおそらく屋上へ来る。
そこで、玄沢龍仁の顔を、見なければわからない。彼にこれを伝えて良いかどうか。
諸伏高明とて軍師の前に刑事であり、刑事の前に人である。
二人の目の前に立ち塞がっているのが公安ならば、手を引くべきか。また、これを玄沢龍仁に伝えられるか。
諦めろ、と言わなければいけない。その覚悟が自分にあるか。もういいか、と思うことすら許されない自分に、その覚悟が。
屋上までの短くはない道のりが、あまりに短く思える。考えることがありすぎる。まして、明確な答えがある問いでないのが堪えた。
諸伏高明は笑いそうになる膝に気合を入れる。否定したいのは運動不足だけではなく、階下からたしかに足音が追ってきているのも嘘だと思いたかった。玄沢龍仁の足音であってくれと信じたかった。怖かった。
なにが。大張真角のなにが公安の秘匿に触れた? 我々のなにが公安を動かした? 夢よりも儚い泡沫のように疑問が湧いては消える。
疑問が湧いては消えるたびに、募るのは焦りと祈りであった。まさかあれが、彼が、玄沢龍仁が、人魚姫のごとく泡と消えることはあるまいな。もしあれば、あれば。
船底に漂うでもなく、深海へ潜るでもなく、ただ人の名残を探して水面を光るような光景を夢想して、諸伏高明は頭を振った。こうあってほしくないから焦りと祈りが募っている。
あまりに長い時間だった。宣告を待つとはこういう心持ちか、と理解するには十分に感じられるほど待った。吹きっさらしの屋上で風に吹かれる諸伏高明の背中に、声がかかる。
「ちょっと、今日はサバ味噌作りましょうって言ったでしょ」
焦がれそうなほどに待ちわびた声、玄沢龍仁であった。息を切らせているさまは、どうやら呼び出してすぐに走ってきたらしいのが伺える。
「チューブでいいじゃないですかって言ってるのに、ちゃんと針生姜入れたいって警部がゴネたんでしょ。今日買うのはサバと生姜、あと豆腐と洗濯洗剤です。これメモね、書きましたから」
こっちがどんな気持ちで待っていたかなんて到底知りもしないような素振りで、プリプリ怒りながら玄沢龍仁は言った。諸伏高明の心持ちを理解したうえでなおこの素振りであれば、それはある種の才能すぎる。
ほんとにまだ気づいていないんだな、この状況に。諸伏高明はなんだか泣きそうになって、玄沢龍仁の顔を見ながら笑った。
「めっちゃ頑張って階段駆け上がってきた人の顔見て笑うってどんな性格してるんです」
「アハハ……ハァ……玄沢くん」
「なんです?」
「今日仕事上がったら遠乗り行きましょう。メンテナンスから帰ってきたばかりの的盧で。二人で」
「えッ♡♡♡いいんですか♡♡♡♡♡」
「ハハハ……」
「なんの笑い?」
「バカらしい……」
「一言余計なんですよ」
玄沢龍仁の的盧、カワサキのバイクは、最初にハリウッドを黙らせるようなスタントを演じてから向こうも度々同じような活躍を見せている。橋を飛び越えてみたり高所から降りてみたり、AKIRAみたいな急制動をかけてみたり。
あまりに扱いが酷なので、メンテナンスに出すことにした。すっかり手入れをされた的盧が、今日の夕方ごろ引き取りの予定になっている。
バイク屋が買収されたりしていない限り、今の的盧に公安の手は入っていない。ならば、これで一夜逃げ荒ぶのみ。
諸伏高明の胸中もそっちのけ、玄沢龍仁は「えどこ行きたいです? 高峰高原とか行っちゃいましょうか」とウキウキしている。
こういうところが。
言おうとして、諸伏高明は黙った。こういうところに救われているではないか。
その救いを挫こうというのだから、何も言えた立場にはないだろうが。
二人はひとたびその場で別れ、退勤後にバイクを走らせた。夕涼みの冷ややかな風の中を、的盧と玄沢龍仁があたためた熱に守られるようにして走る。背中に引っ付いて、ただ運ばれている。
「……玄沢くん」
「はあーい!」
声が流されてしまわないように、玄沢龍仁が声を張る。引っ付いた背中が健やかに膨らんで、声がする。
「私たち、公安にマークされています。おそらく、大張真角の件で。今後は表立った行動の一切を慎み、これに関するやりとりは筆談のみにすること」
首の後ろめがけて叫んだ言葉は、届いただろうか。叫ばずにいられなかった言葉は、聞き届けられただろうか。諸伏高明は玄沢龍仁の背中に引っ付いていて、しかも玄沢龍仁は前面が遮光フィルム加工のフルフェイスヘルメットを着けている。表情なんか伺えようもなかった。様子なんかわかりっこなかった。
「……了解しましたあ!」
しばらくして、前方から帰ってきた声は予想に反して健やかなままだった。
これに安心できるようでは、軍師は務まらない。全てを疑わなければ、名探偵は務まらない。
捜査の基本、謎は足で調べる。見なければわからないなら、見に行くべきである。
諸伏高明は、玄沢龍仁の表情を見ていない。見られる環境にない。おそらく的盧を停めるころには、玄沢龍仁はしれっと普通な顔をして、ケロッと「コーヒー買いません?」とか言いやがる。目に浮かぶよう、とかではなく、玄沢龍仁ならそうする。見えないものが見たようにわかる。
見えていないのに。
刑事失格だ。あれも、これも、なにもかも。
刑事のまえに、諸伏高明はいま、なにかを誤ったように感じた。
どうしたらよかったって言うのだ。諸伏高明は玄沢龍仁にひっつく力を強めて黙った。せめて多少呼吸が乱れてでもくれれば、それをつぶさに感じ取るために。
ところが玄沢龍仁は、ひとつも呼吸を乱しもせず、すんなり的盧を走らせて、すんなり「コーヒー買いません?」と言った。
♢
玄沢龍仁はあれから燻製にハマったらしい。新野署でパトカーで現場で香害テロを何度も繰り返して、そのうち竹田班あたりにチーズやら練り物やら、いろんな燻物をお裾分けしているそうだ。
諸伏高明は水まんじゅうをむちむち食べながら、署内が玄沢龍仁の燻製で幾度となく盛り上がるのを見ていた。
「警部〜、またツーリングいきましょうよ。河原」
「いいですね、強盗致傷と殺人と詐欺と誘拐の事件が片付いたら」
「終わんないじゃないですか。どっか隙間見つけてください」
「すきま、知ってます。魚の中落ち。ご飯に乗せて醤油をかけると美味だとか」
「すき身ね、美味いですよね、違いますからね。珍しいな警部がボケようとするの」
このすっとぼけ諸伏高明、なにせ玄沢龍仁と半同棲みたいになっている身ながら、この燻製を頑として食わない。
製法を知っているからだ。
「よいしょ、忘れ物ないですか?」
「ありません。君こそ、今日のチップは何にするか決めたんですか?」
「今日は桜です」
「皮肉が効いていて美味しそうです」
「一言多いな。言うだけ言って絶対食べないのに」
「食べませんよ」
あくる日、二人は的盧のケツに燻製器やらをもりもり積んで、山間の河原まで出た。住宅地のど真ん中で煙を焚くのはさすがに道義にもとる。玄沢龍仁はわざわざ人気のないところまで出て、諸伏高明もそれに付き合うながれが定番化した。
玄沢龍仁がにこにこ荷台から荷物を下ろして、的盧から離れたところにチャキチャキ準備をする横で、諸伏高明は簡単なコーヒーセットとランチボックスだけを支度した。
「じゃあ火起こしますね」
種火に可燃物が焚べられる。
焚べられているのはメモ紙類だった。
「公安につけられるって、不便ですね。作家じゃないんでいい経験とも思えないのがなんとも」
「仕方なし、相手が相手です。講じすぎるに越した策もないかと」
燃やされているメモ紙類は、すべて在宅中の会話に紛れて交わしていた筆談の形跡であった。
シトロエンに盗聴器が仕掛けられているなら、自宅にも当然ある、そう思って行動して不足はない。相手は警察とはいえ公安である。その歯牙に一度かかった以上、悟られる手段でコミュニケーションを取ることはできない。的盧から離れた場所で火を焚いているのも、安全上のほかに、おそらくあれから的盧にもなにか仕込まれただろうことを警戒しての措置であった。
「……自分は警部と素直に話せないの、だいぶしんどいです」
くゆる火をぼんやり眺めて、玄沢龍仁はぽつり、口をついて出たように話す。
「日本じゃない国にいるみたい。みんな知らない言葉で、嘘ばっかりついてるみたいです」
この世に道を敷く術、覇道と王道のうち、仁をもって道を為す男がそう話す。
そうだろうと思う。玄沢龍仁は酒場で仁を魅せるが、その魅せ方ときたら結局「会話」に尽きるのだ。
この男がそう話すなら、そうだな。そう思わせる技能が、恐ろしく高い。かつ、自覚的ですらない。経験と本能と感性でそれを成す。玄沢龍仁の言葉には、隠しきれない心が滲んでいる。
そんな玄沢龍仁から、いま諸伏高明は言葉を奪っている。音に出して伝えることを許さず、すべての記録を消す。残るものは記憶のほかに一切ない。
「人が死んで、悲しんで、慰め合って、いつか前を向いて。それだけでいい、それだけじゃなくても、そういったものだけでいいのに。人は人を殺しさえする。人は世界に笑いかけなきゃ、微笑み返してももらえないのに」
あなたが笑えば世界は微笑む、玄沢龍仁の座右の銘であるらしい。いつか世界に微笑み返してもらうために、日頃のあの振る舞いはある。いつか帰ってくるそれを信じているのが、火を見るより明らかなさまだ。
それを諌めるような行動を、むずかしい生き方を、強いている。強いているくせに、その生き方に相乗りする覚悟は、諸伏高明には決められない。
これが苦しかった。戻らなければならない場所は、自分はここで在ると決めた場所は、つくづく玄沢龍仁の道行きの果てと同じではなかった。
「悪事はどのような小さな事でも行ってはいけない。善事はどのような小さな事でも行うように。君はつくづく、天然で劉備玄徳を完遂しているならば、類稀なる人だ」
「突然すごい褒めるじゃないですか」
「……けれど、むごいことを言うようですが」
「上げて落とすじゃないですか」
なんでもない素振りで、何気なくコーヒーマグを傾けながら諸伏高明は言う。盗聴器こそ今は彼方だろうが、監視の目は当然あるだろう中で、彼もまた素直になることを許されていない。
「私は、きみを、相棒とは呼べません。私は、きみに、選択肢を与えることしかできない」
嘘だな、玄沢龍仁は思う。今眼前で消し炭になっていく雑紙には、諸伏高明が必死に書いてくれた道標がびっしり走っている。
これを書いていた時の顔ときたら、きっと自分もそうだが、あんまり必死でおかしくなってきちゃうくらいだった。なんでもない普段の会話を続けながら、紙面では脳みそが茹だるような頭脳戦を繰り広げていた。シトロエンに手を出された怒りもあるだろうが、それ以上になにか、うれしいことを邪推しそうになるほどに。
「君に選ばせることしかできない」
いつも真実ばかりを明らかにする人が、珍しく嘘をついたので、玄沢龍仁は気づくのが遅れた。
私は、きみを、相棒とは呼べない。
これだけは本当の本当にガチのマジ、なんなら自分が大張にこだわるのと同じくらい、人と話すのが好きなのと同じくらい、根っこにあることだと思う。骨よりも深いところでわかる。
そんな人が、「相棒」と呼びたい人と一緒にいるために今まで必死にやってきた人が、なんでもないふうな素振りを必死にやっているのが、なんだか、苦しかった。
玄沢龍仁は、べつに、あなたが俺に心を砕くことないのに、と思って苦しくなった。
「わたしは、きみが選んだ道行きを、支えられるだけ支えるしかできません」
傾けつつあったコーヒーマグはすっかり両手に包まれてしまって、湯気も細々とのぼるほどに落ち着いている。
玄沢龍仁はなぜかニマニマ笑いながら諸伏高明にススス…と寄ってきて、「へへへぇ」と言いながら肩を擦り付けた。
「何、人が真面目に謝っているのに」
「へへ、えへへ。警部、ほんと優しいんですね」
「もういい、真面目に謝って損をしました」
「そうですよ。いーんです俺のことなんて。損してます。でも自分、そんな警部だからめっちゃ信じました」
なにが? 諸伏高明はマグを手で包み直してわずかに玄沢龍仁を睨む。なにせこいつが大型犬みたいにモサモサじゃれついてくるので、こちらがほんとうに辛くなっているのがムカついてきた。こっちの気も知らずに、とかそんな感じで。
「自分が自分らしくずっとやるって、いつか無理が来るだろうなってわかってたんです」
いつか辿り着きたい道行きの果てに行くために、今の自分のままでは辿り着けない気がしていた。玄沢龍仁はそう言う。
「そこに、こんなに真っ直ぐで、着飾らないまま、目的に向かって爆走してる人と出会えて。このままでもやれるのかも、って思いました」
「誰の話を?」
「野暮ったいな、もう。少しは人文にも興味持ってくださいよ。台無しだなあ」
野暮なものか、諸伏高明は言い募りそうになる口元をマグで覆った。言葉の代わりに湯気がポコポコ飛び出て、間抜けに見える。その様子を見て玄沢龍仁がふたたび笑う。
彼が笑うなら、滑稽でもよかった。
人とは難しい。自分から突き放しておいて、玄沢龍仁がそれをまんまと受け入れているのに耐えられなくなりそうで、茶化すことしかできない。事実、滑稽だ。
諸伏高明は、人知れず怯えている。自分で決別を申し渡したのに、玄沢龍仁から同じく決別の言葉が飛び出すその瞬間に、怯えている。
「警部、俺ね。あなたに変わらないでいてほしい」
変わらないでいて、あなたは俺の憧れだから。道標だから。あなたがそうあってくれるから、俺は俺のまま、おもむくまま、進んで良いんだと思えた。
「何があっても、あなたはあなたのままで、決めた答えまで走ってください。お願いですからね」
「……私は、県警本部に戻らなければいけません」
「ええ」
「おそらく、きみを残して。戻らねばならない」
「ええ、絶対成し遂げてください。俺なんか気にしないで」
「でも、でもですよ」
「はい?」
諸伏高明はマグを下ろした。これだけは、何物にも隔たられずに伝えなければ、すべてが嘘になる。
「私が本部に戻っても、きみがどこへ転属になっても、また遠乗りをしましょう。的盧でも、シトロエンでも」
日頃あれだけ玲瓏に漢詩を口遊むとは思えないほど、おぼつかない声が出た。諸伏高明はおっかなびっくり、しどろもどろ、ウジウジ言った。
いつだって素直にものを言っている。けれど、玄沢龍仁に倣ってものを言ってみたくなった。その威力を知っているから。普段食らうのと同じだけのちからで、気持ちが伝わればいいと願ってのことであった。
玄沢龍仁はしれっと喜んで、「じゃあ、じゃあ、朝日見に行きましょうよ。約束」と笑う。諸伏高明がどんな心持ちで声を発したか、気づかないような素振りで。もしくは、そのすべてを汲み取ったような振る舞いで。
相棒にはなれない。道連れにできる道行きでもなく、連れ添うならば別に決めた比翼がいる。けれど、この上なく友人の最上形として、どうか君の幸福あれと願っている。その夢や叶いたまえと望んでいる。
破談した。結び直した。踏み固めた。明確な別離の宣告だった。
それらは、一緒に起こせるものだったんだなあ。諸伏高明はマグを傾けて、木々を眺めながら思う。思っていたより青々としてはいなかったのが、なんかちょっと心残りだ。
コーヒーを口に含んで思い出す。ずいぶん秋も深まってきたのだった。
♢
多忙はいつしかなりをひそめ、ふたたび玄沢龍仁は書類仕事をしている諸伏高明の隣でモチモチと故事成語辞典を読みつつ、茶菓子なんぞをもちもち食べている。
あれから、玄沢龍仁は諸伏高明を野焼きに誘わなくなった。燃やすものもないのだから順当、と思う気持ちと、あの日傾けたマグの温かさを漠然と忘れられない気持ちもある。
が、別離を切り出したのは他でもない自分であった。どのつら下げて誘えばいいというのだ、的盧に相乗りまでセットで。諸伏高明は時折それとなく自分から水まんじゅうを買うようになったが、玄沢龍仁はまっすぐに「ありざす!」と笑って、それだけだ。
そのおかげで公安のマークが緩んだのもあるのかもしれない、と諸伏高明は紅茶の注がれたカップを傾けながら思った。
「警部、警察手眼って覚えてます?」
「川路……なにがしの」
「そう、川路なんたらの」
「きみが言い出したのに、覚えているわけではないんですか」
「んナははは、そこがサビじゃないですからね」
頬をもちもち膨らませながら玄沢龍仁は笑った。
最近彼は、よく笑う。今までにも増して。
「警察官はこうあれ、っていう、あれ。覚えてます?」
「どの項を? ある程度は覚えてますが」
「出たァ……」
玄沢は上唇をチロ、と舐めてから続けた。
「警察官は人民の為には勇強の保護人なれば、威信なくしばある可らず」
「その威信は人の感ずるところにあり」
「その感ずるところは己の行うところの危機の評にあり、即ち人の耐え難きところを耐え人の忍び難きところを忍び、人の為しがたきところを為すにあり」
思うより淀みなく言葉が続いて、諸伏高明はにわかに驚く。「なァんでしたっけ」とか言い出すに違いないと思ってばかりいた。
「どうして突然、警察手眼を」
「いえね、基本に立ち返るのもたまには必要だと思ったんですよ。茨の道ですね、警察官って。為しがたきところを為すって」
微笑みながら、遠いところを見ている。道を分かってもなお、玄沢龍仁はよき友であった。いま諸伏高明がしたためている書類は、近隣の民家で起きた強盗致傷の報告書であった。現場には年端も行かない子どもがいて、これがひどく怯えてしまっており、玄沢龍仁は現場のほとんどを子どもを救うのに動いた。
声をかけてやり、肩に触れてやり、頭を撫でてやり、錆びついた信頼の扉を開いた。子どもの証言が犯人確保に役立ち、結果事件は諸伏高明の頭脳によって解決している。
「君にはそれができますよ」
書きかけの書類をつついて言ってやれば、玄沢龍仁は「それはマァ、自分がいちばん出来るところで」と応え、フと息を吸う。
「出来るところで、出来なきゃいけないところです。これにあっては、自分に限らず、きっとすべての警察官が出来なきゃ、まず警察官としてあれない」
「……」
「もちろん、あなたもですよ。こんなに有能で、こんなに優しくて、こんなに面白くて、こんなに信頼できる人いままで会ったことなかったです」
「きみ風に言うのなら、よせやい、といったところでしょうか」
「ナハハ。自分、警部となら国獲れそうですよ」
「フフ。きみが言うとなんとも含みが」
「だから、そんな警部に全身全霊で隣にいてくれ! って思われてるその誰かが、たまにちょっと妬けます」
「すみません、これを生き方と決めたもので。ただ、もちろん君のことも」
「いーんですいいんです、だから警部が好きなんですよ。そういうとこに惚れたんです」
諸伏高明が言い募ろうとするのを、玄沢龍仁は「いーんです」と遮って笑った。
まえに言った「変わらないでいて」に、新野へ来てから育まれてきた玄沢龍仁に対しての好感も含まれてしまうのは、どこか寂しい気がした。
「警部はそのまま、どこまでも行ってください。何が起きても。俺マジで応援してるんで」
「やめなさい、きみがそう言うのは、なにだか縁起でもない感じがします」
「え? やだなヤダヤダ、死ぬ気なんかありませんよ。自分らお互いの夢の頂で「オス! 久しぶり!」ってハイファイブする予定じゃないですか。ね?」
「確かめるように言われても、そんな予定を聞いたのは今生いまが初めてです。今なんと? 夢の頂でハイファイブ?」
「イヤでした?」
「まさか。上等すぎる」
「ンでしょ!」
約束ね、玄沢龍仁はチャキッ、と歯茎を鳴らしてウインクまでしてみせた。
軽い神輿にも、二つある。そう諸伏高明は思う。
脳みそがすっからかんなのでマジで軽いくせに、どこへ向かうべきかもろくに指さない神輿と、確かに人ひとりの重さがあるのに、手を差し行く道を指し、人ひとりの重さなど気にならなくなるような神輿。
劉備玄徳は、後者だ。本人が類稀な武人なわけでも、才智極まる軍師だったわけでもない。
祭りの花の才能に全振りした男だ、と、諸伏高明は劉備玄徳を評する。
「……君とやる国獲りは、さぞ楽しかったろうと思います」
チャーミングに歯茎を鳴らした玄沢龍仁に笑いかける息の最後で、諸伏高明はポツリと言った。
玄沢龍仁は、意外にも笑わなかった。
「警部。俺にだれを見てるの」
刃物を抜いたようにそれだけ言って、こちらが瞠目する間もなくニコ! と笑った。
「失礼を。何卒お咎めくださいますな、やつがれ、陛下に忠実なる軍師にございますれば」
「やだやだ! 誰? 早く警部に戻って。俺は警部を相乗りに誘おうとしてたんです。知らない三国志のひと誘おうと思ってない」
「水まんじゅう大好き。阿斗かわいいです」
「ギリ孔明も言いそう」
「冬が来る前に君の的盧いちど走らせておきましょう。ご相伴に預かります。朝焼けでも見に行きませんか? 警察手眼でも誦じながら」
「それそれ、サイコーです」
からから笑って、いつかみたいに携帯を奪って予定を登録した。
「それまでに終わらせてくださいね、なんでしたっけ」
「強盗致傷と殺人と詐欺と誘拐」
「終わってないのどれ?」
「強盗致傷です。わざわざあんな手を使って何を盗んだのかが謎のままで。携帯返してください」
「まだ時間入れてないから」
「夜明けまで遊べばよろしい」
「うわっ、不良だ。いいんですか?」
「何をもとる必要があります? 非番の日くらい好きに遊んだってよろしい。我々は勇強の保護人なれば、また諸人なり」
携帯を受け取って、諸伏高明は予定を「終日」に設定した。
「私はきみにこのくらいしかできません。このぐらいでよければしてあげたいと思うのも、また君だから」
「聞かしてやりてえ! 警部が戻りたいところの人に」
玄沢龍仁は嬉しそうにはしゃぐ。
予定は二日後だった。