「あ、いけない」
部屋のある階で降りた所で、気が付いて良かった。
「紗栄子さんの酔い覚まし用の水を買い忘れました。自販機に寄っていきます」
「ご一緒します」
「直ぐそこですから。ジュンギさんは買ったお土産、ナンバさんと足立さんに届けて下さい」
そう言ってジュンギさんと別れ、自販機に向かった。
エレベーターホールから少し奥まった所にある自販機で水を1本買って、袋に入れて。
振り返ると、音も無く人が立っていて、少し肩が跳ねた。
「…趙」
「遅かったね」
「コンビニで…買い物してたから…」
趙はエレベーターホールの続く通路の壁に寄りかかっていた。
声はいつもより低く、声色も硬かった。
「話の続き…出来る?」
「…どういう意味?」
「まだ怒ってるでしょ」
「それはぁ、昨日の君だってそうじゃない」
「私はあの後、頭冷やしたもの」
「でも、俺がさっき言った言葉の意味は、分かってないんでしょ?」
趙の言う通りだった。
さっきの言葉もそうだし、私はここ最近の趙の言葉の意味が分かってない。
「だから話をするんじゃないの?」
そう聞くと、趙はワザとらしいため息をついた。
「樱花ちゃん…」
「何?」
「本当に分かってないの?」
「え…」
どうして、そんな聞き方するの?
「分からないよ…。だから、話をしたいのに…」
まるで、私が分かっていて、はぐらかしているような口ぶりだ。
「どう話せば、伝わるかな〜…」
趙の態度には、苛立ちが感じられた。
「許婚の件?それなら…さっき言ったけど、私は気にしてないよ。趙はいつも冗談で…」
冗談で言うじゃない。
そう言おうとした言葉は、全部は口に出来なかった。
壁に凭れていた趙が急に動いて、私の居る直ぐ横の壁を力強く叩いたからだ。
その音に驚き、私の言葉は止まった。
近くにきた趙の目は鋭く、さっきと同じように読めなかった。
「だからさぁ…何で俺が、冗談で言ってるってぇ…思う訳?」
「えっ…」
ち、違うの?
「俺ぇ、1回も冗談だなんて…言ってないよ」
「………」
言われてみれば、そう、かも。
いや、そうだ。
趙は冗談だと言ったことは無い。
私がそう、流しているだけ。
否定されないから、肯定の意だと思って。
この話は私が、紗栄子さんが勘違いしてるって言った時にもあった。
聞かれた。
『どうして勘違いしてるって思うの?』
そう言われた。
『もし、本当だったらどうする?』って。
紗栄子さんが口説いてるって感じたものが、本当だったら…?
『君がそう思いたいだけじゃないの?』とも、趙は言った。
私がそう思いたいだけ?
冗談だって、勘違いだって、思いたいだけ…?
さっきモヤモヤとしていた胸の辺りが、脈打つようになってきた。
ドクドク、そんな音が聞こえてくるような。
なに、わたし…。
私、どうしちゃったの…?
「…インフゥア」
趙の鋭かった瞳が見開かれる。
そしてさっきとは打って変わって、オロオロと戸惑い始めた。
「…ちょう?」
「泣かないで…」
指輪のついた親指が優しく目の辺りを撫でてくる。
そう言われて、自分が泣いていることに気が付いた。
気が付くと不思議なもので、自分の意志に関係無く、ドンドンと涙が溢れてくる。
嗚咽を止めるので精一杯だ。
「樱花ちゃん…」
「…っ、ぅ…」
こんなに強く当たられたのは初めてだ。
どうして、そんなに意地悪なの?
分からないよ、教えてよ。
何が分からないのか、自分でも分からないのに。
疑問と涙が、次々と溢れてくる。
趙は何度も何度も、私の涙を拭ってくれた。
その眉は下がり、困り果てた表情をしている。
さっきとはまた別の意味で、いつもの趙とは違う姿に、私は笑った。
「ぐす…フフ…ぅ…」
「え…?笑ってんの?泣いてんの?」
「りょうほう…」
笑ったせいか、涙が少しずつ収まってきた。
「…落ち着いた?」
「ん…」
「良かった〜。俺ぇ、樱花ちゃんの涙に弱いんだから〜」
趙はそう言ってくれるけど。
ゴメン。
とは言わなかった。
「…趙」
「ん〜?」
「冗談じゃ…無かったの?」
お嫁においで。とか、そういうの。
「ん〜。それはぁ、君が答えを出さないと」
「私が…?」
「俺から言っちゃぁ、意味無いからね」
趙の話なのに?
私が答えを出すの??
「…余計意味が分からない…」
思わず眉間に皺が寄った。
涙を拭っていた趙の親指が、私の顎を撫でた。
その指は、私の口の端を擽るように動く。
「趙…?」
趙の視線が私の口元を見たかと思ったら、勢い良く離れた。
「俺ぇ、ヒントは出したよ。沢山ね」
「ヒント…?」
ハーフパンツのポケットに両手を入れて。
趙はヘラリといつもの、何を考えているのか分からない笑みを浮かべた。
「だから、ちゃぁんと、考えてね〜」
じゃあね〜。と趙はエレベーターホールに向かって歩いていってしまった。
「……え?」
何も解決してなくない?
「えぇ〜…」
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