部屋のベルを鳴らせば、ドアが開いてハン・ジュンギが出迎えた。
「ただいま〜」
「…遅いお戻りですね」
「色々とあって、ね」
開いたドアから室内に入れば、足立さんとナンバ君が既に呑み始めて、軽く出来上がってた。
「ペース早くなぁい?」
「趙か!お前もこっち来て呑めよ」
「貰おうかなぁ」
テーブルに置かれている缶ビールを1本取って、室内の空いている椅子。
ベットで爆睡している春日君の直ぐ横に、腰を下ろした。
プルトップを押し開いて、喉を潤す。
その缶を自分の額に当てた。
すっげぇ焦った。
まさか俺が樱花ちゃんを泣かせる日が来るなんて…。
胸が罪悪感で一杯だ。
『冗談じゃ…無かったの?』
朱い目で、そう言って俺を見上げる彼女を思い出す。
潤んだ瞳、濡れた唇、無防備に寄る身体。
俺の指は彼女を顔を包んでいて、距離だって近い。
無意識、だったんだろうね。
樱花ちゃんの顎をなぞって、そのまま…。
グッと堪えた自分を、褒めたいねぇ…。
「ちょっと宜しいでしょうか」
顔を上げると、ハン・ジュンギが立っていた。
その表情は険しい。
「…なぁに」
「先程の話ですが…」
「さっき?」
「行きのタクシーでの件です」
「あぁ…」
「樱花さんとお話はされたのでしょうか?」
「…どうしてそんなこと聞くの?」
「気になったものでして…」
ハン・ジュンギも。
俺とは違う意味で、樱花ちゃんを大切にしている。
ソンヒが理由の全てでは無い。
それは、春日君がナンバ君に感じている恩に近い。
廃人同然で異人町に流れ着いた彼を、辛抱強く手当した1人が、樱花ちゃんだから。
「…話したよ。だから、遅くなったの」
「解決はしましたか」
「解決…ねぇ」
手元の缶ビールに視線を落として、どう答えようか考える。
「この際ですからお訊ねします」
「ん〜?」
「何故樱花さんに、あのような態度を取られるのですか?」
「態度ぉ?」
「好きだとハッキリ、仰ってはいかがですか?」
いつか、誰かから聞かれるだろうとは思ってた。
でもそれは、野暮な春日君だとばかり。
ハン・ジュンギは予想外だったなぁ…。
「ねぇ」
「はい」
「もしね、俺がぁ、樱花ちゃんに好きだとハッキリ言うじゃん」
「えぇ」
「聞いた樱花ちゃんが頷いて、交際するとするじゃない」
「それは喜ばしいことです」
「…そこに樱花ちゃんの気持ち、ある?」
缶ビールから視線を上げて、ハン・ジュンギを見た。
その表情は、俺の言葉を考えてるようだ。
「気持ち、ですか」
「そ。彼女の気持ち」
俺の幼馴染は、恋を知らない。
彼女は、早い時期から漢方薬局を継ぐことを決め、そこに向かってがむしゃらに生きてきた。
好きという気持ちは知っている。
だけど、それを特定の誰かに向けることを知らない。
特別に扱うことも、ときめくことも、誰か1人のことを想うことも、知らない。
だから、知って欲しい。
俺を救ってくれたように。
彼女にも、解って欲しい。
その為には、聞かれようと、話をしようと言われようと、俺ははぐらかして待つ。
彼女がその気持ちが生まれ、自覚する時まで。
「大事なのはぁ…樱花ちゃんの気持ちなんだよ」
「それは…樱花さんが誰かを好きになる気持ち、ということですか?」
「簡単に言えば、そうだねぇ」
「そんなの…言えば済む話じゃないですか」
「それがダメなの」
ハン・ジュンギはピンと来ないのか、整った眉間に皺を寄せる。
「私には良く分かりません…」
「別に分かって貰おうとは思ってないからね〜」
「そんなこと言ってよぉ、趙」
テーブルを囲んで呑んでいた足立さんが大きめな声をあげる。
「なぁに、聞いてたの?」
「当たり前だろ。趙、お前さん、そんなことしてっと、別の奴に樱花ちゃん取られちまうぞ」
酒の回ってる足立さんは、怪しい呂律でそう言う。
…まぁ、そう思うよね。
「…そうだねぇ」
「何だ、随分呑気だな」
「言ったでしょ、俺が大事なのは、彼女の気持ちだって」
「まさかお前さん、樱花ちゃんが別の奴好きになっても良いとか、思ってんのか?」
「足立さん、鋭いね〜」
流石、元刑事。
「それが樱花ちゃんの気持ちならね」
「趙…貴方、」
「そりゃぁ、樱花ちゃんが怒るぜ、趙」
寝ていたと思ってた春日君が突然喋って、一斉に視線がベットに向く。
「一番、起きたのか」
「あぁ。足立さんの声がデケェから、目ぇ覚めたぜ」
シャツを羽織った春日君が、その大きな身体をムクリと起こした。
「趙、前に言われなかったか?」
「何を〜?」
「『自分を後回しにして』」
昔から、樱花ちゃんが俺に良く言う言葉だ
「言われたねぇ…」
「この話だってそうじゃねぇかよ」
春日君の指摘は当たっている。
「もし樱花ちゃんが別の奴と付き合って、後で知ったら悲しむぜ」
「…それが樱花ちゃんの気持ちなら、別に良いよ」
俺がずっと、大切にしてきたのは、そこだ。
…さっきはちょっと、我慢が利かなかったけど。
「だからぁ、皆もナイショにしててね」
「まぁ…お前がそう言うなら、俺達は協力するけどよ…」
ナンバ君はそう言って、言葉を切った。
「ん〜?」
「…サッちゃんはどうだろうな?」
「紗栄子の奴、勘鋭ぇし、世話焼きだからな」
ナンバ君の言葉に足立さんが続く。
「紗栄子さんは大丈夫だよぉ」
「?言い切れんのか?」
「うん」
春日君は、頭にクエスチョンマークが見えるような表情で俺に訊ねた。
「紗栄子さんはぁ、気が付いたら、それ以上のことはしてこないでしょ」
「そうか〜?」
「俺の考えを汲んでくれるよぉ」
多分だけど。
今、樱花ちゃんと俺の状態に、1番変化を起こすのは、紗栄子さんだと思ってる。
それが良い方向になるか、はたまた悪い方向になっちゃうかは、俺達次第だけど。
「…趙、お前って」
春日君はベットで胡坐をかいて、その膝に頬杖をついて俺を見ている。
その表情は、真っ直ぐな笑顔だ。
「案外一途なんだな」
「…春日君は本当、野暮だねぇ」
仕方ないじゃん。
初恋の子が、恋を知らない人なんだから。
一途にでもならなきゃ、振り向いて貰えないよ。
※※
「…ぁ〜…」
1晩考えたけど、何にも分からなかった。
趙が私を口説いてる?
でもって、私は趙にドキドキしている??
何で???
幼馴染だよ????
おさな…なじみ…。
「樱花ちゃん、さっきから変な声上げて、大丈夫?」
「大丈夫じゃないです…」
ロビーに向かうエレベーターの中、前に立つ紗栄子さんが心配そうな顔で見てくる。
「紗栄子さん、もう少し助言を頂けないですか…?」
「ダ〜メッ」
「えぇ〜…」
どうして教えてくれないの!
ロビーに到着したエレベーターのドアが開き降りると、既に男性陣がロビーに居た。
「あら、早いわね」
「おはようございます」
ロビーのソファに座った皆は、朝なのに疲れている。
「おはようございます、樱花さん」
「おはようございます、ジュンギさん。…何だか、ジュンギさん以外、眠そうですけど」
「私の早朝トレーニングにお付き合い頂きました」
「あぁ〜…」
体脂肪5%をキープさせるトレーニングを、朝からしたのね。
「朝から老体に何させやがんだ…」
「同感」
「腹減った〜。ホテル出たら朝飯食おうぜ」
「賛成!私、行きたかったお店、あるのよね」
皆が揃うと、途端にわいわいと賑やかになる。
「樱花ちゃん」
近くに座っていた趙が、私を呼んだ。
バチリと目が合う。
突然、胸がドキリと鳴り始めた。
「おはよ」
「お、おはよう…」
ドキドキ。
趙に見つめられて、その視線に落ち着かない。
「わ、私、チェックアウトしてきます!」
「俺も行くぜ、樱花ちゃん」
趙の視線から逃げたくて、ロビーカウンターに向かった。
その後を一番君がついて来てくれる。
お会計は、一番君が払ってくれた。
一番製菓の社長、ブラックカード持ってる…。
「よし、これで蒼天堀ともおさらばだな」
「ありがとう」
「へへ。付き合って貰ったんだから、これ位しないとな」
「私は祖母に呼ばれたんだけどね」
最終的に、何で呼ばれたかは良く分かってないけど。
「樱花ちゃん」
「ん?」
手続きを待っている間、一番君が私を呼んだ。
「趙のこと、頼むな」
「ん??」
何、改まって。
「どういう意味?」
「何だかよ、そう言いたくなったんだ」
良く分からない理由だけど…。
「う、うん…」
一応頷いておこう。
「…紗栄子さん」
「ん?」
「さっきぃ…樱花ちゃん、いつにも増して可愛かったんだけど…何かあった?」
「ん〜…あったっちゃぁ、あったかな」
「ふ〜ん…」
「安心しなさい。あんたの努力が報われる日は近いわ」
「…?どゆこと?」
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