『杏寿郎。』
「惜しいな、今のは声に出ていない。」
「むううー。」
「お、今は声に出ていた。」

名前と杏寿郎は話す練習をしていた。名前は力の制御が上手く出来ないが故に声が出ているのか、力を使って伝えているのか自身でもよく分かっていないようだ。

「気を落とすな。君の兄上も焦る事はないと言っていただろう。」

初めて名前の声を聞いた帷の喜びようと言ったらそれはもう凄まじかった。泣きながら安堵の言葉を並べて名前を抱きしめて褒め称えた。名前も兄の喜んだ姿が嬉しかったのだろう。あれから目に見えて力を入れて努力しているのが分かる。



ピリ。

空気が張り詰めた。

一点を見つめて名前が固まる。
大きく見開かれた目には恐怖の色。尋常ではなく怯えている。

「君が炎柱?」

音もなく眼前に見知らぬ男が立っていた。名前と同じ色の瞳を細めて笑みを浮かべている。笑っているのに目は全く笑っていない。悪意の笑みとは彼の事を指すのだろう。

「炎柱は俺の父だが。」

怯えて震える名前を背に庇うように前に出た。威圧感で冷や汗が出る手を強く握る。

「そうだろうね。まだ君は子供だ。用があるのはそっちのチビでね。退いてくれないかい?」
「断る。」

返事をしたと同時に、頬に焼けつくような痛みが走り、体がそのまま吹き飛んだ。殴られるまで拳が全く見えなかった。

「餓鬼のくせに生意気だなあ。餓鬼は大人しく大人の言う事を聞いてれば良いんだよ。」
『夜闇やめて!杏寿郎にひどい事しないで!!』

キーン、と頭の中で泣きそうな声が悲鳴をあげる。夜闇と呼ばれた男はやはり笑みを貼り付けたまま、名前の髪を引いて無理矢理顔を上げさせた。

「塵が誰に命令してるんだ?それと口があるんだから、口で話せよ。」
『ごめんなさい、ごめんなさい…っ』
「力の制御なんて初歩中の初歩だぞ。そんな事もまだできないのか。」

髪を引く為ぶちぶちと髪が千切れて銀糸の束が地面に散らばる。杏寿郎は目の前の蛮行にこれ程まで激しく怒りを覚えた事はない。

「離せ!」

男の手を引き離そうとするがびくともしない。夜闇は杏寿郎などまるで気にした様子がなく名前に詰め寄る。

「おい塵、なんで逃げた?怠けるな。甘えるな。来い、帰るぞ。」
「何をしに来た、夜闇。」

ひやりと殺気だった声に夜闇はピタリと止まる。声の先には冷たい双眸をした彼女の兄。
舌打ちをすると夜闇は名前の髪を離した。杏寿郎がよろける体を抱きとめる。涙を湛えて震える小さな体がそのまま消えてしまいそうで思わず強く抱きしめた。

「迎えに来た。お前はそれを甘やかせ過ぎだ。」
「断る。その子の全ての権限は俺にある。頭首からも話があった筈だ。」

話にならないと夜闇は溜息を吐く。

「銀狐なら鍛えれば必ず光る。お前がやっているのは刀を鈍にしているも同然だ。それを返せ。俺が鍛えてやる。」
「鍛えると口ばかりで折ってしまっては意味がない。それ以上無駄口を叩くのであれば、」

日輪刀に手を掛けて帷は口を閉じた。力で黙らせる、と言外のそれに夜闇はその時初めて顔を歪ませて、現れた時同様忽然と姿を消した。

空気が弛み、帷も肩の力を抜いて杏寿郎と妹とに微笑み掛けた。

「この子を守ってくれてありがとう、杏寿郎。流石煉獄家の嫡男だ。…ほら、おいで名前。」

手を広げると杏寿郎の腕の中で震えていた名前は飛び付くように帷に抱き付いた。ぎゅうと抱き付いた先からは嗚咽が溢れる。ぐしゃぐしゃになった髪を優しく撫でて妹を抱き上げ、空いている手を杏寿郎に出した。

「手当てをしに行こう。大分酷くされたな。」

苦笑する帷に、その肩から顔を覗かせた名前が杏寿郎の様を見て目を見開いたまま大粒の涙を溢した。

『ごめんね、杏寿郎。ごめんなさい。』
「君の所為ではない!泣くな!!」

大丈夫だと言い聞かせても繰り返し謝罪を口にして名前は泣き止まなかった。

前へ / 次へ
戻る
top