※モブが出てきます。
名前は口からまろび出そうだった悲鳴を辛うじて手で抑えた。
教室内には自分の恋人と見知らぬ美少女。そしてその恋人が美少女を抱きしめているのだから悲鳴も出るというものだ。咄嗟に扉の影に隠れた自身の反射神経を褒めてあげたい。忘れ物を取りに来ただけだというのになんて事だ。
ばくばくと激しく鼓動を打つ心臓を抑えつつ、唾を飲み込む。もう一度、見間違えはないか確認したい。そーっと再び中を覗くとこちらを向く美少女と目が合った。今度こそ身を翻して足早に昇降口に向かう。ただここから逃げたかった。
彼女は彼の肩越しに笑ったから。
「ねえ、忘れ物。」
掛けられた声に振り向くと先程の少女の姿。手には名前のペンケースを持っている。
差し出されたそれを恐る恐る受け取ろうと手を伸ばすが、届く手前でガシャンと地面へ落とされた。少女が先程の勝ち誇ったような笑みで笑う。
「アンタさ、イタイよね。」
「え?」
ペンケースを拾い上げる。
ここから早く去らねば、と思う。この先はきっと聞きたくない事を言うに違いないから。
「偶々獪岳が遊んでるだけって分かってなくてイタイって言ってるの。」
知ってるよ、と心の中で呟く。
認めたくないけれど。ああ、どうして、気付かないふりをしていたのに。
ぐっと溢れそうになる涙を堪えて走り出した。
***
その日も偶然忘れ物を教室に取りに行った。
薄暗い教室の中で机に突っ伏す彼は眠っているようで。忘れ物を手にしてすぐ帰る気だったが、そのままに出来ず彼の机へ近付いた。
「稲玉君?」
応えはない。名前はしゃがみ込んで彼の肩に手を掛けた。
「稲玉君。稲玉君、起きて。もう真っ暗になっちゃうよ。」
数回肩を揺らすと、固そうな黒髪が揺れて、切長の双眸が気怠げに開いた。寝起きのせいか視線が虚ろだ。
「あー、起きてくれてよかった!じゃあ私帰る、」
急に腕を引かれて唇が塞がれる。何が起きたかよく分からないが先程の固そうな黒髪が目の前にあって、唇を塞いでいるのは彼だと遅れて気付く。
「いっ!」
下唇を軽く食まれて開いた隙に舌が口内へ侵入する。それに目を丸くして彼の肩を押すが、いつの間にか後頭部にある手が離れる事を許さない。ディープキスどころかキス自体初めての名前に容赦なく獪岳は彼女の唇を貪った。
やっと解放された時には足に力が入らず後ろに尻餅をついてしまった。
「お前、彼氏いるのか?」
呆然と唇を手で抑える名前に獪岳が聞く。なんでそんな事聞くの?なんでキスしたの?聞きたい事はたくさんあるのに言葉に出来ず、質問の答えさえ口に出来なくて辛うじて首を振った。
それに今の今まで無表情だった獪岳が僅かに微笑んだのに胸がときめく。
それから彼と恋人となったのだ。
自身のベッドに倒れ込んだ名前は考えたくなくて後回しにしていたツケがやってきたと思った。
多分あれは私ではなく、他の女の子でも良かったのだ。欲求が満たせれば自分ではなくても良かったと、その事実を確認するのが怖くて。確認して、肯定されてしまったら彼の隣にはいられない。
避けていたのにその確認事項がとうとう突きつけられた。
あの時声を掛けたのも少なからず彼に気があったから。今はどうしようもなく好きだけれど。
捨てられるのかな。明日『あの子と付き合うから』と別れを告げられるのかな。
怖い。悲しい。苦しい。
涙が溢れて止まらない。
ベッドの上で身を小さく丸めて名前は泣き尽くした。
***
獪岳は苛々していた。スマホの待ち受けを起動させてもなんの通知もない事に舌打ちをする。
名前に避けられている。それは疑念ではなく確信だ。ここ数日彼女に会っていないし、スマホのメッセージアプリも既読にならない。何かあったか聞きたくとも聞く事すら出来ない状況に獪岳の怒りはピークに達していた。
しかし今日はチャンスがある。彼女の属する委員会の集会があるのだ。
集会の教室で待ち伏せていれば、思惑通り名前がやってきた。
「おい。」
死角から声を掛けるとびくりと肩を揺らして目を見開く。怯えたその様子に違和感を覚えた。
「お前なんで避けてんだよ。」
「…だって、」
「あ?」
俯く顔が涙で潤んだ気がして覗き込もうとすると、後ろから肩を叩かれる。振り返れば見知らぬ男子生徒。眼鏡を上げながら眉間に皺を寄せ、邪魔だとばかりの視線を獪岳に送る。
「これから委員会なんだ。部外者は退いてくれないかな?」
暫し睨み合っていたが、獪岳は舌打ちしてその場を離れる。
名前はそれにほっと胸を撫で下ろすのも束の間、彼の歩みの先にあの少女の姿を見留めて胸が苦しくなった。
「大丈夫?」
「えっ?あっ!大丈夫だよっ!さっきはありがとう!!ええと、」
「山口だよ。」
「ごめんね、名前覚えてなくて…」
同じ委員会なのに名前も分からないとは申し訳ない。焦る名前を他所に山口は笑う。
「仕方ないよ。いつも稲玉といるから話した事無いし。ほら、今日は掃除用具の点検だって。」
「皆揃ってないけど点検に回っていいの?」
腕を引く彼に首を傾げる。
「大丈夫。名字さんと僕は体育館だよ。」
ほらとバインダーに挟まれた分担用紙を見せるのに名前は少し引っ掛かりを感じたが言う通り体育館へ向かった。
「体育館の掃除用具ってどこだっけ?」
「あっち、倉庫の中。」
重い木製の引き戸を開けると、ボールや跳び箱、バスケの得点台などの奥に掃除用具が無造作に置かれている。チェック用紙の項目を確認しつつ数を数えようと中に入ると、引き戸を閉められた。暗くなる倉庫内に目を丸くする。
「暗くて見えないよ。扉開け、」
後ろに続く山口に声を掛けようと振り返った際そのまま彼に抱き締められた。
あまりに突然の事で体が固まる。
「ずっと好きだったんだ。稲玉はやめて僕にしなよ。」
ぐり、と太腿に当たる固いものに鳥肌が立つ。
「ちょっ、ちょっと!やめてくれないかな!?」
「ああ、名字さんいい匂い…っ」
「うわあっ!キモ!キモいって!!」
髪の毛に顔を埋めて息を吸う彼に悲鳴をあげる。腕を振り解こうとするけれど女性の力で敵うわけもなく。
暗闇の中光が突然差す。扉の開く重い音と共に山口がカエルを潰したような声を上げて倒れ込んだ。
「おいコラ変態。俺の女に何してんだ。」
「獪岳…っ!」
背後から男の急所を蹴り上げたらしい。憐れな男は予想だにしない攻撃に言葉も出ないようだ。そんな彼を蔑むように一瞥し、名前の手を引いて明るい外へ獪岳は出る。
「行くぞ。」
大事な所を押さえて蹲る姿は可哀想な気がしなくもないが、残念ながら先の行動を考えると同情はしてやれない。誰かしらが見つけるだろうと彼を残して扉を閉めた。
「ったく、お前ももっと危機感を持て。」
「いっ!ごもっとも…」
ゲシっと足を軽く蹴られる。
「で?なんで避けてたんだ?」
「あっ」
忘れていた、と逃げようとする手を獪岳が許さない。言え、と鋭い双眸が語る。
名前は覚悟を決めた。目を閉じて深呼吸をする。
「ずっと、怖くて聞けなかったんだけど、獪岳は私に飽きちゃった?」
「は?」
「可愛い女の子と抱き合っての、見た。」
ごめん、覗き見して、と俯く。
「だから俺がお前を振ると思って避けてたのか?」
こくんと応えを打つ。
「だって、…だって、私と獪岳じゃ釣り合わないし、偶然都合良くいただけの私じゃあの子に敵わない…。」
怖い。怖くて彼の顔が見れない。
ついと顎に手が触れて視線が上に行く。少し上のそこには真剣な表情の獪岳。どんな思いを持っているかよく読めないけれど、ああ、かっこいいなあ、と思う自分は大分彼に毒されている。
彼の親指が唇に触れる。
「ありゃ、向こうが勝手に抱き着いてきたんだ。お前だってさっき避けれなかっただろうが。それに、俺は偶々お前を選んだ訳じゃない。」
「え?」
「あのペンケース、俺が鞄から抜いたんだよ。」
「えっ?!」
「多分あの女も同じ事して見せつけたんだろ。」
「ええっ!?」
恐らくだがあの馬鹿男とグルだぞと言う。そんな漫画みたいな事あるのか。しかし、確かに獪岳と気まずくなって、彼とも獪岳が来なければちょっとまずい事になっていたから、案外有効的だったのかもしれない。いや、その前に自分が忘れたと思っていたペンケースが取られてたなんて。しかも二度も気付かないとか。などとぐるぐる色んな事が頭の中を巡る。
急に与えられた情報の処理が追いつかない。
混乱する名前に獪岳は僅かに口角を上げて、顔を寄せる。
「あの日お前が来るのを待ってた。」
触れるだけの優しい口付け。
顔に熱が集まるのが分かる。
「うぅー、ずるい。どんどん獪岳の事好きになちゃう。」
「そりゃどーも。」
赤い顔が恥ずかしくて彼にバレないよう抱きつくが、きっとそれもお見通しだろう。先の柔らかい笑みは姿を消して、意地の悪い顔で獪岳は彼女の体を抱きしめた。