胃の腑から胃液が込み上げるのをぐっと堪える。口の中に胃酸特有の不快な酸味がした。頬につくタイルが冷たい。足音が遠のいてから立ち上がった。毎度飽きないな、と名前は独りごちた。痛みには慣れている。制服は汚れなかったようで安心した。


***

課題が一区切り付いた所で名前は顔を上げた。図書室を見渡すが彼の姿はない。あれから獪岳に会えない日が続いてる。

「顔を見たくない位迷惑だったのかなあ…」

こてんと机に頬を乗せる。だらしない格好だが今は誰もいないし許して欲しい。心なしか頭も痛いし。

名前はあの日を思い出した。助けてもらった日。あちらは自分が名字名前と認識した上で助けた訳ではないだろう。他の誰かであっても助けていたであろうことは理解している。そう、自分が特別でないことくらい理解している。
自分もこの気持ちに葛藤があった。以前より彼の事は良い事も悪い事も色んな意味で知っていた。名前なりにもあまりある葛藤だった。目蓋を閉じて考える。何度考えてもやっぱり同じ結論にたどり着く。

彼が好き。


「大丈夫ですか?」

頭上からの声にはっと頭を上げる。
赤みがかった髪と瞳の少年が心配そうな面持ちで覗き込んでいた。

「はいっ、だ、大丈夫ですっ。」
「でも、顔色が悪いですよ?」

熱があるんじゃないですか、と額と額を付ける。少年の耳飾りの揺れる小さい音までよく聞こえる距離。熱がなくても羞恥で否応なしに顔が熱くなる。

「やっぱりちょっと熱い気が、」
「いや、君、近いです…」
「え、…はっ!すみませんっ!!ついいつも妹達にする癖で!!」

机に頭がぶつかる勢いで謝罪を繰り返す。あまりの慌てぶりに笑みが浮かんだ。
その時だ。空気が変わった気がした。

「とんだ尻軽だな、お前。」

いつからいたのだろうか。振り向いた先には音もなく獪岳が立っていた。視線が冷たい。憤怒を押し殺したような様子に息を呑む。

獪岳は固まって動かない名前を睨みつけると彼はそのまま踵を返して行ってしまった。

「ま、待って!」

その姿に慌てて筆記用具や教科書を鞄に詰め込んで獪岳を追う。

「心配してくれてありがとうね。」
「いえ、お大事に。」

呆然としている少年にすれ違い様にお礼を口にするとにこりと笑って手を振った。

***

「獪岳君!待ってってば!!」

会いたくて待っていた背中はいくら声を掛けても止まってくれない。

「待って、」

彼のカーディガンに手を伸ばして掴んだ、瞬間。タイミングを合わせたように獪岳が振り返り、名前の胸倉を掴んだ。怒りを孕んだ瞳が近くにある。

「ど、うして、怒ってるの?」

怖い。舌が縺れる中やっとそれだけが口にできた。

「お前、俺に好きだと言っておいて、他の男とあんな事するんだな。」
「え、」

地を這う様な声音にギラギラと怒りに燃えているのがわかる。あんなとは。もしかして先程の額で熱を計られた事だろうか。

「どうせ、誰でも良かったんだろ。」
「違う!私は獪岳君が、」
「うるせえ。もういい。お前にはもう付き合えない。」

突き離すように掴んでいた手が離れた。支えが無くなった体はそのまま廊下へ力無くへたり込む。

彼は一度も振り返らなかった。
いつの間にか頬に涙が伝う。
こんなにも呆気なく、終わってしまうとは思わなかった。

前へ / 次へ
戻る
top