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「遠くに行きたい」

 何を書くべきか、考え倦ねて早くも5 分経過した日誌は未だに真っ新だった。改まって文面に起こすような出来事も無かった一日を何度も振り返っては、取りあえず何か書こうと強ばるペン先をワンストローク。何度も何度も、その繰り返し。

「遠くって?」

 顔を上げれば、向かいに座っていた及川と目が合った。ぽつりと零れた言葉は誰かに聞いて欲しかった訳ではないのだけど、取るに足らない漠然とした私の願望に及川は律儀に首を傾げる。

「……ここからずっと離れたどっか」
「へー、俺もついてっていい?」
「だめ」

 本音なんだか嘘なんだか。胸の内を一切悟らせない及川の曖昧さには心底辟易する。「冷たいな〜」なんてへらへら笑う及川だってきっとその延長線で、真面目に取り合うだけ無駄なんだろうなーって思うからスパンと拒絶した。私には及川がよく分からない。

「みょうじってさ、俺と一緒にいるの嫌い?」
「別に、そんなことないよ」
「だよね、知ってる」

 ほら、こういう所。机の上で組んだ腕に頭を乗せ、私の顔を覗き混んできた及川の嬉々とした表情に溜息をつく。人を見透かしたような言動とか、何もかもお見通しみたいな口調とか全部。私は及川のことを何一つ知らないのに、一方的に私ばっかりが知られているみたいで全然フェアじゃない。
 でもだからって、私から及川に歩み寄ることは一度だってなかった。不公平な立場に不平不満を吐露するのは何時だって心の中だけで、それを口にしたことはない。だって私には及川のテリトリーに踏み込む権利も無ければ、必要も無いから。私達みたいな薄汚れた関係に、不当さは付きものだ。

「みょうじ」

 名前を呼ばれた気がした。囁くような響きに確証はなかったけど、視線を上げれば見計らったように伸びてきた大きな手が私の視界を覆う。真っ暗だ。そう思った時には唇に暖かな温度が押し当てられ、離れたと同時に再び世界は明転する。不意打ち。そうでなくても動悸を伴うような行為に、私は少し慣れ過ぎてしまった。初めの頃みたいな甘酸っぱさも、痛いほど激しい心音も、もう感じられない。
 及川と私は友達じゃない。なら恋人なのかと言えばそれもまた違う。セックスフレンド。認めたくはないけどニュアンスが近い響きを探すのなら、今思い当たるのはそんな言葉しかない。

 始まりは忘れた。失恋したあの日、慰めるようにされたキスがきっかけだったのか。それとも及川の家に初めて呼ばれたあの日、「今日は誰も帰ってこないんだよね」と甘く囁かれたのがきっかけだったのか。どっちにしろ、結局私と及川は本来美しく純潔であるべき関係に収まる事はなくて、気が付けば誰からも奨励されることのない歪で汚らしい形でいることを、どちらとも無く決めていた。だってその方が楽だから。

「及川はさ、彼女欲しくないの?」
「そりゃあ、及川さんだって健全な男子高校生ですから? 欲しいに決まってるでしょ」
「だったら作ればいいのに」
「んー……今はいいかな。みょうじがいるから」

 及川は臆面もなく笑った。やっぱり、私は"彼女"に一番近くて一番遠い。
 及川は見た目に似合わず一途だから、きっと彼女には献身的に尽くして、余るほどの"好き"をその子に降り注ぐんだろうなと、想像したことが無いと言えば嘘になる。
 けど私が"その子"に成ろうと思ったことは無い。
ALICE+