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「遠くに行きたい」

 閑散とした駅のホームに真夏の風が吹く。むわっとした熱気が頬を叩いて髪が揺れた。
 ホームの中央に設置された黒塗りのベンチは直射日光をもろに受けたようで、触れた太ももが焼けるように熱い。それでも電車が来るまでの10分間、充満する熱気の中で立ち続けていられるほどの体力は、ぶっ続け4時間の夏季講習のお陰で既に残っていなかった。

「遠くって?」

 茹だるような熱さに手で生温い風を送りつつ顔を上げれば、一つ席を空けて横に座った及川と目が合う。部活の練習でもあったんだろう、制服より幾分涼しげなジャージが羨ましい。

「んー……ここからずっと離れたどっか」
「ふーん、俺もついてっていい?」
「だめ」

 本音なんだか嘘なんだか。胸の内を一切悟らせない及川の曖昧さには心底辟易する。「冷たいな〜」なんてへらへら笑う及川だってきっとその延長線で、真面目に取り合うだけ無駄だって知ってるからスパンと拒絶した。そもそも現実問題、遠くへ行く時間もお金も私には無い。今の手持ちで行けるのは精々隣町か、歩いて向こうの山一つ超えるのが関の山だ。

「じゃあさ、海行こうよ!」
「はぁ? なんで?」
「何でって暑いし、何か急に行きたくなった」
「あっそ。どうぞ一人で行って下さい」
「ちょっと!? 男一人で海って絵面が寂し過ぎるでしょ?!」

 絵面って、そんなものの為に人を誘うのはどうかと思う。一人で波打ち際を歩く及川を想像して、確かに痛いヤツだとは思ったけどお世辞抜きで似合いそうなもんだから腹が立つ。女の子の注目を一身に集めるその整った容姿故、大抵のことは様になるんだから及川は狡い。

「みょうじってさ、俺といるの嫌い?」
「別に……そんなことないけど」
「だよねー、知ってる」

 ほら、こういう所。上体を大きく倒して、私の顔を覗き混んできた及川の嬉々とした表情に溜息をつく。人を見透かしたような言動とか、何もかもお見通しみたいな口調とか全部狡い。私は何一つ及川について知らないのに、一方的に私ばっかりが知られているみたいで全然フェアじゃない。
 でもだからって、私から及川に歩み寄ることは一度だってなかった。不公平な立場に不平不満を吐露するのは何時だって心の中だけで、それを声にしたことはない。だって私には及川のテリトリーに踏み込む権利も無ければ、必要も無いから。私達みたいな薄汚れた関係に、不当さは付きものだ。

「みょうじ」

 視線を向けるよりも早く腕を引かれ、身体が横に倒れた。咄嗟に上体を持ちこたえようと及川との間に手を付いたものの、それ以上の引き寄せられる力に呆気なく寄せられた唇が私のに触れる。態々開けた一人分の空白が、身を乗り出した及川と私で半分ずつ。
 間も無く小さく音を立てて離れた温度に、微かな名残惜しさを覚えたのはきっと気の所為だ。

 及川と私は友達じゃない。なら恋人なのかと言われればそれもまた違う。セックスフレンド。認めたくはないけどニュアンスが近い響きを探すのなら、今思い当たるのはそんな言葉しかない。
 始まりは忘れた。失恋したあの日、慰めるようにされたキスがきっかけだったのか。それとも甘えるようにすり寄る吐息が私を可笑しくしたのか。どっちにしろ、結局私と及川は本来美しく純潔であるべき関係に収まる事はなくて、気が付けば誰からも奨励されることのない歪で汚らしい形でいることを、どちらとも無く受け入れていた。

「及川はさ、彼女欲しくないの?」
「何それ、急だね。そりゃあ、及川さんだって健全な男子高校生ですから? 欲しいに決まってるでしょ」
「だったら作ればいいのに」
「んー……今はいいかな。みょうじがいるから」

 目と鼻の先。吐息が唇に伝わるほどの距離で、及川は臆面もなく笑った。やっぱり、私は"彼女"に一番近くて一番遠い。
 及川は見た目に似合わず一途だから、きっと彼女には献身的に尽くして、余るほどの"好き"をその子に降り注ぐんだろうなと、想像したことが無いと言えば嘘になる。
 けど私が"その子"に成ろうと思ったことは一度も無い。
ALICE+