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 眼鏡の方が可愛いと言う言葉の裏に見え隠れする願望は知っていた。色素の薄い猫毛を気に入っているのも、言葉の端々に滲む皮肉が好きなのも知っている。どれもこれも私という一人の人間を構成する要素の一つで、誰かに強制されたものなんかじゃない。それは明白なことだ。

「なぁ……さん付けで呼んでくんね?」
「は?」

 もう何杯目かも分からないアルコールを口に含んで、それから嚥下したのど仏が上下に揺れるのを目視した直後。酒臭い息と共に吐かれた要望は唐突だった。藪から棒。何の脈略も無く言われた言葉に、直前までの話題すらすっかり忘れて為す術も無く目の前の男を見返す。雑然とした居酒屋の個室で男女二人きり。色気もクソもない淡泊な雰囲気の中で数秒間、通路を通して聞こえる喧騒をぼんやりと聞き流しながら、私は胃の腑に小さな燻りを沈めた。
 年下か。

「急にどうしたんですか、黒尾さん?」
「ははっ……いいねぇ」

 随分と出来上がっているようだ。へらりとだらしなく笑って、赤らんだ顔に皺が寄る。「気持ち悪いんだケド」と思った事をそのまま口にすれば、強請るように絡んだ足が掘り炬燵の中で欲を孕んだ。今日の黒尾は何時にも増して可笑しい。机の上で組んだ腕に顎を乗せ此方を見上げる黒尾を尻目に、渇いた喉にグラスの中身を流し込む。嗚呼だめだ、酔いが回らない。

「明日休みだよな?」
「……だから?」
「シよ」
「何を」
「セックス」

 熱を帯びたその瞳を見るのは初めてじゃない。私達の間で使い古された、雰囲気の欠片も感じられない誘い文句だって相変わらず。掻き乱される心も心で、無表情を装うのにはいい加減もう慣れた。

「アンタ、四六時中そんなことしか考えてないの? 思春期の男子高生じゃないんだから」
「健全な男の子なんですぅー」
「男の子って年でもないでしょ」
「いいのーお盛んなのは元気な証拠なのー! それに……お前だってそういうの好きなクセに」

 好きなわけあるか。知りもしない、他の誰かと重ねられて抱かれるなんて気分悪い。
 沸々と沸き上がる怒りと悪態と、その他汚い諸々。喉元までせり上がってきたその全てをいつも通り飲み込んだ。

 その子は眼鏡を掛けていて、猫っ毛で皮肉屋。あと多分背が高い。普段コンタクトの私が偶に眼鏡を掛ければ黒尾はその度に可愛いと褒め、つま先が痛くなるような高いヒールを履けば近くなった視線にヤツはこっそり喜んでいた。そして新たに追加されたステータスは年下。高校の後輩だろうか。少なくとも、大学で私と似たような容姿の女の子といる姿は見たことがない。
 恋人でもない相手と関係を持つことに勿論抵抗はあった。それでも黒尾という人間に私は友達以上の好意を抱いていたし、相手もまた然りだと勝手に信じていた。でも違う。違和感はずっとあった。私を見ているようで見ていない視線に気付かないフリをして、なあなあなまま続けられていく汚らしい関係。気持ち悪い。誰かの代わりに注がれる愛を甘受している私も、他人にその誰かの影を求めるこの男も。

「今日はムリ」
「あ〜? 何でだよ」
「酔っ払った180越えの男相手すんの疲れる」
「初めてじゃねーだろー」
「だから懲りたって言ってんでしょ」

 普段頼んでもないのによく回る筈の気と頭は、アルコールにふやかされると極端に鈍くなるらしい。だから黒尾と飲むのは嫌いだ。シラフの時は言動の隅々にまで気を使ってひた隠しにされていた奴の想い人が、ちらちらと顔を覗かせる。その度に自覚させられる私と想い人との分厚い壁に、吐き気を催すほど辟易としていることを、黒尾は微塵も知らないんだろう。
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