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※社会人設定
※軽い同性愛表現有り
「どこか遠くに行こう」
夜の長い冬の日だ。せっかちな太陽が早々に沈み、光を失った街がぽつりぽつりと明かりを灯し始めた午後六時。今年の春から一人暮らしを始めたアパートに突然現れた客人は、こともなげにそう笑った。
実家から然程遠くない私の住処に、一人娘の巣立ちに心配を隠せない母が、鍋ごと持ってきたお総菜片手にインターホンを鳴らすことはよくあった。仕事はどうだとか、新しい職場では上手くやっているのかとか。毎回代わり映えのしない月並の質問に「大丈夫」の一言で一先ず蹴りを付ければ、母の話は何時だって同じ道を辿って漸く終点にたどり着く。
「徹くんとはじめくんも、あんたが上手くやれてるのか心配してたわよ」
何かと二人の幼馴染の話を持ち出したがるのは母の悪い癖だ。母があの二人を実の娘以上に可愛がっているのは今に始まった事ではないし、それこそ養子にしたいなんて半ば本気で思っている事も知っている。しかし最近彼女の口から頻繁に聞く「徹くんとはじめくん」の名前に、昔とは違う一種の作為を感じるのは多分気の所為なんかじゃない。
分かっている、母はただ私の事を心配しているだけなのだ。
ついこの間まで高校生だったのに、いつしか指の隙間を零れ落ちた時間は今年で12年にもなる。その間一度だって恋人を紹介した事もなければ、男の影すら匂わせた事のない娘の将来を親が不安に思うのは無理もない。遠い親戚の独身男性を紹介されたり、はたまた見合いの話を持ちかけられた事も一度や二度ではない。それでも尚、中々首を縦に振らない娘に対して何を思ったのか。見合い相手の写真が束で送られてくることは無くなったものの、最近母は妙に幼馴染の話題を口にすることが多くなった。最近徹くんは益々カッコよくなっただとか、はじめくんは男前で優しくて素敵な人ね、だとかなんとか。直接的に二人の何方かとどうこうしろと言われたことは勿論無い。それでも、その言外に含まれた意図に気付けないほど私は鈍く無いつもりだ。
そんな近況もあって。開いたドアの向こう、そこに立つ及川の姿に真っ先に思い浮かんだのは母の顔だった。真逆ヤツの差し金かと身構えれば、どうやら顔に出たようで「そんな怖い顔しないでよ」と及川は白い息で笑った。
***
図々しくもベッドの上を陣取り鼻歌を歌っているアポなしの訪問者の手には、分厚い本が一冊。その他にも脇に置かれた見覚えの無い紙袋の中を覗けば、本屋でよく見かけるシリーズ物のコンパクトなガイドブックがざっと数十冊ほど目に入った。一体全体何をしに来たんだコイツは。開口一番「遠くに行こう」と言われたものの、敷居を跨ぐなり見知った間取りを迷うこと無く進んだ及川は、あろうことか私のベッドに寝そべったあげく一向に言葉を交わす気配もない。
フランス、ドイツ、イタリア、オランダ。私から態々話を促すのも断りを入れるのも面倒で、及川が提げてきた紙袋を勝手に漁っていれば、出てくる出てくるお洒落なヨーロッパの国々。どれも世界に名を轟かす観光地に違い無いが、足を運んだことは一度もない。
「遠くって、真逆ヨーロッパ?」
「そ、だってなまえちゃん仏語選択だったでしょ?」
「……は?」
「だから仏語圏もおっけーだよねーって思って」
もちろん英語圏の予習もバッチリだよ! とVサインをしてみせた及川の手元には、大都市ニューヨークの文字。
意味が分からない。茶菓子の一つも持たず、書店でも開くのかと思うほど大量のガイドブックを携えて現れたかと思いきや、どうやら及川と私は旅行に行くらしい。それも海外。そんなこと承諾した覚えも無いし、提案すら初めて聞いた。"遠く"という抽象的な表現に、勝手に思い描いた東北の海とか、最寄りから5つ先の駅にある美味しい中華屋さんとか、諸々の生ぬるいイメージがすっと霧散する。
「本気で言ってんの?」
「もちろん」
「何で急に、」
「だって行きたいんだもん」
「行きたいんだもんって……だからって私とじゃなくたっていいでしょ? 岩泉とか花巻とか他に、」
「なまえちゃんがいいの」
なまえちゃんじゃなきゃダメ。
ストレートな表現に思わず言葉を失った時点で、私が負けを認めたようなものだ。満足げに及川は笑って、再びその視線は逸らされる。残されたのは、腹の底で蠢くような気まずさとジクジクと胸に焼き付く罪悪感だけ。
及川が私の事を好きだと気が付いたのは高校最後の夏だった。これと言ったきっかけは多分ない。強いて言うなら、色恋に過敏になる時期というものは、往々にしてそれくらいの年頃であるというだけだ。人伝に聞いた訳でも、ましてや本人から直接言われた訳でもない。
だったらその明確な根拠の無い答えは、ただの自惚れではないのかと問われれば、私はそれを真っ向から否定するだけの確信を持っていた。何年も一緒に、それこそ家族のようにずっと傍にいたから、周囲の女の子をその気にさせるような及川の甘言が、私に向けられる時だけ本気の色を含んでいたことを知っている。苦しかった。
「……もう私達30だよ?」
知っているはずだ。どれだけ思われても、どれだけ見つめられても、私はそれに応えることが出来ない。
「そうだね」
「……やめよう」
「うん」
「だって、及川は幸せになれる」
「うん」
鼻の奥がツンと痛くなって、直ぐに景色が熱く歪んだ。いつの間にか起き上がった及川の姿が俯いた視界の端に一瞬だけ見えて、胸の奥が苦しく締め付けられる。もう、やめよう。こんな不毛な連鎖が私達を縛り続ける限り、誰も幸せになんかなれやしない。だって、私は及川を幸せにしてやれない。
同性愛者、レズビアン、ホモセクシュアル__ 知っているはずだ。
「なんで……」
及川なら普通の幸せが直ぐにでも手に入るはずだ。態度こそ軽薄だけど、及川が実は誰よりも一途で誠実な男だということを私は知っている。学生時代、引っ切りなしに振り回されていた岩泉でさえ、酒の席でそう口を滑らせる程だ。だから結婚しようと思えば苦も無く素敵な女性が見つかるだろうし、円満な家庭だって築けるだろう。手に届く幸福を擲ってまで、私の傍に居る必要は微塵も無い。
「もう、やめよう……」
「うん」
例えば私と及川が付き合って。それでその後私達には何が残るだろう。例え及川が私を愛し続けると神に誓っても、私は何時しか本当に好きな女の子に出会って、恋い焦がれた末及川の元を去るかも知れない。結婚しない=別れる。だったら結婚という終着駅を見つけられない私達に、この先何か美しい形を見つけることは出来るのだろうか。歪なまま、そして何時か別れるんだろうか。そんな結末に、意味はあるのか。
焼けるように熱い目頭を冷たい温度が静かになぞった。驚き視線を上げれば、目の前に座る及川の姿に漸くそれが彼の指だと知る。見とれる程綺麗な顔がふわりと微笑んだ。
「でもさ、お前を好きだって気持ちは俺にはどうにも出来ないんだよ」
だからごめんね。
酷く残酷だと思った。この男を私が幸せにしてやれないことを悔しく思うと同時に、自分の幸せに気がついてしまったから。
「……好きだよ、及川のこと」
「うん、知ってる」
「大好き」
身体に緩く回された腕の輪が、ゆっくりと狭くなり閉じ込められる。その事実が酷く優しくて、嬉しくて、悲しい。
私達の"好き"のすれ違いが終わることは、この先万に一つも無いだろう。そして歪なまま、形にならないまま私達は終わるのかも知れない。
でも今はそれでもいいと思えた。寧ろ私達はそれでいいのだと、純粋に思えた。
「どこか遠くに行こう」
私たちを知る人が誰もいないどこか遠く。そしてまた、新しくそして不器用な形を私たちで作り上げるのだ。